Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

F先生作品のような親しみやすいSF短編集~キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないなら』

著者あとがき、そして解説が素晴らしすぎると、自分の言葉で考えなくなるから 、 それはそれで問題だ。
特に短編集は、複数の作品に込められた作者の思いを読み解くのが、読後の「振り返り」の醍醐味ともいえるのに、ここまでしっかりしたあとがき、解説があると…
と地団駄を踏むくらいに素晴らしいあとがき、解説があるので、まずはそのまま引用する。

追い求め、掘り下げていく人たちが、とうてい理解できない何かを理解しようとする物語が好きだ。いつの日かわたしたちは、今とは異なる姿、異なる世界で生きることになるだろう。だがそれほど遠い未来にも、誰かは寂しく、孤独で、その手が誰かに届くことを渇望するだろう。どこでどの時代を生きようとも、お互いを理解しようとすることを諦めたくない。今後も小説を書きながら、その理解の断片を、ぶつかりあう存在たちが共に生きてゆく物語を見つけたいと思う。
(著者あとがき)

作者のキム・チョヨプさんは1993年生まれというから現在27才だろうか。著者近影の写真を見ると可愛らしい女性で、浦項大学の生化学修士号を取得しているというからバリバリの理系の人だ。
ただ、理系の硬さ、面倒くささは微塵も感じさせず、まるで藤子・F・不二雄作品のような素直な「SF」(少し・不思議)で、あとがきに書かれた熱い気持ちはどの短編にもストレートに反映されている。あとがきを最後に読んで、ひとしきり納得した。


彼女の思いを汲み取った解説(文芸評論家イン・アヨン)がまた素晴らしい。

科学技術がそれ自体としてより良い世界を担保しないなら、私たちにとって必要なのは、科学技術の発展が帰結する先がユートピアなのかディストピアなのかという二分法的な問いではないだろう。重要なのは、私たちの生きる世界と複雑に絡み合っているユートピアあるいはディストピアを具体的に想像してみる過程なのかもしれない。その過程において私たちは、これまで「異常」であると規定され、長いあいだ忘れられてきた存在を思い浮べてみることも可能だ。また異なるかたちをした存在それぞれに与えられるべき価値を見出すことも可能なら、科学技術によって誰も排除されず皆が共に生きられる世界に導いてもらえると夢見ることもできる。そのような美しい冒険の旅路を、キム・チョヨプの小説は私たちに示してくれる。

このあと、解説は、短編小説ひとつひとつを「異常」「正常」「共生」のようなキーワードを用いて読み解いてみせる。
本の中では最初に配置されている「巡礼者たちはなぜ帰らない」の解説が特に良い。短編の持つメッセージは明解で、読み解きは難しくないのだが、ここまで分かりやすく言語化されると心地よい。
この短編では、地球とは別の星に建設されたユートピアの「村」を舞台にしている。村の人は成人になると皆、地球への巡礼に旅立つが、主人公デイジーが、毎年の巡礼から帰らない人が多いことに気がつくという話だ。

(略)デイジーは、もしかするとこう思ったのかもしれない。本当のユートピアとは、身体的な欠陥が完全になくなった世界でも、障害を持った人たちだけを隔離した世界でもないのかもしれないと。むしろ障害と差別を、愛と排除を、完全さと苦痛を、共に携えて一緒に悩む世界なのかもしれないと。あるいは、捨て去るべきはマイノリティーたちの身体的な欠陥や疾病ではなく、それを克服すべきものとみなす「正常」という概念そのものなのかもしれないと。


もう、こんな風に書かれると、もう、ここで改めて書くことは何も無くなってしまう。それでも、それぞれの短編に一言ずつ感想をつけてみよう。

  • 「巡礼者たちはなぜ帰らない」:この問いへの答えは、ストレートに本文中に出てくる。書き方によっては陳腐になってしまう「真実」だけど、特徴的なユートピアディストピア設定が、伝えたいメッセージを説得力を持つものにしている。
  • スペクトラム」:地球外生命体とのコンタクトの話。コミュニケーションの取り方が面白く、もっともドラえもん的かもしれない。
  • 「共生仮説」:一番お気に入りの話。「リュミドラ・マルコフには一度も行ったことのない場所に関する記憶があった」から始まり、その場所が今はなき惑星であることがわかる、という序盤。その後の「脳解析研究所」による人間の思考の解析の話が興味深く、2つがつながる展開がスリリング。
  • 「感情の物性」:これは「感情」グッズの話で、技術的には未来、近未来と言わず、今年ニュースになってもおかしくない話。どの短編もその要素はあるが、まさに「思考実験」という意味合いが強く、悩みながら書いている感じが伝わってくる。
  • 「館内紛失」:人々が追悼のために図書館を訪れる近未来の話。「墓」の形が変わりつつあること、AI美空ひばりのような取り組みが実際に起きていることから、今の世の中の延長上に会っておかしくない未来の話。
  • 「わたしのスペースヒーローについて」:明確にマイノリティへの差別を扱った作品。「館内紛失」と同じく、亡くなってしまった誰かの考えを辿っていく話で、このように「他人の靴をはく」行為が物語の中心になっていることそのものが「共生」のあり方へのメッセージになっている。


そして、表題作「わたしたちが光の速さで進めないなら」。
これもタイトル勝ちだと思うが、「巡礼者たちはなぜ帰らない」と同様に、本文中(主人公アンナの台詞)にそのまま答えが書いてある親切設計が良い。

でも、わたしたちが光の速さで進めないのなら、同じ宇宙にいるということにいったいなんの意味があるだろう?わたしたちがいくら宇宙を開拓して、人類の外延を押し広げていったとしても、そこにいつも、こうして取り残される人々が新たに生まれるのだとしたら…
わたしたちは宇宙に存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないか。

どの短編にも共通するが、作中のメッセージは限定的な意味ではなく、もう少し広い意味で取らえることが出来る。
例えばインターネットが世界中に広がり、誰もが自分なりのコミュニティを手に入れることが出来たとしても、直接声の届かない場所に、籠ってばかりの人が増えるのであれば「存在する孤独の総量をどんどん増やしていくだけなんじゃないか」と、やはり考えてしまう。
つまり、これだけ科学が発達しても、すべてに対して万能な力を持つことが出来ているわけではないし、今後もその見込みがない。むしろ悪影響の方が多いのではないかという諦めの気持ちだ。
ロシアがウクライナに侵攻を始めてからのここ数日、「戦争反対」「世界平和」といくら叫んでみたとしても意味がない、という冷笑的なコメントとそれに対するバッシングがネット社会で盛り上がっているが、上の引用における「諦め」は冷笑的なコメントと重なる。


しかし、アンナは自暴自棄になっているわけではない。

「わたしには自分の向かうべき場所がよくわかっているよ」
アンナは毅然としていた。

アンナは、そこに辿り着かないとわかっていながら「向かうべき場所」に向けて飛び立った。
どれだけ「戦争反対」と叫んでみても、言葉そのものには、ロシアの侵攻を止める力はない。
ただ、誰にとっても「向かうべき場所」は同じはずなのだから、毅然とした態度で、ロシアの侵攻に異を唱えるべきだろう。
そんなことを考えた。


その意味では、この物語のタイトルは「わたしたちが光の速さで進めないなら」ではなく「わたしたちが光の速さで進めなくても」であるべきかもしれない。


とても面白かった韓国SF。次は、以前のアトロクで宇垣美里さんが合わせて紹介していた『千個の青』かな。

参考

→『千個の青』は読んでみました!
pocari.hatenablog.com