Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

終わらせ方への違和感と「犯人の動機を報じるな」問題~ダニエルズ脚本・監督『EVERYTHING EVRYWHERE ALL AT ONCE』

経営するコインランドリーは破産寸前で、ボケているのに頑固な父親と、いつまでも反抗期が終わらない娘、優しいだけで頼りにならない夫に囲まれ、頭の痛い問題だらけのエヴリン。
いっぱいっぱいの日々を送る彼女の前に、突如として「別の宇宙(ユニバース)から来た」という夫のウェイモンドが現れる。
混乱するエヴリンに、「全宇宙にカオスをもたらす強大な悪を倒せるのは君だけだ」と驚きの使命を背負わせるウェイモンド。そんな“別の宇宙の夫”に言われるがまま、ワケも分からずマルチバース(並行世界)に飛び込んだ彼女は、カンフーマスターばりの身体能力を手に入れ、全人類の命運をかけた戦いに身を投じることになる。


この映画を見たのは封切り直後の3月4日。その後に起きた事件などを経て、作品に感じた違和感を今なら書けそうだ、と思って文章にまとめてみた。

最高に面白かったが、しっくり来ない

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス=あらゆることがあらゆる場所でいっぺんに、というマルチバースの可能性を最大限に利用した映画が『エブエブ』ということになる。

とにかく予告が派手で設定が意味不明だったので、初めて見たときから惹きつけられ楽しみにしていた。こんな変な映画がアカデミー賞の最有力候補!?と言う驚きもあった。
そんな気持ちで観に行き、まさに初めての映像体験を堪能し、カンフーを楽しみ、ギャグに大笑いし、満足して劇場をあとにした。ところが、どうしても違和感が残ってしまった。


とにかく、しっくりこない。(同様に、アカデミー賞で話題になった)『パラサイト』のときは、鑑賞後すぐに繰り返し見たくなるくらいの衝撃があったが、これは何だろうか。
勿論、大々的に引用されている『レミーのおいしいレストラン』や、ミシェル・ヨーの過去作を観ていないという部分もあるかもしれないが、作品テーマの部分で腑に落ちないものがあったのだ。


これについてパンフレットを読むと、「世界を救いたい」というよりは、監督の個人的体験から、「自身を勇気づけたい」ということがきっかけになって映画が作られていることを知る。そうか、(後述するように)この作品のテーマを、広く一般的な問題に捉え過ぎていたのかもしれない。

町山智浩:エヴリンの娘は「Nothing matters(何もかもどうでもいい)」と言って宇宙を滅ぼそうとしますが、そういうニヒリズム虚無主義)は、あなた方の個人的経験を反映しているのですか?それとも現在の世界状況ですか?
シャイナート:僕らが若い時、「闇落ち」してた頃の世界観だね。社会のシステムから自分が逃げられないと知って絶望して、こう思った。「何をしたって無駄なんだ」って。そんなニヒリズムを「敵」とする映画を作ろうとしたんだ。

また、このインタビューでは、カート・ヴォネガットが、作品のベースとなる哲学となっていることを知る。(作品としては「猫のゆりかご」が挙げられている)
実はヴォネガットは一作も履修しておらず、このあたりの教養の不足が作品理解に影響しているのかもしれない。


パンフレットの傭兵ペンギンさんのレビュー記事も、同様の(ヴォネガット的な)視点でまとめられている。

そして最高なのはこの映画の出す答えだ。キャラクターが岩になり始めたあたりで、どうやって着地するつもりなのか、そもそも話を終わらせるつもりがあるのかさえわからなかったが、見事に締めくくった。この映画が示した”人生は理解できないし、意味もないかもしれないけど親切であろう、大事にしよう”という生き方は冷笑的な態度が賢いと思っている人が沢山いる世の中に対して強烈なメッセージになっていると思う。そして夢を持つ人に、まだ可能性があるかもしれないという希望を与えるような優しい作品だったところも心に染みる

こういう風に書かれてしまうと、「しっくり来ない」自分が間違っていて「しっくり来るべき」だったのではないか、とすら思えてきてしまう。
いやいや、そんな否定的に捉えなくても、確かに面白い映画だったと素直に感じる部分もあった。NGシーンなんてこんなに面白く幸せを感じるじゃないか…。

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エブリシング・エブリウェアでアットワンスに生じる事件

4月15日に起きた岸田首相襲撃事件のあと、「犯人の動機を報じるな、事件の背景を追及するな」というような声が、自民党議員を中心に上がった。*1
この意見に反対であることは、以前にも書いた通りだ。

pocari.hatenablog.com


ただ、事件の動機追及はするべき、というのはそうなのだが、(僕と同じ立場に立つ人の)「殺害計画を立て、実行に移す…そこまで思いつめるには、それ相応の動機があるに違いない」というような意見を見て、いや、それも違うだろう、と思った。


殺人、自殺の方法から爆弾の作り方まで、インターネットであらゆる知識が得られ、限りなく匿名に近い方法で物品購入など準備を進めることが出来る。今回の事件の犯人がそうであるように、日本を揺るがす事件でも、家族と同居しながらだってそれが可能だ。

