Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「相互感謝」でもあり「善意の押し付け」でもある~『31cm~ ヘアドネーションの今を伝え、未来につなぐ~』

髪をもらう人、髪をわたす人は、何を感じているのだろう。
ヘアドネーションを日本で最初に始めた非営利団体Japan Hair Donation & Charity (NPO法人JHD&C〈ジャーダック〉)初の監修本。

とあることがきっかけで、切った髪を寄付する「ヘアドネーション」に関する、この本を読んだ。
タイトルの「31㎝」は、ヘアドネーションをするために最低限必要な髪の長さ。
Amazonにも書かれている「ヘアドネーションに様々な立場で関わる16人のインタビューを、著名なイラストレーターの個性豊かなビジュアルと共にお届けします。」との説明の通り、イラストや写真が多く、カラフルで読みやすい内容で、小中学生でも読みやすい。
インタビューを受ける「様々な立場」の人は以下の通り。

  • レシピエント(ウィッグを受け取る人)
  • ドナー(髪の毛を提供する人)
  • 美容師(髪の毛をカットする人)
  • 医療者(病気の治療に関わる人)

より厳密には、ドナーやレシピエントの親も含む。


レシピエントの方からは、病気で髪が抜け始めて泣いた時期の話、無毛症で5歳からウィッグをつけているが、そのことを隠し続けたとの話など、辛い体験談も多く、改めて「髪」は、日々の生活に密接していることを改めて知らされる。
だからといって、ヘアドネーションは「いいこと」としない精神が、この本の底流に流れていて、インタビューを受けるドナーは、ほとんどの人がジャーダックが目指す「必ずしもウィッグを必要としない社会」について触れている。
結果として、この本自体が、「差別」や、「生きやすい社会」を考えさせる内容になっているのが特徴的だ。


例えば、レシピエントのお母さんのインタビュー。

子どもが病気になると、どうしても周りの人に対して猜疑的になってしまいます。この人は何を求めているのか、何かやってあげましたという感じで接してきているのか、その人がどのような心持ちで接してくるのか、とても敏感になるのです。娘も、誰にも何もして欲しくないという感じでした。
「お気の毒」という人は、共感はしてくれていますが、形として共感してくれているだけの人が多いのです。そんな気はなかったとしても、差別的な、どこかで「してやった感」を感じさせる人がいるのです。p63


また、ドナーの立場の柴咲コウのインタビューでは、小学校時代に「場面緘黙」の同級生がいたが、その障がいのことを当時は知らなかったことが理由で、国語の朗読の時間に、根比べのように長い沈黙が続いたという話がある。「様々な人が自分らしく生きられる社会」を目指すには、まず「知ること」が大事ということも、この本に一貫している内容だ。
ドナーの中には、動くことも話すことも困難な重度の障がいを抱えている人もいるが、その両親のインタビューでも「知らせること」の重要性が説かれている。(両親は二人とも高校教師なので、教育的視点に目の行きやすい人なのだと思う)

知らせることは大切だと思います。
我が家では、芳と一緒に写った家族写真を年賀状で送ります。重度の障がい者が、普通にかけがえのない家族として存在している姿を年賀状でお伝えすることで、見慣れていってくれたらと思っているからです。
そして、芳と一緒によく外出もします。社会が重度の障がい者に見慣れていき、少しでも優しい気持ち、普通と変わらない接し方をしてくれたらと思っています。p96


少し面白い視点として、美容師のインタビューの中で、ドナーの人には、「何となく美容院に行かないうちに伸びてしまった人」がいて、そういう人は「過去に美容室で嫌な思いを経験し」「自分の髪にコンプレックスを持ち、美容室が嫌いに」なっているという話があった。
だから、そのコンプレックスを無くし、髪質や骨格を否定せず、すべて肯定した形で仕上げることで「自分の髪を好きになってもらうこと」を大切にしているのだという。

自分の髪を好きになることができれば、それは自分を受け入れ自分をもっと好きになるということ。自分を受け入れられるほど他人のことも受け入れられるので、みんながそうなれば今よりもう少し優しい世界になるのではないかと思っています。p164


そんな中、ジャーダックの人を除けば最後のインタビューとなる医療従事者の野澤桂子さん(国立がん研究センター中央病院亜プアランス支援センター長)のインタビューの出だしが手厳しくて、軽くショックを受ける。

