Yondaful Days!

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反転すべきはそこじゃない~『月曜日のたわわ』の件

『月曜日のたわわ』という漫画の日経新聞の広告が問題になり、批判側、擁護側で意見が錯綜しています。


自分は、書店で単行本4巻(+青版)の「大きな広告」と面陳の本を見て『月曜日のたわわ』という漫画の存在を知りました。
そのときの感覚は、「このタイトルで、こんな大きな広告出していいのか?」でした。(ここは「不快」というより「気まずい」に近いでしょうか。男性側の性的視線を公の場で強調するのはやめてくれ、という感じです。)
だから日経新聞の広告に関して批判が出ているというニュースを知って、世間の反応として至極当然と感じました。


ただし、最初に結論を書けば、「この広告は規制すべきだ」とは考えません。
少なくとも、この「絵」だけで規制されたらたまりません。
個人的な感覚では、この「絵」に「タイトル」(特に「たわわ」という表現)が加わることが問題だろうと思います。自分が本屋で広告を見て「いやだな」と感じた理由がまさにそこにあるからです。
自分の気持ちとしては、「公の場に出してほしくない」広告であることは間違いないのですが、「規制すべきか」というと線引きが難しく、「表現の自由」の観点では、この話題は判断を保留中です。
したがって、以下は「表現の自由」の観点ではなく、主に「倫理」の観点(フェミニズム的観点)から、「月曜日のたわわ」問題について考えます。

自分が、twitterフェミニズム論争に辟易する理由

この種の話題は、これまでも「宇崎ちゃんポスター」や「温泉むすめ」等々、繰り返されてきましたが、個人的な感覚で言えば、Twitter上でフェミニズム関係の話題がトレンドに上がっているとき、「議論」を読んでも全く頭が整理されないのは、「表現の自由」からの主張と「フェミニズム」的な主張が混在しているからだと思います。そして、お互いの主張が全く議論の体を成さず、どちらかと言えば、アンチフェミ側の(相手の気持ちを全く考えない)「はい、論破」的まとめが人気があることが、うんざりしてしまう大きな原因です。


その種の「たわわ」擁護派の意見には、「イラストを見て不快に感じること」すら許さない極端なものもありますが、特にうんざりするのが、(フェミニスト側の人も陥ってしまう)ミラーリングを使った思考実験です。*1

  • 『月曜日のたわわ』の広告、どこに問題があるかわからないから、男性側に置き換えて考えてみよう
  • 今回、胸を強調していることが問題視されているが、(反転して考えて)男性の股間を強調した広告があったとしても自分は気にしない
  • いや、「女性の胸」に対応するものとして「男性の股間」を持ち出すのはフェアじゃない。やはり「男性の胸」で考えるべき
  • やっぱりどこに問題があるのかわからん
  • そもそも、イラストの少女の「大きな胸」を批判することは、バストが大きい女性を嫌な気持ちにさせるのでは?

といった流れのやり取りです。
「相手の立場に立って」思考を深めようとしているようで、ほとんど何も考えていない展開の仕方です。むしろ問題を矮小化してしまっています。
にもかかわらず、フェミニズム関係の話題では同種のアプローチで「ツイフェミを論破」して悦に入る流れは比較的多く見られ、そこが本当に不快です。

男女を反転させて考えるべきは「男性優位社会」

結論を言うと、何度も「フェミニズム側から蒸し返される」『月曜日のたわわ』的な問題は、「絵」そのものよりも、日本の男性優位社会とセットで問題視されているという認識が必要だと考えます。これは切り分けて語ることが出来ないし、ここからスタートしないと意味がありません。
(逆に、女性で「この絵に問題ない」と主張する方は、性差別の問題は感覚としてわかった上で切り分けて話をしていると考えます。これを性差別に無自覚な男性が「同志を得た」とするのは恥ずかしいです。)


そういう風に「男尊女卑」だとか「男性中心主義」「男性優位社会」と言うと、「俺は奥さんに頭が上がらない」とか「職場の女性上司に虐められている」とか「高校時代に女子からオタクとからかわれてトラウマになった」と、それを否定しようとする人もいます。
生まれたときから「そういう社会」なので、男性として持つ「特権」に無自覚になってしまうのもよくわかります。
しかし、特に今回は、同時期に、映画業界等の性加害の話題が継続して話題になっているのにもかかわらず、胸を張って否定できるのは何故だろうと不思議に思ってしまいます。


いや、それは特殊な業界の話題だろう、という人は、やはり最近話題になった「芸人のエレベータの話」をどう捉えるのでしょうか。(ほぼ同主旨の話題もリンクします)
diamond.jp
diamond.jp


ここで自分が繰り返す「特権」は、監督やプロデューサーが持つ具体的な権利ではなく、「不自由を感じなくて済む」「不便を感じなくて済む」「恐怖を感じなくて済む」特権です。
ここまで考えれば、『月曜日のたわわ』の広告を、男女の立場を入れ替えて考えようとするとき、広告の絵柄だけひっくり返す無意味さがわかるのではないでしょうか。
つまり、思考実験で反転させなくてはならないのは、広告ではなく、男性優位社会の方だと思うわけです。
例えば、ナオミ・オルダーマンの小説『パワー』はまさにその観点での男女逆転をテーマにしていて、「力」を得た女性たちが男性を蹂躙しながら世界を支配するさまが描かれます。『パワー』の描く女性優位社会では「月曜日のたわわ」の広告は全く問題にならないだろうことは容易に想像できます。また、このような社会を仮定して初めて「たま袋ゆたか」等の男性キャラクターのミラーリングが、男性にとって「不安なもの」「不快なもの」として意味を持ってきます。



ただ、男性皆がナオミ・オルダーマン『パワー』を読まなくてはならないのか、と言えば当然そんな必要はありません。
上に挙げたエレベータの話題を読めば、日常的な出来事でも男女の感覚には大きな差があり、男性側がその特権に無自覚であることに誰でも気がつくと思います。いわゆる「他人の靴をはく」感覚で、色々な人の立場に立って日々のニュースに接し、積極的に本を読むようにすれば良いのかと思います。

性暴力について考える

最後に、性暴力について扱われた記事を紹介します。
とても辛い内容ですが、男性は特に読むべき内容だと思います。

www.nhk.or.jp


被害者女性(そよかさん)が語った言葉を冒頭と終盤の文章からそのまま引用します。

裁判官・裁判員の方に知ってほしい・考えてほしいことは、本当の意味での「性暴力とは何か」ということです。社会が持っている誤った認識も、自身の中にある偏見も自覚してほしいのです。

私はこの場では被害者として立っていますが、「被害者」ではなく、意思を持った一人の人間です。「かわいそうな人」ではなく、みなさんと同じように普通に生きてきた、そしてこれからもみなさんと同じように生きていかなければならない一人の人間です。決して稀有な存在ではありません。

「性暴力は何に対する罪なのか」、考えてみてください。私は、性暴力とはひとりの人間から尊厳を奪う、意思を持った一人の人間を、ただの女あるいは男として、暴力の対象として、支配欲のはけ口として記号に押し込め、人格を深く傷つける、そういった罪だと考えています。

私は、加害者だけでなく、この世の中の仕組み自体が歪んだ認知の元に作られていることに、絶望しています。現在の日本の司法や仕組みの中では、どうにもできないことがあまりに多すぎるからです。これは男性中心主義の社会構造の問題でもあります。この社会へのどうにもすることのできない絶望と怒りは、話そうと思えば、何十時間でも話せます。それくらいに私の絶望は深いのです。日常的に性暴力が存在していても、二次加害をする人間がいても何もできない、被害自体、差別構造が存在していること自体否定される、これが私に見えている世界なのです。

ここ数年、フェミニズム関連の本を読むことが増え、性被害の問題についても少しは勉強してきたと思っていましたが、「被害者」の方の人生をここまで具体的に考えることはありませんでした。また、これまで問題の所在をひとりひとり(特に男性側)の差別意識に置いて考えていましたが、法制度などの社会のデザインの問題についてはあまり積極的に触れて来なかったように思います。
『月曜日のたわわ』の背後にある問題は、ここで書かれる「男性中心主義の社会構造の問題」と地続きだと考えています。そよかさんが受けた二次加害の問題は、twitterとも関連が深く、別問題と考えることは難しいです。


今回、今の自分が考えていることを一度整理しておく意味で、文章にまとめてみましたが、時間が経って読み返せば意見も変わっているかもしれません。
いや、むしろ、意識をアップデートしていくことは望むところなので、もっと本を読んだり考えていきたいと思います。
特に、自分が判断を保留にしている表現規制の問題を考える上でも、そよかさんが問題視した法制度などの社会のデザインについてもう少し勉強して考えていきたいと思いました。

過去日記

pocari.hatenablog.com

*1:フェミニスト側が、ミラーリングをしようと試みて失敗した典型例として、温泉むすことして生まれた「玉袋ゆたか」というキャラクターがあります→玉袋ゆたかとは (タマブクロユタカとは) [単語記事] - ニコニコ大百科