Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

対話を通じた子どもたちの変化に涙~豪田トモ監督『こどもかいぎ』


映画は「これが観に行きたい!」と決まっている時もあるが稀で、今回も

  • 8/1の午後にiPhoneのバッテリー交換に行く、iPhonを預けている時間に見られる映画があれば…
  • 場所はAppleストアのある有楽町か新宿
  • 映画コムで気になる映画を探して、上映時間を確認してみよう

という感じで、選んだのがドキュメンタリー映画の『こどもかいぎ』と刑務所を舞台としたフランス映画でストーリーが評判の『アプローズアプローズ』。
今回、iPhoneの段取りがよくわからなかったので映画の予約はせずにApple銀座にくと、すぐに預かってもらえたので、ピタリの時間に始まる『こどもかいぎ』を見ることになった。

「どうして生まれてきたんだろう?」
「ケンカしないようにするにはどうすればいいの?」
「宇宙って誰が作ったの?」
「鼻くそって、きなこ味がするんだよ」

子どもたちから繰り広げられる奇想天外な発想と、まっすぐな言葉に、思わず笑い、時にハッとさせられます。
保育園は多くの子どもたちが初めて社会と出会う場所。 そこで未来の子どもたちは何を考え、無限の可能性をどのように伸ばしていくのでしょうか?
いつも全力で、まっすぐな子どもたちの姿には、「答えの無い世界で、私たちはどう生きていくのか」を考えるためのヒントがあふれています。
さあ、いよいよ小さな賢者たちの、世界一おかしくて、世界一だいじな会議、はじまります!


小学校低学年や未就学児に対する、新しい教育プログラムには、自分はやや懐疑的なところがある。
例えば、テレビで、小学1年生からプログラミングの授業を…という紹介があり、家でもプログラミングに熱中している子どものインタビューを見ると、確かに「すごいなあ」とは思う。
一方で、その教育が「効いている」のは、ほんの一握りで、半数以上はこぼれ落ちているんじゃないの?と思ってしまうのだ。

だから、未就学児が「会議」で、色々なことを決めている、と言われても、そんなわけない。たくさん言葉を喋れるごく一部でどんどん決めているんでしょ。
と、観る前から少し予防線を張っているところがあった。


でも、そうではなかった。

映画の感想

まず、一番初めの印象は、子どもたちが全くカメラを意識しないことに驚いた。
子どもたちのかなり近くで監督がカメラを構えていて、時には自分の方にカメラを向けられていることがわかるはずなのに、全く気にしない。
撮影は1年間とのことだったが、ほぼ毎日、園に顔を出して常時カメラに撮られている状態だったのだろうと思う。ということは、スタッフは監督ほぼ一名だったのかもしれない。
パンフレットは無かったが、この辺の裏話が知りたかった。


さて、映画の中では、5~6人で意見を言い合う「こどもかいぎ」以外に「ピーステーブル」という仕組みがあり、これがとても機能していた。
子どもたちが喧嘩し始めると、先生たちは「ピーステーブル」とよばれる空間に行くことを促し、喧嘩する二人は向かい合わせに座って、自分の言葉で「なぜ手を出したのか」「何が不満なのか」など、相手に思っていることをぶつけ合う。
モヤモヤしていた気持ちを言葉にして出すことで、気持ちが落ち着いてきて、その場で仲直りすることが多い。勿論、片方はスッキリ、片方はモヤモヤが残る、という場合もあるが、お互いの考えていることがわかるので、その後の関係が上手く行きやすいようだ。
つまり、普通なら、喧嘩した相手と物理的距離を取る、となるところが、喧嘩する前と同じように接しながらも、お互いの特徴を分かった上でのコミュニケーションが取れる、というレベルの高い関係性を築きやすいということだと思う。


目的がよくわからないままで、ひたすら意見を言い合う「こどもかいぎ」よりも、「ピーステーブル」の方が「効く」のではないか?と途中段階では思ったが、全体を見ると「こどもかいぎ」は、そういった、子ども同士の関係性の基礎づくりに機能していることが分かった。

公式HPに載っている「こどもかいぎのルール」は以下の通り。

  1. 5~6人の子どもたちで行う
  2. 様々なテーマについて話し合う
  3. 自由になんでも発言してよい
  4. 友達の話していることを聞く
  5. 先生は進行役としてサポート
  6. 答えはなくていい 


