Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

みんな最悪なんだからみっともなく生きていい~ヨアキム・トリアー監督『わたしは最悪。』

水曜日の仕事終わりに時間が取れそうと思ったとき、ド派手なエンタメや主張のはっきりした作品「ではない」作品を観ようと思って選択した映画。


で、実際、観に行って良かった。
こういう風に、何だかわからないものを観に行って、何だかわからない感じで帰って来るのは久しぶりだ。
映画を観に行くときは多かれ少なかれ、「この俳優の演技を」とか「監督の過去作と比較して」とか「社会問題をどのように扱っているか」とか「巷で批判されてるけど…」とか、色んな文脈を準備して観に行くけど、今回、ノルウェー映画は初めて見るし、批評等を読んでいない。
あまりにこの状態が勿体なくて、パンフレットを読むのも感想を書いてからにしようと思って、まだ開いていない。

ユリヤの選択

数年間のユリヤの人生をなぞる物語の中で、一番観た人と話をしたくなるのは、あれだけ仲が良く、長く同棲している恋人のアクセル*1がいながらの、唐突な浮気、そして、別れという選択。
その理由について彼女は「自分が主人公のはずの人生で、いつも自分は脇役だった」という言い方をしていた。アクセルがグラフィック・ノベル作家として輝き過ぎていたから、そしてそれに憧れを抱いていたから、それにひきかえ自分は…と感じてしまったのかもしれない。
別れの喧嘩のときに、「自分はテキトーな人間で…」と言うユリヤにアクセルは「テキトーなところがいいんだ」と言ってくれるが、そのちょうど良い関係性の中で、ユリヤは何かを貯めてしまっていたのだろう。
でもやっぱり唐突だよな…と彼女に対して批判的にも思ってしまう。アイヴィンに会えたのは幸運であって、そんな風に上手く行くわけじゃない。男女を置き換えて考えると、(唐突な浮気は)割とありそうなことではあるけど、男でも、あの状態での行動は軽はずみだろう。


一方で、主人公が「30歳前後の」「女性」であることは、この映画の核になっている。
ユリヤは、母親もその親も、30歳は人生の転換期だったというプレッシャーがあった。
だけでなく、恋人の家族に会えば、皆が子どもの話をする。
子どもを産むか産まないかの話は、周囲の状況によっては「自分が主人公のはずの人生」の人生設計にも大きく関わってくる。
ユリヤは子どもを欲しくないわけでなく、子ども「も」欲しかった。でも仕事も恋人も転々としてきた飽きっぽい彼女は、子どもだけは、途中でやめられないので、その覚悟を持てなかったのだろう。(逆に、子どもを持たない、と決める覚悟も持てなかった)

ユリヤの「自分勝手」

彼女の考え方の根本部分は、映画の大きな見せ場である2つの特殊なシーンに現れている。
まずは、時間の止まったオスロの街を駆け下りてアイヴィンとデートする妄想シーン。ポスターにもなっている、ある意味一番楽しいシーンだ。
長崎や尾道のように高低差がある美しい大都市オスロは、この映画では、彼女が活躍する舞台として機能している。時間の止まった世界では、ユリヤは人からの束縛を受けなくていい。そこにあるのは街と恋人だけだ。
一方で、マジックマッシュルームで見るドラッギーな夢のシーンでは、彼女の周囲は束縛に満ちている。人から見られること、子どもを作ること、そして子どもを持つ「母親」としての体に変化すること。そこには、彼女にとって煩わしいものばかりが並ぶ。
こう書くと、とても自分勝手な人間にも見えるが、色々なプレッシャーに囲まれていて、そこから抜け出したいと思う気持ちは、男女問わず、年を重ねれば重ねるほど共感しやすいように思うし(演技の力もあると思うが)、とても魅力的に映った。

