Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

これまで見たことない映画~『リョーマ! 新生劇場版テニスの王子様』


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本当は、『空白』か『護られなかった者たちへ』が見たいと思っていた。
しかし、それでも『リョーマ!』を選んでしまったのは、邦キチのせいだ。
もともと映画館で予告編を見たときから気になり過ぎていたこの映画。登場人物たちが、少しぎこちない感じのCGで画面を埋め尽くすようにダンスを踊る、というだけで頭の中は疑問符でいっぱいとなり、ラップバトルもあると聞き、行きたい気持ちは膨れ上がる。
それだけなら、まだ良かった。
9月末にTwitterに流れてきた日ペンの美子ちゃんの漫画にされに気になるワードが追加された。

足テニス……!!!
足テニスって何だよ!


公開から1か月くらい経っているが、調べてみると、応援上映(無声)すら行われているという。
そこに来て、邦キチの10/15公開のネタが『リョーマ!』であるとの発表。
邦キチで読んでしまったら、この盛り上がった『リョーマ!』熱は、かなりクールダウンされて、見てないのに見た気になってしまうかもしれない。
むしろ、「あれでしょ。ラップとダンスと足テニスのテニス映画でしょ」と決めつけて、結局本編を見ようという気にならないかもしれない。


『空白』や『護られなかった者たちへ』を見た場合、何か具体的な社会問題に関心を持ったり、俳優の演技力に感嘆し、ストーリーに涙して、周囲に映画の良さを布教するかもしれない。
どんなに自分にとって名作映画だったとしても、そこは想定の範囲内だ。

しかし、『リョーマ!』の場合は、想定外だ。
これまでCGのキャラクターがラップバトルする映画を見たことがないし、ましてや、足テニス…
さらに、この映画、2バージョンあるというのも意味が分からないし、レビューに「エンドロール後に8曲かかるので席を立たないで下さいね」という言葉を見かけたのも気になる。

ここまで気になっているのに、その炎をすべて邦キチに消されてはかなわない。
もう行くしかない。

で、見てきました

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そもそも今回は番外編的な位置づけで、映画だけでも意味の分かる親切設計にはなっているが、予想以上に全体的に明確にストーリーの起伏の分かりやすい映画になっていた。

確かに、ラスト全米オープンで父親のサムライ南次郎が優勝したあと、表彰式を待たずに速攻で全観客が退場する場面とかは、南次郎VSリョーマを描くためのお膳立て過ぎてどうかとも思ったし、細かい突っ込みどころは多い。

しかし、ラップバトルも足テニスも自然な流れの中で出て来るし、突然始まるミュージカルも、もともとCGのビジュアルが変なので、むしろ違和感がない。

一点、公衆電話から現代日本のライバルや先輩に繋がり突然のミュージカル演出、という部分は無理があったが、歌を終えると公衆電話の屋根の上にいることに気が付く、という限りなく不自然な展開で、ここは「そういう世界」を楽しんで見ることができた。


そして、エンドロール後の8曲は、本編とあまり関係がなかったのだが、主題歌「世界を敵に回しても」(テニプリオールスターズ)もキャッチーで、また、「Love Festival」の楽曲中に学校名で合の手を入れる仕掛けも楽しい。何より、漫画原作の画像をちりばめたダイジェストが、本編の楽しさを想像させるものになっていた。
特に比嘉中のリーゼントのキャラクターはビジュアルがカッコ良くて気になる。

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そもそも、自分は『テニスの王子様』を「新」がつかない方の最初21、22巻くらいまでしか読んだことがなく、跡部や手塚先輩などの基本キャラクターは知っているものの、例えば、自分の見たdecideバージョンで登場する幸村精一は今回初めて見ている。
また、今回、南次郎の子どもとして登場するリョーマのお兄さんもまだ登場していなかった。

今回Wikipedia等を見てみると、通常テニプリと聞くと思い浮かべる、あり得ないタイプの必殺技たちは、自分の読んだ巻よりも後あたりから頻出し始めるらしい。
そういったことを諸々含めると、今回の映画は、これからテニスの王子様を読み進めようというモチベーションを与えてくれる良いきっかけになった。
来年からアニメの新シリーズも始まるということで、どんどん必殺技を習得していきたい。

邦キチ

邦キチの『リョーマ!』回がアップされた!(Seeason7第7話)
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まさかの「足テニス」スルー…笑

「ありのまま」とは何か?~沼田和也『牧師、閉鎖病棟に入る。』

これまで牧師として見舞いに行っていた病院へ、患者として入院した著者。その病棟は、分厚い扉で仕切られ−。
「ありのままでいい」と語ってきた著者が、ありのままに生きられない人たちと過ごした閉鎖病棟での2ケ月を綴る。

予想していたものと違った部分がいくつかあった。
それこそ偏見だが、「牧師」という肩書から、何となく「無私」な人を想定していた。しかし、こういう言い方は変だが、沼田さんは結構「俗人」だ。「私」が頻繁に顔を出す。

また、精神的なものを原因とした入院と聞くと、吾妻ひでおの『失踪日記』を思い出す。作中で自らを省みるような訓練を受けるという状況も似ている。
閉鎖病棟」という言葉のイメージもあり、作者は、その中で落ちるところまで落ちて正気を取り戻すのではないかと思っていたが、復帰に至るまでの過程はそこまで劇的なものではない。


ただ、それらの予想外だった要素は、そのままこの本の読みやすさにつながっている気がする。

まず、沼田さんが「牧師」然としていないことで、読者側からは、身近に感じられるだけでなく、時に、嫌悪感を抱くくらいの場面もあり、問題を我が事として捉えることが出来るようになっている。

また、沼田さんの(自己啓発的な)「悟り」が、あくまで「俗人」的に語られることは、読む者に対して、これなら自分も一歩を踏み出せる、と思わせる効果があると感じた。

もちろん、このあたりは、沼田さん自身の文章の上手さによって成立している部分だ。

「ありのまま」とは何か?

