Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「誰か」とは誰か?~宮部みゆき『誰か Somebody』

菜穂子と結婚する条件として、義父であり財界の要人である今多コンツェルン会長の今多嘉親の命で、コンツェルンの広報室に勤めることになった杉村三郎。その義父の運転手だった梶田信夫が、暴走する自転車に撥ねられて死亡した。葬儀が終わってしばらくしてから、三郎は梶田の娘たちの相談を受ける。亡き父についての本を書きたいという姉妹の思いにほだされ、一見普通な梶田の人生をたどり始めた彼の前に、意外な情景が広がり始める――。稀代のストーリーテラーが丁寧に紡ぎだした、心揺るがすミステリー。


先日ビブリオバトルで、自分が川上未映子『黄色い家』を紹介した同じ日に、他の方が「残酷な現実に打ちひしがれる小説」と紹介していて興味を持った宮部みゆき『昨日がなければ明日もない』。
これがシリーズもの(杉村三郎シリーズ)で、その一作目がこの作品、ということで読んでみた。


宮部みゆき自体は『火車』『龍は眠る』『レベル7』『魔術はささやく』など初期作品は読んだが、そのあと全く読まず。ブログ内では、『本所深川ふしぎ草紙』の感想が(2度!*1)あるが、それ以外は本当に読んでいないので、現代を舞台にした小説は四半世紀ぶりくらいだ。

ハードボイルド小説としての『誰か』

読んでみると、驚いたことに、読中の印象が『黄色い家』と似ている。
すなわち、なかなか話が展開しない。
あらすじにも謳っている通り「ミステリ」を読んでいるはずなのに何故?と思いながらページをめくるが、やっぱり物語がなかなか始まらない。
458ページで終わる小説の380ページ目に、杉村三郎が4歳の娘に読み聞かせている『スプーンおばさん』の一節が引用されているが、まさに、ネコの言う通り、これ以降で、やっと「意外な真相」+「予想外の展開」がスタートする。

「『ああ、やっと時期がきた』と、ネコがいいました。『あたしはなん日ものあいだ、 まって、まちつづけていたけど、やっときょう、その日がきたんです。あたしのせなかにおのりなさい。そうして、すぐにでかけましょう』
おばさんがせなかにとびのると、ネコは、雪をけたてて、かけだしました」  
p380

『黄色い家』の感想では、このように「何も起こらない」代わりに何が物語を埋めているのかと言えば「予感」だ、と結論付けたが、今回、もちろん「予感」はありながら、淡々と杉村三郎による調査が進む。
ところが、圧倒的に「獲れ高」が少ないのがこの小説の特徴だ。
梶田信夫の死亡事故をもっと探ろうと警察を訪れてたらい回しにされた挙句、手ぶらで帰ることになった杉村三郎自身のぼやきが面白い。

受付なんかを通していては駄目だということがわかった。
テレビのサスペンスドラマに出てくる探偵役の男女は、もっと効率よく動いている。彼ら彼女らには、たいていの場合、懇意にしている警察官がいて、また上手い具合にその警察官が事件捜査の中核を担っていたりする。
p95

小説を読み始めて一番驚いたのは、まさにこの設定で、「杉村三郎シリーズ」なのに、杉村三郎が探偵でも刑事でもなく、義父が束ねるコンツェルンの広報室の平社員であること。
この設定では、今回の小説は書けても、2冊目、3冊目は書けないだろう。しかもビブリオバトルで紹介された本は短編集だったはず。
一体どうやって、広報室の職員が、数々の「事件」に携わっていくのか。この本を読み終えた今でもそのからくりがわからなくて、早く続編が読みたいという気持ちを強くしている。


解説では杉江松恋が、そんな杉村三郎の役回りについて以下のように論じる。

「この事件は~である」という結論を出した瞬間に事件は風化を始める。それを避けるためには、ぎりぎりの臨界点まで、ただ「見守る」しかないのである。
言い換えればこういうことです。作家がもし「起こったこと」の全体像を描きたいと欲したならば、中途で解釈者になることの誘惑に負けず、傍観者であることの辛さに耐え、厳しい現実を見届ける任務を誰かに背負わせなければならない。その視点が神の高みに達することは決して許されない。あくまで地面を這う虫の位置にあるべきで、起こることを起こる順番で目撃する、平凡人の目に徹していかなければならないのである。逆説的な物言いになるが、そうした凡人の視点以外から「全体」を見通すことは本来できない。ましてや、描かれた物語が一読者の心に浸透するほどの切迫感を持つことも不可能なのであります。
(略)
『誰か』は、宮部がそうした態度を作品の形で初めて表明した、記念すべき作品である。 作者に成り代わり、そして読者の代弁者として、事件の一部始終を見届ける杉村三郎こそは、宮部みゆきが初めて書いたハードボイルド・ミステリーの主人公なのだといえます。
ハードボイルドという小説のスタイルには様々な定義があり、残念ながら完全な統一見解というものはない。便宜的にあえて定義するならば「複雑かつ多様で見渡すことの難しい社会の全体を、個人の視点で可能な限り原形をとどめて切り取ろうとする」文学上の試みというべきか。

