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「諸説」として扱ってはならない~ 加藤直樹『TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』

TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち

  • 作者:加藤直樹
  • 発売日: 2019/07/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

昨年の今頃、加藤直樹『九月、東京の路上で』を読み、強く心に残った一冊となったので、少し前(昨年6月)に出たばかりのこの本はずっと気になっていた。
それもあり、続編的なものを想定していたが、『九月、東京の路上で』とは全く異なるタイプの本で、正直、最初は戸惑いもあった。しかし、読み終えてみてみると、戸惑った前半部の意図もよくわかり、歴史問題の勉強の必要性を改めて感じた。


この本は大きく3章で構成されている。

第1章では、ネット上で拡散する朝鮮人虐殺否定論について、それがどのように間違っているかを説明する。
第2章では、虐殺否定論が工藤美代子・加藤康男夫妻が発明した”トリック”であることを示し、彼らの著書に仕掛けられたトリックの数々を明らかにする。
そして第3章では、虐殺否定論が現実社会にすでにどれほど浸透し、危険な役割を果たしているかを見ていく。


第1章は、池上彰のテレビ番組かというくらいに、論点・ポイントを簡潔にまとめ、構成等もわかりやす過ぎるほどにまとめられている。確かに、わかりやすいが、正直『九月、東京の路上で』を読んだときの心に迫ってくるような感じと比べると、とても退屈だった。


第2章では、『トリック』というタイトルの意図するところが以下のように書かれている。

マジシャンが演じる見事なトリックを見て超能力だとは早合点する人はいても、自らを超能力者だと思い込みながらマジックを披露するマジシャンは存在しないだろう。本人はタネを知っているのだから当然だ。つまり、『なかった』はトンデモ本ではなく、自らも信じてはいない「朝鮮人虐殺はなかった」という主張を読者に信じさせるために様々なトリックを駆使した“トリック本”なのである。本章の目的はそのトリックのタネ明かしにある。P80

2勝を読むと、(この本で俎上に挙がっている)虐殺否定論の元祖『関東大震災朝鮮人虐殺」はなかった!』が、「信じちゃってる人」による本ではなく、嘘と分かりつつ「確信犯」的に書かれた本であることがよくわかる。
なお、この章も第1章に輪をかけて丁寧だ。
繰り返し書くが、『九月、東京の路上で』を読んで、朝鮮人虐殺は間違いなく歴史的事実で、「虐殺がなかった」と考えるのは相当に困難であることを理解した人にとっては、退屈を通り越してイライラが募る内容だ。(これが酷い本だということは最初の数ページでわかるのに、ここまで何ページも割いて書く必要があるのか…)


しかし、ここまで読むと、少なくとも1章、2章は、『九月、東京の路上で』を読んだような人は、対象読者と考えられていないことを知る。
作者の加藤直樹さんは、あくまで、「朝鮮人虐殺はなかった」と考える人や、「実際にあったことなのかどうかは、諸説あるから判断できない」と考える人に読んでもらいたくて、この本を書いているのだ。
教科書のように異常にわかりやすい構成、図表もこの目的に沿ったものと言える。

ということで、1章、2章は、自分にとっては、赤チャートなどの参考書を読んでいる気分で、知的好奇心の満たされない内容だった。


つまりは、3勝を読むまで、この本全体の意図と作者の主張がしっかりわかっていなかったといえる。
3章では、最初に『関東大震災朝鮮人虐殺」はなかった!』で主張される虐殺否定論が、百田尚樹『日本国紀』にも登場し、産経新聞で何度も取り上げられ、高須クリニック高須克弥によって引用され、広く拡散されていることが説明される。
また、教育現場への広がりとして、横浜市の中学生向け副読本や、東京都の都立高校向け副読本から「朝鮮人虐殺」の記述が消えているという話も載っている。
さらに、内閣府中央防災会議が2009年に出した報告書で整理されている、関東大震災における朝鮮人殺傷に関する詳しい調査報告が2017年4月にHPから見えなくなった事件や、今年2020年も続く小池都知事の追悼文送付取りやめ事件についても触れられている。
到底信じられない虐殺否定論がここまで幅を利かせているというのは怖れるべき事態ではある。その一方で、少し調べれば「なかった」等あり得ないことはわかるのだから、これ以上広まることはないのでは?と高を括っていた。