この本の核は4章にある「ありのまま」論だろう。

1章から3章までは、自らのことについては抑え気味で、入院生活とそこで出遭った人たちについて書かれている。ここでは「社会的入院」が長期間に渡ることの問題点についても触れられている。

そして4章で、自己の内面について掘り下げ、5章で自身の過去についても批判的に触れながら内面への分析を深める、という形になる。


作者は閉鎖病棟の中で、主治医に「認知行動療法ノート」として、日記を記すよう命じられ、診察のたびに、その日記の内容について批判的な問いかけを受ける。
しかし、それは当然気持ちの良いものではない。あるとき、我慢できなくなった作者は「こんなものは治療ではない!わたしへの侮辱だ!」と椅子を蹴とばしたという。
そんな作者に主治医は、「ありのままでいい」と言ってもらいたい願望は捨てて、自己の内面を見つめて考えを深めることを求める。
これまで牧師として、多くの人に「あなたはありのままでいいんですよ」と語ってきた作者はショックを受ける。


沼田さんはまず、これまで使ってきた「ありのままでいい」という言葉が、向けた相手ではなく自分自身にとって心地よかったこと、「ありのまま」という言葉を武器にして、多弁な言い訳によって自分を糊塗し、なんでも人のせいにしてきた自分を認める。
さらに主治医が何を求めているのかを考え、キリスト教の「罪」の本来の意味が「的を外すこと」であったことに思い当たる。古代ギリシャの戦いでは、戦場で敵めがけて槍を投げる。槍が敵に命中するかどうかは生死にかかわるというのだ。

一所懸命に生きているのに、それこそ誰かのために命懸けで生きてきたのに、的を外してしまうことだってある。誰かを愛して、その愛が相手を傷つけてしまうことが。相手だけでなく、自分も満身創痍になることさえある。最初から意図的に傷つけよう、傷つこうと思って誰かを愛する人はいるだろうか。愛もまた的を外す。(略)
わたしは「これこそがわたしの『ありのまま』だ」という像を、何度も繰り返し、私自身という的へ向かって投げ続ける。しかしそれらはことごとく的を外し、わたしの内には今や、的を外した無数の槍が突き刺さっている。それらの槍はわたしの内部に突き刺さったまま、じんじんとわたしを痛め、わたしを内側から傷つけるのである。そうやって、ありのままどころか、わたしを苦しめる無数の自己イメージが、ますます増殖していくのだ。
自分の投げた槍が的を外していることを確認するだけではまだ足りない。投げ方を吟味する必要がある。陸上競技槍投げをする選手は、つねに自分のフォームをチェックし続けているはずである。余計な力が入ったり、不要な癖がついたりしてはいないか。フォームに不備が見つかれば、今度はそれを取り除くための練習を重ねるだろう。(略)

わたしのイメージする「ありのままのわたし」というあれこれの理想像は、おそらくどれも的外れである。的外れなだけでなく、わたしを苦しめる縛りや痛みとなっている。それらの理想像一つひとつを吟味していっても、時間ばかりかかって生産性がない。そうではなく、そのような「ありのまま」という槍を投げてしまう、その欲望のしくみ自体に潜む、自分の思考の癖を問わなければならない---これが、主治医がわたしに課したことだったのである。p125-127

「ありのまま」という、近年の流行語でもありながら、誰もが陥りやすい「罠」について、わかりやすい比喩でその問題点を説明しており、理解しやすい。
また、自分の理想像をどこに置いて槍を投げているか、また、その投げ方が十分吟味されたものになっているか、という問いかけは僕自身にも当てはまる。こういうことに無頓着なタイプではあるが、「槍を投げていない人」というのはいないはずだ。
沼田さんの書くように「無数の自己イメージ」が自分自身を苦しめていることもあり得なくはない。
忙しいと後回しにしてしまうが、しっかり自己の内面と向き合う時間を作りたい。

不満に感じる部分

4章後半では、入院前にTwitter依存に陥っていたことが語られ、その背景には何があったのかを分析する。さらに5章では、中学3年生の頃まで自らの過去を「ほじくり返す」。
このように自己の内面を見つめ直すことによって、作者には、変化が生じたという。

その頃、わたしは「相手にも言いぶんがある」という、考えてみれば当たり前のことを、ようやく理解できるようになっていたのである。p169

最初にも挙げたが、この辺は謎だ。
これまで牧師として多くの人とコミュニケーションを取り、指導的立場にあった人が、相手の気持ちを考えることをしていなかったということがあるだろうか。


また、そもそも、教会に隣接する幼稚園の園長としての生活でストレスが重なった挙句、キレて副園長を罵倒してしまった。そのことで「閉鎖病棟へ入院」となる経緯も良くわからない。同室の若者マレは「妹をかなづちで殴って」閉鎖病棟に来ているのと比べると釣り合わないように感じてしまう。
(むしろ、入院前に「罵倒」以上の直接的な暴力があったが、それを隠しているというのであればわかる。)


沼田さんは結局2か月で閉鎖病棟を出て開放病棟に移り、合計で3か月の入院を経て退院となる。しかし、通常の社会生活を営むのが難しいために年単位で「社会的入院」を続けている閉鎖病棟の仲間たちと比べると、最初から開放病棟で良かったのでは?と思ってしまう。

さらに、閉鎖病棟の生活でマレに代表される少年たちが、沼田さんの行くところに常についてきて、いつでも話しかけてくるのに耐えられず、とうとうキレて怒鳴ってしまうという事件が起きる。これは開放病棟に移る直前の時期だ。
閉鎖病棟に入る理由が「キレた」ことだったのに、出る直前も「キレて」る。それでは何を入退院の基準にしているのか?このあたりは本当に謎だ。


少し言い方を変えると、入院生活をともに過ごした若者や看護師、主治医などの人物や入退院の仕組みや制度が、作者の視点からだけで語られることが一番の不満点だ。

例えば、作者の指摘により、患者への暴力を働いていた看護師が指導を受けたあと、作者に対して「鬱陶しいインテリ密告野郎」と思っていたのではという推測、看護師が仕事にみあった給料をもらっていないんじゃないかという憶測(p100)、同様に、主治医の給料を推測した上での、「彼は明らかに給料以上のことをしてくれていた」(p195)という感想。このあたりは、(作者自身もそう意識して記載しているが)完全に偏見によるものだ。

全く「牧師」らしくない、このような「上から目線」の書き方は、この本の魅力の一つではあるが、この本を読んでも、看護師と医師が患者や社会的入院をどのように思っているかは語られない。さらに閉鎖病棟開放病棟の入退院の基準も語られないまま、(50年以上の人もいるという)長期入院患者の情報を教えられても、読んでいる側としては不安が募るだけだ。

たとえば、カレー沢薫『なおりはしないが、ましになる』は、「発達障害」当事者の口から自分勝手な意見が語られるから面白いのだが、それとバランスをとるように医師監修が入り、「正しい情報」が得られるから、安心して読むことが出来る。


この本では、終章で精神科医の見立てが分かれる。一人の医師は、再び牧師になろうとする沼田さんに「精神障害のあるあなたが責任のある仕事ができると、本気でお考えですか?」と強い口調で言う。それに対して、閉鎖病棟にいるときからの「主治医」は、復帰を薦め、沼田さんは後者にしたがった。

