Yondaful Days!

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「論破」と「人権」~DaiGo氏の差別発言について

メンタリストDaiGoが自身のYouTubeチャンネルでホームレスや生活保護受給者を差別する発言をして問題となりました。
先日の小山田圭吾の騒動で勉強になったのは、関連団体の抗議文を読むことが自分にとって頭の整理になるということでした。その分野の専門家が問題を指摘するので、素人意見と比べて重みが違うのは当然のことです。
今回、問題となっているメンタリストDaiGoの発言に対しては「生活保護問題対策全国会議」「一般社団法人つくろい東京ファンド」「新型コロナ災害緊急アクション」「一般社団法人反貧困ネットワーク」という生活困窮者支援団体4団体が連名で緊急声明を発表しています。

tsukuroi.tokyo

「論破」とカードゲーム

発言内容については、声明文の中で触れられているので割愛しますが、その問題点に進む前にまず気になったのは、DaiGoの弟で謎解き関連でも有名な松丸くん(松丸亮吾*1)のツイート。
Twitterでの謝罪とDaiGoへの働きかけは良かったですが、「今度会ったら絶対に論破するまで怒り続けます。今回ばかりは兄がおかしい。ごめんね。」という部分。
Twitter文体で、かつ、あくまでフォロワー向けの言葉なので「ごめんね」は良いとしても「論破」という言葉が気になりました。
このあと松丸くんは実際に、「感情・倫理観で話しても絶対伝わらない相手だと思ったから、ひたすらに否定の余地がない事実ベースでどこが間違ってるか、いかに勉強不足で無知な発言をしたかを兄に超長文で送りつけて話したわけだけど」と明かした上で、「今日の謝罪動画の喋り出しが『勉強不足でした』だったからちょっとは効いたんだろうか……」としています。*2


松丸くんは善意でやっているので彼を責めるわけではないですが、DaiGoが一度目の謝罪をするまでのこの流れは、とても気持ちが悪いと思いました。
昨日書いた「対話」との関連で言えば、松丸くんの「論破」にも、DaiGoの「反省」にも、二人の間にあるべき「対話」が感じられないと思ったのです。
特にDaigoの謝罪は、

  • どこかに正解があり、それに対して「無知」だったから俺は間違えた、奥田知志さんから「知識」を得ることによって俺はもっと強くなる!

と言っているようにさえ聞こえました。そこから考えると、松丸くんの「論破」もやっぱり、ポケモンのカード(という喩えが適切かわかりませんが)でいえば、このポケモンとこのポケモンがないと上手くやっていけないので、僕の持っているこのカードをあげるよ、という「知識」カードのやり取りのようにも感じてしまいます。
したがって、ここで使われる「論破」は、相手に勝てる「ロジック」と「知識」をどのくらい持っているかというカードゲームに近いのかという感想を持ちました。そこには「対話」も「思考」も重視されず、どちらが「正解」に近いか、だけを競い合っているようにも見えてしまいます。実際、彼らは二人とも頭が良いので世界がそのように見えているのかもしれません。
なお、この件について松丸くんは何も悪いことをしているわけではないので全く責める気はないし、実際おそらくもっと色々なことを考えているのだろうと思います。

緊急声明と「人権」

さて緊急声明に戻りますが、声明では発言の問題点として(明確に分けられているわけではありませんが)以下を挙げています。

  • 人の命に優劣をつけ、価値のない命は抹殺してもかまわない、という「優生思想」そのものであること
  • 差別を煽動する明確な意図があること
  • 生活保護に対する市民の忌避感をより一層強め、命をつなぐ制度から人々を遠ざけ、生活困窮者を間接的に死に追いやる効果を持つこと

さらには、一度目の謝罪に対してもDaiGoの文章を引用し以下のように非難しています。

なお、批判を受けて、DaiGo氏は8月13日夜、今回の発言を「謝罪」する動画を配信しました。長年ホームレス支援をしているNPO抱樸の奥田知志氏と連絡をとり、近々、現地に赴いて支援者や当事者から話を聞いて学びたいとしつつも、しばしば笑顔を見せながら、「ホームレスの人とか生活保護を受けている人は働きたくても働けない人がいて、今は働けないけど、これから頑張って働くために、一生懸命、社会復帰を目指して生活保護受けながら頑張っている人、支援する人がいる。僕が猫を保護しているのとまったく同じ感覚で、助けたいと思っている人、そこから抜け出したいと思っている人に対して、さすがにあの言い方はちょっとよくなかった。差別的であるし、ちょっとこれは反省だなということで、今日はそれを謝罪させていただきます。大変申し訳ございませんでした」と謝罪の言葉を述べたのです。
ここで示された考え方は、他者を評価する基準を「頑張っている」(と自分から見える)かどうかに変えただけであり、他者の生きる権利について自分が判定できると考える傲岸さは変わりません。しかも、貧困や生活困難を社会全体で支え、生存権を保障するために、権利としての生活保護制度があることについて、根本的な理解を欠いていることに変わりがありません。少なくとも現時点においては、DaiGo氏が、自らの発言の問題点を真に自覚していると評価することはできず、その反省と謝罪は単なるポーズの域を出ていないと言わざるを得ません。

その後の「私たちの提案」の中でも「すべての人の命は等しく尊重されるべきであるという近代社会の前提を棄損する発言を私たちは絶対に許してはなりません。」としています。
声明の中でも特に重視されている「人権」については、自分はこれまであまり興味がありませんでした。「人権=必要なもの」ということを頭で理解しているだけで、実際、今でもわかっていません。

それでも、最近、フランス革命(というか『ベルサイユのばら』)をきっかけに「人権」そのものに興味を持ってから、近代の歴史も少しずつ勉強をして理解を深めているところです。先日の『人をつなぐ対話の技術』では、民主主義の思想と歴史について多くページを割かれており、基本的人権についても非常に勉強になりましたが、やはり同時期に読んだ平野啓一郎さんの意見(『悲しみとともにどう生きるか』)が非常に参考になりました。

日本は人権というものに対する教育に失敗していると思います。(略)
僕自身が小学校で受けた人権教育を思い返してみても、結局のところ、人権というのがよくわからないままだった気がします。小学校の教育の中で多かったのは一種の感情教育で、人がそういう時にはどんな「気持ち」になっているかを考えてみましょうとか、「自分が嫌なことは相手にもしてはいけません」という心情教育に偏っていました。他社に対する共感の大事さを説くばかりで、人権という、権利の問題としてきちんと教育されてこなかった気がします。p184-185

自分を振り返っても、今回のDaiGoの問題発言に感じた不快感も、まずは「かわいそう」がベースにあったことは間違いありません。しかし、平野さんは、かわいそうかどうかということは「主観的」であるとして、その脆弱性を説きます。

例えば

  • 「あいつがいじめられていて、ちょっとかわいそうだけど、しゃべり方が生意気だし、あいつにも責任がある」といういじめ放置
  • 相対的貧困」の番組に登場した女の子の部屋の棚に漫画がずらりと並んでいるだけで「世の中にはもっと大変でかわいそうな人がいる」と番組自体に否定的な意見
  • 生活保護とかいいながらパチンコしているじゃないか」「同情に値しない」という生活保護バッシング

これらは「自己責任だから、そういう人たちを救う必要はない」と主観的な心情で問題を捉え、「人権」に理解がないところに問題があります。
なお、こういった論調には当然、今の政府の影響もあり、自民党の世耕さんの「生活保護受給者には「フルスペックの人権」を認めることはできない」と言った発言(酷い!)が取り上げられています。
だからこそ「人権」についての教育・理解が必要になります。

