Yondaful Days!

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「音のない世界」とか言われても困る~好井裕明『「感動ポルノ」と向き合う』


今回読んだ好井裕明さんのブックレットは、タイトルに書かれている『「感動ポルノ」と向き合う』という主旨が独特で、そこに自分はとても共感しました。
例えば『24時間テレビ』のような番組や映画などの作品を「感動ポルノ」と断罪するのは簡単ですが、それだけで終わっていいのでしょうか?
単純にレッテルを貼って終わりにせず、そこからもう少し考えてみようというのがこの本の基本スタンスです。


以下では、前半で、今後、映画やドラマ鑑賞をする際の「手引き」として使えるよう、ブックレットの内容を整理します。
後半は、この手引きも参考にしながら、最近見た、ろう者が登場する映画、ドラマとして『コーダ あいのうた』『silent』『LOVE LIFE』『ケイコ』で感じた自分の感動を検証します。

1章「感動ポルノ」から考える

この本の1章では、まず最初に、「感動ポルノ」を「感動をかきたてるためだけに過剰に障害者を利用し、その姿がさらされた作品」と定義した上で、『24時間テレビ』を見ない人たちもテレビで毎日のように流されている「感動ポルノ」的な映像がある、と指摘します。


それは、「コマーシャルの中で身体を披露しのびのびと活躍するパラアスリートの映像」です。


CMだけでなく実際にスポーツをする姿やドキュメンタリー映像に映し出されるパラアスリートの姿は、感動を与えてくれます。また、障害者を扱った良質なドキュメンタリー番組も考えた場合、何を「感動ポルノ」とすべきかが揺らいできます。

「感動ポルノ」とは何かを考えるとき、私たちは、そこで得られる感動の中身や正体、そこで提示されている障害者表象やイメージが持つ問題性を丁寧に見抜いていく必要があります。
「感動ポルノ」とされる映像作品と向き合うなかにこそ、「感動ポルノ」を超え、私たちに柔軟で豊かな障害者理解を促すさまざまなきっかけが満ちているのではないでしょうか。

このあとの章では、具体的な作品を挙げながらいくつかの分析が入ります。

2章 障害者はどのように描かれてきたか

  • 1960年代以前~驚きやからかい、嘲笑の対象として:『フリークス』(1932年)
  • 1960年代以降~同情、憐れみの対象として:原一男監督『さようならCP』(1972年)
  • 1980年代以降~感動・賞賛の対象として
    • (1)障害を克服しスポーツに頑張る明朗快活な姿
    • (2)障害者アート:佐藤真監督『まひるのほし』(1998年)
    • (3)無垢で心優しい障害者:『たったひとつのたからもの』(2004年/テレビ)

特に(1)についての注意点として2つを挙げています。
中途障害でパラスポーツに転身したアスリートは、障害を負った自分を受容してから、新たな自分に生まれ変わり挑戦するという過程を通ります。「障害の受容」について思い起こすことなく、「障害を克服する姿」だけを見て感動する・感動させるというのは、心の動きとして粗雑ではないかという点が一つ。
そしてもう一つは能力主義的価値観にとらわれていないか、という点です。(能力主義については後述)
また(1)(2)(3)を通して作品の良い点悪い点を考えながら、「感動ポルノ」から離れたところで得られる感動について「確実に言えること」が以下のように書かれています。

それは、私たちの常識的な障害者理解に揺らぎや亀裂を入れないような表象やイメージからは、本物の感動、つまり心が根底から揺さぶられる体験は生まれないということです。どのように障害者表象やイメージを用いようとも、それらが障害をめぐる「思い込み」「決めつけ」という常識の一片あるいは数片だけを取り出して、それを用いれば理解できてしまうような、そんな浅薄な描き方では、決して私たちの障害者理解を奥深く豊かにすることのない粗末で粗雑な文化創造だということです。

ここでは多様な障害者表象やイメージを創造する挑戦が見える好例として、『DOOR TO DOOR-僕は脳性まひのトップセールスマン」(2009年)という二宮和也主演のテレビドラマが紹介されています。
一方で、ニュースやワイドショーでの10~20分程度の特集では、「多様な障害者表象への挑戦」ができるはずもなく、決まりきった表象やイメージに乗っかって「効率的な感動」を産むドキュメンタリーが作られてしまう。そして視聴者はそこに慣らされてしまう、という指摘もされています。

