Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「しかたがない」と犠牲を強いてきたのは誰か~平井美帆『ソ連兵へ差し出された娘たち』

戦争の話というと、1945年8月15日を機に終わり、その後は混乱期のどん底から立ち上がっていく。そのイメージが強かった。*1
しかし、ラジオでフィリピンや中国の残留孤児について扱った映画『日本人の忘れもの』について聞き、8月15日を日本国外で迎えた人たちのことは気になっていた。


一方、満州国については、終戦まで日本が支配していた地域という程度の知識で、本当に知らないことばかりだった。例えば、冒頭で、作者は次のように書くが、ソ連兵の「蛮行」についても全く知らなかった。

日本で教育を受けた人ならば、学生のころに一度は、満州でのソ連兵の「蛮行」は耳にしたことがあると思う。戦勝国側のソ連兵が、一方的に日本人女性を襲ったという性暴力である。しかし、現実にはより複雑な、集団内の支配関係による強いられた犠牲があったのだ。こうした点は、日本の男たちが語ってきた満州体験からは見えづらい「闇」であった。p17


以下では、まず、1章から4章の内容について歴史的事実を追うようにして簡単に整理する。

  • 農地開拓を目的とした満州開拓移民は、村から一定の戸数を集めて一つの団として創出し、満州にもうひとつの村を作るという「分村移民」という方法を採った。これにより海外移住へのハードルが下がり、女性と子どもの移住が容易となる。村での集団の人間関係がそのまま移転されることになり、農村特有の美風とされた「隣保共助」も移住地に受け継がれた。黒川開拓団は、岐阜県加茂郡の基本的に黒川村の村民により組織され、現在も吉林省にある陶頼昭(とうらいしょう)を入植地とした。
  • しかし、実際には「開拓」とは名ばかりで、現地の農民(「満人」と呼ばれた)を追い出す形での移転であり、追い出された多くの者は、食べる手段も見つからないまま流浪の民とならざるを得なかった。一部は開拓団にクーリーとして雇われる者もいた。
  • 1945年8月8日に、ヤルタ秘密協定を基に、ソ連は日本に宣戦布告を行い、満州国への侵攻を開始する。この際に虐殺に近いことが行われ、8月14日にはソ連軍の戦車隊によって日本人千人以上が犠牲となる「葛根廟事件」*2が起きた。
  • 同時に、あちこちで暴徒化した現地民による略奪が発生する。黒川開拓団の隣の来民(くたみ)開拓団では、暴徒による略奪に対して必死で防戦したがそれもかなわず集団自決の道を選んだ。
  • 黒川開拓団も9月下旬に暴徒の大群に囲まれる。残りの物資を奪われると零下30度の冬を越すことはできない。団幹部は治安維持にあたるソ連軍に援護を求め、その後、襲撃は収束に向かう。しかし代わりに下っ端のソ連兵が物取りに、そして強姦にやって来るようになる。
  • そこに「接待」が発生する。団幹部は、ロシア将校に兵隊が来ないように頼み、女性たちが将校の「接待」をすることで守ってもらうことになったのだ。「接待」役は、未婚であり、数え年で18歳以上であることを条件に、15、6名が担うことになった。接待役に回らなかった若い女性は「風呂焚き」係や「洗浄」係となった。
  • 1946年3月から4月にかけてソ連軍はようやく中国東北地域から撤退を開始し、中国共産党八路軍と国民政府軍との内戦が表面化する。陶頼昭は最前線となり、八路軍は現地に残る日本人を労働力にあてがうようになる。
  • このタイミングで団を離れ、先に引揚げ船に乗り帰国できた者もいる。それ以外の黒川開拓団の人たち、は集団引揚げのため、陶頼昭を離れ、新京(満州国の国都)に向かう。途中、鉄橋が爆破された川を渡るのに現地人に船を出してもらうにあたって、「通行料」として、またもや女性たちの提供が交換条件に使われた。
  • 集団引揚げにも入らず、八路軍に留め置かれ、長く労働力として用いられた女性もいた。日本人の引揚げ事業は1946-1948年で一旦中断。中華人民共和国が1949年10月に成立したあと日中の民間組織のあいだで結ばれた「北京協定」により中断していた集団引揚げが1953年3月から再開した。作中の主要人物では、善子、久子が1946年8月に帰国、開拓団の集団引揚げは1946年9月。最年少だった玲子は1953年に帰国している。勿論、満州にいた日本人全体を見れば、戻れず「中国残留婦人」となった人もたくさんいる。