思った通り、年長クラス(来年小学1年生)を相手に始めた「こどもかいぎ」だが、最初は上手く行かない。子ども達は、ずっと椅子に座って人の話を聞くことができない。
また、結局1年経っても、いわゆる「会議」にはならない。何かのトピックについて皆で話し合って決める、というタイプの会議ではない。
しかし、「こどもかいぎ」を重ねて慣れてくると、先生だけでなく、お互いの話を聞くことにも慣れてくる。他の子が聞いていないと、注意するようにもなる。
夏前の時点では、話を振られても言葉を発しなかった子が、自分の言葉で満足そうに喋るようになる、というような変化もあった。
ただ、「こどもかいぎ」のルールの最後にも書かれているが、無理に喋ることを目的にしている場ではない。お互いが、何に興味があり、何を大事に思っているか、どんな特徴があるかを知る場として機能している。
「ピーステーブル」は、「こどもかいぎ」の前からある仕組みとのことだが、お互いが効果的に連動していると感じた。また、映画を観る前に思っていたような、一部の頭のいい子だけが満足するプログラムではなくて、参加しているみんなが成長していけるし、その関係性が良くなる取り組みだと改めて感心した。


映画の最後は、卒園式の準備から実際の式の様子までが、かなり長く映される。
1年間の園児たちの成長と、先生たちの試行錯誤を見てきた観客としては、泣かざるを得ない。なお、自分の頃は、卒園式の歌は「思い出のアルバム」だったが、何かもっと情報量の多い歌が歌われていたのが今っぽいなと思った。

大豆生田啓友・豪田トモ『子どもが対話する保育「サークルタイム」のすすめ』

映画館で本も売っていたが、教材買わされるみたいで何となく嫌だな、と思い買わなかった。しかし、帰りの電車で読んでいた本の内容から、この取り組みはオープンダイアローグとよばれるものに似ているのではないか?と思い、新宿紀伊国屋に寄って参考書を購入した。

この本を読むと、「こどもかいぎ」のような取り組みは「サークルタイム」という活動名称があり、イギリス発祥で「子どもの主体性や協調性、話す力や聞く力を育むために用いられるもの」として近年注目されているという。
説明の中では、やはり、対話の中では「オープンダイアローグ」であることの重要性が書かれていた。

(「オープンダイアローグ」であるということは)
それは、開かれた対話。子どもにわからせようという姿勢ではないということ。また、話したくない人は話さなくてもよいことが尊重されること。そして、シンフォニー(調和)ではなく、ポリフォニー(多声性)。つまり、それぞれの異なった声が調和しなくても、交じり合わなくてもそのまま大切にされること。つい、まとめてしまいたくなりますが、そうではないのです。そのまま持ち越すことだって、大切なのです。そして、対話を通して、子どもたちとともに、大人も変わっていくのです。

本の中では4園の取り組みが載せられているが、それぞれ方法が別々で、各園で試行錯誤していることがわかる。
これらの事例との比較から「こどもかいぎ」は、園が新たに取り組む活動として、スタートしやすいようハードルを下げるアレンジをしていると感じた。特に人数が顕著で、どの園も1クラス20~30人程度の大人数でサークルタイムを実施している。(呼称は「ミーティング」や「集まり」等それぞれ違う)
また、「遠足の行先を決める」など目的がしっかりしている、まさに「会議」をやっている事例もあったが、人数が多くなり、しかも「何かを決める」会議は、(大人でもそうであるように)零れ落ちる子どもがいるように思い、「こどもかいぎ」のイメージとは少し変わってくると感じた。

とはいえ、5~6人というメンバーでのサークルタイムの実施は、通常の園の規模からすると、小さすぎるのだろうし、目的のないおしゃべりよりも、目的のある会議の方が、やる気や達成感が生まれやすいのも確か。
こういうことを考えると、映画に出ていた先生たちの苦労がしのばれる。

本の最後に、本の著書である大豆生田啓友さん、豪田トモさん(監督)と、東大名誉教授の汐見稔幸さんの対談があり、結びの汐見さんの言葉がとても印象的だったので、最後に引用する。

「語る」ということだけが大事だというふうに受けとめられてしまうと、ちょっと主旨が違うということは確認しておきたいですよね。
(略)言葉、言葉と思っていると、「この子の言葉がおもしろい」という見方になっていってしまうけど、人間ですから言葉をいうのが苦手とか、性格的にみんなの前でしゃべるのが恥ずかしいというタイプもいる。この人の前だったら安心して私を出せる、そういう状況をつくっていくことが、なによりまず、前提なんだと思うんです。
そのうえで、正しいこと、必要なことが必ずしも簡単に明らかにならない社会の中では、「こうしようよ」「こうしたほうがいいよ」とみんなで決めていって、それを実践していく。そのことを積み重ねながら社会をつくっていくことをしたらいいんじゃないか。つまり自分たちが生きているこの世界は、自分たちががんばってつくっているんだと、そういう社会にしていくことが民主主義だと思うんですよね。それがようやく始まっている。赤ちゃんからみんな対等な人間として、社会の担い手になろうとしている。そのことを実感できるような保育や教育に切り替えていくと、子どもたちは私たちを確実に超えた存在になっていくのではないかなと思いますね。