3章 感動してしまうことで落ちてしまう穴

3章では、「感動ポルノ」、つまり障害を克服し頑張る姿や無垢で慈愛に満ち優れた姿という障害者イメージに素朴に感動してしまうとき、知らずに落ちてしまう「3つの穴」について説明されています。

  • (1)障害を無効化し、無意味化しようとする穴
    • 「障害の克服」にのみ焦点があてるドラマは、以下の事実が抜け落ちてしまう。すなわち、当事者は障害を否定し消し去りたいものとして理解しているのではなく、自分の身体、自分の存在の一部として障害を肯定し承認し受容しているという事実。
    • 私たち(健常者中心社会にとって支配的な見方)の「障害を無効化することで当事者は障害を克服していくのだ」という思い込みは、当事者にとって確実に生きづらさを強いる権力行使となる。
    • 多様な障害者の人生をある思い込みから勝手に価値づけ順序づけるとすれば、当事者にとって大きなお世話である。
  • (2)障害を個人化しようとする穴
    • 「一人で努力する姿、障害を克服する姿」に感動する中で「個人が障害を負えば、それと対峙し克服するのも当の個人だ」という考え方が生き続けてしまう
    • ノーマライゼーションは、個人としての人間を正常にすることではなく、社会を正常化すること。生活全般にわたって障害者が感じ体験する生きづらさの原因は、社会や私たちが生きている生活世界のありようこそが問題なのであって、障害者個人の障がいが原因ではない。そういった「障害の社会性」の見方が抜け落ち、障害を個人化する方向に考えてしまう。
  • (3)障害者を過剰に評価し遠ざけ、結果として距離をとろうとする穴
    • 障害者が障害を克服することで、人間的に深く人格的にも高い存在となるのだと思い込めば、実際の多様な障害者の姿との差は大きくなり、障害者理解の妨げとなる。
    • (相手を自分よりも下に向けて貶める「差別」ではなく)自分よりも高みに上げて、自分の世界から遠ざける営みも、相手から確実に距離をとり、自分と交信し交流できる機会を遮断してしまう。


これら3つを総括して以下のようにまとめています。

いわばこうした安易で安直な感動が、実際に自分たちと同じように生きることができるはずの障害者をいかに生きづらくさせ、彼らに微細かつ執拗な権力を日常的に行使してしまっているのかを考え直す必要があるのです。p44

4章 パラスポーツの「パラ」が持つ意味を考える

  • かつての「障害者スポーツ」は2021年3月以降「パラスポーツ」という名称に統一された。「パラ」は「もう一つ」という意味。
  • パラスポーツは健常者スポーツの亜流ではなく、「もう一つのオリジナル」に変化していることが世の中に広まり、「あたりまえ」に息づいている障害者イメージが確実に変容しつつある。

というように、東京五輪を契機としたパラスポーツの盛り上がりを肯定的に捉えつつ、以下の危惧を表しています。

私は障害者差別の本質は能力主義だと考えています。そう考えていけば、「できない」とされる人々が「できる」姿を見て、驚き、その存在を再認識し評価し直すとすれば、やはりその考え方や感じ方には「できることこそ素晴らしい」という能力主義的な見方が依然として息づいていると言えるのではないでしょうか。私は、そこに危うさを感じるのです。p52

5章 これからの障害者表象とは-「感動ポルノ」を超えていくために

5章では、これからの障害者表象に必要なものを「人間」として障害者を理解する志向、および「他者」として障害者と向き合う志向とし、具体的な作品を取り上げながら、4つの方向性を示しています。

