Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

井上荒野は君に語りかける~井上荒野『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』

小説講座の人気講師がセクハラで告発された。なぜセクハラは起きたのか? 家族たちは事件をいかに受け止めるのか? 被害者の傷は癒えるのか? 被害者と加害者、その家族、受講者たち。当事者の生々しい感情と、ハラスメントが醸成される空気を重層的に活写する新たな代表作。


あらすじにある通り、被害者、加害者だけでなく「ハラスメント*1が醸成される空気を重層的に活写」したところがこの本の特徴。
被害者の気持ちが最も大切にされるべきではある。とすれば被害者の発言を中心に物語を組み立てるという考え方もある。
しかし、どれだけ勇気を振り絞って被害者側が告発しても、告発された側を被害者とみる人が出てしまう。小説の読者は、ある意味では週刊誌の記事を読むようにこの物語を「消費」してしまうかもしれない。
だからというべきか、先回りするように、告発に踏み切った咲歩を糾弾し、小説講座の講師である月島を擁護するような登場人物が多く登場する。


ポイント的にしか登場しないが、恋人と急に上手く行かなくなり、「女性の身勝手」を苦々しく思う大学生の三枝真人はセクハラ告発のニュースにつけられたコメントにこう思う。

みんなの言う通りだ。なんで7年も経ってから言い出すんだ。ホテルへ行けば何が起こるかわかっていたのに、なんで何度も呼び出しに応じたんだ。p95


男性だけじゃない。小説講座の受講生は女性を中心に、悪いのは月島ではないと(小説講座を続けてもらうための)署名運動を起こす。
彼女たちは告発に対してこう感じる。

「ようするに月島先生と付き合ってて、うまくいかなくなったとか、先生が奥さんと別れてくれないとか、そういう理由で逆恨みしてるんでしょう?」

講座中に、それをにおわす相談(実質は、助けてという声)があったことに対しても「ノロケ」と捉えてしまう。

「自慢でしょ?それ。誰かに聞いてほしかったんじゃない?自分が先生と付き合ってるって」


加害者にあたる小説講座の講師・月島は、小説を志す人それぞれにとっての書くべきテーマを見つけることが巧い。その人にとっての空白、欠落とどう向き合うかを指摘することで、作家の個性を引き出していく。
だから、小説家を目指す者にとっては精神的支柱として全幅の信頼を置かれる立場になる。
月島擁護の署名を集める加納笑子(70代女性)にとっても、たった一言のアドバイスで月島はメンターとなった。そんなことを言ってくれる人は今までだれ一人いなかったのだから。


それ以上の「確信犯」もいる。

自分たちと先生の関係はそんな陳腐な言葉があてはまるようなものではない(p218)

俳句結社で、俳句会の重鎮と、性的関係を持つ(しかも複数の相手が結社内にいることも知っている)池内遼子はそう言う。
しかし一方で、「これは一種の恋愛関係なのだ」と自分を偽ることで自らを傷つけてもいる。先生の望みにしたがって「新たな犠牲者」を出すことに加担したりもしており、冷静に考えればおかしいのだが、自らの行動が見えなくなっている。


小説内では、加害者にあたる月島光一の視点、内面描写が非常に多い。
しかも、月島光一には魅力的な部分がある。良い小説を世に送り出すことに対しては妥協しない。小説が本当に好きで、全精力をそれに傾ける。立場を利用して作家を食い物にする邪悪な人間という風には書かれない。
月島の「情熱」を読んでいると、特に男性的な感性では、彼の繰り出す「言い訳」に納得が出来てしまう部分がある。実際、身の周りにはこういうタイプの人もいる。


良い小説を出したい。
月島のその気持ちを、小説家も共有しているし、月島にはそれに向けた技術もある。
そこで上下関係が生じ、支配欲が生じる。月島にとってはその支配欲と性欲は不可分で、良い作品のためには、それも含めての「共同作業」が必要だと本気に思っている。
常に出世や成功のために行動選択をする人間は、相手の行動原理も同様だと考える。月島はある意味では「純粋」な人なので、2人の女性の告発を理解できないだけだが、告発を売名行為と考える人や、「売れるんだったら寝る」と簡単に言えてしまう人はこのタイプなのだろう。


そんな風に、被害者に味方しない人物が多数登場する中で、小荒間洋子という決定的に重要なキャラクターが前面に出てくる。
彼女は、小説講座出身で芥川賞を取った一番の出世頭で、月島と行った取材旅行で一度関係を持っている。咲歩の告発に困った月島光一は、小荒間との対談で、咲歩の誤解を解こうとし、事前の打ち合わせでこのように語る。

つまり、俺たちが一時的にそういう関係だったこと、君の口から話したほうがいいんじゃないかと思うんだよ。恋愛だったのか、そうでなかったのかわからないけど、とにかく俺たちはそうしたくてそうなった、そういうことを君の言葉でさ。大人の関係、小説的関係、そういう言葉を使ってもいいと思う。うん、大人の関係よりは小説的関係のほうがいいかな。p161*2


これに対して、一度は「わかりました、やってみます」と快諾した小荒間が「転向」し、釈明のために設けた対談は、一転して、実名での告発の場となる。
先に挙げた俳句結社の女性のように、「納得ずく」で共犯関係にいる人に対して、小荒間は、そのような「盲目」状態からの脱出について自らの経験を語るのだ。


小荒間の話は最後に引用するとして、今回最も強く感じたのは、加害者男性と被害者女性の認識の違いの根本にあるもの。
月島にとっては「その夜の出来事」は、あくまでも小説制作の「過程」であって、過ぎてしまえば忘れてしまえる程度の些細なことである。