そうか。
ハードボイルド小説はあまり通ってこなかったが、何となく、無口な探偵が主人公の小説、という程度の印象を持っていた。しかし、そうではなく、主人公が「起こった出来事を、人生の辛い側面を、受け止める」ことの方が、ハードボイルド小説の核にあったのだ、ということに気づかされた。

成長する謎

同じ解説で、杉江は宮部作品の「展開」について次のように語る。

宮部作品では強烈な「引き」を持つ謎が冒頭に呈示されることが多い。不思議なことに、その謎は成長するのだ。これは話が逆でしょう。通常のミステリーの場合、謎は解明されるにしたがって小さくなっていくものである。どんな魅力を誇っていた謎も、要素に分解され、構造を分析されれば謎とは呼べないものに変わる。最後に残るのは、きわめて即物的な個人の事情です。しかし宮部作品は違う。いつまで経っても謎の魅力が褪せないのである。なぜならば、物語が進行するにつれて、謎に未知の側面があることがわかり、ますますその神秘性が深まっていくからだ。

確かにその通り。
杉村三郎の調査は、「梶田さんを轢いたのは誰か」「なぜ梶田さんは事故が起きたマンションを訪れていたのか」「30年前、聡美(梶田姉妹の姉)が4歳のときに誘拐されたという記憶は正しいのか」「梶田さんが”誘拐”と同じタイミングでトモタ玩具をやめたのは何故か」など複数の謎の解明を目的としている。しかし、本人が自嘲するように調査は「非効率」で、なかなか話が核心に向かわない。
ただ、その分、読者の想像を促す。


このあたりについて、この小説は、読者に「他人の靴を履く」訓練を受けさせるようで、非常に「教育的」な読み物になっていると思う。
例えば梶田姉妹の姉・聡美が4歳のときに誘拐された話の真偽について、杉村の妻・菜穂子は、自分たちの娘に置き換えて想像することを促し、相当に怖いことがあったことは確かなはずだと述べる。
また、別の場面では、事故目撃者を募るビラを撒いた後でかかってきた非通知の無言電話の主がおそらく梶田さんを自転車で轢いてしまった中学生であることについて、杉村が同僚のシーナちゃんから、やはり想像を促される。(2つのシーンとも、杉村三郎に質問させて話を止め、繰り返し話させているのも読者の思考をコントロールするかのようだ)

「梶田さんの遺族が自分のことどう思っているか、知りたいのかもしれないですね」
「うん?どういう意味かな」
「その子の気持ちを想像してみてるんです。遺族はどのくらい怒ってるのかな。自分のこと許してくれるだろうか。怖いなぁって。それを知りたいけど知りたくない。だって怒ってるのは当たり前だし、そう簡単には許してもらえやしないってこともわかってる。中学一年生ならね」
p364

このようにして、出来事を色々な人の視点から眺めていると、杉江氏の言う通り、「謎が成長する」。事実は増えないのに、見方が多面的になっていき厚みが増す。
こういった宮部作品の巧さについては、『理由』(1998)~『模倣犯』(2001)~『誰か』(2003)の流れと合わせて杉江氏が詳しく解説していて、それも大変面白い。

誰か

その詳し過ぎる解説には、書かれていなかったのだが、タイトルの「誰か」(who is itではなくsomebody)については、すぐには分かりにくいものの、作品テーマがそのまま込められていると感じた。
この小説で一番印象的な文章は、「誰か」という言葉が含まれる以下の部分だ。(後半を読み返したが、やはりここが一番熱がこもっている)

野瀬祐子はまた泣いた。だが自分を責め、自分を苦しめて泣いている。さっきまでの涙とは違っていたと思う。
彼女もわかっていたのだ。言われるまでもなく、心では知っていた。それでも、誰かの口からそう言ってほしかったのだ。
わたしたちはみんなそうじゃないか?自分で知っているだけでは足りない。だから、人は一人では生きていけない。どうしようもないほどに、自分以外の誰かが必要なのだ。

p402

(ここは完全ネタバレ部分*2ですが)野瀬祐子が電話で杉村に語った「真実」は以下の通り。

  • 28年前、野瀬は、日ごろから暴力を振るわれていた父親を意図せず殺してしまった
  • 職場で信頼していた梶田に打ち明け、梶田夫妻が遺体を秩父山中に埋めることを引き受ける
  • 梶田夫妻不在の約一日間、野瀬が、当時4歳の聡美を預かる(これを聡美が誘拐の記憶と勘違い)
  • 野瀬はトモタ玩具を辞め、同じタイミングで梶田一家も辞めて寮を出て、音信不通に。
  • 28年ぶりに梶田が野瀬のもとを訪れ、聡美の結婚を報告し、披露宴にも誘う。運悪くその日の帰りに事故に遭って亡くなる

