Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

アウシュヴィッツ生存者の父親のことを今でも許せない~アート・スピーゲルマン『完全版 マウス』

アウシュヴィッツの生存者、ヴラデックの体験記録。息子のアート・スピーゲルマンがマンガに書き起こした『マウス』と『マウス2』を一体化さた“完全版”。 


アウシュヴィッツホロコーストについてしっかり学んだことがない。『アンネの日記』ですら読んだことがない。
そういう自分にとって、この漫画は、とても入りやすい本だった。
基礎的な歴史的事実について詳しく書かれているわけではないので、学ぶのに適した本とは言えないかもしれないが、まずは、これをとっかかりにして、色々な本、漫画、映画に触れていきたい。


とはいえ、実は、この本を読んで一番印象に残っていることは、ヴラデックの過酷な体験よりも、作者(アート・スピーゲルマン)の父親ヴラデックに対する思いだ。
特に印象に残っているシーンが二つある。
そのうちの一つ、父の家からの帰り道、ぼそっと「…人殺しめ」と呟くシーン(p161)については、この漫画のための特設ページに、アート自身の言葉で述べられている。

「そう、ぼくを生んだ父の最初の妻アンジャは、10年前に亡くなった。自殺だった。ただ母は戦争中の日記を残していて、ぼくに見せようとしていたんだ。ぼくがマンガを描くようになっていたから、母はぼくに昔の両親のことを描き残してほしいと思っていたことは確かだ。ところが、この『マウス』のなかにも描いたように、父は母の日記を処分してしまったんだ。そのことを知ったぼくが父のことを“ひと殺しめ”と怒る場面がある。母の日記を捨てたことは、ぼくの母を殺したのと同じことだからね。父は、ぼくがこのマンガを描いている途中で、1年ほどまえに亡くなったけれども、ぼくは母の日記のことでは、いまでも父を許していないよ」
https://www.panrolling.com/books/ph/maus.html


この言葉の通り、作者の父親への憎しみが色々な場面で現れているのが特徴だ。
冒頭、アートが父親ヴラデックに久しぶりに会いに行くシーンでも、ヴラデックは後妻のマーラをいびっているが、とにかく神経質で非合理な程度*1にケチ。絶対に生活を共にしたくないタイプの人間で、自分はどうしても姫野カオルコ『謎の毒親』の理不尽な父親を思い出す。彼は、シベリア帰還兵だった。
『完全版マウス』は。実父のシベリア抑留体験をまとめたおざわゆき『凍りの掌』に似た地獄があるのだが、そこから還ってきた父親の性格的な理不尽性も見せたという意味で『謎の毒親』的でもあるのだ。

謎の毒親 (新潮文庫)

謎の毒親 (新潮文庫)


もうひとつ印象に残っているのは、アートの運転する車の中で妻のフランソワーズと一緒にヴラデックに当時の話を聞いていた場面。呼びかけられて、少しの間乗せてあげた黒人のヒッチハイカーに対して、ヴラデックは露骨に不快な態度を取り、ポーランド語で罵詈雑言を放つ。
ヒッチハイカーを下ろしてから、妻のフランソワーズは「許せないわ!よりによって、あなたが人種差別をするなんて!あなたの黒人への言い方、まるでナチスユダヤ人に対するみたいよ!」(p259)と非難するが、「黒人野郎とユダヤ人とは比較にもなりゃしないよ」「黒人はみんなどろぼうだ」と繰り返すばかり。
辛い経験をしているから優しくなれるわけでもなく、むしろ他人の身になって考える想像力は、身体的にも精神的にも余裕がないと生まれない、ということがよくわかるエピソードだ。


ヴラデックの体験は、前半部(「マウス」)が強制収容所に入る前で、後半部(「マウスⅡ」)が強制収容所に入ってからになる。
制収容所に入ってからのヴラデックが「上手くやっていく」能力が凄すぎて、こういう人しか生き残れないのであれば、自分は真っ先に死ぬだろうと確信した。
そもそも手先が器用で芸がなくてはならない。
将校らに取り入るのに、時にはブリキ職人、時には靴職人、時には英語教師、と様々な能力を利用して、生き延びる。
勿論、運によるところも多く、後半、ロシア軍が優勢になってからアウシュヴィッツに収容された人たちは他の場所に移動、移動を続けるが、チフスも流行し、多くの人が雪の汽車の中に閉じ込められたまま死んでしまう。
こんなことが二度とあってはならないわけだが、もし自分がそういう場面に出くわしたら…と考えて、辛くなってしまう。


なお、本の中ではユダヤ人はネズミ、ポーランド人は豚、ドイツ人は猫の姿で描かれる。このことと裏表紙の地図から、ドイツの東隣にポーランドがあり、アウシュヴィッツポーランド国内にあることを改めて認識した。(アウシュヴィッツが何処にあるのかということすら知らなかった)
また、この地図では、スロヴァキアがあってもチェコがない。ポーランドの北側に東プロシアという国がある等、よくわからない世界が広がっている。
今、職場にヨーロッパ出身の人(日本語ペラペラ)がいることもあり、興味が沸いているので、ヨーロッパの歴史地理は色々なアプローチで学んでいければと思う。
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関連作品

元々『マウス』が1986年、『マウスⅡ』が1991年刊行ということで、少し昔の漫画ということもあり、影響を与えた漫画も多いという。
先ほどの解説ページから再度引用する。

『マウス』の“出現”によって触発されたマンガ家は少なくない。
いまではルポルタージュ・コミックスの優れた作者として知られるアメリカのジョー・サッコパレスチナに滞在してその現実、人びとの生きている姿を『パレスチナ』というコミックスとして完成させたが『マウス』がなかったら、とても『パレスチナ』にとりくむ勇気は出なかったろう、とサッコは語っている。『パレスチナ』の日本版は私の翻訳でいそっぷ社から刊行されており(2007年)、作者には2010年にフランスのアングレーム国際コミックス・フェスティバルで会った。
またフランスのマンガ家エマニュエル・ギベールは、ノルマンディー上陸作戦に参加しフランスに住むことにしたアメリカ兵士を『アランの戦争』というコミックスに描いたが(これも小学館集英社プロダクションより野田謙介氏の訳の日本版が2011年に刊行されている)、来日したギベールも『マウス』の冒険のおかげで自分は『アランの戦争』を描けた。スピーゲルマンのおかげだ、と私に語った。この本は『パレスチナ』とともに、『マウス』以後の新しいコミックスを代表する画期的な作品と評価されている。『マウス』の成功によって「こういう内容もマンガにできるのだ。そうしていいのだ」と、新しい道を行こうとするマンガ家たちに刺激とはげましを与えたのである。
https://www.panrolling.com/books/ph/maus.html

パレスチナ』は、グラフィックノベルの特集か何かで聞いたことのある漫画であるし、やはり歴史を知るためにもこういった作品は積極的に読んでいきたい。

パレスチナ

パレスチナ

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:バラバラに割れた皿のかけらを「接着剤でつけて使うから捨てないで」と言うp233のはどうかしてると思ったが序の口。ガス代も家賃に含まれるからと、マッチを惜しんで一日中ガスを受つけっぱなしにしているというエピソードp182には本当に驚く。