ここまで(第1章から第4章)で200頁。みんな日本に戻ってきたのにここから100頁もあるのかと思っていたが、このあとが重い。

第5章 負の烙印

  • 彼らは生きて帰ったことを歓迎されない。敗戦後の食糧難では周囲の態度はそっけなく、親戚からも嫌がられる。むしろ、1940年代後半、引揚者やシベリア抑留から帰還した元兵士は差別され、「引揚者」「シベリア帰り」などの言葉は差別的な意味で用いられた。さらに、未婚の若い女性たちの苦悶はまだこの先にあった。

この辺りから、この本の本題に入って来る。5章は、弟妹を引き連れて開拓団より先に日本に戻った善子の話が最初にある。

一年ほどして「私は人間じゃなくなった」と情けない思いをして日本に帰ってきたんですけど、帰ってみれば、「引揚者」「満州でけがれた女」と誰も問題にしてくれないし、村そのものでもね、「満州から帰ってきた女はあれだから、汚い」。それこそ、私たちは皆、お嫁にいくところもない、それで一生お嫁にいけなくて死んでしまった人もいるんですね(p203、善子の言葉)

セツによると、慰霊祭が終わって少人数になったとき、団幹部だった三郎は善子に、「減るもんじゃないし」と言葉を投げかけたという。(略)
久子は相手の名前こそ出さなかったが、戦後落ち着いてから、善子は団にいた男と二人になったとき、こう言われたと話していたそうだ---、「ロスケにやらせたくらいなら、俺にもやらせてくれよ」(p210)

日本に残っていた村民だけでなく、辛い日々を共にしたはずの仲間たちがそのようなことを言う。ましてや、「団幹部だった三郎」というのは、彼女たちの「呼出し係」で、「接待」に行く彼女たちを一番近くで見ていた人物なのだ。


さらには、開拓団より先に善子と一緒に戻った弟・虎次(満州にいたときは中学生)の発言が追い打ちをかける。
虎次の初恋の相手は、同じ黒川開拓団にいた鈴子という女性で、帰国後しばらく経ってから仲良くなった。手をつないだこともなかったが、3年ほど付き合ったある時、同級生だった男から「鈴子は、松花江を渡るときに強姦された」という事実を知らされ、衝撃を受ける。そして、その一件で鈴子との未来は一瞬にして消えた、という思いを、よりにもよって善子に話していたというのだ。
作者の平井さんから叱責されてたじたじとなる虎次の様子が情けない。

私は虎次に向き直り、目を見て言った。
「お姉さんはソ連兵の接待に生かされたり、中国人兵に犯されたり、鈴子さんと同じ目に何度も遭ってきたわけじゃないですか。そういうことをお姉さん本人に言ったら、お姉さんがどういう気持ちになるかわからなかったんですか。お姉さんは傷つくじゃないですか。だって、お姉さんだって、被害に遭った人なわけですよ」(略)
「鈴子さんはそういう性暴力の被害者なわけじゃないですか。彼女自身が、何かやった側ではないですよね。虎次さんは何が傷ついたんですか?なぜ、鈴子さんのことを松花江での出来事を知ったからといって、嫌いになったんですか」

ここからは、黒川開拓団を率いていた男たち(団幹部の人間)に焦点が当たる。

引き揚げてから黒川開拓団の遺族会を立ち上げたのは藤井三郎と藤井軍平。初代遺族会会長には藤井三郎が就き、30年あまりにわたって、会長を務めた。
しかし、1980年頃、慰霊祭後の酒席で、三郎が善子を貶める言動をした。
「おまえはロモーズ(ソ連兵)が好きやったで」
善子は激怒して抗議するも三郎は謝らず、そのような言動がきっかけなのか、三郎は遺族会長を辞めることとなった。

短期間の二代目を経て三代目となったのは藤井恒で、敗戦当時は12歳だった。
藤井恒が会長だった時期に、いくつかの刊行物が遺族会から世に出る。

  • 元団員の満州体験を集めた『あゝ陶頼昭』(1981年3月)
  • 戦後初めての慰霊の訪中の感想集『陶頼昭を訪ねて』(1981年10月)