この本は退院後5年以上経ってから書かれており、実際、今沼田さんは牧師をしているので、この選択は正しかったといえるのかもしれないが、読者からすると、2人の医師の判断が分かれた背景も含めて、もう少し突っ込んで専門家の意見を聞いてみたい。

そもそも、2か月の入院だけで「閉鎖病棟を語る」のは、素人目から見ても難しいと思える。やはり、1章分くらいは割いて、現場医師・看護師や専門家による解説を入れるべきだったのではないかと思う。

とても面白い本だっただけに、その点は多いに不満に感じてしまった。
が、ないものねだりをしても意味はないので、興味を持った「社会的入院」については、ほかの本で勉強することとしたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

Original Love オフィシャル・カバーアルバム『WWW』は名盤です


今回、Original Loveのデビュー30周年を記念して制作された初のオフィシャル・カバーアルバム「What a Wonderful World with Original Love?」を聴いて、カバー曲を聴く楽しみについて考えてみた。
アルバムの収録楽曲は以下の通り。

01.原田知世「朝日のあたる道 (Album Version)」
02.長岡亮介「ディア・ベイビー」
03.椎名林檎「LET'S GO!」
04.SOIL&"PIMP"SESSIONS & KENTO NAGATSUKA (WONK)「MILLION SECRETS OF JAZZ」
05.斉藤和義 & Rei「JUMPIN' JACK JIVE」
06.TENDRE「IT'S A WONDERFUL WORLD」
07.小西康陽「夜をぶっとばせ」
08.Yogee New Waves「月の裏で会いましょう」
09.東京事変「プライマル」
10.YONCE (Suchmos)「ショウマン」
11.Original Love & Ovall「接吻」
12.PSG (PUNPEE, 5lack, GAPPER) & Original Love「I WISH / 愛してます」

まずは何といってもカバー曲として披露される選曲の楽しみがある。
今回の12曲で、ベスト盤で入ることの少ない楽曲という意味では「ディア・ベイビー」「I WISH」もあるが、一番尖った選曲は「ショウマン」だろう。
自分の中ではオリジナル・ラブ最高のバラードだと思うが、ファン以外にはあまり知られていない楽曲だ。悲哀に満ちつつ一歩前に進もうとする歌詞も良い。YONCEのカバーは、原曲をあまり変えずに、でも楽曲へのリスペクトが溢れるようなカバーで熱い。
今回のカバーを聴いて、名盤『ビッグクランチ』に初めて触れる人もいるかもしれないと思うとそれもまた楽しい。
なお、アルバム用の特別HP(Original Love 30th Anniversary Site)では、ライオンカット*1田島貴男がピアノを弾いている動画を見ることができてこれも楽しい。
(こちらですね↓)

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原曲の枠をはみ出た「超アレンジ」は単純に面白い。
今回のアルバムだと、長岡亮介「ディア・ベイビー」のカントリーアレンジが良い。オリジナル・ラブがデジタル方向に振り切っていた時期の原曲を、こう解釈するのか!という驚きもあるが、それよりも、原曲通りのブレイク部分が最高。
イントロで「そう来ましたか~。ふーん」と、すまし顔で聴いていたがブレイク部分で土下座だ。(そうなんですよ。この曲は、ブレイク部分の田島貴男のダンスが最高なんですよ!)
(こちらも公式からリンクされているYoutubeはこちら↓画像が粗い!ライオンじゃなくて若獅子かな。)

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カバー曲を聴いて、改めて原曲の良さに気が付いたり別の一面を知ることがある。
一番わかりやすいのは女性が、男性歌唱の曲をカバーする場合だが、原曲とボーカルが違うこと(カバーなので当たり前だが)によるその差異が単純に面白い。
椎名林檎による「LET'S GO」は、原曲が良すぎて、どうアレンジしてもカッコよくなってしまう上に椎名林檎的なジャズアレンジで、ズルい。
小西康陽の「夜をぶっとばせ」は、ボーカルが無く、田島貴男の新録スキャットが聴きどころかもしれないが、終盤で執拗に1フレーズを押して、パーティー曲っぽくなってくるのが面白い。*2


そして、男性ボーカルで一番面白かったのは、Yogee New Wavesの「月の裏で会いましょう」。田島貴男と全く異なる発声と体温が低い歌い方は、何となく、そのまま「夏なんです」を歌ってしまう感じだ。
今回のアルバムは、Love Jam人脈総ざらいという一面もあると思うが、Yogee New Wavesの出演したLove Jam vol.3(2018年1月。行ってません)で一緒に出演したnever young beachがあまりに、大瀧詠一を彷彿とさせるボーカルだったので、当時、二組を少し齧ったとき、never young beachばかりが気になってしまったが、Yogee New Wavesももっと聴かなくちゃいけない。


さて、今回のアルバムで嬉しいのは男女共演曲が2曲もあること。
東京事変「プライマル」は、最初、既に3曲目の「LET'S GO」を聴いたあとに9曲目で、また椎名林檎の声が聴こえて、あれ?何故ここで、こんなに「薄い」感じのカバー?と思った。ところが2番で長岡亮介の声が聴こえて来て大納得。
そして何より斉藤和義Reiの「JUMPIN' JACK JIVE」。もともとが掛け合いで演奏するのが似合う曲とは言え、このギター対決は、完全に「別競技」が始まってしまった雰囲気で、1粒で2度美味しい。そしてReiの適度に気の抜けたボーカルが何度聴いても楽しくなってしまう。「踊ってみろよーほら」の部分はこのアルバム内でもボーカル部門の金メダル。


ラスト曲「I WISH / 愛してます」は、タイトルにもPSGの「愛してます」が入っているように、カバー曲では無い。「I WISH」をサンプリングした「愛してます」に「I WISH」をくっつけた楽曲だが、最後に、今の田島貴男が「愛してます」の方に侵食していく感じが、時空を超えていて感動的。
名曲「グッディガール」初披露となったLove Jam vol.4(2019年1月。行きました!)のときからこのコラボレーションは見ていたが、改めてアルバムのラストに入ったことも含めてちょっと涙が出る。
なお、「愛してます」についてJ-WAVEの番組で二人が対談した内容がこちらで読めるので是非。→
miyearnzzlabo.com