しかし、彼ら自身も、虐殺否定論を本気で「正史」にできるとは思っていないのだという。
加藤直樹さんは、リップシュタット『ホロコーストの真実』から引用して次のように語る。

否定者は、論点が真っ二つに割れていて、自分たちがその”一方の立場”にあると認知されたいのである。
つまり、ホロコーストが実際にあったか否かについて2つの対立する学説がある、という構図さえ持っていければ、否定論者の“勝ち”だということだ。そうなれば一般の人々は、歴史の素人である自分にはどちらが正しいか分からないので判断保留にしようとか、真実はたぶんその中間にあるんだろうとか考えるようになる。これが否定論の《機能》である。
これは朝鮮人虐殺否定論にも大いに当てはまる。虐殺があったという説となかったという説の2つがある、という構図が受容されてしまえば、日本の社会風土では、学説が分かれているテーマを教育に持ち込んだり、公的な場で追悼したりするべきではない、という話に帰結する。p135

私たちは虐殺否定論のこうした狙いとどう対決すべきなのか。これについてもリップシュタットはヒントを与えてくれている。彼女は、否定論者と「論争」してはいけないと強調する、それは、「諸説ある」という構図をつくってしまうからだ。では放っておくしかないのか、そうではない。(略)
リップシュタットは否定論者の「物事を混同せしめ歪曲するやり方」「もっともらしい議論の吹きかけ方」「意図や手口」をこそ、「白日のもと」にさらすべきだと主張する。(略)
これを私の言葉で言い換えると(略)否定論のトリックとしてのタネを広く共有し、これを「諸説」であるかのように扱うことを決して認めないことだ。p136

つまり、一見、間違っていないように見える「虐殺否定論なるものを信じる人たちがいるが、自分はそうは思わない」という態度は不誠実で、そもそも虐殺否定論は許してはならない。

ここも引用する。

そもそも私たちはなぜ、朝鮮人虐殺否定論を許してはならないのか。
第一に、「虐殺否定論」は、事実に反しているだけでなく、被害者を加害者に仕立て上げるという道義的な罪を犯しているからだ。朝鮮人であるというだけで多くの人が無差別に殺されたという事件の本質を考えれば、許されるべき言動ではない。ましてや虐殺の引き金を引いた流言を「事実」としてよみがえらせるのは、犯罪的と言ってよい。
第二に、「朝鮮人が災害に乗じて悪事を行った」という当時の民族差別的流言を「事実」として流通させてしまえば、「災害時には外国人の悪事に気をつけろ」という誤った”教訓”を育ててしまうからだ。(略)
こうした発想を放置しておけば、災害時に差別的流言の拡散を許し、ありもしないテロへの「自衛反撃」を扇動するメッセージとなる。(略)
虐殺否定論は、誰かの生命を実際に奪う可能性があるのだ。p139

つまり、人の生き死にに関わる問題だからこそ、虐殺否定論は勿論、それを産む差別デマは決して許してはならない。このあたりの意識の重要性はわかっていたつもりだったが、もっと強い気持ちで当たらなくてはならないのだろう。
改めて考えると、この本の1~2章の、異常にわかりやすい*1内容は、とにもかくにも「諸説」化することを妨げるため、ひいては、奪われるかもしれない誰かの命を守るためなのだ。
こういった歴史修正主義の問題は、歴史認識の差などではなく、捏造だと知りつつ広めようとする「悪意」が根本にあるのだから、そうした「トリック」を積極的に知り、多くの人に広めていかなくてはならないと感じた。


なお虐殺犠牲者の人数については、一般的には「約6000人」とされ、これが最も有力な調査結果だという。しかし、近年の研究では、「数千人に達したことは疑いないが、厳密に確定することは不可能」ということから「数千人に上るとみられる」などの記述が増えているようだ。
慰安婦問題もそうだが、「数」については論争になりやすく、すぐに「捏造だ!」との声が上がりやすいファクターなので、特に気にしていくようにしたい。
また、今後も、歴史修正主義やデマに関する本は積極的に読んで「トリック」を見抜く目を鍛えていきたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

*1:あまりに丁寧すぎると、かえって嫌味で誠意が感じられなくなるという意味の「慇懃無礼」という言葉があるが、1章2章は、いわば「慇懃無礼」だと思う。