Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

文庫解説に2度救われる~白井智之『お前の彼女は二階で茹で死に』×小野一光『冷酷 座間9人殺害事件』

2冊の文庫本を平行して読んだ。
端的に言うと、救いがなく、途方に暮れるような終わり方をする2冊だったが、どちらも解説に救われてやっと戻ってこられたという感じ。
しかも、読み終えてみれば、2冊をまとめて読むべきではない「混ぜるな危険」案件だったように思う。たまたまだったのだが、何故この2冊だったのか…。

白井智之『お前の彼女は二階で茹で死に』

天才女子高生(ミミズ人間)が謎を解き明かす!
著者史上最強!
衝撃のスラッシャー小説×本格ミステリ!!

「読まないと損するレベルで優れている」
乾くるみ(小説家)絶賛!!!

こんな小説、はじめて!?
特殊設定×多重解決ミステリ

自殺した妹・リチウム(ミミズ人間)の仇を討つために、
刑事になったヒコボシ。事件を追いながら、
リチウムを自殺に追い込んだ連中の尻尾を摑み、
破滅させてやろうとたくらむ。
事件の謎を解くのは、
天才的な推理力を持つ女子高生探偵・マホマホ。
しかし、彼女はヒコボシに監禁されていて……。
文庫化に際し大幅改稿、著者渾身の本格ミステリ大作!

もともとは本の雑誌社の毎年恒例の「オススメ文庫王国」で取り上げられていたのが読んだきっかけだ。
ときどきバカミスが読みたくなる。
そんな自分にとっては、タイトルとあらすじ、登場人物名だけで、「これは読みたかったやつ」と確信。

しかも「特殊設定ミステリ」はさほど読んでいない分野で物珍しく、読む前から「大当たり100%」と期待していた。


しかし、この本は、少なくともゲラゲラ笑って楽しめるタイプの小説ではなかった。


以降、ネタバレを気にせず内容に触れるが、話の筋よりも推理のロジックを売りにしている作品なので、ストーリー上のネタバレは、あまり作品の魅力を損ねないように思う。というより、精神衛生上の観点からは、自分はいくつかの点について事前にわかった上で読み進めたかったという部分もある。


(以下ネタバレ)



冒頭、これからレイプ行為に走ろうとする犯罪者視点の描写で、げんなり。

さらには、主人公ヒコボシが警察官にもかかわらずモラルに欠けるだけでなく、口汚い暴力体質の人間で、好きになれる魅力的な部分が全くないことがすぐにわかり、逃げ出したい気分に。

そんな自分に追い打ちをかけるのが複数の登場人物の途中退場。
この本は4作の連作短編+エピローグという流れだが、3編目の途中までは希望を持って読んでいた。
主人公がタッグを組む後輩警察官オリヒメ、主人公が監禁*1している女子高生探偵マホマホの2人が、ヒコボシの悪事を暴いてスッキリする流れになるのではないか、という淡い期待だ。

ところが、2編目の途中で、オリヒメは離脱。(理由はヒコボシによる毒殺)
さらに、最後の頼みの綱のマホマホも3編目の最後に離脱。(理由はヒコボシ…)
そしてヒコボシは裁かれない。

たしかにエピローグで、冒頭に登場し、4編すべてに関わるノエルという、冒頭に登場したレイプ魔は裁かれるのだが、全然スッキリしない。


その意味では、解説で乾くるみが、この作品のポイントと白井智之作品の楽しみ方をまとめてくれたおかげで、気持ち的には落ちついた。解説が無ければ、宙ぶらりんの気持ちのままでいただろう。

乾くるみは、本作を含む白井智之作品群を、酷いタイトルの作品ばかりだが「優れた本格ミステリ」と絶賛する。
この中で白井作品の特徴を4つ挙げているが、最初の2つは「特殊設定」と「多重解決」であり、『おまえの彼女は』はさらに、冒頭に「分岐」があり、その分岐それぞれに解決が用意されれている構造が取られていることが技術的に高度であるのだという。
さらに、乾くるみは、白井作品の特徴として「グロテスク性」と「ユーモア」を挙げ、本作で言えばヒコボシ、オリヒメ、オシボリくんなどの「ユーモア」に溢れた固有名詞は「グロテスク性」を中和する、としている。