さて、こうしてカバー曲を聴いていると、「原曲とカバー曲が相互に補間する曲」が一番強いという結論に至った。*3
カバー曲を聴いていると、脳内では並行して原曲が流れていたりする。
もしくは、0.5秒遅れくらいで田島貴男の歌声が追っかけてきたりする。
そうして、やっぱり原曲が聴きたくなる。そんな曲が良い曲だと思う。
ただ、それとは反対に、原曲を聴き直したときに、カバー曲のアレンジが頭に浮かぶぞという曲もある。


それが原田知世の「朝日のあたる道」だ、この曲が一曲目なのは自分の感覚からすると当然で、最初のイントロだけで「負けました!」となってしまうほどの名フレーズ名アレンジ。
伊藤ゴローさんのアレンジとのことだが、原田知世の癖のない歌唱が良く、このカバー曲自体がまず何度も聴きたいと思わせる魅力がある。
そこに、アルバムのジャケを見ただけで思い浮かんでしまうイントロのフレーズ。完全にこのアルバムの顔だと思う。大御所・原田知世が今回このアルバムに参加した経緯も知りたい。


ただ、このイントロがそこまで心に響かない人も多いと思う。
というより、そもそも音楽を聴くときに脳内で起きていることは皆違うのだろう。
例えば、椎名林檎の「LET'S GO」を聴いて、椎名林檎の別楽曲が脳内に流れる人もいるかもしれない。
今回、取り上げなかったが「MILLION SECRETS OF JAZZ」のカバーはSOIL&"PIMP"SESSIONS & KENTO NAGATSUKA。ボーカルの長塚健斗さんはフルで日本語詞を歌うのは初めてということで、WONKのファンからするとまた聴こえ方が違うのだろう。
同じ楽曲を聴いていても、それぞれの「聴きどころ」が皆違うので、同じカバー曲を聴いても「新しい」と思う人と「ありきたり」と思う人がいると思う。
これまで聴いてきた楽曲の積み重ねで音楽の聴こえ方は違ってくるし、同じことが絵画などのほかのアートにも言えるし、文芸作品でも同じだ。

そういう意味では、カバーアルバムを橋渡しにして今まで聴いたことがない(少ない)ミュージシャンの曲を聴いてみるのが、リスナー側の正しい受け取り方なのかもしれない。
Love Jamというイベントも、おそらくそれが意図されていたし、フェスに慣れ、アルバム単位では楽曲を聴かない今の音楽文化に慣れた人ほど、言われなくてもそういう聴き方をしているのだろうとは思う。

このアルバムは、そんな理屈っぽいこと言わなくても名盤だとは思うが、そんな風にして、たくさんの音楽を聴くきっかけにしたいなと思った。
ただ、自分の中では盛り上がっている(Love Jam vol.5に出演した)中村佳穂が参加していたらなあ、とも想像してしまう。
まあ、今後があるか。
こんなアルバムやコラボレーションが今後も増えることを期待したい。Love Jamもまた行きたい。

*1:これをライオンカットと呼ぶのが正しいのかどうかは知らない笑

*2:ちなみに、今回のアルバムは、ジャケにアルバムタイトルを略した「WWW」が書かれているが、HPを見ると、カバー曲それぞれにも略称がある。「朝日のあたる道」の略称が日本語読みから「anam」(DAIGOかよ!)なのに、「夜をぶっとばせ」は英語タイトルそのままで略さない「LET'SSPENDTHENIGHTTOGETHER」なのは解せなすぎます

*3:実は、これは、今年の前半ずっと聴いていたRYUTist「水硝子」の良さを考えていて辿り着いた結論。このシングルはアレンジ版との2曲で発売されたが、このアレンジ版が適度に原曲を壊していて、原曲との2曲が補い合うことで楽曲の良さが何倍にも膨れ上がる奇跡の2曲。コーネリアスの「STAR FRUITS SURF RIDER」理論を地で行く。

読んで色々と考えた~野田聖子『私は、産みたい』『生まれた命にありがとう』

野田聖子さんの本を読んだのは中島岳志さんが著書『自民党 価値とリスクのマトリクス』で『私は、産みたい』を「名著」としていたからで、総裁選に名乗り出た4人の中では(マトリクス的に)最も共感できる場所に位置する野田聖子という政治家に興味があったからだ。
pocari.hatenablog.com

『私は、産みたい』

40歳で職場結婚した国会議員を待っていた、不妊治療の高い壁。間断ない検査、憂鬱な服薬・注射、そして恐れていた緊急入院…。32歳の若さで国政に飛び込み、37歳で戦後最年少大臣に就任した女性が赤裸に綴る。すべての働く女性に贈る、勇気ある告白。

この本で書かれているのは、野田さんの40代前半に当たる。

  • 2001年(40歳):国会議員の鶴保庸介と知り合って4か月で結婚。自然妊娠を目指すも兆しがなく、年内から不妊治療を開始する。
  • 数か月を経た後、さらに詳しい検査で卵管閉塞が不妊の原因だったことがわかり、(卵管再生手術の選択もあったが)体外受精の道を選択
  • 2003年(43歳):6回の体外受精チャレンジのあと、一度不妊治療から離れるが、病院を変え、8回目で妊娠。
  • 2004年(44歳):2月に流産(「ねお」と呼んでいた子)

不妊治療の話は知人からも聞いたことがあるし、基本的な知識は「情報」として触れたことはある。しかし、個別の一事例とは言え、ある程度長い期間にわたる気持ちの浮き沈みの連続と夫婦間の(険悪な雰囲気も含む)やり取りを見るのは初めてだったので、それだけでも色々と感じるところがあった。


それに加えて驚いたのは国会議員の仕事のハードさ。
永田町には、金帰火来(きんきからい)という言葉があるというが、国会開催中は金曜日に地元に戻り火曜日に東京に戻るという生活が続き、土日もないという。
排卵日は調整できない中でのスケジュール調整のむつかしさはわかるが、妊娠判明後も(内緒にしているとはいえ)この生活をほとんど調整できない、というのは厳しい。
実際、地元の岐阜で大量出血し、出血の翌日には「欠席すると何を言われるかわからない」という理由から、別の議員の後援会総会に出席。夕方には業界団体の新年会にも出席。どちらも挨拶のみとはいえ、出血している妊婦としては当然避けたい行動だろう。*1
時間が不規則で移動が激しく、完全な男社会という職場の問題に加えて、議員らの偏見にも苦しんだことが語られている。
以下のエピソードも酷い話だ。