これらは内輪向けの記録でもあり、団への批判は影を潜めており、「接待」について直接は誰も触れていないが、団幹部ではない男たち数名が「犠牲」という言葉を使って(知っている人が読めばわかる程度に)言及している。しかし、団幹部の記述には一切ない。

軍平の記述からは、あくまで開拓団結成を推し進めたのは村長で、自分は被害者だったと伝わってくる。しかし、村長の右腕として活動していた彼は、むしろ支配体制側にいたのではないか。それなのに、満州移民として、自分たちが国策の「盾」に使われたことは強調しつつ、自分たちが団の娘を「盾」に使ったことには一切触れていない。そのことが逆に不自然に感じられた。
軍平による一つひとつの記述ではなく、文章全体から発せられる空気に私は寒々とした。この淡々として無機質な空気感において、「接待」が行われたことが透けて見えてきたのだ。p238

それでは当事者たちはどうだったか。遺族会文集は、三代目遺族会長の藤井恒が原稿を集め、掲載するものを選び編集もした。善子が自ら「接待」について記した寄稿について「こんなものは載せられない」と恒から何度も掲載を断られたという。結局「接待」の事実は長らく表に出ることがなかったのだ。

第6章 集団の人柱

第六章は、最年少で「接待」に行かされた玲子の話になり、「差別」構造には、さらにその奥があることを知る。
玲子はもともと黒川の人間ではないこともあり、遺族会とは距離を置き、善子とさえも帰国してから一度も会っていない。この理由について、平井は以下のように想定している。

  • 玲子にしてみれば、本部にいた善子は「接待」を強いた側に近いと思った
  • 同級生の久子は、善子の訴えで接待役から外された
  • 玲子には「接待」の前後、風呂に入れてもらった記憶がなく、団からの待遇に差があった
  • 慰霊祭に一度顔を出したが、誰からも「ご苦労様」の一言もなかった

そしてもう一つ決定的な出来事があった。玲子には「接待」とは関係のないところで、団幹部から満人に売られたという被害体験があるのだ。

玲子は差別されたとよく口にするが、差別とは「接待」そのものではないのだという。「接待」に行かされる回数などに差はあったものの、黒川村の娘も同様のことをさせられた。だが、満人が名指しで玲子を連れ出そうとしたのは、自分がよそ者だったからと玲子は考えていた。p273

平井の取材がきっかけで、2016年に一度だけ玲子が遺族会接触する機会があった。
三郎の息子である現遺族会長の藤井宏之、そして三郎の妹の娘である菊美(難民生活当時は10歳くらいで「接待」には出されていない)とだ。
その際に、玲子は、満人への斡旋の一件について怒りを爆発させるが、菊美は団幹部の側に立ってそれに応える。これについて平井は次のように書く。

玲子の指す「差別」は、団幹部の家族が語ることのできる満州の姿に現れている気がした。子どもが差別したわけではない。私が居たたまれない気持ちになるのは、団幹部の家族や親戚の女性たちがとても親切で、「いい人」だからである。誰かをいじめる気持ちや「接待」を隠す気持ちなどさらさらない。
ただ、集団内で親に力のある子は知らず知らずのうちに守られ、隅に追いやられていた者たちの見えない傷に無自覚でいられた。そして、そうした無自覚さは、引揚げ後も続いているように思えた。p274

これ以降、これらを踏まえての、作者の平井自身の思いが、怒りがどんどん前面に出てくる。

人身御供の選定にあたっては徹底して、いまだ他の男(主人)の”所有下”にないからといって、未婚女性だけを差し出した。これもまた、団の指導者の決定だった。ソ連兵からすれば、言葉も通じない若い女が既婚か未婚かはわからないのだから、この点については団指導者たちの意思決定に他ならない。p280

この流れで、平井は『あゝ陶頼昭』から元団員の回顧録を抜粋する。そこでは、「共同と相互扶助の精神」があったから生きのびたという書き方がされているが、「生贄にされた者」のことは見過ごされてしまっている。さらには、回顧録ではソ連兵引揚げの際に、別れを惜しむほど敵味方を超えて「男たちの連帯感」が生まれていたことについても取り上げている。特にコメントがないが、犠牲となった女性たちのことが頭にあれば、到底書けない文章だと言っているのだ。

個人的には、この部分は読んでいて非常に怖かった。というのは、こういった順序で読まなければ(「接待」の事実を知っていても)何の問題も感じずに流してしまう可能性が高いからだ。そこに色々な差別に共通する問題(気づかずに差別をする側に回っている可能性が大いにあること)を感じる。