ということで、理屈はわかったのだが、結論から言えば、中和できなかった。
自分は、ある程度「これはひどい!」タイプのミステリは好きだと思っていたが、少なくとも、この小説は、ユーモアがグロテスクを上回らないタイプの小説で、圧倒的に救いがなく、特殊設定も不快になるようなもの*2ばかり。一方、ミステリ好きの人は、論理的整合性やフェアかどうか、を重視するが、自分にとって、そこはあまり気にならない部分で、マイナスを打ち消すような加点ができなかった。
乾くるみの解説は「この小説をどのように読めばよいのか」を教えてくれ、白井智之への関心を繋ぎ止めてくれたが、一方で、いわゆるパズラー向けミステリを楽しむ素養は自分には無いことを再確認させてくれた。
ただ、ここで手を引くのも癪なので、もう少し読んでみたい。


小野一光『冷酷 座間9人殺害事件』

いつもなら割り切って楽しめるはずのミステリ小説を楽しんで読めなかったもう一つの大きな理由は、並行して、この『冷酷』を読んでいたから。
「こんなことあるわけない」ということを前提として楽しむタイプのグロテスクなフィクション(小説に限らず例えばホラー映画)は、「現実に起きうる」「現実にこういう考えの人がいる」ということを知ると、ただひたすら怖くなってしまう。
今回の『冷酷』で描かれる犯人の白石隆浩は、自分にとっては、フィクション級の「ありえない人」だったので、本当に怖さを感じたし、被害に遭った方々のことを思うと辛い。


もともと、「座間9人殺害事件」については、ニュースを通じて知っていたが、被害に遭ったのが皆、自殺志願者だったという報道から、犯人は、いわゆる凶悪殺人犯とか快楽殺人者みたいな括りに入らない人(例えば共感力の高すぎる人)なのかと勝手に思っていた。

が、全くそうではなかった。


ひとつずつ挙げるとキリがないのだが、以下、目次に抜粋された白石隆浩の発言から特に酷いものを抜粋する。*3

  • リスクはあるけどレイプしたいなと思って、レイプして殺しちゃいましたね
  • 臭いとか9人が9人とも、全部違うんですよ
  • 最後のほうになると、(遺体の解体を)2時間くらいでできるようになってました
  • 正直、殺してもバレなければ良いと思ってました
  • (甲さんは)私が鍋で骨を煮ているシーンを見ています
  • 殺害後の性交に抵抗は湧かなかった。気持ち良かったです
  • トイレは遺体がある状態でしています

全体に漂うのは殺害から遺体の処分まで一連の行為を「作業」と捉えている異常性。
家に呼んだ女性が外出している間に、別の女性を殺害・解体する神経も全くわからないが、遺体を鍋で処分している場面(言葉に書いていても怖いが)を別の女性に見られても気にしないというのは意味が分からない。

つまり、罪悪感や葛藤、躊躇、そういった人間らしさの根本にあるべきものが全くない。
彼の頭の中には、それらの代わりに「フローチャート」があるのだという。

「自分のなかにフローチャートがあって、出会ってまず、おカネがありそうかどうか判断するんですね。おカネになりそうだったら、付き合っておカネを引っ張って、おカネにならなさそうなフローチャートの人はレイプする。ほんと、殺人の理由はおカネと性欲ですよ。まあ、三人目の男性以外はそうです」
白石は被害者9人を殺害した理由について、そう振り返った。そこで私は聞く。
「亡くなった方への気持ちはどうなの?」
「本音を言うと、なにも思ってないんですよ」

自らの死刑に対してすら関心が希薄な白石隆浩のような人物には、厳罰化も、執行猶予という仕組みも、すべて犯罪の抑止にならない。
いわゆる「無敵」の人という括りにも入るのかもしれないが、今までも話題になった「無敵」の人の中でも、ここまで空っぽな人間もそうそういないのではないか。
読んでから街を歩く見知らぬ人すべてを疑ってしまうほどのショックを受けた。

異質なノンフィクションとしての『冷酷』

ということで、事件そのものの凄惨さは嫌になるほど伝わってきた。
しかし、この本はノンフィクションとしてかなり異質だと思う。
考えてみれば、自分はこういった凶悪殺人犯を題材にしたものはあまり読んだことが無かったのかもしれないが、少なくとも終わらせ方に驚いた。


通常、ノンフィクションは、これまで気がつかなかった「悪」に目を向けさせたり、見過ごしてきた社会問題に対する問題意識を喚起させたりするものだと思ってきた。そして、そこには当然、ノンフィクション作家の問題意識が反映される。
言ってみれば、ノンフィクションは、作家の問題意識という車に乗って世界を再確認するタイプの本だと思う。しかし、この『冷酷』は、車に乗せてもらえなかった。いや、この本は2部構成で、途中(第一部 面会)までは車に乗せられて進む。しかし、そこで運転手は手を止め、読者は、止まった車の中(第二部 裁判)で、ドライブインシアターのように、淡々と事実だけを見せられる。

