Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

小山田圭吾のいじめ問題についての個人的反省とポジ出し

昨日は、東京オリンピックの開会式があった。

その直前は怒涛の一週間だったことは、あとになって忘れてしまうかもしれないので、簡単にメモをしておく。

  • 7月14日:東京オリンピックパラリンピック開会式の楽曲制作メンバー発表。小山田圭吾が入っていることがわかる。
  • 直後に、ネットでロッキン・オン・ジャパン(1994年1月号)、クイック・ジャパン(第3号=1995年8月発行)のいじめ告白記事が問題視される。
  • 7月16日:小山田圭吾が謝罪文を発表。組織委も続投の意向。
  • 7月19日:小山田圭吾が辞任を申し出。組織委も了承。楽曲の不使用も発表。

この後、絵本作家・のぶみの文化プログラムへの参加辞退、そして東京五輪開会式のショーディレクターを務める小林賢太郎の解任までが俗に「辞任ドミノ」と呼ばれることになる。今回は、このうち小山田圭吾について自分の気持ちを文章にまとめておくことにした。

小山田圭吾と僕

近年は頻繁には聴かなくなったが、コーネリアス小山田圭吾)は、自分にとっては大きな存在で、ファーストアルバムとの出会いがなかったら、「音楽が好きな自分」はいなかっただろう。
特に、最近は、ひょんなことから「STAR FRUITS SURF RIDER」を思い出すことがあり、頭の中ではちょくちょく音を鳴らしていた。ちょうど8月に発売されるMETAFIVEの新譜は聴いてみたいな、と思っていたところだった。

STAR FRUITS SURF RIDER/STAR FRUITS GREEN

STAR FRUITS SURF RIDER/STAR FRUITS GREEN

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その中で耳にした開会式の音楽担当の話。そのとき抱いた感想は

  • これだけケチがついて、誰が引き受けても文句を言われそうな仕事を
  • 「国民的な」「スポーツイベント」を最も嫌いそうな小山田圭吾
  • よく引き受けたな。(かつての印象とは異なり、さすがに大人になったんだな)

というもの。


小山田圭吾に対しては、真面目な人を茶化すタイプという印象で、特に、小沢健二のソロでの活動について「尾崎豊みたい」と言ってみたり、『今夜はブギーバック』を物真似のようにカバーしてみたりとか、小学生的悪意が枯れない人というイメージを持っていた。小山田圭吾自身が、あまり「自分語り」をするタイプではないこともあり、その頃の印象が今もずっと続いている。


自分が積極的に音楽関連の情報を見始めるのは1996年からなので、例のいじめ記事(1994、1995)は直接誌面では読んでおらず、しばらく経ってから(1997-1998年頃か)ネットで知ったような気がする。
読んだときの印象は、「これは酷い」と思ったけれど、小山田圭吾は「そういう人」とカテゴライズされてしまっていたので、ショックは大きくなかったし、ファンを辞めるということもなかった。


むしろ、『FANTASMA』(1997)、『POINT』(2001)と、小山田圭吾は、その小学生的感性を研ぎ澄まし、音楽はどんどん抽象的なものに変化していき、『96/69』(1996)の頃に感じた「悪ふざけ」や「悪意」はほとんど感じられなくなっていく。
その後、活動の場を海外にも広げ成功を収め、近年ではMETAFIVEでの活動や、「デザインあ」等の活動を見るにつけ、人格的に問題のある人なら高橋幸宏と同じグループで長期にわたって活動を続けたり、NHKと長期にわたって活動したりはしないだろうという気持ちもあり、いじめの話はどんどん忘れていった。

作品とアーティストの人間性

2005年に書いたブログ記事でコーネリアスのいじめ問題について言及しているが、ここの気持ちは変わらない。*1

ところで、僕が、優れた芸術作品の後ろに「清い」実生活や人間性を求めるか、といえば、必ずしもそうではない。例えば、小山田圭吾は、彼自身が行った、学生時代の同級生に対するひどいイジメについて、雑誌のインタビューで楽しげに答えており、これについて非難されているのをネット上で散見する。この事実については、僕自身、かなりの不快感を覚えるが、僕にとっては、それが一連の作品の質を落とす方向には作用しない。上の分け方でいえば、小山田圭吾自身、三つ目のタイプでの解釈(人間性の部分や社会へのメッセージ)を拒否するタイプだし、僕もそういう解釈をしていないからだ。

