Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

サーリャは今も頑張れているのか~川和田恵真監督『マイスモールランド』


『マイスモールランド』は、同僚から最近見た映画として薦められて、その名を知った。
クルド人難民の映画と聞いて気にはなったが、「社会問題」をテーマにしたドキュメンタリー映画(と勘違いしていた)は、少し敷居が高い。『シン・ウルトラマン』など観たい話題作もあったので、後回しになっていた。
しかし、その後、毎週見ているお馬鹿番組『全力脱力タイムズ』(5/20)で、ゲスト出演した嵐莉奈が『マイスモールランド』を「自らの主演映画」として宣伝していて驚き、俄然、興味が湧いた。
あれ!こんなにザ・モデルな感じの人なのに、恋愛映画じゃなくて、クルド難民の女子高生を演じる?一体どういうことなのか?


その後は、アトロク「ムービーウォッチメン」のコーナーで取り上げられ(5/27)、さらには、同番組内での川和田監督のインタビュー(6/14)もあり、気になりながらも上映館数と上映時間が限られるので、土日は上手く時間を合わせられず先延ばしになっていた。
が、水曜の会社帰りにちょうど良い時間に上映していることを知り予約してみたら舞台挨拶回ということで、得した気分で6/22新宿ピカデリーに向かったのだった。

今回はアトロクで事前情報もかなり仕入れているし、どんな映画か大体わかっているつもりだったが、実際に見るとやはり新たな驚きがあった。

「青春映画」だった

自分は、ヒロインが可愛く見える映画が大好きで、ストーリーが破綻していたって問題ない。演技はむしろ下手くらいの方が推せると思ってしまう。*1
嵐莉奈さん主演だったらそんなタイプの映画もあり得る。
でも、「社会問題」を取り上げた映画であることを考えると絶対にそうはならないはず。どうやって…?
というのが、自分のひとつの注目点だった。


結論を言えば、嵐莉奈さんは可愛く撮れている。
しかし、演技の巧さとストーリーがそれに勝り、10倍印象に残るので、この映画を観て「嵐莉奈が可愛い映画だった」という感想を持つ人はごくごく少数だと思う。嵐莉奈ではなく「サーリャ」のことが気になる映画だ。

また、彼女が演技が巧いことが目立ち過ぎると、それもマイナスの印象となるが、相手役(聡太)の奥平大兼が、これまた相当に巧い。
2人で会話をするシーンはたくさんあるが、2人とも台詞のない演技がとても多い。しかも「笑う」とか「泣く」とかではない。相手のことをじっと見つめて相手を傷つけないように考えながら自分が何を言うか、どんな顔しようか悩む、そんな演技ばかり。


2人の関係性も面白い。サーリャは、同級生にも内緒にしていた祖国のことを聡太に初めて話すし、聡太も自分の夢を語る。かといって、ずっと昔からの幼馴染だったり「運命の人」だったりするわけではなくて、さよならを言ったあとずっと会わない可能性もある。お互いが「探り探り」の状況なのだ。
この映画の聡太がリアルなのは、常にサーリャのために動くのではなく、自分の夢に向かう行動が9割で、残りの一部がサーリャに向いている、というバランス。
だから、「しょうがないよ」というサーリャに「そんなことない!」と反論していた聡太は、状況をある程度理解してから2度目にその言葉を聞いたときは、何も言えなかった。


反対に、サーリャの「大阪について行く」という言葉も、聡太への思いというよりは、自らが、今の世界から逃げ出す「出口」を、少し離れた場所に求めたいという気持ちが言葉として出たものだろう。


色々なことができる、でも、色々なことができない、
それが『スモールランド』青春映画としての面だ。
でも、サーリャには普通の日本人なら当たり前の自由を享受できない…。

家族の映画だった

最近、アニメの『SPY×FAMILY』を一気見していたせいもあり、末っ子のロビンは(スパイファミリーに登場する)アーニャに重なって、とても可愛かった。
しかし、2作品の家族は、同じ家族でも大きく違う。
SPY×FAMILY』は偽物の家族だが、『マイスモールランド』の家族は役柄どころか実際にも本当の家族。だからというべきか、家族の嫌な面もたくさん見える。


サーリャが父親から「聡太に二度と会うな」と言われる場面や、同じクルドの中で結婚相手を勝手に決められていることがわかる場面は、束縛する父親の嫌な面が見える。
もうひとつ強烈なのは、妹アーリンが、サーリャに嫌味を言う場面。クルドの同胞の手助けで忙殺されているサーリャを見て「自業自得だよ」と。これだけ周りのために、勿論、家族のために一所懸命になっているのに、何でそんなことが…と思ってしまうが、原宿に行きたくても行けないアーリンも悩みを抱えていたのだろう。

