Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

死をどう教えるか

rockcandyさんが過去記事にトラックバックをくださり、関連記事を書かれたので、これについて、長文コメントをしたいと思う。書きたいテーマが二つあったのだが、まずは一つ目だけ。
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以前書いたエントリは、小学生の「死の捉え方」についてのアンケート調査の結果をきっかけに書いたものだが、この調査結果の考え方については書いたとおりで、読者の不安を煽るために誇張されている部分も大きいと思う。
一方で、自分は、そういった誇張の中にも無視できない部分があると思っている。
そう思うに至ったのは、NHKスペシャル「子どもが見えない」(H16年10月頃)の放送内容の影響が強い。これについて前のエントリの記述をそのまま引用する。

この番組では、佐世保市の小6女児事件を受けて、小学6年生の道徳の授業の中で「人の死」について教えた長崎の小学校が取り上げられていました。授業は、「死」という観念的なものに対して浮かぶイメージから始まり、子ども達の「死」についての認識を、先生が対話の中で掴んでいこうとするものでした。その途中で、「死んだらどうなると思うか?」との質問に対し、当てられた数人の生徒が、いずれも「生き返る」と答えたことから、挙手をさせたところ、33人中28人が「人は死んでも生き返る」と思っているという結果となりました。
さらに、番組では、「生き返る」と答えた数人の生徒の親が、不安に思って、「死ぬということは取り返しのつかないことだ」ということを家庭で教える場面が数家族映し出されました。

勿論、番組の編集の仕方でデフォルメされている可能性もあるが、母親が女の子を説得するシーンでの、母親の途方に暮れた顔、女の子の「何故、お母さんは真剣になって話をしているのだろう」という困った顔は今でも思い出せる。このケースに限って言えば、自分の理解しているような死の理解が、彼女には無かった。
それ以降、自分は、「最近の子ども」が「以前とは大きく変わってきている」というような報道には、報道の仕方が大げさであっても一面の真理があるものと考えている。新聞報道のデフォルメに反応するあまり、その変化の部分について見過ごしてしまってはいけない。

rockcandyさんのエントリでは、その後、「人間は死んだらおしまい」というよりは「輪廻転生」を信じた方が正しく生きることに繋がるのでは?という話になるのだが、これにも少し異論がある。

「輪廻転生」を信じる事ってヘンでしょうか?
「死んだらすべておしまい」だとしたら仏壇やお墓に手を合わせる事の意味さえわからなくなってきませんか?
実は「死んだら何もかも終わりだ」と考える事の方が「だからやりたい事をやって好きに生きる方がいい」「悪いことしたって死んだら終わりにできる」という考えに繋がるんじゃないかと思うのです。

自分は「輪廻転生」の考え方は、「一寸の虫にも五分の魂」というように、全ての生命(また生命以外のもの)は、自分たち人間と同じような存在であり、大切に扱わなくてはならない、という考えに繋がるという意味で、非常に有用だと思う。
しかし、「生まれ変わり」を強く信じることは、簡単に人生を諦めることに繋がりかねない。最近は同じような事件があるのか知らないが、『僕の地球を守って』が流行していた頃、「輪廻転生」を信じる中高生の自殺が連続したように思う。彼らに対しては、むしろ「人生は一度しかない」ことを教えることが必要であるだろう。
したがって、自分が「死」について教える機会がもしあれば、積極的に「輪廻転生」を推すことは無い。
また、自分を振り返っても「死」への理解は、特に定まったものではなく、その場その場で考え分けていた。つまり、自分にとっては「人生は一度しかない」ものでありながら、「前世は商人」であり、「悪いことを重ねれば死後に地獄に落ちる」ものであり、それらが共存していた。*1
おそらく多くの日本人が同じような「使い分け」をしているのではないかと思う。

こういう使い分けの状況を考えても、言葉や概念だけで「死」を教えるのには限界があると思うし、実際、自分が特定の概念で「死」というものを理解していない。
そこで、以前のエントリでは以下のようなまとめ方をしたのであった。

例えば、お婆さんが亡くなったとき、その孫が未だ幼くて状況が理解出来なかったとしても、残されたおじいさんが、すっかり元気をなくしている。直接の親類でなくても、例えば父が親友を亡くして泣いている。そういうのを見ていくことで、人は「死」を学んで行くのだと思う。しかし、核家族化、共働きが進めば、当然、「死」そのものだけでなく、身近な人が悲しんでいるところを見る機会も減少する。そういった「言葉以外のコミュニケーション」が、人が社会性を得ていくのに役立っているのだと思う。

つまり、ここでタイトルとした「死をどう教えるか」ということに立ち返って繰り返すと、学校の授業など、「言葉」だけを持って、「死」を教えることはできないと思うのだ。勿論、家族が死ぬことをもってしか教えられないといっているのではない。家族が「身近な死」をどのように受け止めているかを、できるだけ子どもの前で見せるようにすることが、「死を教える」ことに繋がると思っている。*2

*1:ちなみに現在「死」について考えるときによく思い浮かぶのはサン・テグジュペリ『星の王子さま』、メーテルリンク『青い鳥』のもの。自分の死というよりは他人の死についての考え方だが。

*2:逆に言葉で教えることは、弊害が大きいように思う。言葉では教えられないものが存在することを示した方がいいと思う。そういう意味で自分の書いた以下のエントリにはなかなか良いこと言っているなと感心した。はてなブックマークに入れようかと思った。⇒壊れる日本人〜Youtaful Days:自画自賛振りをバカっていうな。