  • (1)向こう側にある世界で生きる「もう一人の他者」を見つめる
    • 想田和弘監督『精神』(2008年)
    • 映画に出演する精神病患者が、作品を見ている私がいま生きている世界と同じところにいる「もう一人の他者」なのだという実感を与えてくれる作品として。
  • (2)同じ苦悩や喜びを持つ「人間」として描く
    • 『指先でつむぐ愛』(2006年/ドラマ)
    • 盲ろうの東大教授である福島智さんと彼の妻を描く作品。障害が原因で生じたのではない2人の葛藤を見て、「人間」として人を愛することの深さや柔軟さに率直に感動できた作品として。
  • (3)人間としての欲望や努力を確認する
    • 山田和也監督『障害者イズム』(2003年)
    • 自立を実現しようというする障害者の取り組みを描くドキュメンタリー。障害を媒介として、他者を巻き込んでいく自立をいかにして実現できるのだろうか。そんな人間としての欲望が息づいた作品として。
  • (4)障害ある他者を隣人として見つめる
    • 寺田靖範監督『もっこす元気な愛』(2005年)
    • 脳性まひのため両腕と言語に障害のある男性主人公が自動車免許を取ろうと奮闘する物語が中心のドキュメンタリー。啓発のためにする説明が一切なく、隣にでも住んでいそうな若者として描かれる作品として。

なお、これら4つの方向性を示した上で、以下のように悪例も示されています。

  • 「わかりやすさ」に乗っかった(人生の多様性や奥深さと出会う機会を希薄にする)残念な作品の例:『超速パラヒーロー ガンディーン』(2021年NHK

6章 「差別を考える文化」の創造へ

  • 私たちは誰でも「差別する可能性」がある
  • 差別とは、私たちが他者を理解しよう、他者と繋がろうとする過程で、なかば必然的に生じてしまう現象で、「摩擦熱」のようなもの。「摩擦熱」を減少させるためには、私たち自身が「差別する可能性」を認め、それとともにどのように生きていけるのかを前向きに考えることが必須。
  • 「感動ポルノ」が象徴する障害者へのまなざしは、「差別する可能性」を持つ私たちがほぼ無意識でしてしまっている日常的差別の一つ。「感動ポルノ」的まなざしを生み出しているものは何かを丁寧に読み解き、作品が持つ問題性を解体することで、新たな障害者表象を志向する営みが「差別を考える文化」。

6章は、「差別を考える文化」の一事例として『最強のふたり』(2011年)の読み解きがされていますが、未見かつすぐに見たいので読み飛ばしました。ラストシーンの詳しい解説があったので、映画を観てから読み直そうと思います。


全体として、このブックレットは実際の映画やドラマ作品について触れているところが多く、今後の作品鑑賞のヒントとなる部分がたくさんあり、このタイミングで読むことが出来て良かったです。
好井さんの本は、新書がたくさん出ているので、こちらも読んでみようと思います。


今年見た「ろう者」が登場する映画、ドラマでの「感動」の検証

今年は、耳の聞こえない「ろう者」が登場するドラマ、映画をたくさん見ました。
好井さんの本をきっかけにして、それらの作品を自分がどのように受け取り、そこに感動ポルノの側面はあったのかを検証していきたいと思います。


『コーダ あいのうた』で描かれる主人公の両親(ろう者)は、Codaである主人公のルビー(聴者)から見て、半ば自分勝手な厄介な存在として、上述した「(4)障害ある他者を隣人として見つめる」という方法で描かれていると感じました。特に印象的だったのは、父親が、言わなくてもいい下ネタを爆発させるシーンですが、兄(ろう者)が要所で主人公を助けようとする場面なども含め、5章で書かれた4つの方向性のいずれにも当てはまる話でした。
自分が特に感動したのはクライマックスです。
クライマックスの盛り上がりは非常にわかりやすく、音楽の道を夢見る主人公が歌を歌うシーンが3度用意されていますが、耳の聞こえない両親に歌をどのように伝えるかがそれぞれ異なります。(なお、歌はとても上手いので感動は2倍です)

  • 1回目(コンサート)は、途中で音が聴こえなくなる演出で、両親側の感じ方に寄り添った表現となる
  • 2回目(自宅)は、「俺のために歌ってほしい」とお願いした父親がルビーの喉に手を当てることで歌を「聞く」
  • 3回目(音楽大学入学試験)は、ルビーは、客席に座った両親に向かって手話で歌詞を伝えながら歌を歌う

3段階で「伝える」を見せる方法がクレバーだと思いましたが、荻上チキsessionでの松岡和美先生の解説によれば、ろう文化から見た音楽や歌の受け取りの観点では、作品自体に対して賛否両論があるようです。「歌」が聴者の文化であることを考えると、クライマックスの見せ方は「聴者向けの感動」と指摘される部分が少なからずあるのだろうと思いました。