こういう負の場面があるからこそ、最後の面会室の場面などは本当に印象に残る。
一連の家族映画としての流れを考えると、これに似た映画は『家族を想うとき』だろうか。*2

「社会問題」が前面に出ない映画だった

舞台挨拶は、川和田監督と西川美和監督の対談だったが、その中で西川監督が言った言葉が印象に残っている。

この映画には悪い人が出てこないのが特徴で、成功している。
悪を描くと、自然と観客は主人公と同じ側に立って安心してしまう。


また、川和田監督は、ドキュメンタリーではなくフィクションを選んだ理由を問われて、社会問題として扱うことで、自らの問題として捉えられなくなることを挙げていた。このあたりの意図と思いはパンフレットの川和田監督インタビューにも書かれていた。

取材で出会ったあるクルド人のかたに、「社会問題としてではなく、それぞれ生活や文化、物語をもった人間として、見てほしい」と言われたことは大きかったですね。遠くにある問題ではなく、物語の中に入って、自分のことのように理解しながら観てもらえるものを作りたいと思いました。

つまり、この映画は、「社会問題」を伝えるようには作られていない。
何が問題か、ということは示している。
しかし、西川監督の指摘する通り、「悪」は描かれない。
登場人物で言うと、難民申請が通らなかったことを伝える出入国在留管理局の職員が「悪」に近い人になり、サーリャの父が激怒する相手も彼だが、彼には何の権限もない。

「悪」は描かれないが、サーリャと聡太の「青春」が強調されればされるほど、サーリャの置かれた状況の理不尽が際立つ。

  • アルバイトもできない
  • 優秀な成績をとっていても進学先はかなり制限される
  • そもそも埼玉県から出る自由がない
  • 健康保険に入れない

ほとんど決まっていた推薦が断られ、高校教師が「先生も一緒に進学先を探すから頑張ろう!」と言ったときの、サーリャの「もう頑張ってます」という言葉が心に刺さる。
ここまで必死にやっているのに報われないという感覚は、『家族を想うとき』と似ているが、サーリャ達は、日本人と同様の生活をしているのに、日本(国)から拒否されているので、余計に辛い。
入管施設への長期収容を断念して、強制送還を受け入れる(それは死を意味するかもしれない)父親の決断も辛い。末っ子のロビンはそのことをしっかり理解できていない。


物語は、サーリャが顔を洗って前を向く場面で終わる。
気合を入れ直している場面に見えるが、「もう頑張ってる」のに…と、もっと辛くなってしまう。
立場の違う人の気持ちを想像し追体験する「他人の靴を履く」という言い方があり、「社会問題」を前面に出さず、主人公の苦境に焦点を当てた『マイスモールランド』もまさにそのタイプの映画と言える。日本の難民やクルドの問題に触れるたびに、サーリャは今も「頑張れている」だろうかと考えるだろう。

他の作品での描かれ方

「社会問題」をテーマにした他の作品は、問題をどう描いているか、過去のブログの文章を読んで少し考えてみた。


pocari.hatenablog.com
『むこう岸』は「生活保護」をテーマにしており、生活保護を受ける女子中学生と、同級生の男子がメインで描かれるので、『マイスモールランド』と似ている部分はある。
しかし、この作品の特徴は、生活保護と縁のない男子中学生(『マイスモールランド』の聡太にあたる)の目線で描かれ、彼が同級生女子の問題解決に向けて奔走すること。そして、生活保護という法制度が、困っている人を支援してくれるということだ。
『マイスモールランド』では、徹底的にサーリャの視線で描かれ、彼女はほとんど泣き言を言わない。聡太は彼女を助けようと奔走するわけではない。(そもそも、彼女の置かれた状況についてしっかり理解してあげられていない)
そして、生活保護制度とは異なり、難民に関する法制度は、彼らを助けてくれない。(とても理不尽だ)


pocari.hatenablog.com
『ふるさとって呼んでもいいですか: 6歳で「移民」になった私の物語』はイランから日本に来たナディさんの話。ナディさんの一家は「ビザのない外国人」として来日し、いつ強制送還されるかという不安とともに学校生活を過ごしていたと言い、置かれた状況はサーリャにとても良く似ている。
進学に関する悩みについても書かれており、ナディさんは無事に進学を果たすことができた。そういう意味では成功例にも見える。


しかし、サーリャがクルド人であることは、問題の解決をさらに難しくする。

日本の難民認定率はわずか0.4パーセント(2018年)で、他の先進国と比べても極端に低い。さらにクルド人については、難民認定された例は過去1件もない。日本政府がトルコとの友好関係を重視し、トルコ国籍のクルド人を難民と認めようとしないからだと言われている。
「国がないことが、私を一番悩ませる」クルド人の少女が求める自由 | ハフポスト 特集

