Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

無関心でいることはできても無関係でいることはできない~北原モコットゥナシ『アイヌもやもや』


元々、昨年末の『ゴールデンカムイ』実写映画化のタイミングで、改めて当事者キャスティングと差別というキーワードで「アイヌ」について考える機会が増えたことがきっかけで読んだ本。
...ではあったが、この本を読んで特にハッとさせられ、良いと感じたのは、(1)アイヌ問題に限らず差別全般を話題にしていること、および、(2)マジョリティの立場の読者に向けて、強く「君たちこそ”当事者”なのだ」というメッセージが発せられていることだった。
アイヌに限定したものではなく、より一般的な差別に関する本、ということで、広く読まれてほしい本だと感じた。
目次は以下の通り。


この本の特徴は、アイヌや、非アイヌの抱えるスッキリしない思いをこめた『アイヌもやもや』という柔らかいタイトルが示す通り、読み手のハードルを下げることに心を配っていること。
それが最もよく表れているのが漫画を挟んだ構成で、4章構成内で4つずつのパーツに分かれたテーマそれぞれに、アイヌとしてのルーツを持つ家族の漫画と、エピソードに対する解説がついている。
表紙にも一部抜粋されている漫画は、田房永子さんによるもので、一連の著作を読んでいた自分にとっても非常に入りやすい本であった一方で、読後感は、思っていた以上にマジョリティとして緊張感を持つような本だった。
以下、特に「気をつけたい」と考えた3つについてメモをしていこうと思う。

ネット空間での「新しい差別」

3章では、近年、露骨な差別は減ったが、ネット空間など匿名性のある場面で起こるようになってきた「新しい差別」として、「アイヌはもういない」など存在そのものを否定する「否定論」や、「マイノリティ利権」(在日特権同和利権など)が取り上げられている。
否定論については、ちょうど、sessionで書籍『〈寝た子〉なんているの? ー見えづらい部落差別と私の日常』の著者・上川多美さんのインタビューを聞いたばかりだったので、ホットな話題として読んだ。
また、先日、厚生労働省ハンセン病に対する意識調査を初めて行い、その結果がニュースとして流れた。*1
近年は、「LGBTQ+の人なんているの?」と考える人は少なくなってきたと思うが、部落差別やハンセン病アイヌについては、今あるもの、というより、史実として捉えてきてしまった人が多いのではないだろうか。特にアイヌについては、まさに自分がそのタイプだと思い知らされた。


また、マイノリティ利権や陰謀論などについては、以下の説明に尽きる。

マイノリティの施策に限らず、公的な施策は税収入を運用して行います。しかし、マイノリティに関する施策は「我々とは無関係」である、つまり「不必要な施策が行われ税金が投入されている」というのです。そしてこれは「怪しい人々に大金が流れている」とか「国の中枢が支配されている」といった陰謀論にもつながっています。こうした主張にのめり込んでしまうのは、社会や制度がマジョリ ティに傾いていることを実感できないためです。マイノリティが不利な地位に置かれている事は制度的差別・文化的差別の結果であり、それを是正するための取り組みを、差別と呼ぶことはできません。

p109

さらに、このあと取り上げられていた「当事者性」「代表性」の問題が、ネット上で非常によく見られる炎上を理解する上で、常に参考としておきたい基礎知識だと感じた。
例えば、先日のイオンシネマ調布の車椅子ユーザーの苦情に関する問題*2は、ある部分までは車椅子ユーザーの不便を「代表」して語ってはいるものの、彼女自身の特性ももちろんあり、その思考や性格も含めて、「車椅子ユーザーはこういう人」と語るような言説は危うい。
このあたりのマイノリティ内の多様な立場と、組織の在り方や意見収集の方法の課題、さらには、アイヌの活動に和民族(非アイヌ)が入る場合(組織の代表となる場合)の意識のズレについては、なるほどと思いながら読んだ。