告発した咲歩に対する「7年も前のことを」という反応は、彼にとってその事実が心を占めていた時間がいかに短時間だったのかを表し、彼女を7年間も苦しめていたことに思いが至らないことを示す。外野から見て同じ反応をする人も同様だ。


「一夜の思い出」VS「7年間にわたって自身を苦しめるもの」。
この「認識のずれ」を、様々なタイプの読者に理解してもらうために、多様な登場人物を配置するだけでなく、井上荒野は読者に語りかける。


咲歩の夫である俊。彼が4歳で亡くなった弟の27回忌に出るシーンがある。このように小説の中で、繰り返し「身近な人の死」が取り上げられるのは、「性被害」の苦しみを、そう理解してほしいからだろう。そのことばかりを始終考えるわけではないけれど決して頭から離れることはない。そういうものとして。
小荒間洋子がレイプ被害のことと合わせて心に蓋をしていた死別した夫との子の「堕胎」の事実も同様だ。
人の死と同等に扱われるほどの大きな問題であることを改めて知る。


ラストシーン、小荒間洋子が丁寧に説得していくようにして言葉を綴る。
「セクハラ」などではなく、それは略奪で、暴力だ。
色々な立場の人の心(性暴力に対する解釈)を動かすような力が、この小説にはあり、井上荒野の熱意をそこに感じた。

そのほかの被害者1

なお、告発をした2人は直接の被害者だが、他にも被害者がいる。
柏原あゆみは、直接の被害に遭う前に小説講座を辞めた。
小説家を志し、作家と担当編集者というかたちで、同種の状態になった妻の月島夕子。彼女の場合は、妊娠を機に月島と結婚し小説家の夢を諦める。しかし、夫の不倫を見て見ぬふりをし、娘からも愛想をつかされてしまう。
娘の遥も、当然心の傷を負う。


そして何より咲歩の夫・俊。妻がレイプされていたことを知った彼の喪失感に男は共感しやすい。月島が、娘の遥から「私がそういうことをされたらどう思うか」と問われるシーンも、男性読者に向けた言葉だろう。

そのほかの被害者2

小説で扱われているのは性暴力の話だけではない。
月島の27年前のエピソードの中には、(著名作家の別荘の新築祝いの)パーティーの場で、性体験の告白を強いられて、辞めてしまった編集者の話が出てくる。月島からは「幼稚な女」、ベテラン女性編集からは「いい迷惑」「せっかく盛り上げたのに、あの子のせいで白けちゃった(p270)」と言われたい放題だが、そうなのか。
もしかしたら咲歩や小荒間洋子のような当事者だったかもしれない。


月島の娘・遥は、恋人の経営するバーで、客からのセクハラ発言を日々受け続け、そこから抜け出すことを選択する。(p249)時に自らも加わってしまう「風景みたいな」会話だが、そんな風にして自分を偽り続けることで、何かが削られていく。


話したくない言葉を強いられるのは、言葉の暴力なのだ。
性的な話題ではなく、「何か面白いこと話せ」も同じだろう。
言葉ではない暴力も、その延長上にあると理解した。

小荒間洋子の言葉

私はね、あれは恋愛だったと思い込もうとしていたの。小説を教えるということは、その相手とある種の恋愛をしなきゃならないということだ。私と寝たあと、月島は講義でそう言ったのよ。(略)
そのあとも私はしばらく彼の小説講座に通った。このときの心理は、咲歩さんが複数回ホテルに行ったときと似てると思う。小説講座に行くのをやめたら、あれが恋愛ではなかったことになってしまう、と思ったのよ。もっとはっきり言えば、私はレイプされたことになってしまう、と。レイプに間違いなかったのに。p285

彼がしたことは、私の皮を剥ぐことでした。私は最近、そう考えるようになりました。彼が自分の行為について、それに似た言葉で正当化していたということもあります。私に小説を書かせるために、私がもっといい小説を書くために、俺はお前とセックスしたんだと彼は言った。私は彼に生皮を剥がされた。でもそれは、私自身が私の中を覗き込み、自分の皮を剥いでいくこととは違います。全然違うんです。
もし私が彼を愛していたなら、彼と寝たいと思っていたなら、あの行為は彼が言うような意味を持ち得たかもしれません。でも、私は彼を愛していなかったし、彼と寝たいとは思っていなかった。彼が何のためにそうしたかとは無関係に、彼がしたことは略奪です。暴力です。彼は私の皮を剥いだ。無理矢理に。その皮はいまだ再生されていません。皮を剥がされた体と心は未だに血を流しています。ヒリヒリと痛いです。どうにかしようとして、上から何か被っても、その下でずっと血が流れているんです。今もそうです。
いつかはあたらしい皮膚で覆われるときが来るだろうと信じたいです。でもそれはいつなのか。そんなときが本当に来るのか。彼から生皮を剥がされた痛みに、私は一生耐えていかなければならないのかもしれません。p291

次に読む本

井上荒野の本は、『あちらにいる鬼』に続いて2冊目だったが、圧倒的に読みやすかった。*3
直木賞作品『切羽へ』を次に読んでみたい。

*1:セクハラという言葉は、問題を矮小化するだけで、レイプという言葉を使うべきという話も出てくる。セクハラという言葉は軽い。

*2:この部分は、月島の発言の中では最も醜悪な部分。結局、保身かよ、という。

*3:何か忙しかったため、感想を書いていないのは残念