人権というのは、一人ひとりの人間が生まれながらにその生命を尊重されて、それは誰からも侵されないという権利で、ヨーロッパの思想史の流れの中で考えられたものです。(略)
人間には生まれながらにして権利があるという話は、フィクションといえばフィクションですけど、それをたくましい努力で守り抜こうとする思想は、偉大です。(略)
学校でいじめが起きている時に、かわいそうなことをしているからやめましょうと諭すことも大事ですが、まず、いじめるということは相手の教育を受ける権利を侵害していることだから、やってはいけないことだ、と教えなくてはならない。人を殺すというのは、その人が生まれながらにして持っている、誰からも生命を侵害されることがないという権利を奪うことだからやってはいけないことだと教えなくてはならない。
心情的な教育というのをやりながら、一方で、すべての人は、社会の役に立とうが立つまいが、そんなことは関係なくて、生まれてきたからには、自分の命は誰からも侵害されない権利がある、という原則を子どもたちに教えることが非常に重要です。p191-192

DaiGoは、先ほどの緊急声明にさらに答える形で「謝罪を撤回した上で改めて謝罪」*3しているわけですが、その中の言葉も

  • もし自分の母親が、生活保護を受けていたら、同じ発言を僕が聞いてどう感じるのか…
  • 自分の家族とか、大事な人がそうだったら、大事な人の生きる価値を否定されたみたいな状況になったら…

という形になっています。これは結局、「かわいそう」の幅を広げていくやり方で主観的。4団体の声明にあった「他者の生きる権利について自分が判定できると考える傲岸さは変わりません。」というところに結局戻ってきていることになり、指摘されている問題点を理解できていないように見えます。

かくいう自分も、どんな問題にも、できるだけ多くの他者の気持ちになって考えて「かわいそう」の幅を広げることが重要と思っていました。そうするとすぐに「頑張っている人はかわいそうだけど、頑張っていない人はかわいそうではない」という考えに行ってしまいます。
今回のホームレスの件で言えば、「隣のホームレスから食べ物を奪って暮らすような人」をイメージして、それでも「生きているべき」という風に考えなくてはならないのでしょう。
基本的人権は条件付きではないし、ましてや「フルスペックじゃない基本的人権」などありえないのです。

僕たちは一人の人間としてこの世に生まれてきて、その命というのは絶対に尊重されなくてはいけない。それを奪うことはいかなる場合も許されない。徹底して、すべての人の命の価値は保障されなくてはいけない。役に立つから生きていていいとか、役に立たないから死ななきゃいけないなんていう理屈は間違っていて、それよりもはるか以前に、人間の生は肯定されるべきものです。自分の命は誰からも侵害されないという権利があることを、まず認識する。その上で、実際に生きていく上で、どういうふうに自分という人間を把握し、生きていくかということになります。
p195

基本的人権については知識として頭に入れることは最低限として「その上で、実際に生きていく上で、どういうふうに自分という人間を把握し、生きていくか」ということが重要です。DaiGoの名前は出していませんが、今回のタイミングで批評家の杉田俊介さんが以下のように書いていました。

反省には手間も時間もかかる。これまでの自分と向き合い、誤りを認め、自分を少しずつ変えていかねばならないから。それは苦しいことだ。つらいことだ。変化なき謝罪はありえない。これまでの自分のあり方を温存したまま、対外的な反省のポーズだけ見せて、何も変われないこと。それは怖いことだ。
https://twitter.com/sssugita/status/1426468730825961473


まさに今回のDaiGoの謝罪は反面教師とし、どんな問題も同じ社会に住んでいる「準当事者」*4としての自分を意識してわが身を振り返る契機としていきたいです。
平野啓一郎さんは、上に引用した人権についての記述のあとでアマルティア・センアイデンティティと暴力』を挙げ、その内容を自らの主張する「分人」の考えに繋げています。このあたりの本も読んで勉強していきたい。また、杉田さんの本は未読なのでこの辺も。

(参考)過去日記

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:娘と一緒に東大五月祭に行って一緒に写真を撮ってもらったこともあります。いい人ですよね。

*2:DaiGo謝罪受け弟の松丸亮吾「ちょっとは効いたのか」超長文送りつけ(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース

*3:メンタリスト・DaiGo、謝罪を撤回し改めて謝罪「もし自分の母親が生活保護を受けていたら…」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

*4:文章の中で平野さんは「当事者」と「非当事者」という分け方は適切ではなく、同じ社会で起きた問題であれば、当事者の周辺にいなかったとしても「準当事者」だとしています