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社会規範は行動や感情を制約する~前田健太郎『女性のいない民主主義』(その2)


(その1からの続きで、今回は第一章のまとめです)
読み直してみると、1章は、これまで自分自身の意見だと思っていたものが、意識しないままに「大きなもの」に影響を受けていたことに気づかされる。
つまり、明文化された「法律」とは別に、ジェンダー規範などの「社会規範」が、自らの言動を左右していた。
このことは、コロナ禍においては、「警察」以上に「自粛警察」が大きな働きをしていたことで、ちょうど実感していたことではある。
国や地方自治体は、法律ではなく社会規範に働きかけ、「自粛警察」による制裁で、収束を図ろうとしたと考えることができる。この際、「自粛警察」は誰の内面に棲む。マスクを忘れて外出した際に罪の意識を感じることも、「自粛警察」による自罰的な制裁行為と言えるだろう。


しかし、考えてみれば、これまでも「ジェンダー規範」(+女性にとってはそれと矛盾する「組織規範」) にしたがって「自粛警察」と同様のことをしていたかもしれない。つまり、気づかないうちに誰かを不快にさせるようなことがあったかもしれない。
こういったマジョリティがマイノリティを傷つけるパターンは、「社会規範」というより、個人の「ステレオタイプ」によって生じることもあり、後者の方がより「差別」的と言えるかもしれない。*1
どちらも基本的に「気づかない」ことが多いが、「社会規範」や、一般的に広くみられる「ステレオタイプ」は、気づくことで抑制できるので、積極的に勉強して、日々意識していく必要があるだろう。*2


先日、ある有名人の方が「外国人差別を助長するのでは?」とTwitterで議論になった発言のあとで、「僕は生きていて、そもそも差別という概念はないですし、意識をすることもない。」「僕は今後も差別なんてしませんので、どんな人であろうと悪いことには悪いとハッキリと言います。差別を助長しているのは紛れもなく犯人本人であり、被害者が泣き寝入りしてしまう世の中こそ差別だと思うからです。」と、Tweetしていて、さらに炎上していた。
そもそも、個人個人の「ステレオタイプ」の中に差別は潜んでいるし、日本社会を取り巻く「ジェンダー規範」自体が女性差別を包含していることを考えれば、「差別という概念はない」と言い切るのは、無理がある。社会的な活動と縁を切っていたのでなければ不可能だろう。


ということで、誰もが持つ「無自覚な差別」に対する振り返りとして関連書籍を継続して読むなど、個人として行えることは今後も続けていきたい。
それ以外に、社会(政治制度)として行えることとして、1章で示されるクリティカル・マスの話は、4章のクオータ制の話にも繋がるとても重要な点だと感じた。


以下、第一章のまとめ。

話し合いとしての政治

  • 「理想」の政治は、「公共の利益」の内容を誰か一人が決めるのではなく、共同体の構成員の話し合いによるものである
  • しかし、城山三郎『男子の本懐』でも描かれるよう、日本では男性が自分の意見を述べ、女性はそれを黙って聞くことが良しとされていた。これは「理想」の政治が行われていないことを意味する。
  • 男性と女性の関係は法的には平等でも、実質的には不平等に見える。しかし、ジェンダーの視点を導入せずに、教科書的な政治学を学んでも男性支配という現象は浮かんでこない。

政治における権力

  • 話し合いによる「理想」の政治が行われていない代わりに、「現実」の政治は「権力」を行使する活動として、投票と交渉によって執り行われている。
  • 言い換えれば、政治とは、権力を握る人々が、それ以外の人々に自らの意思を強制する活動である。
  • 投票を通じて権力を持った人々の行動は、様々な社会集団(利益集団)の間の交渉によって決まってくる。
  • しかし、政治家や官僚、様々な利益集団(農協、医師会、労働組合)の圧倒的多数を男性が占めている。つまり「権力」は男性の手に集中している、というのが日本の政治の一つの特徴である。
  • それでは、何が男性支配をもたらしているのだろうか。

ジェンダー規範とダブルバインド

  • 制度上は平等な権利を与えられても、男女の間に権力関係が生まれてしまう。これは、法律を中心とする公式の制度とは別に、社会の中に目に見えない次のようなルール(ジェンダー規範)が存在することに由来する。
  • 男性は男らしく、女性は女らしくなければならない。
  • これが進み「男は仕事、女は家庭」というような性別役割分業を定めるジェンダー規範が生まれる。
  • 問題は、女性が男性と異なる役割を与えられるだけでなく、男性よりも低い地位に置かれることにあり、こうして生まれる男性支配の構造は、「家父長制」とも呼ばれる。
  • 法律の場合、違反に対する制裁は、国家権力に裏付けられる。しかし、ジェンダー規範のような社会規範の場合、個々人が感情の働きで違反者に制裁を与える。社会規範は、国家権力に頼ることなく、軽蔑や後ろめたさを通じて、人々の行動を制約する。
  • 「男は仕事、女は家庭」といった規範は男女差別的だと理解されるようになった近年でも、男性優位が変わらないのは何故か。
  • それは、「この組織の構成員は、Xでなければならない」という組織の規範で求められるXの内容が多くの場合、「男らしい」と言われる性質と重なっていること(つまり男性に有利であること)が理由である。(しかしパッと見はジェンダー中立的に見える)
  • 女性は「ジェンダー規範」と矛盾する「組織規範」の双方に従うことは難しく、ダブルバインドに悩むことになる。
  • 政党や官僚制といった組織の活動を規定する政治制度も同様であり、政治家を志す女性たちにも、ジェンダー規範からの逸脱に対する制裁が繰り返されてきた。(独身であれば揶揄され、主婦を売りにすれば、家事育児をおろそかにしている、と言われる)
  • 女性に競争を回避させるジェンダー規範(女性は、女性らしく、他人と表立って競争するのではなく強調するべきだ)がある限り、自由な競争に開かれた選挙制度は、それが競争的であるがゆえに、男性に有利な仕組みになってしまう。

マンスプレイニングの罠

  • 男女がいる場では、女性が自らの意見を言うことを躊躇われる(女性が男性の話の聞き役に回る)のは、以下の3つに代表される個々の経験が重なり、自信をもって発言できなくなっていることが考えられる。
  1. マンスプレイニング(男性側の一方的な発言)
  2. マンタラプション(男性による女性の発言の遮断)
  3. プロプロプリエイション(男性による女性の発言の横取り)妨げるジェンダー規範
  • しかし、このように男性が一方的に意見を言う状況は、常に生じるわけではない。特に、男女比が強く影響し、男性が多い組織における女性の参加者は、その組織では男性らしい行為が要求されているというシグナルを受け取る。
  • 組織の男女比は、制度的にコントロールできる。男女比がどの程度であれば、女性は男性と対等に議論ができるのか、については、クリティカル・マス理論という学説があり、その水準は30%という数値が用いられることが多い。(先送りされた、2020年までに指導的地位に女性が占める割合を30%程度とする」という目標数値の根拠でもある)

政治の争点

  • 日本では、男女の不平等が争点化してこなかった。しかし、その理由を、男女の不平等の問題が深刻でなかったことに求めることはできない。(今より昔の方が深刻だった。現在では他国に比べて問題が深刻だが争点化していない)
  • 争点は話し合いから生まれる。ジェンダーが政治の争点として浮上したのは、それまで黙っていた女性たちが、男性に対する異議申し立てを開始したからに他ならない。
  • しかし、問題を争点化することに成功したとしても、最後は国会などの意思決定の場において、何らかの投票が行われることで決着がつく。

多数決と争点

  • 権力には三つの次元がある。多数決の行方を左右するなど、明示的な行動の変化をもたらす「一次元的権力」。問題の争点化を防ぐ権力は「二次元的権力」。現状に対する不満を抑制し。紛争自体を消滅させる権力を「三次元的権力」。
  • フェミニズム運動による男性支配の告発は、三次元的権力を打破し(多くの人に問題の存在に気付かせ)、争いの場を二次元的権力へと移行させる。
  • 多数決の抱える「投票のパラドックス」(コンドルセパラドックス)を防ぐために、あらかじめ争点の範囲を絞り込むことがある。争点の範囲の限定する方法(争点の操作)はフェミニズムの立場からは男性支配を維持する役割を果たしているともいえる。
  • いわゆる「公私二元論」は、人間の活動の場を「公的領域」と「私的領域」に分ける考え方。公私区分は、実際には男性と女性の性別役割分業と対応しており、男性は公的領域において政治活動と経済活動を担い、女性は私的領域である家庭に閉じ込められる。(田房永子さんの言うところのA面、B面に対応する)
  • 公私二元論批判は「個人的なことは政治的である」という有名なスローガンに要約される。近年は、従来は私的領域とされてきた家庭に関わる問題が争点化されてきている。
  • 社会問題の争点化には、マスメディアの存在、本に加え、#MeToo運動 が典型だが、インターネットの重要性が大きくなっている。
  • ジェンダーの視点は、ただ女性の存在に光を当てるだけでなく、女性を政治から排除する権力への注意を促し、あらゆる学説の見直しを要請する。

*1:なお、こうした男女を二つに分けた議論は性的少数者の問題を蔑ろにしている、という部分については、作者は自覚的で、「おわりに」でも触れている。

*2:書いていて「ステレオタイプ」が個人に属するものなのか、社会に属するものなのかは、よくわかっていない感じがしてきたが、ここでは、「社会規範」よりも個人的なものとして「ステレオタイプ」があると考えている。