あまり馴染みのないミュージシャンの例で言えば、自分は新海誠作品におけるRADWIMPSの楽曲は好きだが、野田洋次郎が(賛同できないような)変なこと言ったり、変な歌詞書いたりしてもそれは変わらない。

すぎやまこういちの政治的言動は大嫌いだが、かといってドラクエの楽曲を嫌いになるわけではない。

自分の「好き」は信用しているので、問題発言や過去の言動、不倫問題などでそれが影響を受けることはない。(Rケリーのような極端なケースで無ければ「好き」は揺らがないだろう)


むしろ、今回問題視された小山田圭吾の過去のいじめ発言については、自分の中では20年以上前にモヤモヤを解消した件で、繰り返すが、今現在は高橋幸宏と一緒に活動しているようなミュージシャンなのに、それを今「蒸し返す」のか、と反発を覚えた。

だから、これまた否定的に扱われることの多い謝罪文についても、(小山田圭吾自身も相当の反発を感じているだろうのに)「しっかり謝罪ができるじゃないか、勝手に想像していたよりも全然大人なんだ」と、世間の評価とは逆に好印象を覚えてしまったほどだった。


しかし、今回改めて、ネットに出回っている記事を読み直してみると、記憶を大きく上回って相当酷かった。自分の中では「障害者」という要素はあまり記憶していなかったが「障害者いじめ」ということも明確で、とてもとてもパラリンピックに関連する音楽を担当するのに適しているとは言えない。
そして、この辺から、いじめ被害の当事者の方の意見を読む機会が増える。また、知的障害を持つ人たちの親らでつくる一般社団法人「全国手をつなぐ育成会連合会」が声明を発表し、その中の「今般の事案により、オリンピック・パラリンピックを楽しめない気持ちになった障害のある人や家族、関係者が多数いることについては、強く指摘しておきたい」という言葉を見るにつけ、辞任発表の直前になって自分の考えの誤りに遅ればせながら気が付いた。

反省すべきこと

結局、自分は「いじめ被害者」や「障害者」の立場にたって今回の問題を捉えるということが、最後の最後まで出来ていなかったのだろう。


いじめのあった時期から考えれば35年、雑誌記事からは25年という長い時間について、その頃に比べれば小山田圭吾も成長しただろうという、「いじめ加害者」の変化にしか目を向けていなかった。
確かに小山田圭吾は、今は、周囲の人間に暴力をふるうような人間ではないだろう。
しかし、いじめ被害者は、その長い間、辛い気持ちを持ち続け、増幅させてきたかもしれない。


それだけではない。先ほども挙げた「全国手をつなぐ育成会連合会」の声明では重大な問題として3点を挙げている。「(1)障害の有無に関わらず、いじめや虐待は許されるものではない」「(3)なぜ小山田氏が楽曲提供担当となり、留任させることにしたのか」は誰もが指摘する部分で、(1)については、小山田圭吾も謝罪の中で触れている。しかし、声明では(2)について特に強調している。

(2)小山田氏の行為は極めて露悪的である
上記のとおり小山田氏の行為は決して許されませんが、学生という年代であったことを考慮すると、行き過ぎた言動に走ってしまうことはあるかもしれません。
しかし、そのことを成人して著名なミュージシャンとなった後に、わざわざ高名な音楽雑誌のインタビューで面白おかしく公表する必要性はなかったはずです。極めて露悪的と言わざるを得ません。しかも、インタビューでの発言では明らかに障害者を差別的に揶揄している部分も各所に見受けられ、少なくともインタビュー時点ではまったく反省していないばかりか、一種の武勇伝のように語っている様子が伺えます。

この「露悪的な行為」が問題なのは、小山田が行ったいじめの実際の被害者だけでなく、不特定多数のいじめ被害経験者や障害を持つ人、また障害を持つ人の親…と無限に被害が拡散してしまうことだ。

小山田圭吾の25年以上前のインタビュー記事は、当時記事を読んだ人のみならず、今回初めて記事を読んだ人も傷つけてしまう。そのことに、自分は色々な人のTweetを読むまで気が付かなかった。

だからこそ「今般の事案により、オリンピック・パラリンピックを楽しめない気持ちになった障害のある人や家族、関係者が多数いることについては、強く指摘しておきたい」という重い言葉に繋がり、また、最後に改めて以下のように強調するに至ったのだろう。