私のライフワークとも言える政策の一つに、選択的夫婦別姓の導入があります。(略)
しかし、この夫婦別姓に対しては党内でも意見が分かれており、とりわけ旧来の家族形式にこだわる方からは根強い反対にあっています。
その反対派のある重鎮議員、首相経験者と話している時のことでした。
「お前はそんなこと(夫婦別姓の導入)をやっているから子供ができないんだ」
とても理解を求めようという気にはなれませんでした。そんな理解のない状況で、不妊治療を理由に仕事を外すなどということはできませんでした。p113

おそらく、発言の主は森喜朗だろうと推測するが、こういう「絶対に理解を得られないお偉方」の仕切る職場で働くのは地獄だろう。
ここでは省くが、流産が決まってからの心の動きも読んでいて辛いが、そんな中でも行く職場がこのような地獄では…とより一層気持ちが暗くなってしまう。


全体(特にプロローグ)を読んで驚いたことが2つある。
一つ目は出版の時期。プロローグに書かれている通り、2004(平成16)年2月に、彼女は流産を経験している。それで出版が同年12月。そんなに短い時間で気持ちの整理ができるものなのか?もう少し待ってからでなくて良かったのか?
この本を読んでみても、不妊治療、妊娠に関する気持ちの浮き沈み*2や、夫婦間でのすれ違いについて実際のやり取りやその時の心情が具体的に書かれている部分が非常に多い。まさに「赤裸々」で、自身の言動を飾るところが少ない。
政治家の出す本なのに、生い立ちや政治家としての実績についてアピールするところはほとんどなく、むしろ通常は隠しておきたい部分が大半だ。
あとがきでは、我に返ったように政治的観点から自身の体験を振り返っている。

私の個人的な”母へのチャレンジ”が、この重要な時期に働く国会議員としての活動に厚みをもたせることになれば、そしてこの私の体験を通じて少しでも多くの方々が何らかの問題意識を持つきっかけとなれば。本書を綴らせていただいたのは、そういった動機からである。そしてこの記録が、「ねお」のささやかな墓標となることを願いつつ。

ということで、あとづけの部分もあるのかもしれないが、自らは勿論、夫だった鶴保庸介にとってもマイナスイメージが付く内容を率直に語った理由は、多くの方々への問題提起のためだという。
これはなかなかできないことで、自分もこの本で学び、おそらく同僚の国会議員へのインパクトも併せて考えると、出版の意味は大きかったといえるのではないだろうか。


全体を読んで驚いたことのもう一つは、帯にも関われている、「もう、あとがない」という強いメッセージ。出版時44歳だった彼女が、出産するのは45歳が限界だと考えているが故の「時間がない」「私に残された時間は日々、確実に奪い取られている」と繰り返し書いている。
だからこそ、このタイトルなのだろう。

実際には、この後、自身の出産が50歳となることを考えても、「45歳」は、野田聖子の自分勝手な設定であり(46歳以上の人を傷つける可能性のある言葉でもあり)、このタイムリミット込みのタイトルはむしろ自身にプレッシャーを与える意味が多分にあったのかと思う。
それほど切羽詰まった中で書かれたこの本は、保身のための「計算」が入らないという意味で、中島岳志さんの言う通り「名著」だと言えると、自分も思った。

『生まれた命にありがとう』

この本でも『私は、産みたい』で書かれた40代前半の話にも繰り返し触れられているので、実質的には、一冊で野田さんの40代の10年間の流れがわかる内容になっている。

  • 2004年の流産を経て、自ら妊娠のリミットと決めていた45歳を超えても体外受精のチャレンジを続けたが、2006年に二人は離婚。(正確には事実婚の関係を終えた)
  • 2007年1月に今の夫(たまたま食事をした焼肉店のオーナー)と出会う。
  • 子どもは欲しいものの、体外受精にチャレンジする気力も体力もなく、そもそも卵子の劣化が気にかかっていたところに卵子提供という方法を知る。

卵子提供は、第三者卵子の提供を受けて妊娠する方法で、国内ではまだアンダーグラウンドな方法となる(非合法ではないが合法のお墨付きがない)。必然的に海外で卵子提供を受けることになるのだが、国会議員として時間が取れず困難な方法だ。
そこに、大きな政治的動きが起きる。2009年8月の衆院選での自民党は政権の座を奪われる。野党になると一気に暇になるということで、封印していた妊娠、出産への道を前に進めることとし、2009年11月に視察の名目で渡米し、いくつかの検査を受けたあと、卵子提供のドナーを探す。
ここで、卵子提供(精子提供も同じ)という方法の大きな問題点が出てくる。つまり、ドナーの条件を選択出来てしまうということだ。この本では以下のように書かれている。

11月中旬、エージェントを通じてさっそく、1名のドナー候補の女性に関するメールが送られてきた。メールには、彼女にまつわる、さまざまな情報が書き込まれていた。
生年、身長、体重に始まり、血液型、民族、宗教、教育歴、自身のお子さんはいるかいないか、彼女の髪や目や肌の色。
病歴、手術歴、服用薬品、視力、喫煙飲酒の有無。
また、彼女のご両親の身長、体重、髪と目の色、ドナー自身の分析による彼女の性格や趣味等々…。さらに、彼女の幼少時の正面と横から撮った、白黒の顔写真も添えられていた。
p30

ドナーを選択できるという倫理的な問題点がわかっていたので、野田聖子夫妻はあらかじめドナーを選ぶことは止めると話し合っていたという。ただし、自身が卵子の劣化を気にしていたということもあり、ドナーの年齢、そして輸血等を考えて血液型のみを条件とした。
結果としてドナーは最初にドクターが勧めてきた白人女性(アイルランド系のメキシカン)に決定する。

  • 2010年の2月に再び渡米し、受精卵を移植。が、3月に妊娠に至らなかったことがわかる。
  • 5月下旬に改めて渡米し、受精卵を移植。(2月の段階で19個の受精卵を用意済みで、2月に3つを移植。残りの中から3つを移植)
  • 6月に妊娠判明。
  • 6/24参議院選公示、7/11投開票。自民は民主党議席数を上回り、ねじれ国会に持ち込む。
  • 8/5の定期健診で赤ちゃんに「腹腫」が見つかる。
  • 8/19の定期健診で、それが「臍帯ヘルニア」と分かる。(1万人に1人の割合で発生する疾患)