『silent』は、最初の方の回で春尾先生(風間俊介)の「あなたたち聴者は…」という怒り発言があることからも分かるように、明確に脱「感動ポルノ」を志向した作品だと思いました。
好井さんの本の内容に照らし合わせれば、通常は焦点があたりやすい「障害の克服」よりも「障害の受容」の方に重きを置いたドラマだったということが出来るのかと思います。当初は恋愛がメインでしたが、終わってみれば、想の気持ちの推移(中途失聴での障害の受容)を中心に据えた物語でした。
自分が一番好きな回は、第6話(タイトル「音のない世界は悲しい世界じゃない」)でした。孤独になっていた想に奈々(夏帆)が手を差し伸べ、「音がなくなることは悲しいかもしれないけど、音のない世界は悲しい世界じゃない」という前半は、想に救いの光が見えたというそれだけで涙でした。
その後、月日が経ち、想が昔の恋人(紬)とよりを戻しそうと知ると、奈々は想に当たり始めます。取り乱す奈々の気持ちを考えると辛くなりましたが、ここで挟まる奈々の空想(耳の聞こえる想と奈々でのデートシーン)のあと、ラストシーンで実際に(聞こえない)携帯電話を耳に当てる奈々を見て自分はまた涙してしまいました。
しかし、中途失聴者の想であればまだしも、生まれつき耳の聞こえない奈々がここまで「聞こえる」ことに憧れを持つ描写はリアリティに欠けるとの指摘を散見しました。『ラ・ラ・ランド』が好きな自分としては、どうしてもグッと来てしまうシーンでしたが、「ろう者は聞こえたいと思っているはず」という「聴者」の偏見に乗っかって「盛った」シーンという見方も出来ます。正直に言ってドラマ全話の中で最も感動したシーンですが、直後に批判的に考え直すことができたのは良かったです。
今回、ろう当事者のキャスティングもあり、手話の指導や演出も含め、多数の当事者が製作に携わっていたはずですが、それでも賛否両論が出てくるのは、ひとつの障害者像に当てはめた「感動」演出自体が問題だということなのでしょう。
一方、春尾先生が手話サークルを作って奈々に怒られるシーンとか、奈々が想に紹介しようと、ろうの友達を連れて来て、想が怒って帰ろうとするシーン等、微妙な心の動きで場の空気が変わる場面がいくつかありました。このあたりは当事者の方の「あるある」の体験なのだと思いますが、説明が少ない分、強いリアリティがあり、「あれ?今どうして?」と、観ている側がそれぞれの気持ちを考えさせられる良い場面だと思いました。(これも細かくは実際とのズレがないか検証が必要ですが)


『LOVE LIFE』と『ケイコ 目を澄ませて』では、メインキャラクターに耳の聞こえない人がいますが、どちらも「耳が聴こえないこと」が物語の直接の主題にはなっていないという意味で、自分にとって「特殊」でした。
このような作品では、いわゆる「障害に由来する感動」という「感動ポルノ」の要素が無くなります。ただし、両作品は大きく方向性が違って、『LOVE LIFE』は、登場人物に多数の困難が生じ、心を動かされるシーンが多いのですが、耳が聴こえないことはその困難の1要素という位置づけです。『ケイコ』は、全編にわたって波風があまり立たない作品で、主人公の女性ボクサーは、厳しい練習をしつつも淡々と日々を過ごすので、耳が聴こえないことは、あまり「困難」には繋がらず、彼女の、いわゆる「個性」の一つとなっています。


しかし、『ケイコ』での目覚ましに扇風機を使うシーンや、『LOVE LIFE』での、(手話は基本的に向き合って行うが)横に肩を寄せるように座りながら鏡越しに手話で話すシーンなど何気ない場面は、これまで考えたことのなかった発見を伴うものです。
「障害者」が登場するドラマの目的が、「理解」であるとするなら、日常的な描写のリアリティを追求するのが重要で、装飾された「感動」はむしろ邪魔なのかもしれないと感じました。


以下の記事では、『silent』にも企画段階で携わり、『ケイコ』の手話監修も務めた社団法人・東京都聴覚障害者連盟の越智大輔さんが『ケイコ』の製作陣の熱意を特に評価しています。映画を見ていても気が付かなかったところにも触れている記事でとても勉強になりました。

toyokeizai.net


最後に

以前に引き続き同じ部分を引用しますが、今回、ドラマ『silent』をきっかけに色々と勉強する中で、一番驚いたのは、荻上チキsession特集での松岡和美さん(手話研究と言語発達をご専門とする慶應義塾大学経済学部教授)の発言です。