小山田氏が露悪的であったことも含め心からの謝罪をしたのか、それとも楽曲提供に参画したい一心でその場しのぎで謝罪をしたのか、本会としては小山田氏の言動や東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の動向について、今後も注視してまいります。

今回の問題が、NHK教育の番組「デザインあ」や、8月のMETAFIVEの新譜に与える影響を考えると、世間的にもまだ余波は続くに違いない。また、ネットで拡散された記事内容の恣意的な切り取り方や、もともとの記事の誇張の問題など、今後も詰めるべき色々な話はあるが、結局は、上の引用にある通り、小山田圭吾自身が「オリンピック・パラリンピックを楽しめない気持ちになった」人たちにどう向き合い言葉を発していくかが問われているのだろう。

共生社会

今回の件では、いくつかの著名人の意見も見聞きする機会があったが、ラッパーのダースレイダーさんが、どんなに過去のことであっても「蒸し返してOK」(細かい正確な言葉は失念)と言っていたのが印象的だった。「蒸し返す」は、慰安婦問題などで否定的に使用されることの多い言葉であることを意識しての発言だったように思うが、そうやって傷ついた人たちを説得できるような言葉を、傷つけた側は持たなくてはならない。そういう責任があるということだったと思う。(そこをしっかり出来ているのがドイツで、出来ていないのが日本、とのこと。)


また、TBSラジオの発信型ニュース番組「荻上チキ・Session」の荻上チキさんが流石だなと感心した。今回の件について長い時間をかけてコメントした翌日に、「共生社会 とインクルーシブ教育 とは?~小山田圭吾 氏の障害者いじめ加害問題をきっかけに考える」という特集を組んでいたのだ。


荻上チキさんは、よく「ポジ出し」という言葉を使う。

今回の件については、自分の好きな音楽を聴いて不快な気持ちになる人がいるということだけでなく、自分自身、そのことに気が付かず、ある意味では問題を「放置」してしまってきたこと等、自分を振り返ればネガティブな気持ちになることばかり。一方、twitterを眺めれば、徹底的に他者への「ダメ出し」を続けるTweetが溢れているという、鬱々とした時間を過ごした。

そんな中で「ダメ出し」ではなく社会をよりよくするために少しでも建設的な「ポジ出し」をしようというのがチキさんのポリシーで、自分も「ダメ出し」の方にばかり目を向けるのをやめて「ポジ出し」をしなくてはという気持ちになった。


今回の番組では、日本のインクルーシブ教育が未成熟(不完全)であること、教育課程にとどまらず、インクルーシブな社会を目指していくべきであること、等が中心に語られていたと思う。今回の件は、学校の中の問題にとどまらない、ということに気づかされた。
インクルーシブ教育については、「DPI(障害者インターナショナル)日本会議」「全国自立生活センター協議会」の声明の中でも触れられている。それぞれの全文はHPで読めるが、後者の概要はhuffingtonpost.の記事が読みやすく、その中では、今回の件をきっかけに間違った方向に行ってしまう危機感についても触れられている。

今回の件が発端となり、「障害のある子どもがいじめの対象になってしまうかもしれないから分けたほうがいい」などの考えのもとに、障害のある・なしで子どもを分けて教育をする「分離教育」が加速することへの危機感も示した。

分離することで、「『障害者はいないほうがいい』『生産性がない』という優生思想を生み、排除を加速させてしまうのではないか」とし、「『分離』に加担することのないように、事件の根源を見直すべき」と訴えた。

「小山田氏のように障害のある人への差別や偏見を抱く人は未だに少なくない」といい、「小山田氏個人を非難するのではなく、障害のある人への差別が起きてしまう社会の構造を変えていくこと」を目指し、「なぜいじめが起きるのか、差別とは何か、障害とは何か、私たち一人ひとりが向き合い、内なる優生思想と闘い続けることが必要です」と求めた。
小山田圭吾さんという「個人を非難するのではなく…」。障害者団体が訴えた内容は? | ハフポスト

「内なる優生思想」という言葉は、誰もが差別意識を心の内に抱えているということを示している。自分もそこをスタートにして、「全国自立生活センター協議会」が目指すような「誰もが差別されず、共に生きられる社会(インクルーシブな社会)」とはどういうものなのかを考えていかねばという気持ちになった。


まずは何か読みやすそうな本から始めたい。


*1:内容については、本題が恥ずかしいのでリンクしない…