人毛100%のウィッグを提供するジャーダックの活動は「人毛神話(人毛ウィッグが最も品質が良く、自然に見える)」という誤ったイメージを広めることにつながるので、医療者としては困っていました。
技術革新が進んだ現在では(略)人毛ウィッグは選択肢のひとつに過ぎないのです。
今、ジャーダックの活動については子どもたちを支援しているという気持ち、美しい話ばかりが広がっています。
(略:提供されるウィッグの数は圧倒的に少なく、申請から届くまでに1~2年かかり治療期間に間に合わない)
つまり、実数的にはジャーダックの活動はそれほど役に立っていないのです。だからジャーダックの活動はファンタジー、現実と乖離した美しい夢の世界に皆を引き寄せるファンタジーなのです。p192

このあと、「だからといって意味がないとは思いません」とジャーダックの活動へのフォローが入るのだが、口調も辛辣で、本当に手厳しい。
野澤さんは、ウィッグではなく「がん患者」に向けられる視線についても取りあげる。

がんの患者さんは、純粋に髪の毛のことで悩んでいるというより、どちらかというと、髪がないことからがんだと気づかれてしまい、先がない人、かわいそうな人、と思われてしまって、これまで通りの対等な人間関係でいられなくなってしまうのではないか、ということで悩んでいます。p194

最近の研究で、大人の場合は自分のがんや外見に対する考え方が、その症状と大きさ以上にその人の行動に影響を与えるということがわかってきました。
一般の人を対象にがんのイメージという統計をとると、かわいそうな人、というイメージが強いのです。大人の患者さんで、かわいそうな人と思われたくないという思いが強い人は、それまでがんの人に対して、かわいそうな人と見ていた人、偏見を持っていた人が多いのです。だから自分ががんになった時、絶対に隠さないといけないと思いがちです。
つまり、それは人の目ではなく、自分の目なのです。結局、人間の行動は自分の考えによって規定されるのです。


しかし子どもの場合、親の接し方がとても大きな影響を与えることがわかってきました。
(略)だから、とても心配なのはわかりますが、親御さんがお子さん以上に率先してウィッグを探すのだけはやめましょう、と伝えているのです。そうすれば、がんの子も、脱毛症の子も、こだわりがもう少し軽くなるのではないかと思うのです。p198-199

特に、「かわいそうな人」問題は、『エンド・オブ・ライフ』でも提示された課題で、自分は、病気の人にどういう視線を向けているか、自分が病気になったときにどう思うかということを繰り返し考えている。
このように、『31㎝』は、ヘアドネーションを通して、様々な人の立場と思いを知り、それによって誰もが少しずつでも生きやすくなる社会を模索していこうとする、ジャーダックの意図する通りの本になっていると感じた。

「いいこと」がもたらす社会の歪み

今回、本を読もうと思ったきっかけは、ネットに掲載されていたジャーダック代表理事渡辺貴一さんのインタビュー記事がとても良かったから。
『31㎝』でも、ヘアドネーションという活動への迷いや、社会への問題提起の思いは強く感じたが、インタビュー記事は、さらに切り込んでおり、胸に刺さるような言葉が多い。


まずはインタビューの前編。
laundrybox.jp

ここは、髪の毛がある人がほとんどの社会なんです。

(略)

そのような社会において、髪の毛がないということは圧倒的なマイノリティーです。これは髪の毛に限ったことではないですが、それが今の社会です。

(略)
髪の毛がないというマイノリティーの人たちのために髪の毛を集め、ウィッグを作る。運営側はそんな風に思っていないですが、「普通に買ったら50万円ほどする人毛ウィッグをタダでどうぞ、さあ被った方がいいですよ」という構図に結果的にはなっている。

圧倒的マジョリティーがマイノリティーに対して、ウィッグが必要だという無意識の押し付けになっているんじゃないのかと。

一生懸命髪の毛を伸ばして、「私はヘアドネーションをしました、いいことをした」は本質的な解決ではない

私たちは、彼らがウィッグが欲しいから買っていると思っていますが、そうでしょうか?ウィッグを買う、そのコストって一体何への対価なのか。

社会の大多数に髪の毛が生えているから、マジョリティー側の人たちに、マイノリティの人が自分を寄せていかなければならない。この社会は非常に歪んでいますよね。

ヘアドネーションすらできない人に対して、その行為自体が、無意識に彼らに「髪の毛があることは素晴らしい」というマウンティングのジャブを打ち続けている。


インタビューの後編。
laundrybox.jp

みんなこの活動を広めたいと言うんですが、広めた結果のことまで考えが至っていない。

企業はCSRの文脈で、私たちはこの活動に力を入れていますと周知するだけであったり、それによって拡がった当事者のニーズを誰が継続的に支援し続けるのかまで考えているのでしょうか。