  • 40年前なら、爆弾の作り方など犯罪性の高い知識はそもそも知り得なかっただろう。
  • 20年前なら、知識を、知り得ても、限られた都市域でしか材料購入もままならなかっただろう。また、テロ行為はテロ組織(オウム真理教信者が起こした地下鉄サリン事件は1995年なので28年前)が、Xデーに向けて入念な準備のもとで協力して引き起こすものというイメージが強かった。

このように、20年前の頃までなら、首相襲撃を起こそうなどと「そこまで思いつめる」までに、長い時間が必要だったと言える。
しかし、2023年の今時点はどうだろうか。首相襲撃と言うテロ事件ですら、エブリシング・エブリウェア、いつでもどこでも、「個人」が引き起こすことが出来る状態になっているのではないだろうか。


さらにここ数か月でまた大きく状況が変化している。
自分が長時間かけてブログにまとめているような文章ですら、生成AIを利用すれば、エブリシング・エブリウェアで一瞬で(at once)作成できてしまう。
そうすると、「強い思い」や、学習の積み重ね、文章力が無くても、色々な政治的立場を騙って、長文の抗議文や脅迫文を書くことが可能で、当然、それを送るのはワンボタンだ。


現代社会では、技術が進むほど、ほぼ瞬間的な思い付き(いたずら心)で犯罪に手を染めることが可能になってきている。そこに「そこまで思いつめる」ほどの動機はいらない。
ちょっとした自己顕示欲が重大な事件を引き起こしてしまうし、いわゆる特殊詐欺事件では「そんなつもりはなかった」人たちの協力によって強盗(ときに殺人)事件が、海外からの指示を受けて日本各地で起きている。
どんどん犯罪のハードルが低くなってきており、それだけに個別の動機の追求の意味は薄れてきている。放送合戦のようにしつこくメディアで取り上げる必要性は少ないだろう。しかし、犯罪に至った大元の環境的要因として、孤独感や貧困、政治不信(宗教の問題含む)があるのであれば、それを減らすべく国や自治体が何らかの動きをするべきと思うのだ。(孤独感について言えば、日本にも孤独・孤立対策大臣というポストがある)



さて、映画の中で怖かったのは、序盤でエヴリンが、国税局の監査官(ジェイミーリーカーティス)に暴力を振るうシーン。
観客には、その暴力が必要なものであったという理屈(真実かどうかは判別不能)が知らされているが、暴力を振るわれた本人および周囲の人間にはわからない。
現実でこのようなことがあれば、「何かの声が聞こえるヤバい人」が起こしてしまった事件として処理され、実際そのような事件も時々見聞きするから、映画を観ていて不安になってしまった。
エヴリンと監査官の関係は、別の並行世界では恋人同士ということもあり、マルチバース構造を把握している観客に対しては(実世界の敵対関係と)バランスが取れているが、映画内世界のほとんどの人はそのことを知らないから、彼らにとってエヴリンは「ヤバい人」だろう。


そこから連想して、「思いつめ」たり、強い自己顕示欲がなくても、瞬間の精神不安定だけで事件を起こすこともあり得ると考えてしまった。


一方、長い時間思いつめて、ニヒリズムに陥り、闇落ちしてしまったのが娘のジョイということになる。
確かに、映画全体について「ジョイ個人を救う話」と捉えれば、ジョイが闇落ちした原因の根本にある家族愛にアプローチすることで、物語が終わりを迎えることはよくわかる。
実際、この映画では、ジョイの怒り、悲しみ、戸惑いなどの演技は素晴らしかった。ジェイミー・リー・カーティスとダブルで助演女優賞候補になっていた彼女(ステファニー・スー)にもアカデミー賞をあげたかった。


しかし、この映画前半を見て自分が想像したのは、ジョイよりももっとたくさんいる、特に思い詰めることなく、ただ孤独だったり貧困だったりする中で、何かをきっかけに「無敵の人」になってしまうような現実世界の人たちだ。
頼れる仲間がおらず、孤独感を抱える人たちが、家族愛をラストに持って来る映画を観て救われるだろうか。いや、孤独でなくても、家族からの愛を感じない人は、みんな「けっ」となってしまうのではないだろうか。
そんなことを考えてしまった。


映画『すずめの戸締まり』のラストは、家族を失った震災遺族、仲間に恵まれず孤独に悩む人などにも届くメッセージ(個人差あります)となっていて素晴らしかったので、沸き上がった否定的気持ちは、それとの対比もあったのかもしれない。


改めて総括する。
この作品で提示されるハッピーエンドは、非常に限定的な場合にしか有効ではない。
エブリシング・エブリウェアでアットワンスに引き起こされる事件、そして世界中で増殖し続けるジョブ・トゥパキに想像が及んでしまう映画なのに、それに対して、ジョイしか救えない終わり方ではハッピーエンドにはなり得ないだろう。
映画内世界ではなく、現実世界の今後を憂えて不安感・悲壮感がずっしりのしかかるような映画と感じた、というのが僕の感じた違和感だ。
現実世界と切り離して考えれば、映画はとても面白かったと割り切れる。