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絶望からほんの少しでも希望を~松田青子『持続可能な魂の利用』

持続可能な魂の利用

持続可能な魂の利用

現代日本に絶望する気持ちがとても伝わる作品だった。
もう少し詳しく言えば、「おじさん」が支配する現代日本に絶望する気持ちがとても伝わる作品だった。


冒頭、印象的な一文で物語は始まる。

「おじさん」から少女たちが見えなくなった当初は、確かに、少しは騒ぎになった。それは否定しない。

SFなのかと思いきや、基本的には現代日本を舞台として、アラサー女性数人の目を通して日々の出来事や思いが語られる。ときどき未来人の高校生女子?が登場し、 学ぶべき「歴史」 の一部として、現代日本の状況を説明する。
そして、その双方が語る題材として、最初から最後まで、「おじさん」と「アイドル」が登場する。
特徴的なのは、「アイドル」として、具体的なグループが取り上げられることだ。小説中では「××をセンターに据えたグループ」という形で、そのメンバーの一人である××が常に話題の中心にある。
そして、そのグループが欅坂46で、××とは、その絶対的センターと言われた平手友梨奈であることが明確であることに、かなり興味を惹かれた。

しかし、まず、そのことは置いておこう。

敬子から見た日本の女の子たち

メインの語り手の敬子は、あるきっかけで会社を辞めて、しばらくカナダに住む妹・美穂子とエマ(美穂子のパートナー)の家で暮らす。カナダから日本に戻った羽田空港が彼女の初登場シーンだ。

敬子は、信じられないような気持ちで、彼女たちのことを見た。衝撃、としか形容できないショックを敬子は受けていた。
日本の女の子たちは、とても頼りなく見えた。p21

敬子が抱いたこの印象はこのあと何度も表現を変えて繰り返される。

いい世界を、少しも自分と結びつけて考えることができない。日本の女性はずっとそういう状態なんじゃないか。
美穂子とエマの生活が頭に浮かぶ。美穂子は日本にいた頃が嘘のように伸び伸びとして、外で人種差別にあっても、いきいきと怒っていた。p112

この小説では、外国の視点から、もしくは未来人の視点から、日本社会の歪な部分が語られる。
上の引用が特徴的だが、カナダで「差別がない」のではない。差別があっても「いきいきと怒る」ことができるかどうかが問題にされている。

もし日本がもっと違ったら、もっと対策がちゃんと取られていたら、今のように耐えたり、ストレスを感じたり、声を上げたり上げなかったり、戦っている時間を、日本の女性たちはどう過ごしていただろう。ストレスや悲しみや怒りや諦めのかわりに何を感じていただろう。それが本当に想像できない。
魂は減る。
敬子がそう気づいたのはいつの頃だったか。
魂は疲れるし、魂は減る。
魂は永遠にチャージされているものじゃない。理不尽なことや、うまくいかないことがあるたびに、魂は減る。魂は生きていると減る。だから私たちは、魂を持続させて、長持ちさせて生きていかなくてはならない。そのために趣味や推しをつくるのだ。p113

この部分がタイトルに繋がってくる。
敬子は、年を追うごとに減っていく魂について「私は私の魂が死なないように、どこかに預けたんじゃないか」と考える。そして、日本に帰ってきてから熱心に活動を追い始めた××たちにこそ、預けた魂が籠っていると感じる。
「だから、見届けなくてはならない。(略)なにしろ、彼女たちは自分の魂なのだから。」と。

敬子から見た××

「日本の女の子たち」に辛さを見てしまう敬子のような人物がアイドルにハマるのは相当奇妙だ。だけでなく、いわゆる「AKBグループ」のアイドルだからこそのさらなるアンビバレンツがある。

けれど、××の所属するグループをどれだけ気に入っても、好きになっても、このグループもまた、ある頃から日本で主流となった、量産型のアイドル体型の一部である事実から目を背けることはできなかった。(略)
後ろにあの男がいる。女の子たちを操るたくさんの男たちがいる。その構造が常に維持されてきた。
一度意識してしまうと、群れるな、他者と違うことを怖れるな、と完ぺきに同じ動きで歌い踊る彼女たちが、なにか悪い冗談のように、大きな矛盾であるように思えた。p41

