Yondaful Days!

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2023不満初め~原恵一監督『かがみの孤城』

最初、『かがみの孤城』をアニメ映画でやるというのを知ったとき、「本屋大賞を取っているし、辻村深月作品はよく映画化されるね」と思った程度で関心は薄かった。絵柄を見ても、全く惹かれない。
ところが、アトロクでアニメ評論家の藤津亮太さんが激賞しており、そのタイミングで原恵一監督作品であることを知った。


自分にとって原恵一監督は、クレヨンしんちゃん映画の名作を作った監督ではない。何といっても2019年に見た映画で圧倒的に不満が大きかった『バースデー・ワンダーランド』の監督だ。今回、むしろそのリベンジを果たす意味でも観に行くべきだろうという気になった。
映画.comの星を見ても、公開から2週間以上経っているのに「5点中4.1」で高い評価を維持している。藤津亮太さんの見立ては正しかったようで、お墨付きを得た気持ちになる。
しかも、あらすじを見ると、いじめや不登校を題材としているらしい。


そもそも、原作が本屋大賞を取っていて、中3娘も小学校時代に原作を読んでいるくらいの大ベストセラー。流行る絵柄でもないのに評判が高いのは、いじめや不登校に対する取り扱い*1が原作以上に巧いからなのだろう。

そう期待して、原作既読の中3娘を誘って映画を観に行った。
(以下、最初からネタバレ全開です)

良かったところ

ストーリーの流れ(伏線の張り方~その回収)は良いと思う。
最終盤に怒涛の種明かしがあり、そこに圧倒され、カタルシスを感じる作品になっている。
明かされる「謎」のうち、最も驚いたのは、城の中の「×」印が、童話「オオカミと七ひきの子ヤギ」だったことが分かった場面だ。
言葉でなく絵で分からせる見せ方が巧いし、前半で「オオカミさま」が、しつこく7人を「赤ずきんちゃん」と呼ぶなどのミスディレクションが上手く効いていた。


一番の大ネタは、7人の生きる時代がずれているという点だったが、個人的には、7人の通う中学校が同じであることが示されるシーンで、既にその可能性を疑っていた。日本で最も有名なアニメ映画作品の一つで時間のずれがポイントになるものがあるので、原作小説よりもアニメの方が気がつきやすいと言える。
ただし、アキと喜多島先生が同一人物であることまでは気がつかず、終盤の怒涛の種明かしは爽快感があり、楽しかった。(後述するがアキのシーンを除く)


ところが、こういったストーリーの面白さが担保されているのは、原作小説が本屋大賞を取っていることで既に分かっていることだ。この点をもって「この映画が面白かった」とは言い難い。原作は未読だが、中3娘の何となくの記憶では、おおむね原作通りのストーリーということなので、あまりアレンジはないのだろうと思う。
映画として、このストーリーをどう味付けするかがポイントのはずだが、その部分で大いに不満が残ってしまった。
以下に、この映画に感じた問題点を大きく3点書き出してみる。

  1. 現実世界の問題が何も解決しない
  2. 仮想世界で過ごした(そして記憶に残らない)1年間という時間が長過ぎる
  3. 「こころを救ったのは誰か」がハッキリしない

それぞれについて説明を加える。

現実世界の問題が何も解決しない

最初に書いた通り、この映画は、主人公こころの不登校の問題をどう解決するのか、という視点で見ていた。
だから、最初に不登校の問題が示され、そこで「かがみの孤城」に招かれる場面までで既に不安がマックスになる。
序盤からこころの不登校の原因がいじめにあることが示唆されるが、いじめは、いじめられる側が頑張って解決するものではないからだ。


城に入って、似た境遇の仲間が増えても状況は変わらない。将棋中継で画面上部に表示される「AIによる評価値」で言うと、序盤での敗戦確率は95%という感じだ。
これがいつ反転するのか。それを楽しみにしよう…。


それを願って見続けたところ、マサムネが「学校で集まろう」と呼びかける場面で、そうか、「まず通学し、そこで連帯することによる(現実世界での)状況改善」というのはもしかしたらあり得るのかもしれない、と思ってみると、そういう展開にはならない。


最終的には、こころの問題解決は、かがみの孤城での仲間がいることによる安心感に加え、向かいに住んでいる転校生の東条萌の言葉から、いじめっ子や学校生活に対する「俯瞰的な視点」を得ること(+学校側に働きかけ、いじめっ子と別クラスにしてもらう)で図られる。
それで、トラウマ的なトラブルがあった同じ学校に通えるのか疑問ではあるが、中学生くらいだったら物の味方を変えるだけで一気に状況が好転するということはあるのかもしれない。


同様にいじめの問題があったマサムネやウレシノは学校を変えるという選択を取っている。
総じて作中では、(フィクションであればあり得そうな)いじめた側といじめられた側の「対話による関係改善」はあり得ない、というスタンスを取る。
さらに言えば、担任教師は問題解決に機能しない(いじめた側の味方をする)という考え方で、学校側に多くを期待し過ぎないという点で現実的ではある。


しかし、いじめっ子は、いじめられた側に負わせた傷に気がつかないまま、被害者を増やしており、学校には問題が温存されたままだ。少なくとも大団円のラストとは言えないだろう。


そして最も大きな問題は、アキについては、家庭内の問題(性的虐待)が絡むことが示唆されることだ。かがみの孤城で過ごした日々が、アキの問題解決にプラスになっているだろうか。*2
しかも、他の6人には存在した現実世界でのメンターである「喜多島先生」が、彼女にはいない(同一人物だから)。


6人が彼女を救ったのは良いことには違いないが、そのことでアキは再び最悪な現実世界に戻ってしまう。観客側としては、将来のアキ=喜多島先生が示される(将来が約束されている)ことが救いになっているが、それは、かがみの孤城での経験とはリンクしない部分で、アキが頑張った(もしくは他の誰かの助けを得た)からだ。

仮想世界で過ごした(そして記憶に残らない)1年間という時間が長過ぎる

これも原作が元々持っている問題のはずだが、かかっている時間が長すぎるのは気になる。
一定期間を異世界で過ごし、成長して現実世界に戻るのは、ドラえもん(やクレヨンしんちゃん)映画の定番で意図としては分かる。
しかし、その期間がほぼ1年間であることにはどうしても違和感があるし、それが記憶に残らないと聞くとかなりの抵抗感がある。


(1)まず、現実世界での「問題」解決が遠ざかるのではないかと感じる。
実際問題として中学校にほぼ1年間通えていないことによる学業の遅れは取り戻すのが難しく、実際にアキは中学3年生を留年することになる。
心理的な抵抗も数か月なら少ないだろう。また、マサムネやウレシノのように転校するのであれば(1年間の不登校のあとでも)心機一転して復学できるかもしれない。
しかし、同じ学校に復帰するこころにとって、同級生と過ごさなかった1年間は途轍もなく大きくないだろうか。そのために(記憶を維持している)リオン君が配置されているのかもしれないが。


(2)一方、確かに、本作の「仕掛け」は、確かに作中人物たちが気がつくのが遅れれば遅れるほど、読者に与えるインパクトが大きくなる。
しかし、「彼らが同じ学校に通っていること」、また「過ごす年代がずれていること」に気がつかない期間として考えると1年間はどうしても長すぎる。普通に考えて、知らない同年代が、共通の話題を探り探り話していけば、1日かからずに気がつくポイントだろう。
(また、親たちが子ども達の日中の不在に1年間気がつかないのもどうかしていると思う)


(3)さらには、ここで過ごした期間の意味が大きいと考えるのであれば、その記憶をなくしてしまうことの影響も果てしなく大きい。1日の大半を「かがみの孤城」で過ごすのであれば、失われた時間は膨大だ。精神的な成長は、その経験を記憶していることとによって担保されているように思う。記憶していないのであれば、自らの成長を実感しにくい。


この3つの観点から考えて、「かがみの孤城」で過ごす時間は長くても数か月という設定がちょうど良かったように思う。(一般的な不登校という問題に対する自分の認識が甘い(そんなに短期間で解決する問題ではない)という可能性はある)

「こころを救ったのは誰か」がハッキリしない

ストーリーを飲み込みにくくしているもう一つの要素として、こころを誰が救ったのかハッキリとしないという点を指摘したい。
以下に示す通り、作中で、こころを支えた人物は何人かいるが、ここが整理されていないのではないかと考える。

  • 喜多島先生(リアル世界の一つの逃げ場所)
  • 6人の仲間(同じ悩みを抱えた仲間の存在による安心感)
  • 母親(学校への働きかけを支援)
  • 東条萌(現実世界での生き方を言葉として教えてくれた先達)
  • オオカミさま(???)


普通に考えたら、学校からの「逃げ場所」としてのフリースクールが大きな役目を果たし、喜多島先生が彼女の心の支えになっていたことが強調されるべきだろう。そうでないと、最後の「喜多島先生の正体は…」という仕掛けが上手く機能しない。
それなのに、劇中では、こころが喜多島先生に心を開いて接するような描写が少なく、フリースクールが担う役割を「かがみの孤城」が担ってしまっている。劇中から感じる喜多島先生の立ち位置は、こころにとって単なる「正体不明者」だ。


一方、7人での生活は、無人島生活のように、お互いがいないと生きられないのではなく、途中までは不登校のことも話さないほど、うわべだけの付き合いだ。
後半は、鍵を探す、マサムネやアキを救う等、様々な目的で協力する場面があるが、個々の「問題」の解決にはつながっているように見えない。少なくとも、こころに限って言えば、6人の仲間との活動において、東条萌の言葉以上に 直接的に大きな力になっているものは得られていないように思う 。


ところが、こころに勇気を与えたように見える東条萌も、再登校時の再会の場面に見られるよう、クール過ぎて、こころのためを思って行動しているようには見えない。
こころに響いたと思われる「真田さん(いじめっ子)たちは、恋愛とか目の前のことばかりに目を取られて、将来のことを考えていない*3」「しょせん学校生活だけの話でありもっと大事なことがある」等の言葉(意訳)も、彼女の持論であって、こころを思った言葉ではない。


母親の見せ方もよくわからない。最初は、「学校に行くの?行かないの?…行かないのね(はあ、困らせないでよ)」という感じで、むしろ「子への理解がない親」のように描かれる。
いじめについて知ってからは、こころのために動き、学校に対しても攻撃的だが、冒頭の描写があるので、見ている側としても心の底からは信頼できない感じがある。


そもそも「かがみの孤城」は「オオカミさま」が作り出した世界と言えるが、不登校の子どもたちを救おうとして作ったものではなく、あくまで、弟のリオンを思って生まれた世界のようだ。
ここは原作からカットした部分である気がするが、この辺が整合しない(オオカミさまが7人を集めた理由が明確にならない)ので、むしろ「(7人のほぼ1年間を奪って)何がしたいんだよ、オオカミさまは?」という怒りが湧いてくる。
むしろ、喜多島先生が物語の軸となるなら、(オオカミさまではなく)アキが自らの救いが欲しくて呼び起こした世界とした方が全体的な整合が図られて飲み込みやすい話になっていた。(同じ立場の中学生に助けを求めて救ってもらう/その後、恩返しの意味で不登校の生徒を助ける職についた)

劇伴そのほか

3点挙げた以外にも不満がある。


今回は劇伴がうるさいと感じた。そう感じてしまったのは、直前に見た映画が、劇伴のない『ケイコ 目を澄ませて』、および、アニメ映画では、劇伴の使い方が神がかっており、無音も効果的に使用される『THE FIRST SLAM DUNK』だったことが大きいのだと思う。
特に、鍵を見つけて以降、クライマックスを盛り上げるために流れる音楽は、伏線回収の最後のヒントとして6人の状況が連続的に映像で示される場面ということもあり、感動を誘う音楽よりも「もっと考えさせてほしい」と思ってしまった。


また、こころと東条萌がハーゲンダッツを食べるシーンでアイスの蓋を外してひっくり返さず(アイスに接した面をそのまま)机に置く場面があるが、「あれはない」と思った。
パンフレットなどを見ても、城のつくり等、映像にもこだわった作品であることはわかるが、絵については『バースデー・ワンダーランド』に感じた派手さやドキドキは無かったし、むしろハーゲンダッツのくだりを含めて、丁寧さに欠けているように感じた。

まとめ

ということで、ストーリーは良いが、原作でそもそも抱えていた矛盾や弱点を、悪い形で顕在化し、大きくしてしまったのが今回のアニメ映画版なのではないか、という気がしてならない。
原作から切り取った部分もかなりあるようだし、そのことを確認するためにも原作を読んで答え合わせをしたいところだ。なお、辻村深月作品は次から次へと映画化されることもあり、興味のある作品も多いので、先回りしてチェックしていくようにしたい。

なお、クールな中3娘の感想は「普通」とのことでした。


*1:そもそも細田守監督『竜とそばかすの姫』が、虐待問題へのアプローチという観点で評価を落としていたこともあり、エンタメであっても社会問題の描き方が重視されるという点で映画ファンへの信頼は大きい

*2:あの胸糞悪い場面をわざわざ顔を塗りつぶしてまで映像にするのであれば、彼女については、作中でのファンタジー的な解決を用意してあげても良かったように思う。例えばかがみの世界に引き込んで「7人」の代わりにオオカミに食べさせるのでも良い。

*3:個人的には、恋愛のことに一生懸命になることが悪いこととは思わない。彼女の台詞もやや一面的で説得力がないように感じる