日本手話の世界っていうのは、音のある世界じゃなくて、聞こえないことが普通で当たり前で「聞こえませんがそれが何か?」という…結構明るい、目で見る文化が自分たちにはあり、そして日本語と全く違う手話言語があり、そこに演劇があり、ポエムがあり、冗談も言えて、ろうの役者さんが手話を使った演劇をされるいうのもあり、コメディアンの人もいますね。結構みんな楽しくやっているわけで「『音のない世界』とか言われても(返事に困る)」ということらしいです。私も今はあたかもよく分かっているみたいに話していますけど、そういうことが段々わかってきた頃には聴者として非常に驚いたというか。そうなんですか?!って。例えば「音のない世界」という表現に違和感があると「ろう者」の人は言っていて、「『音のない世界』って言われたらあたかも(音が)ないとダメみたいじゃないか」と言われて、驚いたことがあります。「音があるべき世界の中で(音が)ない」という考え方のコミュニティと、「ないのが当たり前、それがどうした」みたいなコミュニティがちゃんとあって、そこ(後者)には目で見る言語があり、目で見る文化があり、ろうの赤ちゃんが生まれたら、また1人(仲間が)増えたと心から喜ぶ人たちの世界が、同じ国の中にあることへの新鮮な驚きはやっぱりありましたね。
基礎から学ぶ「手話」 ~「ろう」であるということは人類の進化のバラエティの1つ | トピックス | TBSラジオ FM90.5 + AM954~何かが始まる音がする~

『コーダ あいのうた』でも、ルビー(娘)が母親に「私がろう者だったらよかったと思う?」と聞く場面が出て来て、母親は「生まれてくるときに、ろうの子でありますように、と祈った」と答えます。
漫画『僕らには僕らの言葉がある』でも、主人公の真白(ろう者)の母親(ろう者)が子どもを生み、生まれつき耳が聴こえないと知らされたとき「ほっとした」という話が出てきます。
もちろん、これらの映画、漫画のエピソードは、「生まれた子が聴者だったら(自分との)コミュニケーションが大変だから」という否定的な意味での理解も可能ですが、「仲間が増えて嬉しいから」と肯定的に捉える見方がある、ということを松岡和美さんの話で初めて知りました。
「音のない世界とか言われても困る」という受け取り方をする人もいるのだ、ということを知ると、『silent』の6話「音のない世界は悲しい世界じゃない」に感じた感動は、「音のある世界が満ち足りた世界」という自分の思い込みが前提での感動だったのかもしれないと気づかされました。
感動するのは自由ですが、ドラマでの奈々の涙を見て「音が聞こえない人は(すべて)可哀想」と思ってしまったとすれば、それはドラマの悪影響と言えるでしょう。
ブックレット3章に、陥りやすい「穴」として書かれていた「多様な障害者の人生をある思い込みから勝手に価値づけ順序づけるとすれば、当事者にとって大きなお世話である」にまさに当てはまります。


ということで、このあたりも前回の繰り返しになりますが、より多様な生き方、考え方を学ぶ意味で、改めて、ろう文化や日本手話について勉強してみたいと思いました。
『silent』は、(中途失聴者の)想が話の中心だったから仕方がない部分はありますが、映画(あるに違いない)では、もう少し、松岡和美さんの紹介するような、ろう文化の世界にポジティブに触れる場面や「多様なろう者」について積極的にとりあげた作品が志向されることを期待します。その意味では、想と紬の話よりも春尾先生と奈々の話をもう少し中心においてほしいというのが自分の希望です。想だけではない「音のない世界」の捉え方を知りたいです。

「感動ポルノ」を考える映画リスト

ブックレットには、巻末に映画リストがありました。見ていない作品がほとんどだったので、こちらにも手を伸ばしたいです。
聴覚に関連する作品としてはアニメ『映画 聲の形』(これだけ見ている…)とドキュメンタリー『もうろうを生きる』がありました。
なお、ジョゼは2020年公開のアニメ版もありますが、そちらはかなり批判的に取り上げられていました。

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