関連して、「学者批判」の項目が興味深かった。
明治期以降の日本の研究者は、日本の優越性/アイヌの劣性という予め決まっている結論に向け、人種主義的な研究を進めることで研究を進めてきた歴史があるため、アイヌの口から「学者」「研究者」という言葉が発せられるときは批判的なトーンを伴う。
そんな中で「あんた誰」と中見出しのついた文章を長めに引用する。

変な話ですが、学者批判や政策批判の隊列には、アイヌへの支援を謳って和民族社会を批判する和民族も加わります。ここでも、しばしば主語の大きさが問題になります。支援者を自認する人が活動をともにしているアイヌは、数人からせいぜい10人くらいでしょうが、活動を発信するときには「アイヌとともに」と、いきなり話が大きくなります。「全米騒然」くらい主語が大きいですね。マイノリティあるあるだと思いますが、支援者ポジションに立ちたがる人はいわゆるマンスプレイニングをするタイプです。何らかの事情で、強い承認欲求を持ちながら、マイノリティに関わろうとするためか、いやに上から目線で、なんでも先回りして保護者的に振る舞うコミュニケーションしか知らない。そして、そのことに無自覚。
(略)
繰り返しになりますが、アイヌの立場や考え方は多様です。支援者ポジの人々は、アイヌ全体を代弁しているかのように振る舞いますが、実のところ自分の意向を受け入れるアイヌを「真のアイヌなどと呼び、その声を選び取っているのです。そして、支援者のはずだったのに自分がプレイヤーになり、「アイヌはですね!」とか「お前たち日本人は!」と正義の怒りを叫ぶのです。あなたの立ち位置はどこ?と思わずにはいられません。

p118-119

このあたりは、いかにも悪い意味での「サヨク」的な振る舞いで、右からは勿論、「寄り添われている」はずのマイノリティからも嫌われていることがよくわかる。アライだ何だと「寄り添いたがる」自分のようなタイプは、気をつけなければならない。

「私たち」って誰?

そして大きなショックを受けたのは、「マイノリティを理解する」という項目で書かれている内容。この項目の漫画の出だしはこんな感じ。

結局、こういった啓発を目的としたリーフレットや報道の場合、書き手(作り手)も読み手も、アイヌを含まない「私たち」になりがちで「私たちは彼等から学ぶべき」「私たちの知らないアイヌ文化を見てみましょう」などの言葉が並んでしまう。

啓発のパンフや教材の役割は、人々に情報を伝えるだけでなく、読み手の考えや意見を引き出すこと、人々がそのテーマにそって意見を交わすきっかけを作ることです。もちろん、マイノリティ自身 も読み手となるし、いっしょに意見を交わすことも必要です。とこ ろが、アイヌが第三者として描かれていると、読み手に「アイヌはここにはいない」という前提を与えてしまいます
(略)
 私たちの認識は、言葉によって強く影響を受けます。(略)その場で使われている言葉によって、私たちは無意識に様々な判断をしています。ですから、アイヌが常に三人称で語られていれば、受け手は「アイヌとはまずその場にいることは無い、遠い存在」という前提を作ってしまいます。  
p125

つまり、アイヌを第三人称で書くことは、対話の場から締め出す効果を持ってしまうという。
であれば、どうすればよいか。

以上をまとめると、アイヌについての一般的な説明は「世の中のどこかには風変わりな人がいる」と知らせるもので、「私たち」に表される和民族の世界に変化を起こすものではないようです。これでは、アイヌが和民族の世界に参入する気苦労や面倒はなくなりません。「あなたのいる場所は多様な人が隣り合ってくらすところで、あなたもその一部だ。あなたが周りを見るように、周りもあなたを見ている」というメッセージに変えていかないと。
p128

たとえばビブリオバトルで差別に関する内容を含む本を紹介するときに、自分はいつも「自分がマジョリティの立場にいること」「聞き手に”当事者”の立場の人がいる可能性があること」を意識しているつもりだったが、ここで書かれるよう、もっと、今暮らしている社会がすでに多様な人とともにあることを前提とした言葉遣いをする必要があると感じた。