ここで野田聖子は、医師から羊水検査を行うか(染色体異常を確認する検査で、通常、中絶の判断のために用いる)を問われるが、このあたりは少し気になる部分だ。

いずれにせよ、私の結論は決まっていた。
「羊水検査は不要です。私は堕ろしませんから」
どんな子どもでも産むとの最終宣言だった。
「ねえ、そうだもんね」
振り返って夫を見る。夫は身じろぎ一つせず、固まってしまっていた。
「そういうことなんで、これからもよろしくお願いします」
夫に有無を言わさず、この瞬間、正式に出産が決まった。事前に夫の了解を取っていたわけではなかった。
(略)
「何年も付き合って、聖やんに何を言っても無駄だってのは分かっているけど、それにしても突然すぎて」
夫は私の決断自体に驚いたのではなかった。唐突に、もう決まっている既成事実のように決断をポンと放り投げられたことに驚いたのだと口にした。
しかし、きっと彼も後々理解してくれるはずだ。産んで良かった、子どもを作って良かったと。
p107

ここで登場する「夫」は、最近週刊誌の記事で取り上げられている人物だが、元の夫であり議員の鶴保庸介と比べると、非常に優しく、野田聖子を立ててくれるタイプのようだ。
だが、それにしても、ここでの書き方は夫が可哀想で、彼女の「我の強さ」というより「わがまま」を感じてしまう。

  • 8/26 雑誌に手記を掲載。(このとき15週)
  • 9/16の定期健診で、子宮頚管が以前より短くなっていることが判明。安静を勧められる。(が、安静にはせず)
  • 10/1臨時国会開幕
  • 10/14の定期健診で12月からの入院を通告される。
  • 10/26大量出血、即入院。
  • 11月 臍帯ヘルニア以外に心臓疾患が確認される。
  • 1/20を予定日(帝王切開手術日)としていたが、母体に限界がきているため1/6に変更
  • 1/6出産。子どもの「真輝」君はすぐにNICUに。(食道閉鎖症も見つかり、1歳になるまでに6度の手術を受ける必要)
  • 1/12に自宅に戻るも体調が良くない。
  • 1/18に夫が野田の籍に入る形で婚姻届けを提出。
  • 1/19に再入院
  • 1/21に子宮摘出の手術を受ける。

『私は、産みたい』と比べると、『生まれた命にありがとう』に対して、素直に読めない一つの理由は、赤ちゃんに疾患が見つかってからのこの流れにある。
羊水検査の可否を一人で決めたエピソードもそうだが、野田聖子が、一度決めたら後には引かない、国会議員の仕事は何があってもやりきる、という(悪い意味で)とても体育会系のマインドを持っていることがよくわかる。
8月の雑誌への手記掲載は、赤ちゃんの疾患が判明してから数週間後で、(疾患の事実自体は伏せているが)気が気ではないはずの状態。(ただし、全く理解のない国会議員らにインパクトの大きい方法で伝えるにはいい方法と言えるだろう)
さらに驚いたのは、この本の出版自体が2011年の2/25で、出産および子宮摘出手術から1か月しか経っておらず、真輝君自体もNICUに入ったまま。こちらは自分が家族や秘書、編集者だったら止めていると思う。
また、これは国会議員の制度の問題だとは言えるが、9/16の定期健診で安静を勧められたのに変わらず議員の活動を継続しているのは、(それが求められる職場だとはいえ)何とかならなかったのかと思う。

さらに、この本では自分の考え方とは、かなり違うと感じられる部分があった。少し長めに引用する。

一方で、家庭を築き、家族とともに暮らし、家を継いでいくことの重要性が、私の中から離れていくことはなかった。過去脈々と受け継がれてきた家を、絶やすことなく次の世代へと繋ぐ。保守とは何かと問われれば、その原点はやはりそこにあると私は考える。祖先を敬い、子孫に未来を託すことは、最低限の使命ではないかと思っていた。実際、私自身も家の火を絶やさないために、成人してから野田姓になっている。それまで、私は島という姓だった。つまり野田聖子という政治家、いや個人の存在は、保守の精神の賜物なのである。(略)
こうして紆余曲折を経て誕生した「野田聖子」が、野田家の火を絶やしてしまうことには、個人としても、また保守自民党の政治家としても責任を感じていた。前夫との家庭作りには失敗してしまったが、新しい彼と幸せな家庭を築いていこう。しかし、家庭には子どもが不可欠である。
無論、私を含めてお子さんができない家庭は幾らでもあり、それを否定するつもりは毛頭ないし、さまざまな家庭のあり方があって然るべきである。が、叶うことならば、やはり跡取りである子どもを含めた家庭を築き、次世代にバトンをタッチしたい。
p111~113

野田さん自身も言っているように考え方の多様性はあるとはいえ、ここで書かれる「保守」の定義はそうなのかなと疑問に思うし、「子孫に未来を託すこと」の優先度は自分にとって低い。
「家庭には子どもが不可欠」「野田家の火を絶やす」「跡取り」などの言葉も、彼女に抱いていた印象とだいぶ異なるので驚いた。
また、安産祈願も真っ先に「靖国神社」で行っており、その理由については以下のように書いている。

明治維新十傑の一人であり、靖国神社の前身にあたる東京招魂社の建立に尽力した大村益次郎は、私の遠い親戚なのである。ご先祖さまの魂の注入された安産祈願のお守りは、これ以上ないご加護があるに決まっている。
p104

本の中にも「毎年参拝している」と書かれており、2009年のこの参拝についてはWikipediaにも記載がある。

2009年(平成21年)8月15日(終戦の日)、首相・麻生太郎を含む麻生内閣の他の閣僚が靖国神社参拝を見送る中、閣僚としてはただ1人参拝を行った。「国務大臣」の肩書で記帳し私人として参拝したと説明している。

このあたりも、当人の「ご先祖様」への思いは別として、閣僚としての参拝にこだわる必要はないのではないかと疑問に思う。

『私は、産みたい』から繰り返し出てくる「そこまでして、どうして産みたいの」という周囲からの質問に対しては以下のように書いている。

理屈ではないのだ。女性の本能として、気が付いた時には子どもを産みたいという想念に支配されていたのだから。しかし、理屈でない分、いくら言葉を費やしても理解してもらうことは難しい。p37

これを読んだときは、「理屈ではない」という説明に半ば納得していたが、そのあとで「野田家の火を絶やしたくない」という別の説明を見てしまうと、何だか急に重みがなくなってくる。


少し戻るが、野田さんが周囲から受けた「そこまでして、どうして産みたいの」という質問に対して、どう回答するかが、ある意味でこの本のテーマでもあると思う。そもそも、産む/産まない、産みたい/産みたくないはそれぞれの自由なので、質問自体が無節操なものに感じる。しかし、年齢が上がったり、採る方法によっては聞きたくなる人が増えて当然だとも思う。

