タイトルに何となく(大好きな)メフィスト賞作品っぽさを感じたのが惹かれた理由だが、あらすじを読んでさらに驚く。
女子高生の市野亜李亜は、猟奇殺人鬼の一家で生まれ育った。父は血を抜いて人を殺し、母は撲殺、兄は噛みついて失血させ、亜李亜はスタッグナイフで刺し殺す。それでも、猟奇殺人の秘密をお互いに共有しながら、郊外の家でひっそりと暮らしていた。ところがある日、兄が部屋で殺されているのを亜李亜は発見する。もちろん警察は呼べない。そして翌日には母がいなくなった。亜李亜は残った父親に疑いの目を向けるが……。
あれ?これはバカミスでは?
直木賞作家の書いたミステリで、江戸川乱歩賞取っている作品なのにエンタメに振り切った、ただ面白いだけの作品なのかもしれない…それはそれでとても好みに合っている。そう思って読み始める。
違和感
事件の展開を読んで、そうなのかな?と思った通りの大ネタが、かなり序盤に明らかになる。
読み返すとp128で「それ」が明らかになり、その後は、殺人事件の話ではなく、主人公・亜李亜の過去の話に話がシフトする。
鳩殺しのOL・鳩パンとの関係性も面白く、そこからクライマックスまでは、謎解きがどんどん進み一気に読ませる。亜李亜の住む町である東伏見周辺はランニングでよく訪れる場所なのでそれも良かった。
ただ国策としての殺人、さらにその資金集めのための猟奇(スナッフ)フィルムなど、明らかになっていくほどに陰謀論がどんどん陳腐になっていく。そして「ドン引き」の殺人遺伝子(キラージーン)…
『ルックバック』について
藤本タツキ『ルックバック』は、ちょうど五輪開催の直前*1に読み、とても衝撃を受けた。
理由は、一気に読める中編(短編)の形なのに、主人公の半生が詰まっていることがひとつ。時間経過だけでなく、どのような思いで時間を過ごしてきたのかがわかるコマ運び。
そして、何より2019年7月に起きた京アニ放火事件を想起させる出来事をきっかけに出てくる「ありえたかもしれないIFの世界」。
この話の公開がちょうど事件から2年の日だったこともあり『ルックバック』に込められたとされる「Don't look back in anger」というメッセージも含めて、読者は、この2年間を振り返り、主人公・藤野の半生を振り返る。
だからこそ、その後、内容変更に至るまでの流れは自分にとって、ほとんど意識しない部分だっただけに驚き、どのような傑作に対してもそれに傷つく人がいることに少し思いを向ける必要があると感じた。(具体の内容は、斎藤環さんの文章が非常にわかりやすいが、これを批判した文章もまたわかりやすい)
note.com
somethingorange.biz
そして、ダメ押しで『QJKJQ』読中(8/6)に起きた小田急線車内無差別刺傷事件。
こちらの事件は、起きたばかりなので何とも言えないが、精神疾患の話と結びつくことはなさそうだ。むしろ、女性差別という他の差別の問題とのつながりが深そうで、その意味では、日本社会の悪い部分が事件として起きてしまったと考えることもできる。
殺人遺伝子(キラージーン)
そんな中で、殺人者を、「ふつう」の外に外にと弾き出し、殺人遺伝子に原因を求める後半の展開は、非現実的というより「あまりに不謹慎」に思えて、ドン引きしたのだった。
その後、話は「殺人遺伝子などなかった」という穏当な結論に落ち着くものの、そこから3人死ぬ展開がよくわからない。確かに物語としては、3人が死なないと話が収まらないのだが、作品のメッセージが「ふつうの人が殺人を起こす」だとしたら、最後に異常な形での殺人が起きるのは気持ちが悪い。
個人的には、バカミスなら沢山死んでもOKだが、そうでなければ、物語上不要な死人はできるだけ減らしたいので、やはりこの部分は受け入れがたかった。
「大きな物語」に対抗するための個人の言葉
その後、主に犯罪被害者の悲しみについて書かれた入江杏編著『悲しみとともにどう生きるか』の中で、小説家の星野智幸の文章を読み、少し考えを改めた。『QJKJQ』を「けしからん」という目で見ている自分が間違っているのかもしれないと。
星野さんは、ステレオタイプの物語を否定し、時に暴力的に作用する「大きな物語」や「マジョリティの声」に対抗するには個人の言葉を探し続けることが重要と説く。
今の社会では、こういうことを言ったら馬鹿にされるかもとか、やばい人だと思われるかもしれない、という不安や怯えが日常化しています。空気を読んで、問題が起きないように語った受け売りの言葉を、自分の意見だと自動的に思い込むようにさえなっている。誰もが口にして大丈夫な認証済みの意見を、自分も口にすることで、社会のマジョリティの一員という安心感がもたらされるわけです。
だから逆に、誰かが己に正直な発言をすると、その人にイラつき、軽蔑して、攻撃したくなってしまう。その軽蔑と攻撃は、本当は正直な発言をできない抑圧された自分に対して向けられているはずなのに。
これを読んで自分のことを言われている気がし、『QJKJQ』に感じた不快感は、所詮、いわゆる「不謹慎厨」の意見なのかも、と思ってしまった。
実際、『QJKJQ』の異常な陰謀論(ホラ話)へのこだわりや、暴力を言葉で語ろうとするスタンスは、この小説独特の空気ということは理解するし自分にも魅力的に映る。これは、このあとの『Ank』や『テスカトリポカ』にも受け継がれていることを考えれば、佐藤究の独自の世界観なのだろうし、嫌だったところは保留して、魅力的なところに目を向けて次作を読む方が良さそうだ。(これは『悲しみとともにどう生きるか』でも平野啓一郎が説く「分人主義」の話ともつながる)
星野さんは、小説という表現形態なら「白か黒か、敵か味方かでは表せない矛盾を言葉で表すことができる」とし、世間のものの見方から離れた「個人の言葉」こそが重要と説く。
また、金原ひとみさんも小説の意義についてインタビューで次のように語る。
もちろん現実的には、より差別の少ない社会を目指すべきだと思っています。ただ同時に社会全体が正しい方向に進む中で、どこがこぼれ落ちるのか。文学でしか救済できない領域は、どこにできていくのだろうと最近よく考えます。
小説というのは、間違っていることを正しい言葉で語る側面があると思うんです。これから先は誰が排除されていくのか。たとえば、老害と切り捨てられてみんなに嫌われる高齢者男性、警察に突き出されるような痴漢かもしれません。そういう人は誰からも共感を得られず容赦無く袋叩きにあうようになっていく。でも小説というのはある程度、誰からも共感されず、みんなから「死ね」と思われるような人たちのためにあると思っています。
自分が『QJKJQ』に感じた「ドン引き」や「嫌悪感」を別に否定しようとは思わないが、それなりに「文学作品」を好んで読みながらも、物語に「矛盾がないこと」を求めるタイプだったかもしれない、と少し反省した。
次は、佐藤究は『テスカトリポカ』は厚そうなので、『Ank:』かな。星野智幸は『俺俺』と『呪文』しか読んだことがないので最新作かな。
*1:この文章は五輪閉会式を見ながら書いている