マジョリティの優位性

そして、満を持して、というべきか、第4章は「マジョリティの優位性」について1章を割いて書かれる。
中でも「本州出身」は「アイヌについて知らなかった」ことの免罪符にならないという指摘が痛かった。
ここでは、アイヌのみならず沖縄、朝鮮、台湾などの問題も含めて、次のように書かれる。

繰り返しますが、現代の人々の多くは占領に直接関与したわけではないものの、支配や占領から利益を得て作られた社会に暮らしていること、支配が今日も続いていることと無関係ではありません。無関心でいることはできても無関係でいることはできないのです。
和民族を中心・標準とする考え方を身に付けていれば、他の民族を抑圧することにも、否応なく関わってしまいます。「本州出身だから関係ない」と、問題から自分を切り離すことは、そうした責任から目を背けることです。マジョリティもマイノリティも、たとえ不本意だとしても、自分の立場から離れることはできません。可能なことは、社会の仕組みを変えるために働きかけることです
p141-142

ここで重要なのは、「支配・抑圧を受けてきた側からの問いかけに、応じようという姿勢」=「直接的に罪を負う、というのではなく、相手からの問いかけを黙殺しない姿勢」であることで、それが何度も強調される。*3
この章では、さらに具体的に「できる」「できない」対照リストなど、具体的な例を挙げながら、「自動ドア」という特権のある暮らしと、それが無い(ドアを開けるにも苦労の多い)暮らしを説明する。
この、現状認識について詳しい解説のあとの文章が、また、自分のような人間が陥りやすい「声かけ」で、非常に耳が痛い。

不利な立場に生まれた人と同じく、優位な立場に生まれた人も、自分で選んでそうなったわけではありません。立場の弱い人を見下したり、自分の特権を利用して相手を脅かしたりすることは不当だと言えますが、たまたま特権的な立場に生まれたことが悪だというわけではありません。ただ、自分が生まれた社会にある不均衡を維持したいか、変えたいか、ということは問われます。そのとき、無関心を装ったり、格差や抑圧を無いことにしたりしてしまうことは、結果的には不均衡な現状の維持につながるのです。「ぼくは立場の違いを気にせず、垣根なく付き合いたい」と言ってみせることは、優位な立場の者にとっては気分の良いことかもしれません。しかし、マイノリティにとってはまったく意味がありません。むしろ、自分が優位にあることを隠す、あるいはマイノリティからの指摘にまともに取り合わない態度として呆れられるかも知れません。
p153

それでは「マジョリティはどうすればいいのか」というのが、次の「解説15」のテーマになっているが、ここでも厳しい指摘は続く。

  • よく「当事者の声を聞く」ことが重要と言われるが、傷を負ったマイノリティが声をあげるのは精神的負担が大きいことを知ってほしい
  • 必死に絞り出した申し立ての声が、マジョリティに「気のせい」「よくあること」の一言で打ち消されたり、「感情的・ひがみっぽい」などのバイアスをかけられることも多い
  • そもそもマイノリティはマジョリティが作り出した環境の中で暮らしているのだから、マジョリティも「当事者」である。もっとマジョリティが声を上げるべきではないか。
  • インタビューやルポルタージュの形で、アイヌの声を書いた書籍は60年代から存在し、良書も多く、(新しい取材で問わなくても)すでに「生の声」は響いている。
  • 特に、報道関係者や、研究者(学生含む)で、それらアイヌの言葉に目を通さずに「何が問題なのか語ってくれ」と聞くのは一種の怠慢である。

これらを踏まえて最後に、マジョリティに「アクティブバイスタンダー」になって欲しいとまとめられており、具体的な行動を促進するための「5つのD」について紹介がある。(Safe Campusという、性暴力や性差別をなくすための取り組みをしている学生団体の活動の紹介)

pillnyan.jp


日常的な会話や宴席、もしくは電車内などの公共空間で「アクティブバイスタンダー」として行動できるためには、常に意識し、「行動」に移せるよう、イメージトレーニングをしておきたい。