例えば、野田さん自身は、「野田家の火を絶やさないため」、卵子提供という選択を選ぶ前には「特別養子縁組」という方法も考えたという。しかし、日本では、血縁関係のない人同士の養子縁組に対するハードルが高い、ということで諦めている。すなわち、斡旋団体の提示する養親の条件が厳しく、婚姻関係にない高齢夫婦は条件を満たさないためだ。
ただ、最終的に、二人が正式に結婚することを考えると、卵子提供という手段をとるよりも、こちらの方がよほどハードルが低いのではないかという気がしてならない。


また、この本では、卵子提供のエージェント探しのところなどで、野田聖子がアドバイスをもらった相手として向井亜紀さん(高田延彦の妻)が出てくる。向井さんは、子宮頸がんで子宮を摘出していたため、夫婦の受精卵を米国の女性の子宮で育てて出産してもらうという方法(代理母出産)を採った。

本の中では、野田さんが渡米時に、向井亜紀さんの代理母を務めた米国人女性と話をするエピソードが書かれているが、この方が、向井さんの代理母として双子を産んだあとの話はなかなか見過ごすことの出来ない内容を含んでいた。

彼女はその後も、別の代理母を引き受けたが、不幸なことに何ケース目かにトラブルに見舞われ、子宮破裂を起こしてしまう。それ以降は、代理母はもちろん、自らの子どもも妊娠出産できないようになってしまったという。
そうした経験を、彼女は笑顔で話し続けた。誰も恨んでなどいないことが、心の底から伝わってくる。むしろ、彼女は自分を責めているようですらあった。「もっと、多くの女性の役に立ちたかったんですけどね」そう口にした彼女は、やはり笑顔だった。(略)
代理母卵子提供には、ややもすると命をお金で売り買いする、といった負のイメージが付きまといがちである。しかし彼女と会えて、ネガティブな批判など気にしなくて良いのだと改めて確信することができた。p62

自分が読んで受けた印象は、野田さんとは正反対で、代理母という方法への負のイメージが強くなってしまった。
野田さん自身が子宮摘出を行ったように、もともと出産にはリスクがあるものだから、それを第三者にお願いすることには抵抗がある。
しかも同じく第三者の協力を得る臓器移植などよりもかなりの長期間にわたって、自由を制限することになる。


一方で、リスクの中には、技術によって抑えることができるリスクもある。
日々技術向上が図られている分野であり、また、菅内閣が取り組んだ不妊治療の保険適用の話など技術発展に合わせて法整備も進められてきている。
不妊治療以外にも卵子凍結など、既に取り組まれている色々な技術があることを考えると、同僚や身近な場所からこういった話を聞くことも増えるだろう。個人の選択としても生命倫理の問題としても、こうした話題については、積極的に色々な情報を知っておき考えておいた方が良いと感じた。


また、2冊の本を読んでみると「姉御肌」と言われる野田さんには「男社会」をサバイブした政治家としての我の強さや体育会系的な考え方に驚くところもあった。いわゆるリベラルな感じとは異なる雰囲気を強く感じたが、やはり自民党の中ではもはや少数派となってしまった重要な存在であることは間違いないのだろう。
産休、育休などの労働環境改善も含めて、野田さんの一番の政策課題である少子化対策には、まだ行うべき内容がいくつもある。
たとえ総裁に選ばれなくても、ここで野田さんが手を挙げて少子化関連の問題を議論のテーマに掲げたことには大きな意味があると思う。新内閣では何とか責任ある立場で、こういった課題に取り組んでほしい。

*1:なお、我が家は妊娠判明時点で即入院という特殊事例なので「普通の妊婦さん」の行動がわからず、より慎重に考えてしまうバイアスがある

*2:わずかな期待が大きくなって、その後、絶望に突き落とされる繰り返しを本の中で「ジェットコースター」に喩えられている。

自民党総裁選の勉強に~河野太郎『日本を前に進める』×中島岳志『自民党 価値とリスクのマトリクス』

河野太郎自民党総裁選に立候補した。
news.yahoo.co.jp

はっきり言って、臨時国会召集を拒否していて総裁選モードになっている自民党全体がダメなのだが、この総裁選で選ばれた人が次の日本の首相になると考えると無視はできない。
さて、河野太郎といえばこの動画。いわゆる「次の質問どうぞ」会見だ。(6分40秒あたりから)

www.youtube.com


そして、河野太郎Twitterを多用する一方で容赦なくブロックすることでも知られる。
そういう人がよりによって「温もりのある国へ」(本書帯)とはチャンチャラおかしい。
…おかしいのだけれども、自分にとっての河野太郎は、やはり2000年代(自民党下野の前)に上を意識せずに積極的にブログで自説を展開し、情報発信していた頃のイメージが強い。
また、自分がずっと参加していた湘南国際マラソンの実行委員長を長く務めていたこともあり、ベルマーレの支援も含めて、継続的に地域スポーツに携わっている点も魅力的に映る。
したがって、プラス・マイナスの両方を感じる、自分にとっては少し特別なタイプの政治家。これまでその著作を読んでいなかったのはむしろ意外だが、総裁選立候補を見越して出版されたこの本を読んでみた。

河野太郎『日本を前に進める』

菅さんのような叩き上げではなく、いわゆる世襲議員ではあるが、生い立ちの部分はなかなかに波乱万丈で面白い。慶応中等部からエスカレートで慶応大学に進学と聞くと、お坊ちゃんな感じだが、そこからのアメリカ留学の話が激動だ。
1981年慶応大学入学後すぐに退学→ニューヨークの私立高校→アメリカでの大学受験→ジョージタウン大学入学→大統領予備選にボランティア参加→米国議会インターン→大学3年でポーランド留学→1985年12月に卒業。
…濃密すぎる。
その後、富士ゼロックスに入社し、途中、日本端子に移るも10年近く会社勤めも経験したあと、1995年から政治の道に入る。


父・河野洋平の生体肝移植(河野太郎がドナーになり移植に成功)のエピソードは、自分が河野太郎に抱くイメージをよく表している。
一つ目に、「美談」として報道しないでほしいというマスコミへの依頼の話。ドナーになるのはリスクがあるのにもかかわらず、C型肝炎患者を家族に持つ人に、ドナー候補としてのプレッシャーを与えることになってしまうというのが理由だ。
もう一つは、それまで反対だった臓器移植法改正の話に対する「転向」。もともとは「人の死の定義」に踏み込むものということで反対していたが、生体移植のリスクを考えると、脳死からの移植を増やした方がいいから賛成に回ったという。
河野太郎は、自らの体験に基づき合理的に物事を判断することを重んじるタイプで、問題があれば柔軟に自分の意見を変える政治家だと理解している。
このことは、時には信念を潜めておくという形としても現れるようで、これが逆に不信を生む。本の中でもエネルギー政策の項で、以下のように重鎮からアドバイスをもらったという話が書かれている。