しかし、わかっていてもなお、いや、わかっているからこそ××を好きになる。

敬子は××たちから目を離すことができない。たとえおなじみの構造の中とわかっていても、はじめから負けが込んでいるとわかっていても、それでも、トライすることを選んだ彼女たちから。その先になにがあるのか、敬子は見たい。知りたい。それは、鏡のように似通った構造の中で生きている恵子たち自身のその先でもあるはずだから。p70

秋元康の存在があるから、AKBグループを素直に応援しにくい、というのは、男の自分にとっても似た感情があるので、このあたりの葛藤はとても面白く読んだ。

そして、未来人が語るアイドル論が読みごたえがある。
女性から熱狂的に支持される韓国の女性アイドルグループを、日本の中高年男性(「おじさん」)が受け付けなかったことについて、未来人の女子高校生たちは「日本の女性アイドルは、長きにわたり、日本人男性のために存在していたp206」と分析する。
その上でこう説明する。

その中で、××たちグループの位置づけが特殊であることは、やはり間違いないことでした。男性のためのアイドルとも、女性のためのアイドルとも、断言できない独自性が彼女たちにはあったからです。p208

ちょうどこれを書いているときに、NHKのSONGSで、欅坂46のラストライブ(10/12,13)の様子とその足跡、そして、改名した櫻坂46としての出発について語られていた。勿論1月に脱退した平手友梨奈は番組には出演していなかったが。
これまであまりしっかりと見たことのなかった欅坂46のパフォーマンスは、確かに独特の振り付けと合わせて印象的で「独自」と呼ばれるのもわかる。そして、平手友梨奈の存在感が圧倒的だというのも、映像を見るとよくわかる。
ここまで人気のあるグループが何故改名?と思っていたが、「欅坂」の名前は平手友梨奈の存在ありきなのだろう。

憎むべき「おじさん」

未来人たちが、体験型学習として、「制服」を着たときの感想には、耳を塞ぎたい、隠れたい気持ちにさせられた。

これを強制的に着せられ、毎日学校に通っていた「女子高生」の気持ちをわたしたちは想像してみた。
かわいそう。
真っ先に頭に浮かんだのがそれだった。
不自由でかわいそう。
気になったのは、単に着心地のことだけではない。わたしたちは、歴史的に「女子高生」の「制服」がどういう意味を持っていたのか、すでに学んでいた。
「女子高生」、そして彼女たちの「制服」は、性的なものとして考えられていた。
はじめてそう習ったとき、わたしたちは驚きで言葉を失った。重い沈黙がわたしたちの間にあった。
たとえば、わたしたちが今ただこうしているだけで、道を歩いたりしているだけで、性的な存在とされるなんて、普通に考えて意味が通らない。理解できない。p116

未来人は、「この時代」を「恐ろしい時代だった」と総括する。「普通に考えて意味が通らない。理解できない」世界なのだから、そう考えるのも当然だろう。
そして、「おじさん」としての加害性を持ち合わせない男性はいないだろう。


敬子が辞めた職場の後輩である香川は、十代の頃、満員電車での痴漢を理由に制服を呪っていた。勿論「おじさん」を憎んでいた。しかし、その後に気がつく。

けれど、高校を卒業し、同時に制服からも解放されたはずの歩は、新たな制服に自分は手を通しただけなのだと、じきに気づくことになった。
日本社会は、常に女性に制服を課しているようなものだった。女性に「望ましい」とされる服装とメイクが社会通念として存在し、それが人生のどの段階に進んでも、彼女たちを縛った。その基準に倣っていないときでも、心のどこかで、自分が基準から外れていることを意識してしまうくらいに。女性のためにあるはずの女性誌でさえ、女性を縛った。p125