しかし、平井の怒りの根本もここにある。生贄を捧げるのは「しかたがない」のか。もしくは「しかたがない」と当事者の前で言えるのか。
黒川で複数で話をしていたとき、「接待」について語るときの平井の口調に憤慨を見た遺族会の女性が牽制するかのように「非常時だから」と言ったことに平井は衝撃を受ける。

「非常時だから」と言った女性は戦後生まれで、満州へ行っていない。三郎の親戚にあたり、自分の娘もいる人だ。彼女は深い意味なく口にしたのだろう。しかし、その言葉は私の時を止め、頭にこびりついてしまった。非常時だからしかたがないのであれば、非常時ならばまた同じようなことが起こるということだ。しかも、この一言を発したのは、人身御供にされた側ではなかった。
彼女の発した言葉に、私は肯定を見てしまったのだ。
そのわずかながらの受け容れ、あるいは「しかたがない」は彼女だけでなく、多くの者の心の内に眠っているのかもしれない。
しかし、その許容には、根拠なく設定されている前提条件がある。
自分が犠牲にされない限り、である。p286

間違いなく自分も「自分が犠牲にされない限り」という条件付きで、「しかたがない」「やむを得ない」という判断をしてしまうだろうし、「非常時だから」という言葉で当時の判断を擁護してしまう気がする。

この章後半は、慰安婦の話題について触れていることもあり一連の流れを読んで何度も思い浮かんだのは、橋下徹慰安婦発言だ。

近現代史を勉強して慰安婦ということを聞くと、とんでもない悪いことをしていたと思うかもしれないが、当時の歴史をちょっと調べれば日本軍だけでなくいろんな軍で慰安婦制度を活用していた。銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、どこかで休息させようとしたら、慰安婦制度が必要になることは誰だってわかる。
慰安婦問題などを巡る橋下氏の主な発言: 日本経済新聞

橋下徹の言い方は「しかたがない」を超えて「当然だ」という域に達し、完全に開き直ってむしろ力強さがある。

論が立つことを売りにする人は「人権」をわざと軽視するような発言をすることがあり、先日のひろゆきの発言*3も思い出される。

自分はここまで酷いことは思っていないぞ、という比較のために橋下徹の事例を出したが、「しかたがない」という結論は共通するので、「同じ穴の狢」なのだろうか。今後、「しかたない」「やむを得ない」という言葉を使うとき、それが「自分を集団の外においた上で、弱いものから生贄に捧げていく構図」になっていないか、気をつけなくてはと思った。

終章 現代と女性の声

終章は、テーマを少し広げて「女性差別」という視点から、書籍化にあたっての男性的視点からのダメ出し等も明らかにしている。例えば「証言者の本意とは離れている」という指摘も多く見られたため、女性差別という話に広げても大丈夫かということを玲子にも改めて話を聞いている。

国の歴史施設や歴史資料を見ても、男性に比べ、女性の満州体験は取り上げられにくい。また、黒川村でも、善子が文章を遺したいと手を挙げても遺族会長に拒否されてしまった
結果として、こういった問題が温存してしまうのは、女性への性暴力や差別がかかわる事象への集団的無意識、「見て見ぬふり」があったからだという指摘ななるほどその通りと感じた。すなわち、ソ連兵へ差し出し犠牲を強いたのは「団幹部」だけでなく、「見て見ぬふり」に加担した男たちが含まれるということだ。

このような無意識は、差別を生む問題についての知識がないことによって生まれやすくなるだろう。したがって、多くのことを学び深めていくことによって、無意識は避けることができるはずだ。
引き続き勉強は続けつつ、どこまで行っても「知ったふり」をしないで謙虚に前に進んでいければと思った。

*1:ただし、8/15以降もどんどん状況が悪くなる作品を一冊だけ読んだことがあった→シベリア抑留について描かれた漫画『凍える手』

*2:2021年にドキュメンタリー映画も公開されている

*3:香川照之が起こした性暴力事件について「キャバクラなど風俗は、性的被害や嫌な思いをする事で高い給料が貰える仕事です。セクハラが嫌なら風俗で働くべきではないです。『他の仕事が出来ないので選択肢が無い』という人は生活保護をどうぞ。『キャバクラで働いても性的な被害を受けない』というのは嘘です。」