実際、今は髪の毛が集まっても対応しきれずヘアドネーション団体が撤退しはじめています。その結果、私たちのところに送られてくる数が増えています。

世の中の差別がなくなれば必要なくなる活動で、ないに越したことがないはずなのに、この活動をずっと続けられるように僕らは算段をしないといけなくなっている

目的と手段が入れ替わってしまうのは本末転倒ですよね。

私たちが望んでいるのは、こんな活動が1日も早くなくなる社会です。発展的な解散が私たちの目標です。

今はやりがいも見出せていませんし、別にいいことしているだなんて最初から全く思っていません。正直続けていくことは、ただただしんどいです。

でも、もしジャーダックが必要ない社会がきたら、初めて僕らには存在価値があった、僕たちの行動が社会になにかしら寄与したと言えると思っています。

差別はなくならないと思っています。ただ、この違和感には気付いたほうがいいと思っているので僕は伝えています。

もちろん、善意のマウンティングは無意識ですので、このような話をされると不快になる方もいると思います。勉強すれば解決するということでもありません

だからこそ、自分自身は常にマウンティングをする危険があり、自分は正しいのか、誰かを傷つけていないのかを常に考える必要があるんじゃないでしょうか。そして、きっとそれが常識のようになっていくんだと思います。

(略)

われわれ自身にもその刷り込みがある。僕は50歳を超えていますが、未だにはっと気付くことは多いです。

私たちには、わからないことが多くある。それを知ろうとするかどうかだと思っています。 

ちょうど今年のアカデミー賞では、ウィル・スミスの平手打ち事件が話題になった。
元々は、クリス・ロックがウィル・スミスの妻の髪型に関する冗談を口にしたことから生じた騒動だったが、そのときは「脱毛症」という言葉にあまり馴染みがなかったというのも事実だ。
そして、色々な差別的表現がNGになってきている日本のお笑いの中でも、「ハゲ」「ヅラ」ネタは、まだテレビで見かけることも多いように思う。そして自分も、そこに大きな怒りを感じたりせず、一緒になって笑っていたフシもある。


エンタメ作品であれば、世間的に良いか悪いかのルールを決める(規制する)のではなく、観る側の評価の総体を受けて、作品が作られる、作り直されるのであろう。
一方で、自分がどう思うか、多数派がどう思うかにかかわらず、それを見聞きして確実に不快に感じさせたり、きまずい思いにさせる表現もあり、そうしたものに敏感になることが必要だ。
目の前の人を傷つけないのは当たり前として、たとえ周囲に当事者がいなくても(見えなくても)、「知ること」が大切。さらに、知ってもなお、差別をしてしまうことを自覚する。


よく、「いいこと」に対して「偽善」という批判があり、それに対して「しない善よりする偽善」というカウンターがあり、というような流れがあるが、そもそも、おおもとの「いいこと」とは何か、という立ち位置に何度も立ち返る必要がある。
インタビュー記事で「善意のマウンティング」とされているのは、「困っている人を助けてあげる」ことに目を向けても、そもそも「困る必要があることなのか」というところに目が向いていない場合に起きている。世の中には「困る必要がないことで困っている」というパターンも多いことを学んでいく必要がある。


ぶり返すようだが、一方で、ドナー側がこの活動で救われているという話も本の中には何度も出てきている。
膵臓腎臓の臓器移植を受けたレシピエントの方が、自らがヘアドネーションをする中で、ドネーションを通じた相互感謝の気持ちを表しているし、レシピエントの母親の立場からではあるが、こんな言葉もあった。

ヘアドネーションは、髪を贈る人も嬉しいし、その髪を受け取る人も嬉しい。贈る人も主役だし、受け取る人も主役。そんな世の中は、捨てたものじゃないと思います。

日常の活動に制限があったり、また、時間が取れない中でも気軽にできる社会貢献活動があれば、それは自己肯定感ややる気に繋がる。
それが生きる支えになることもある。
ヘアドネーションは「相互感謝」が成立しているという一面も確かにありつつ、「善意の押し付け」になってしまうことへの警戒感を団体代表者が持っているのは素晴らしいと思った。そして、同じ問題を個々人も考えていく必要があり、そのためにやはり「知ること」「勉強すること」から始めていかなくてはいけないと感じた。

なかなか難しいテーマだと改めて思う。