香川のさらに後輩にあたる真奈は、隠してはいるがアイドルだった過去がある。「おじさん」の視線のおぞましさに気がつき、アイドルを辞めたあと、アニメに嵌っている。

アニメは強い。
今、目の前で、長い手足や豊満な胸をさらけ出して、強大な敵と戦っている魔法少女は、真奈の視線に絶対に負けない。そう思うと、真奈は安心できたし、救われた。
アニメを見ているとき、真奈は、「ぼく」と同じ視線をしている自分に時々気づかされる。その視線を持つ権利を、ファンの特権を、真奈はずっと欲していた。魔法少女の健やかな美しさを、デフォルメされた肉体を、いつまでも目に焼きつけていたかった。エロい、と無邪気にほくそ笑んでいたかった。自分に肉体があることを忘れ、見る側に徹していたかった。p141


「おじさん」の視線は、それによって傷つく人間がいるということを無視したハラスメントであることは、敬子のパートでも語られる。
自分はあまり知らなかったのだが、数年前にSNS上で問題にされたという「声かけ写真展」(素人カメラマンが公園などで声をかけて被写体にした少女たちの写真を展示する)について触れたあとの文章を引用する。

こういった「おじさん」による被害に、思えば、敬子は、日本の女性たちは、幼い頃から対峙してきた。
自分たちをなめるように見る視線、あわよくば何かできるのではと近づいてくる大きな体、突如として発せられるグロテスクな言葉、そしてそのすぐ延長戦上にある痴漢や盗撮といった犯罪。犯罪であるはずなのに、十分な対策が取られないまま何十年も経った。p99

最近になって、「声かけ写真展」のような、素朴のようでいて、実は「被害者」を産んでいる事象が見過ごされなくなってきたのは良いことだろう。しかし一方で、女性専用車両に対して「逆差別だ」と騒ぐ男性がいたり、そこにわざわざ乗り込む男性がいたりすることは、同じ男として恥ずかしい。
だから、彼女たちが「おじさん」を憎むことに対しては、ひたすら謝る気持ちしか湧いてこない。

山崎ナオコーラ、イ・ミンギョン、アルテイシア

(ここでは、いったん『持続可能な魂の利用』以外の本について触れる。)
しかし、「おじさん」を全面的に敵として捉える考え方を、『ブスの自信の持ち方』で、山崎ナオコーラさんは否定する。本の中では、彼女も同じような経験をして「おじさん」全般が大嫌いだったが、年を重ねるにつれ「おじさん」に対して偏見や差別意識を持っていることを自覚しだしたという。
さらには、女性蔑視をする男性を「ある意味では被害者」とさえ考えた上で、「必要なのは、男性を責めることではなくて、社会を変えることではないだろうか」(p290)とさえ書く。(これらの内容は同書 第24回「痴漢(3)」、第28回「強者の立場になってしまうこともあるという自覚」、第29回「『おじさん』という言葉」で述べられている)

ブスの自信の持ち方

ブスの自信の持ち方



これとは対極にあるのが、イ・ミンギョン『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』で、この本では、女性蔑視発言者に対して、発言者の立場に立って考える必要などはないと全否定する。つまり、女性が、性差別に対して男性を「説得」するのは「善意」であり、そこでの苦労を女性が強いられるのは筋違いだと考える。

山崎ナオコーラさんの意見は、誰を敵とすべきかよくよく考えて、自らの偏見とも向き合いながら考えたいというものだ。彼女個人としての考え方としては、当然あり得るとは思うが、共感を得にくい独自色の強い意見だと思う。

被害を受けた側が、助けてほしいと声を上げにくい雰囲気を作ってはいけない。自らと向き合ったり勉強を続けたりすることは誰にでも出来ることではないし時間がかかる。『私たちにはことばが必要だ 』という本のタイトル通り、必要なのは「勉強」ではなく「ことば」だ。強烈な本だったが、その重要性がわかっただけでも自分にとっては大きな意味のある読書だった。
そして、この本を読んだとき、男性側に求められることは、ひたすら勉強を続けることだと思っていた。