上の文章の引用先の元記事や関連記事を読むと、本当に、今の日本は、外国人に優しくない国であると恥ずかしく思う。

www.huffingtonpost.jp
www.nhk.or.jp


「マイスモールランド」

パンフレットのインタビューで川和田恵真監督は、アイデンティティを重要なテーマに挙げている。

私も海外にルーツを持っていて、「自分は何人なのか。自分の国はどこなのか」という問いは、いつも心にありました。
日本で生まれ育ち日本語しか話せないのですが、見た目で判断されてしまうので、今もよく日常生活の中で「外人」とか「日本語上手ですね」と言われるんです。幼い頃からずっとそういう状況なので、すごく揺らいでいるというか…自分にとって、アイデンティティはとても大事なテーマですね。
そういう想いが、国を持たないクルドの人たちへの興味につながったのだと思います。
また、クルド人の家族の中でも、クルドの文化を大切にする親世代と、日本で育った子ども世代では、考え方にギャップもあります。
私は父がイギリス人なので、その点への共感は大きく、父と娘の関係は物語の骨格になりました。
本作はアイデンティティに悩んでいた10代の頃に自分が観たかった映画でもあるんです。

特に言及はなかったが、本作のタイトルは、国(ランド)を持たないクルド人を念頭に、日本で育ったクルド人にとっての「マイランド」としての日本があり、しかし、(埼玉から出られない人も含み)特定地域に集中して住んでいるクルド人同志で助け合うしかない「マイスモールランド」としているのではないかと思う。
つまり、実質的な「ふるさと」でありながら、日本の法制度で生活に著しい制限を受けた「ちっぽけな場所」という皮肉もこもっているのではないか。


サーリャは、本作一番の「胸糞」場面であるカラオケのシーンで「国へ帰れ」と言われるし、いわゆる入管施設の問題に対して同じように思う日本人も多くいるのだと思う。(多くの人が問題を感じていたら、容認されないのでは…)
しかし、他の日本人と同様に、長期間に渡って日本で暮らし、日本に生活の基盤がある外国人が、ちっぽけな「マイスモールランド」で暮らすことも許されず入管施設に収容され、長期収容か強制送還(≒自国での逮捕≒死)かを選べと迫るような現在の仕組みは、やはり間違っているように思う。


この問題については、上でも触れたナディさんの本の「あとがき」がとても良かったので改めて引用する。

何かを必要とする人が近くにいたとき、その人が「なに人であるか」と考えるよりも、「何が必要なのか」を考えるほうが、ずっとたいせつだと私は思います。
生まれや育ちにとらわれず、性別、年齢、見た目、国籍など、お互いの環境をいかに多角的に想像しあえるかが、とても重要なことだと思います。
困っている人がいれば、助けあえばいいのです。
来日したての私たちに、日本のご近所さんたちがしてくれたように。
(略)
法律や社会のありかたは、時間をかけてだんだんと人に寄り添うかたちに変化していくものです。
しかし、その変化の過程で取り残されてしまう人がいることを忘れてはいけないと強く思います。
これは、日本で育った日本人にも無関係ではありません。(略)
一度踏み外したらリカバリーのきかない社会が変われば、多くの人が生きやすくなると思います。
「多様性を認める」とは、そのような社会をめざすということではないでしょうか。
「日本人らしい日本人」や「外国人らしい外国人」だけの時代はもう終わろうとしています。
私たちは、見た目や国籍を超えて、同じ社会でともに生きています。

私のふるさとも、ここ日本です。

最近、名古屋入管施設の幹部不起訴処分(6/17)、大阪地裁の同性婚訴訟判決(6/20)と立て続けに、「多様性を認める」社会とは逆方向の司法の判断が出て、また日本が嫌いになっている。
そんな中で『マイスモールランド』が上映館数を増やしているというのは嬉しいニュースだ。映画を観た人は、国の姿勢の理不尽には気がつくだろうし、外国の人への向き合い方について少しずつ認識が変わると思う。
マザーテレサは「もしあなたが100人の人に食料を与えることができないのなら、ただの1人の人に与えなさい」と言ったという。入管施設の問題を含む、日本の外国人政策全体は途轍もなく大きな話だが、川和田監督の映画は、自分にとっては大きなものになった。自分も作品の紹介や日常の会話の中で、同志を増やしていければと思った。

*1:その最高峰は主演女優4名が皆可愛く、間宮祥太郎のカッコよさも光る『殺さない彼と殺さない彼と死なない彼女』です。

*2:ラストシーンを思い返して「ここで終わるのかよ」という絶望感が胸いっぱいに広がる。一方で『家族を想うとき』を観たときより『マイスモールランド』を観たときの絶望感が自分にとって少ないのは、やはりまだクルド難民の問題を他人事として見ていることが原因なんだろうと思う。