Yondaful Days!

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死とどう向き合うか~井上靖『補陀落渡海記』×金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』

井上靖補陀落渡海記』

4月頭に家族で和歌山旅行に行った。時間の関係から、訪れることが叶わなかったが、旅先の候補として挙がっていた補陀落寺。その予習として読んだのが井上靖の短編「補陀落渡海記」。
裏表紙には以下のようにあらすじがあるが、一言で言えば「自らの死とどう向き合うか」についての話。

熊野補陀落寺の代々の住職には、61歳の11月に観音浄土をめざし生きながら海に出て往生を願う渡海上人の慣わしがあった。周囲から追い詰められ、逃れられない。時を俟つ老いた住職金光坊の、死に向う恐怖と葛藤を記す

短編だが、一番のポイントは、絶妙な「状況設定」にある。(どこまで史実に基づいているのか)
あらすじには「観音浄土をめざし生きながら海に出て往生を願う”慣わし”」とあるが、「渡海」に行くのは、悟りを開くのと同様、高位の僧が自由意志で挑戦すべきものだった。しかし、たまたま金光坊の前の住職が3代続けて61歳の11月に渡海を果たしたことから、「当然、金光坊さんもチャレンジするよね。あと5年後ですね。」「2年後ですね」「来年ですね」という周囲からのプレッシャーに負け、肚を決める。
小説は、基本的に金光坊の独白で進み、彼が見た渡海前の先代たちの状況がまず語られる。あの人は最期まで立派な僧侶だった、あの人は最期まで気難しかった…等々、彼らの様子を思い出し、その心境を推し量ったうえで次のように思う。

金光坊としては、自分の知っている渡海上人たちの誰とも別の顔をして渡海したかった。どのような顔であるか、勿論、自分では見当が付かなかったが、もっと別の、一人の信心深い僧侶としての、補陀落渡海者としての持つべき顔がある筈であった。どうせ渡海するなら、自分だけはせめてそうした顔を持ちたいと思った。

ところが、そのような「理想」は、渡海の時期が近づくにつれ崩れていく。
それどころか、何年も思考を重ねた死との向き合い方が、舟の小さな屋形の中に閉じ込められ海に流す段階、まさに土壇場になって「生への渇望」へと反転して、ジタバタする。

これこそ、年齢によって大きく印象が変わる小説だろう。もっと若い時に読んでいれば、金光坊の心変わりを「みっともない」と感じていたかもしれないし、「特殊な状況設定」を可哀想と思ったかもしれない。
しかし、年を重ねれば重ねるほど、実際には誰もが、金光坊にとっての「61歳の11月」に向かって進んでいることが実感としてわかってくる。日時が特定されていない分、先延ばしにしてしまっているが、「自らの死」(もしくは生)をどう捉えるかに、少しでも多く時間を割いた方が良いかもしれないと感じた。

金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』

【死にたいキャバ嬢×推したい腐女子】焼肉擬人化漫画をこよなく愛する腐女子の由嘉里。人生二度目の合コン帰り、酔い潰れていた夜の新宿歌舞伎町で、美しいキャバ嬢・ライと出会う。「私はこの世界から消えなきゃいけない」と語るライ。彼女と一緒に暮らすことになり、由嘉里の世界の新たな扉が開く――。推しへの愛と三次元の恋。世間の常識を軽やかに飛び越え、幸せを求める気持ちが向かう先は……。金原ひとみが描く恋愛の新境地。


補陀落渡海紀』との比較で言うと、主人公の由嘉里は、金光坊とは異なり、独白の世界から抜け、他者との対話の中で「愛する他者の不在(死)」とどう向き合うかについて思考を重ね、結果として「自らの生」を感じる。

他者とのわかり合えなさ

この物語が特殊なのは、由嘉里の”出会った世界”が、「他者とのわかり合えなさ」で満ちていること。
特に娘が小さいときに夫、娘と一緒に暮らすことを断念した小説家・ユキの言葉が印象的だ。消えたライを心配する由嘉里に対して、ユキは「死ねばいいのに」という言葉を発する。

「私はライさんに生きてて欲しい。幸せになって欲しい。生きて幸せになって欲しい、生きてて良かったって思って欲しいんです」(略)
「元夫が、知り合った頃同じようなことを言ってた(略)
何言ってんのこの人バカなんじゃないの?私のこと何にも分かってない、って思いながら、あなたと一緒にいれて幸せだよって答えた。言いながら寒々しくて忌々しくて鳥肌が立ちそうだった。この人とは永遠に見ている世界を共有できないだろうって思った。こういう人が絶滅すればいいのにって思った。本気で疎ましかった。死ねばいいのにって思った」(p104)

これを聞いて「酷過ぎる」と思った由嘉里は、一方で、半絶縁状態の母親のことを思い出し、自分のことを大切に思っている相手に対して「死ねばいいのに」と感じることがあることに気がつく。

さらにその後、別の場面でのユキの言葉はダメ押しだ。
自分はライと出会ったことで変わったのだから、自分もライを(生きようと思わせるように)変えたいという由嘉里の熱意を、ユキは否定する。

「それは自分を殺すことと一緒だよ。ライに対して自分の真実を押しつけようとする時、由嘉里だって苦しかったでしょ。それはそうすることで相手の大切な部分を殺してしまうからだよ。私たちは同じ世界を生きてないんだから。こっちのルールを押し付けたら向こうの世界は壊れる、向こうのルールを押し付けられてもこっちの世界は壊れる。離れた存在と近くで生きてると、必ずどちらかが壊れる」
「そんなこと言ったら、人は誰とも交わらずに自分一人の世界に閉じこもって生きていくことしかできないってことになりませんか?自分は人によって変えられるし、人は自分によって変えられていくものだと私は思います」
「人が人によって変えられるのは45度まで。90度、180度捻れたら、人は折れる。それはそれで死ぬよ」p192


そんな経緯を経て、由嘉里の気持ちは整理され、以下の引用部分は、ある意味では、この小説のメッセージの核の部分と言える。*1
ただ、場面としては母親からの愛情のこもった言葉を聞きながらのタイミング。目の前に自分に向かって喋っている人間がいるのに、ここにいない人に思いが向いてしまっているのがこの小説らしい。

好きなだけでは、足りないのだ。幸せを願うだけでは、足りないのだ。誰しも人と人との間には理解できなさがでんと横たわっていて、相手と関係継続を望むのであれば、その理解できなさとどう接していくか、どう処していくかを互いに考え続けなければならない。私はきちんとライに寄り添うことが、いや、寄り添わずとも優しくすることが、いや、優しくせずとも傷つけないでいることができていただろうか。きっと私ができる唯一のことはライを傷つけずにいることだけだったのだ。そのことを理解できずライを救いたいなんておこがましいことを考えていた自分の愚かさが憎くて、無力さが悲しくて、ライの気持ちを思うと苦しくて、とめどなく涙が流れ、私は野太い声を上げて肩を震わせた。(p206)


さて、問題を難しくしているのは、希死念慮の消えないライの「反出生主義」のような考え方だ。
由嘉里や周囲の人間は、ライに生きて欲しいと思っているが、ライは世界から消えたいと何度も口にする。
どんな相手に対しても「わかりあえない部分」があるとして、それが、「生きたい/死にたい」という、本来、議論の余地もないほど基本的な部分での意見のすれ違いだった場合は途方に暮れてしまう。


後半、由嘉里とアサヒが、ライの元彼である鵠沼藤治のもとを訪ねると、本人は精神病院に入院しているとのことで、両親が応対する。この両親の息子への思いは、まさに由嘉里のライに対する思いと同じものだ。

私たちもずっとそれです。どうして、って。毎日毎日、ずっと思ってます。皆そうなんですよ、大切な人が生きようとしてくれない人は、皆そうしてすり減っていきます。彼は死んでしまったほうが楽なんじゃないかって自問自答しながら、それでも大切な人に月並みな幸せを手に入れて欲しくて、どうしたら生きようとしてくれるのか、どうしたら少しでも楽になるのか、医学書を読んだり、哲学書を読んだり、メンタルヘルス関連の本、スピリチュアル的な本にすがったり、試行錯誤しては打ち破れています。(略)でも彼は何をしても前向きになってはくれない。p167

視線を合わせた藤治の母親は目が窪んでいて、私は強いシンパシーを感じる。そして唐突に、ライへの疑問が膨らんでいくのを感じた。ユキも藤治も、絶望して苦しんで七転八倒して傍目にも分かるほど手助けが必要な状態であるのに、ライはなぜあんなにも飄々と、ただ「自分がいないのが自然な状態だと思っている人」なのだろう。(略)どうしたらいいんだろう。何の執着もない人になにかに執着して欲しい、してくれと願う自分が正しいのか愚かなのか分からない。p171

繰り返すが、小説の中では、結局「わかり合えない」ことが強調される。
「それでもわかり合える努力を」という試みはむしろお互いを壊すことになりかねない。
だからこそ「わかり合えない」ことを前提として前を向く必要があるというのが小説のメッセージなのだろう。

他者の不在(死)とどう向き合うか

もう一つのテーマは、他者の不在(死)とどう向き合うか。最終盤で、由嘉里が、ライの元恋人である鵠沼と電話で話す場面がある。


鵠沼の「死」の捉え方は独特で、「ライが消えた」事実に全く動じない。由嘉里は鵠沼の母親には共感したが、鵠沼本人の考えには全く賛同できない。(だからこそ、ともに理解の範疇外にいる、ライと鵠沼は仲の良い恋人だったのだろうと考える。)

僕は死について考え続けた挙句、この世界では誰も死なないという認識にたどり着きました。だから、誰かが死んだと聞いても本当にその人が死んだとは思わない。僕の世界には死はなくて、むしろ、吸収に似たものと捉えています。死とは、何かに吸収されていくこと。煙になったり土になったりして、何かに溶け込んでいく。記憶として残った誰かの中に吸収されていく。死は存在せず、吸収だけがある。僕はそう考えています。p220


由嘉里は共感できなかった鵠沼の話だが、一読者としては興味深く読んだ。ずっと会っていない友人の死を突然メールやSNSで知らされても、それに対しては「誰かが死んだと聞いても本当にその人が死んだとは思わない」という感想しか抱けない。それは少なくとも自分にとっては、彼の「死」ではなく「記憶として残った誰かの中に吸収されていく」ことと同じだ。


そんな中で、バー「寂寥」のマスター・オシンの言葉は「ライが消えた事実」よりも「ライと再会する希望」にシフトする考え方だ。受け入れやすい内容だし、歌舞伎町に生きていく者の知恵を感じる。
このような考え方は、実際に相手が死んでしまっていたら採れない考え方にも思えるが、鵠沼理論と合わせて「死は存在しない。再会できるかもしれない」と思い込むのも一つの考え方な気がする。実際、そこにあまり差はない。

私たちの街では、いつも人が入れ替わっていくのよ。どんなに頻繁に通ってる常連だってある日突然来なくなったりする。(略)ライは死んじゃうかもしれない。でも生きてて、5年後に現れるかもしれない。再会した彼らは幸せそうだったり、不幸そうだったりまちまちよ。でも彼らとまた出会うって、再会するっていう希望は私たちに残されてる。私たちがそれを持ち続けることは、誰にも、神様にも、いなくたっていく彼らにも止められないし、左右できないこと。片思いを何年もしちゃうような慎ましい私たちに残された、ささやかで強い力よp181

推し活(オタク)の扱われ方

この小説のもう一つの特徴は、由嘉里のオタク独特の早口で情報分析的な語りが、実際のそれをトレース出来ていること。
焼肉擬人化漫画「ミート・イズ・マイン」が架空のものと思えないほど真に迫っている。
それは、作者の金原ひとみが、こういったオタク気質を好意的なものとして捉えて書こうとしたことを思わせるし、物語の中でずっと由嘉里をサポートしてくれたホスト・アサヒの言葉からもわかる。

…自由って不安だし、憂鬱です。無条件に愛してくれた父親は死んで、母親とは半絶縁状態、あんな風に謝られても一緒にいたいとは思わないし、ずっと一緒にいたかったライさんは消えて、恋人もいない。職場では存在感も存在意義も希薄な代替可能がすぎるアラサー行員。腐友はいるけど、私を強く求めてる人は一人もいない。重力がなくなったみたいなまま、私は生活の場を定めなきゃいけない。(略)もちろん恋愛してたり仕事にやりがいを感じてる人は絶対めっちゃ幸せだなんて幻想持ってないですよ。でもしみじみ思うんです。私の心は糸の切れた凧みたいだなって。指針も指標もないなって」
「恋愛みたいな強烈なあれじゃないけど、オシンとユキと俺はずっとゆかりんのことを頭の片隅に置いてるよ。それに、ゆかりんにはミート・イズ・マインがある。強い情熱が、そこにはあるだろ?求められる、だけじゃなくて、求める、だってゆかりんを地上に繋ぎ止める強い力だよp216


調べてみると、ミート・イズ・マインは『ヘタリア』がインスパイア元、というインタビュー記事が出てきたが、これを読むと、金原ひとみの由嘉里への優しい視線を感じて、とても嬉しくなる。「わかりあえなさ」や「他者の不在(別れ)」を題材にしていても小説が暗くならないのは、由嘉里の成長と、それを見る金原ひとみの「書いている私も嬉しかった」という気持ち故かなと思った。

タイトルにもあるように、彼女はいろんな人と出会って、見る世界がどんどん広がっていく。おかげで自分に必要なものを自分で認められる強さを得ていくんですよね。見た目的なところは変わってなくても、きっと一緒にいるみんなには、彼女がどんどん自信を持っていって、自分がどういう人なのかということに自覚的になっていく姿が見えていただろうと思いますし、書いている私も嬉しかったです。
金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』刊行記念インタビュー「真逆の二人がぶつかった先に生まれる、新たな愛の形」 | 集英社 文芸ステーション


全く違ったタイプの2冊だったが、他人の、そして自分の死を考えるきっかけになる本となった。
結局、考え続ける必要があるということなのだろう。
上のインタビュー記事にも同様のことが書いてあり、この部分にも納得だ。
ここで挙げられているイ・ランさんのエッセイ集も読んでみたい。

──調整し続けるって、思考し続ける「体力」がないとできないですよね。でもSNSに象徴されるように、現実の社会では速くて強い言葉が求められがちという。

そうなんですよね。でも、簡単な結論を出すことは避けたいと思っていて。だってツイートの140字とか、TikTokの何秒、何分にすべてをまとめるなんていうことは絶対無理で、ぐだぐだと答えが出ないことを考え続けることこそが生命力だとも思うし、生きるための知恵みたいなものにつながっていくと思うんですよね。
このあいだイ・ランさんの『話し足りなかった日』という最新エッセイ集を読んだのですが、彼女はものすごいぐだぐだ悩むんですよね。日常のこととか人間関係とか、お金がないことについてめちゃくちゃぐだぐだと書いていて。そこがもうとにかく「人間」過ぎてやばいなと(笑)。あんな濃度の高い人間のモノローグに触れたのはすごく久しぶりだなと思ったし、結局は彼女みたいに考え続けないと本当の意味で生きていくことさえもできないんだという、諦めにも似た覚悟みたいなものを持って小説を書いていきたいなと思いました。
金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』刊行記念インタビュー「真逆の二人がぶつかった先に生まれる、新たな愛の形」 | 集英社 文芸ステーション

*1:なお、由嘉里がオタク気質で饒舌であることが、小説内でのメッセージも饒舌になっているが、自分にとってはそれはプラスと感じた