そろそろ君も外で吠えているだけでなく、閣僚になって実際に物事を実現してみるべきだ。河野太郎も政治家としての常識がある、チームプレーができる、ということを証明してみろ。閣僚になっても閣内での議論は自由だ。ただ君もよくわかっているように、対外的には内閣の方針を言わなければいけない。納得できないところもあるかもしれないが、それは君が総理になったときにやればいい(p134)

総裁選を進める中で、原発政策や女系天皇の考え方など、いくつかの主張を「封印」した形になっているのが、まさにそれなのだろう。


本の目次は以下の通りで、3章以降は個別政策について思いが述べられており、いずれも主張としては筋が通っているように思える。

第一章 政治家・河野太郎の原点
    富士ゼロックスに入社しデジタルに開眼
第二章 父と私――生体肝移植をめぐって
    生体肝移植を美談とするのは危険
第三章 新しい国際秩序にどう対処するのか――安全保障戦略
    ポストコロナ時代こそ日本の存在価値が生きてくる
第四章 防災4.0
    感染症対策
第五章 エネルギー革命を起爆剤
    日本の再生可能エネルギー外交を宣言
第六章 国民にわかる社会保障
    新しい年金制度
第七章 必要とされる教育を
    子どもの貧困をなくす
第八章 温もりを大切にするデジタル化
    データの力で温かく信頼される政治を

ただし、特に経済政策など、個別具体の目玉政策があるわけではない点は不満で、総理大臣としての俯瞰的な視点にも欠ける。
総裁選出馬を決めてから発表した政策でもその点は同じだ。
また、冒頭に挙げた「次の質問どうぞ」やブロックの乱発から考えると、結局この人は自分で合理的に考えるのは得意だが、意見が異なったり理解が浅い人を説得したり、教え諭すことが嫌いなのだろうということがよくわかる。あくまで「俺の考えは正しいはずだから言う通りにしろ」というタイプだ。


なお、本の「はじめに」では、保守主義の説明として、以下のように示しているのは共感できる。

昨今、「保守主義者」を名乗る一部の人々が、排他主義的な外国批判を繰り返していますが、これが保守主義とはまったく相容れない活動であることは言うまでもありません。また、自由貿易を否定し、国を閉ざし、保護主義で競争力のない産業を守ることも、決して保守ではありません。

また、本の中で名前の出る政治家では、初当選後お世話になった議員として岸田さんが出るが、菅首相は「おわりに」で少しだけ、安倍さんは全く出ず。麻生さんは書かれていたか忘れてしまったが、これもほとんど記憶に残らず。
「はじめに」の「一部の人々」が直接安倍さんのことを指しているとは思わないが、全体の印象として、安倍さん、麻生さんの強い影響下にないことを改めて確認して安心した。それだけに、結局安倍さんに仁義を切る形になっている現在の状況はいただけない。
www.asahi.com

中島岳志自民党 価値とリスクのマトリクス』

さて、河野さんの本は面白く読んだが、候補者同士の主張を比較しようとしても、結局政策が似通ってしまい、違いが判らない、となることもしばしばだ。特に新聞報道は「政局」以外では、やれメタルが好きだとか、バナナがおやつに入るかとかそういうものしか話題にせず、ニュースがむしろ目を曇らせる。
その意味では、中島岳志さんのこの本は非常にわかりやすいだけでなく、政治家を見る視点が整理された。

この本は、過去の著作やインタビューを読み込んで、自民党の9人の有力政治家・首相候補を4つのマトリクスのどこに入るのかを整理する内容だ。(以下のマトリクスは中島岳志さんの別記事からの引用)
対象は、安倍晋三石破茂菅義偉野田聖子河野太郎岸田文雄加藤勝信小渕優子小泉進次郎
読む前からどこに入るのか分かっている人もいるが、そこに来るのか!と発見のある人もいて、クイズのように読むこともできる。
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リベラルの対立軸はパターナル。リベラル保守による現実主義|保守と立憲 世界によって私が変えられないために|中島岳志|cakes(ケイクス)

今回、首相候補に名前を連ねている人では高市さんが入っていないが、それ以外は菅さん安倍さんも含めて揃っている。2019年の本だが、コロナについての言及がないくらいで今読んでも全く問題ない。

このマトリクスで、改めて自分の政治志向を考えると、縦軸については、以前は、よりリスクの「個人化」の方に目が向いていたが、勉強していく中で、より「社会化」に重きをおくようになった。ただ、縦軸については結局バランスが必要ということになるので、考え方が合理的かどうかが重要だ。
横軸については、右側に偏るのが何より許せない。それは、「人権」という観点を入れた場合に不合理だからだ。したがって今回の候補者では、当然、高市さんが選出されないでほしいと思っている。


本の中で印象的だったのは岸田さんだ。
菅さんが一冊しか著作がないのは知っていたが、岸田さんはゼロ冊だということ(2019年段階。実際には2020年の総裁選出馬のタイミングで2冊出版)で、この本では分析に苦労している。限られたインタビューなどから導かれた結論は、「常に主張が曖昧」ということでマトリクスのⅠⅡⅢⅣのどれにも入らず「中央」!これは確かにイメージには近い。(なお、石破さん、河野さんは当然「Ⅲ」となる)
今回の岸田さんは、最初に出馬表明をし、政策も分かりやすいものを挙げ、いわゆる「二階おろし」は菅さんが出馬を諦めるきっかけとなった。「バナナはおかしに…」の質問に真面目に答える必要はないと思うが、Youtubeで質問に答える仕掛けも面白い。
ただ、モリカケ再調査をすぐに撤回するなど、菅さん以上に安倍さんの掌の上の総理大臣になることが目に見えているのが厳しい。


また、今回も出馬できなそうな野田聖子さん、そして小渕優子さんら女性二人は、自民党の男社会でやっていく苦労も見て取れ、興味深く読んだ。二人の女性がマトリクスの「Ⅱ」に入る中、今回出馬している高市さんは真逆の「Ⅳ」であるというのは皮肉だ。


加藤勝信さんは、菅さんと同様、安倍さんあっての加藤さんということや、これも菅さん同様、人事を握って人を動かす(忖度政治を誘導する)政治家だということがよく分かった一方で、子どもの貧困の解決に力を入れている政治家であることを初めて知った。(マトリクスはⅠとