Yondaful Days!

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「可哀想」に流されたくない~山本おさむ『遥かなる甲子園』


前回読んだのは大学生くらいのときだと思う。
調布の図書館は漫画が充実していることもあり、借りて途中巻までは読んでいたが、何かのタイミングで最後まで読み終えることが出来なかった。
そういう意味では二十数年ぶりのリベンジだが、今回読み直そうと思ったのは、『僕らには僕らの言葉がある』を読んだから。この漫画(僕らには~)は、ろう学校には軟式野球部しかないことから、甲子園を目指す主人公(ろう者)が進学先の高校として普通学校を選択するところからスタートする。


この前提部分から思い出した『遥かなる甲子園』は、ろう学校を舞台にした野球漫画、ということだけ覚えていたので、軟式野球の話だったのかな?と思い込んでしまった。(タイトルに甲子園とついているのに…*1

読み直すとそれは全くの勘違いで、『遥かなる甲子園』はタイトル通り、ろう学校に所属しながら甲子園を目指す高校球児の話だった。
しかし、それだけではない。

『遥かなる甲子園』の背景となっている問題

『遥かなる甲子園』は、確かに、高野連へのろう学校の登録受け入れを目指して関係者(新聞記者、学校関係者、そして野球部員)が悪戦苦闘する話だが、舞台となった福里ろう学校(原作、つまり実際の学校名は沖縄県立北城ろう学校)自体、以下に示す通り、非常に特別な学校だった。

  • 福里ろう学校(北城ろう学校)は、1978年から83年まで6年間限定で存在する「期限付き」の学校だった。
  • 理由は、彼らが、アメリカで1964年の大流行の影響で沖縄で感染者を多数出した風疹の影響で生まれた風疹障害児だったから。
  • しかも、沖縄の日本返還は1972年で、今よりもさらに米軍の影響が大きかった。

そういう事情があるので、彼らの母親は「自分が風疹にかからなければ…」という自責の念を感じており、一方で「米軍基地のせいで…」と米軍を恨む気持ちも持っており、共通して、子どもの耳が聞こえないことを「障害」と感じている。


この本の冒頭は、主人公であるろう学校野球部のキャプテンの武明が、沖縄代表となった知人の試合を見に甲子園に行き「音が聞こえる」ことに感動した話から始まる。ここには、音が聞こえることが素晴らしく、音が聞こえないのは不幸なこと、という強い価値判断が入っているといえる。このあたりは、(例えば『コーダあいのうた』への批判に見られるような)「音のない世界が当たり前」なのに聴者の価値観を押し付けないでほしい、という、ろうコミュニティの主張と相反する部分だ。

しかし考えてみると、これは作者の価値判断というよりは、それぞれの高校生の母親の気持ち(耳の聞こえない子に産んでしまって申し訳ない…2巻など)が反映されているのだろうと思う。我が身に置き換えて考えたとき、彼ら野球部員の親たちの気持ちはとてもよくわかる。


なお、米軍基地の問題は、後述する乱闘騒ぎの話もあり、作中でも緊張感が途切れないが、米軍幹部の息子(つまりアメリカ人の少年)も風疹障害で耳が聞こえない事実が明らかになったことで、登場人物たちの気持ちは落ち着いたように見える。(深読みすれば、必要以上に米軍に悪意が行き過ぎないような配慮があるようにも読める。)しかし、実際には、親子ともども、米軍基地に対する思いには非常に複雑なものがあるだろうと思えて仕方がない。
このあたりは原作でどのように扱われているのかは知りたい。

美穂と光一

2巻のコラムや9巻の漫画にも書いてあるが、漫画の原作(戸部良也『遥かなる甲子園』)は小説ではなくノンフィクションで、聴者である監督、校長、両親の視点が中心になっている。これを漫画化するにあたって、耳の聞こえない野球部員に視点を移し、ろう者と聴者にまつわる様々なエピソードを他書籍から入れ込み脚色を加えたようなつくりとなっている。だからだと思うが、ろう学校の生徒達にも色々なタイプの人が登場する。

中でも特に印象に残るのが、ヒロイン的存在だが学校になじもうとしない知花美穂。手話を使おうとしない彼女の考え方(3巻)は、手話はろう者同志でしか通じない(聴者には通じない)ことを前提とし、手話に頼ってしまうことでむしろ、「手話が私たちをろう者だけの世界に閉じ込める」、だから「口話を使うべき」というものだ。
この考え方は、少し前の話(2巻)で校長が否定した「正常化論」にあたり、手話を禁じ、口話訓練中心の当時のろう学校教育に沿った内容と重なる。しかし、エピローグ(10巻)では、高校生のときの彼女自身の心配とは反対に、大学生になった彼女が立ち上げた手話サークルによって、ろう者と聴者が繋がっている状況が描かれる。
彼女の考え方の変化は、そのまま、ろう教育をめぐる状況の変化を表しているのかもしれないと感じた。


ろう学校の仲間で、もう一人印象に残るのは、野球部員である光一だ。
風疹による障害は聴覚だけでなく、心臓に出る人もいて、光一はそれが原因で選手としての道は諦め、サポートに回ることになる。障害が聴覚に限らないということは、言われてみれば確かにその通りで、作中でマネジャーをする女子生徒にも心臓の病気を抱えている子がいる。
前半最大の山場である熊本ろう学校との死闘(4巻、5巻)で、選手として最後に打席に立つシーンは本当に感動した。

その感動はどこから来るか

ここで改めて確認すると、『遥かなる甲子園』に書かれている内容、作品のメッセージは、今でも通じる内容ばかりだと思う。
しかし、この漫画を今読んでいると、その感動の背後に、居心地の悪さを感じてしまう部分がある。


例えば、聴者の登場人物の中では、圧倒的に出番の多く、野球部の指導をする伊波先生。彼の言葉にはいつも心を打たれるが次の場面で、その「居心地の悪さ」を感じた。


高野連から指定された「試験試合」の前日に、敵チームの南星高校は、俺たちのせいで福里の加盟がダメになったら…と考えて2軍を出そうと相談する。
それを偶然聞いた伊波先生は次のように説明し「エースを出してください」と頼む(7巻)。

障害者は健常者より劣っている
私達健常者は心のどこかでそう思っています。
(略)障害者は我々健常者とは違った特別の人…
障害を持った劣った人と思っています
口には出さなくても私達や私達の社会には
そういう考えがしみついています
我々が高野連に加盟できない本当の理由もそこにあると思います


野球憲章第16条も
だれかが悪意で作ったものではありません
それ以前に障害者は劣っているという考えが根本にあるのだと思います
その考えを前提にした同情や善意を障害者は決して喜ばないと思います
我々の野球部はその前提と戦おうとしています
それと戦うしかないと思っています

この部分は、日本聴力障害新聞の小田記者が

君たちは決して健聴者に許されて野球をやるんじゃない
権利なんだ
それは君たちの権利なんだ
野球はきっと君たちを
自由にしてくれる

と福里ろう学校の野球部員にエールを送る場面(9巻)とも呼応している。
「権利」について本を読み、考えることが増えた今だからこそ、ここで書かれている内容とその重要性は非常によくわかる。
その一方で、これを読んだ大学生時代は、その部分に気づかず、ただひたすら「感動」していた。
その感動は、まさに伊波先生が否定してみせた「障害者は可哀想という考え方を前提にした同情」から来ていたように思う。


というのも、『遥かなる甲子園』の物語としての強度が強いのは、伊波先生や小田記者のメッセージよりもむしろ、武明の母親たちが(風疹障害の子を生んだ自分を責めて)辛そうにしている描写の部分だと考えるからだ。
そちらばかりが印象に残り、やっぱり「障害は可哀想」「権利を認めてあげないと」という上から目線での感想・感動が上回ってしまっていたように思う。


そのほか、米軍基地から、ボール泥棒と罵られたことから乱闘騒ぎになり、高野連への加盟申請取り下げの話が出る場面(6巻)。何をやっても甲子園への道が遠くなる状況に、野球部員の正が「オレたちはやっぱり生まれてこない方がよかったんだ!!」と嘆くシーンも「可哀想」を刺激するつくりとなっている。ほかにもっと考えるべき、感じるべきことがあったはずだが、今回読み返しても、やはり同じように「可哀想」に圧倒され、流されるように感動していた。


一方、同じ(ろう者の子を持つ)母親の気持ちとして『僕らには僕らの言葉がある』では、主人公・真白が生まれつき耳が聞こえないことを母親が知って「ほっとした」という場面がある。この場面は、耳が聞こえないと「大変に違いない」「可哀想に違いない」と決めつける姿勢は誤りであることを教えてくれ、「可哀想」に流されることはなく、読み手としてはとても気持ちが楽になる。


しかし、題材の異なる『遥かなる甲子園』では同じ方法は採れない。
むしろ、子どもを可哀想と思う両親の複雑な思いも描いた上で、6年しかないろう学校がなぜ必要だったかを読者に考えさせる必要がある。


そう考えていくと、『遥かなる甲子園』に感じる居心地の悪さは、作品に由来する部分もあるが、それよりは読み手の問題であり、特にそれが、沖縄の基地問題や風疹による障害など、知識の乏しい話題であったことが、自分を不安にさせた部分に原因があると思う。
これを少しでも減らすためには、それらの問題について、確かな事実や知識を積み重ねていくことが重要だと感じた。


なお、期限付きの学校だった北城ろう学校は、高野連加盟を認められた。しかし、どうも後続の学校はないようで、そこが『僕らには僕らの言葉がある』の前提となっている「ろう学校は軟式野球」に繋がっているようだ。かなり時代は下るが2010年2月24日に野球憲章が全面改正され、ろう学校が甲子園を目指せない根拠となった規則自体がなくなっているにもかかわらず、状況は変わらないようで、その辺りの状況についても知りたい。
もちろん原作のノンフィクションをまず読むのが第一だろうが、障害とスポーツについては、『ケイコ 耳を澄ませて』が、まさにその題材だったので、そちらも確認したい。


「感動する漫画」ではなく「面白い漫画」として

最後に漫画としての面白さに触れておきたい。
結局、1年生で高野連に加盟した福里ろう学校(原作では北城ろう学校)は3年生まで公式試合では一勝もできず最後の夏を迎える。まさに最後の戦いとなる公式戦一勝をかけた夏の大会も良かったが、『遥かなる甲子園』は、スピード感のあるコマの使い方も得意で非常に読みやすく、野球漫画としても巧い。
社会派の題材を扱っているのに、文字は多くなく、読み始めると止まらないくらい面白い漫画だ。
なお、ここぞという場面で使われる、人物の描線が二重になる描き方は、大友克洋童夢AKIRAで使っていた描き方と似ている感じがする。ともに1954年生まれということで交流があったのかもしれない。
実は、山本おさむ作品は本作しか読んだことが無かったので、これを機会に他の漫画も読んでみたい。

*1:なお、調べてみると、やはり軟式の高校野球決勝は甲子園では行われない。明石トーカロ球場が聖地ということになるそうです。