わたしは最悪。

このタイトルは、おそらく、彼女が一番落ち込んだときに呟く台詞なんだろう、と映画を観る前は思っていた。特に「選択」の映画であることから、「あそこで逆の道を選んでいれば…」と後悔するようなストーリーを想定していた。
実際、アクセルがいい人過ぎることから、浮気~別れの流れは、「あとで後悔するに違いない」と思いながら見ていた。
その後の彼女の妊娠をめぐる展開は皮肉に満ちている。病床のアクセルが、彼女の妊娠を真摯に祝ってくれ、ある程度は覚悟を決めたのに対し、アイヴィンはそれを受け入れられない。少し前の彼女と同様に、覚悟ができない。
結局、子どもは流産してしまい、アイヴィンと別れてしまう。にもかかわらず、エピローグでは、彼女は新たな仕事を手に入れ一人で充実した生活をしているように見える。


あれ?ユリヤは全く後悔していないじゃないか…と振り返り、タイトルの意味は「わたしは最悪。(てへっ)」という意味だと分かった。世間からどう言われても、自分の道を行く!という宣言のようにも思える、とても前向きな映画だった。

パンフレットを読んだ

パンフレットを読むと、自分の見方はそれほど外れていないと知った。安心。


タイトルについては大九明子監督の捉え方が自分のものとほぼ同じだった。
大九監督は自身の『勝手にふるえてろ』との比較もした上で、タイトルの意味についてこうまとめる。

これが私、世界最悪の人間ユリヤでございます、なんて。そもそも人間なんてみんな最低最悪、あなたも私もみんな最悪なんだから、みっともなくてもいいから自分自身が気持ちいいと思う生き方をしていくしかないんですから。


山崎まどかの批評はとても興味深く、本も読んでみたくなった。

ユリヤの悩みは贅沢なようだが、現在のノルウェーの女性たちが感じている重圧も背景に見える。ノルウェージェンダー先進国で、女性が働く環境も整っているが、自己実現とキャリアを築いて社会に貢献することがイコールに考えられていて、追い込まれる女性もいる。特に「仕事と家庭の両立」の悩みは大きく、板挟みになる女性は多い。キャリアからも結婚して子供を持つことからも自由でいたいユリヤがどんな環境にいるのかは、ジャーナリストのリン・スタルスベルグの著書である「私はいま自由なの?男女平等世界一の国ノルウェーが直面した現実」にくわしく書かれている。



パンフレットで一番感動したのは、インタビューからわかる監督・脚本・製作総指揮ヨアキム・トリアーの聡明さ。
例えば、以下のQAが特徴的だけれど、切れ味が鋭く、的を射ている。

Q:ユリヤはアクセルと別れて、アイヴィンとつき合います。アイヴィンを選んだ決め手を教えてください。
A:自由の感覚です。アイヴィンはユリヤとほぼ同い年で、カフェテリアで働いている。彼と一緒なら、彼女は自分の野心や、母親になることや、未来の妻としての自分を考えなくてもいい。アイヴィンはとても優しくて、穏やかで、アクセルほど押しが強くない。誰かと親密になるのが不安だということを暴露できるのもアイヴィンなんです。人生は短く、時間には限りがあり、時には物事が正しい順番で起こらないものです

トリアー監督は、作品の大きなテーマを「時間」と言うが、この回答にもそれが強く現れている。第五章のタイトルが「バッドタイミング」だったが、映画の中で、タイミングの悪さが強調される理由も分かった。人生は短いが故に「物事が正しい順番で起こらない」ことに多く遭遇するように感じる。ユリヤ側から見れば青春映画だけれど、そのほかの登場人物も併せてみると、まさにそういう映画でもあった。*2


まとめると、2022年の第94回アカデミー賞で、国際長編映画賞だけでなく、脚本賞にもノミネートされたというのは大納得の脚本の素晴らしい映画でした。特に書きませんでしたが、プロローグ+12章+エピローグの特徴的な構成も、特に章タイトルのアクセントが効果的で内容に入り込めました。

大九監督の言う「あなたも私もみんな最悪だからみっともなくていい」という言葉通りの、前向きになれる映画でした。
あと、音楽が良かった。新旧入り混じる感じでしょうか。サントラは未だみたいだけど出たら聴きたい。

*1:アクセルは、テニスのジョコビッチに似てるなあと思いながら見ていました。癌が進行していくにしたがって、どんどんHPが減っていく見た目が壮絶でした。減量しているのでしょうか…

*2:なお、アイヴィンの元恋人の我が道を突っ走る人生選択も、ユリヤと鏡映しになっている気がする。この辺も面白い。