未だに、梶田氏が後悔しているのではないかと繰り返す野瀬に、そんなことがあるわけがないと諭す杉村の言葉に野瀬は涙を流す。そんなシーンだ。


この部分もそうだが、この小説は「そう簡単に割り切ることはできない」人間の核の部分を丁寧に説明する。パターン化されたミステリであれば、「殺意があり、手段があったから殺した」程度の因果関係をもとに、パズル的にロジックを組み立てる。
それとは異なるタイプの『誰か』という小説は、野瀬祐子の告白で、メインストリームの謎が落ち着いたあと、一見ロジカルに見えない流れで、突然、梶田姉妹の確執に焦点が当たる。

ラストに配置されるのが、10歳下の妹(梨子)が結婚式を控えた姉(聡美)の結婚相手を奪うという下種な話で、事実だけを見ると、直前に明かされた死体遺棄の話と比べて軽い話に見えてしまう。
しかも、不倫の事実は、最後まで辿り着かずとも、早い段階で「え?でも何で?」と読者が気がつくように話が作られている。
それでも、最後に、不倫の事実が発覚し、それが「死体遺棄」の事実と密接に関わっていることを理解すると、ぐむむむむ…と、残酷な現実と話の巧さに唸ってしまう。


不倫の事実に気づいた杉村三郎は、梶田妹・梨子、その不倫相手で姉・聡美の婚約者・浜田、そして聡美、という当事者3人のそれぞれと話をする場面がある。ここで、聡美に対して、「真相」を知っている杉村はこう考える。

私はいろいろ考えた。たくさんのことを言おうと思った。あなたと梨子さんはご両親の愛を争って育った。あなたは梨子さんが”いちばん星”であることを羨み、梨子さんはあなたがご両親の戦友であることを妬んだ。
あなたは怖がりだが、梨子さんは闘士だ。あなたを打ち負かすために、あなたの持っているものを横取りすることで、あなたより自分の方が強いということを証明する。それが梨子さんの生き方だ。それをわかっていて、負けも認めないし勝とうともしない。それがあなたの生き方だ。
よそう。こんな分析が何になる?
私は沈黙を守っていた。
p452

忘れたい記憶と強く結びついた(そして共に乗り越えてきた)聡美と、新しい生活が落ち着いてから生まれた梨子では、どうしても育て方に差が出てしまう。
そこから生まれた姉妹の確執は、真相を知らない当事者たちには、その理由がわからないまま、今後も続いてしまうのだろう。
真実を知っても、それを伝えられない。そして背負っていかなければならない杉村はそれだけでも辛いが、梨子、浜田だけでなく聡美からも、「杉村のように恵まれた人には私たちの気持ちは分からない」と無碍にされるのがさらに辛い。


ただ、聡美は混乱しているが、自分ではわかっていたはずなのだ。
結婚したとしても、浜田とはうまく行かないし、姉妹間の争いは悪化することが。
だから、野瀬祐子の部分で出てきた文章は、そのまま聡美に当てはまる。

彼女もわかっていたのだ。言われるまでもなく、心では知っていた。それでも、誰かの口からそう言ってほしかったのだ。
わたしたちはみんなそうじゃないか?自分で知っているだけでは足りない。だから、人は一人では生きていけない。どうしようもないほどに、自分以外の誰かが必要なのだ。

「自分が一番わかっている」はずのことも、最後に「誰か」の一押しが無ければ行動に移せない。だからこそ、他の人の人生に介入するような言葉がけも、僕らはしていく必要がある。
つまり、杉村三郎が野瀬祐子や梶田聡美にとっての「誰か」となったのと同じように、他の人の「誰か」になる可能性は誰にでもあるのだ(感謝されないどころか非難されもするけれど)、と作品メッセージを理解した。


皆がそれぞれ自身の人生を生きているから、他人への安易な口出しは「余計なお世話」だ。一方で、誰もが強いわけではないし、後ろ暗い面もあるだろう。そういった人間の弱い部分に出来るだけフォーカスして、話をつむぐのが宮部流なのかもしれない。
改めて、宮部みゆきは優しい作家だと感じた一冊でした。

このあと読む本

杉村三郎シリーズは、このあと『名もなき毒』『ペテロの葬列』『希望荘』『昨日がなければ明日もない』と続くが、解説で名前の出た『理由』『模倣犯』は読まないといけない。(『理由』は読んだ可能性がある)

*1:感想を書き進めても、その本を読むのが(感想を書くのも)2度目であることを忘れていたという衝撃の一冊でした。

*2:ブログで意図して真相を隠したりしていると、読み返して全く思い出せない自分に対して過度なストレスを与えるので、できるだけ書くことにしました。