エピローグになり、ようやく運転手が戻り車は先に進む。そこでは、作者自身の取材に対する後悔が語られるが、逆に言えば、裁判の過程を記した第二部は、作者である小野一光の存在感が希薄だった。
このことについて、エピローグで作者はこう語る。

今回、私はいままでやってきた殺人事件取材とは、まったく異なるアプローチをした。加害者、被害者の周辺を一切当たっていないのだ。つまり、白石と面会する以外、足をほぼ使っていない。それは裁判についても同じで、そのほとんどが裁判を傍聴した関係者への取材に終始した。そうした手段による成果を、事件の本としてまとめることに対する抵抗がないわけではない。

それでも、本のかたちにして伝えたかったのは、「いまそこに苦悩を抱えている人々に対して、最悪の選択の先には、白石のような、”卑劣な悪意”が待ち構えている可能性もあることを、記しておかなければならない」という決意からだと言い、この本は唐突に終わる。


このあと、文庫版には小野一光と高橋ユキ(『つけびの村』)の対談、および、森達也の解説があるが、自分はこれらに救われた。この2編が無いのが単行本版だったとしたら、単行本を読んだ後の自分は途方に暮れていただろうと思う。
対談の中で、面会以外の取材をほとんどしていない理由について小野一光は以下を挙げている。

  • 取材時期が新型コロナ感染拡大時期と重なった
  • 被害者遺族全員が弁護士を立てていて、拒絶の意志の強さがわかっていた
  • 白石自身が犯行を否認しておらず、ほぼ包み隠さず喋っている
  • 裁判(裁判員裁判)の中で、被害者の背景についてかなり細かいところまで説明があった

しかしそれでも、白石と家族との関係についてはもっと取材が必要だったということを改めて述べるも、高橋ユキから「新型コロナの状況がよくなったら、家族への取材を進めるつもりか」と聞かれて「わからない」と答える。

この「わからない」という回答については、小野自身は、事件取材は本当に厳しく、成果が得られるのかどうかわからない中で進めなければならない、と言ってお茶を濁しているが、森達也の解説に、腑に落ちる説明があった。

結果的に本書は面会編と裁判編の二部構成になった。ただし二つのパートは分離しているわけではない。小野が書くように、裁判は面会時の言動の答え合わせの場でもあった。そして結果として、面会時と裁判とで齟齬はほとんどない。つまり白石は隠していない。ごまかしてもいない。だからこそ逆に不安になる。だって煩悶や葛藤がなさすぎる。平坦なのだ。あまりにのっぺりしている。そんなはずはないと思いながらも、そんなはずがない根拠をどうしても見つけられない。小野も同じ思いであるはずだ。白石と家族との関係に不可解な要素があるのでは、と推測する。(略)
ここで終わらせたくない。絶対に終わらせるべきではない。小野は今もそう思っているはずだ。僕もそう思う。死刑制度についての議論はここでは控えるが、確定後は社会との関係をいっさい断絶させられる現行システムについては、強く異議を唱えたい。
そして無理を承知で書くけれど、白石についての煩悶を小野には持続してほしい。おそらくそれはノンフィクションではなく、文学のレベルになるのだろうけれど。

森達也が内面にまで踏み込んで推測した通り、小野一光が家族への取材を進めることに対して「わからない」と答えた理由は、犯人である白石の「煩悶や葛藤がなさすぎる」部分が、取材を進めても明らかにならない可能性が高いと感じたからではないだろうか。


森達也は「生まれながら残虐で冷血な人はいない」という信条が、「座間九人殺害事件」については当て嵌めることができず、白石隆浩の犯行の動機について自分の中で説明がつけられないと言う。
彼が繰り返し言う通り「金銭と性欲を満たすため」という、ただそれだけに尽きるのかもしれないが、逆にそれでは納得がいかないし、自らの信条に反してしまうということなのだろう。
その意味では、この『冷酷』が普通のノンフィクションの形式を逸脱しているのは、白石隆浩が「普通」から大きく外れる人間だからだと思う。


これまで凶悪殺人犯の本をあまり読んだことが無かったが、白石との比較の意味でも読んでみたい。また小野一光さんは、やはり、他の著書で、この『冷酷』との違いを確認してみたい。そして、森達也については「生まれながら残虐で冷血な人はいない」という信条が感じられるような本を読んでみたい。

*1:この時点でどうかしているのだが

*2:ミミズ人間やトカゲ人間は許したとしてもニンゲンアブラの設定とか、要らないし、何でこんな不快なものを思いつくのか…苦笑

*3:この本は、目次が内容のダイジェストになっていて振り返りやすいのが良いところ