私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない

私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない



しかし、最近公開された「#性暴力を見過ごさない」という動画を見て、勉強以外に手っ取り早く男性側に出来ることがあると知った。

#ActiveBystander=行動する傍観者

キーワードはActive Bystander(行動する傍観者)だ。
動画について脚本に携わったアルテイシアさんの説明が分かりやすい。

海外には性暴力の非当事者の介入プログラムがあり、そちらの文献によると「性暴力を見過ごす人(passive bystander)」と性暴力に介入する人(active bystander)の二種類が存在するらしい。

つまり性暴力の現場に居合わせた人はみなbystanderであり、その中に行動を起こすbystanderと行動を起こさないbystanderがいる、という概念のようだ。

性暴力やセクハラの現場に居合わせた時、「自分には関係ない」と見て見ぬフリをする人もいるだろう。
一方で「本当は行動したいけど、自分に何ができるかわからない」と動けない人もいると思う。

そんな人々に向けて、今回の動画では様々なシチュエーションを描いている。

(略)
「自分には関係ない」という無関心が、加害しやすい社会を作ってしまう。

加害の現場に居合わせた時、その場で加害者のうなじを削ぐのは無理でも、被害者に声をかけることはできる。
「あなただったら、どうしますか?」とJJは質問したい。|アルテイシアの熟女入門|アルテイシア - 幻冬舎plus


自分は痴漢をしないから関係ない、痴漢をする男が少しでも減ってほしい、と考える「だけ」では、むしろ、「加害しやすい社会」づくりに加担してしまっているかもしれない。
最近読んだ『ベルリンうわの空』も、先ほど挙げた『ブスの自信の持ち方』も、政治に頼らずに「社会を変える」ことを志向しており、自分に何ができるかは最近の自分のテーマだ。
何かがあったときにActive Bystanderとして行動できるよう、心の準備をしておく、それも微力ながら「社会を変える」ことに繋がるだろう。

絶望の底からほんの少しでも希望を

この小説は、今自分が暮らしている日本の現状を嘆きすぎていて辛い。
最後の最後に、ひとつ大きな嘘設定が入り、日本政府の女性への無策が「故意」であったことが分かるのだが、このときの敬子の感想が怖い。

確かに、なんの裏もなく、普通にこうだったとしたら、本当に最悪な国でしかなかっただろう。(p218)

日本は「 普通に考えて意味が通らない。理解できない。」だけでなく、「普通にこう」である「本当に最悪な国」なのだ。ここまでこの小説を読み進めると否定できない。

だから、最後に、あり得ないかたちで示される希望も、ほとんど「やけくそ」に思えてくる。ラスト近くの「最後ぐらい好きにさせろ」が強烈だ。

そして今、世界中で「おじさん」によって運営されてきた世界が衰退し、危機に瀕している。それはつまり、「おじさん」のつくったルールが間違っていたということだ。進化論を出すまでもなく、生存を脅かす種は淘汰されてきた。ならば人類の生存を脅かす「おじさん」が絶滅すべきだったのに、ここまできてしまった。もう後戻りのできないところまで。
日本はもう終わりが決まっているなら、わたしたちは見たかったものを見る。終わるなら終わるで、最後ぐらい好きにさせろ。p235


この小説は『82年生まれ キム・ジヨン』と同様、現代日本を生きる女性の生きづらさが率直に語られているし、男性側にそれが伝わることは意味のあることだろう。(もちろん女性側でも同じような「生きづらさ」を感じない人もいるかもしれないが)
本当は政治にも動いてほしいところだが、いまだに夫婦別姓すら認めない現政権には対する期待度は低い。
だからこそ、絶望を絶望のままで終わらせてはいけない。
キム・ジヨン』と同様に、この小説で投げかけられたものは、社会の側が受け取って、少しでも「希望」に繋げなくてはならない。そういった作品と感じた。
ほんの少しでも希望の持てる社会にするためには、勉強を続けるだけでなく、Active Bystander(行動する傍観者)としてふるまえるよう準備をしておくことが必要だと思った。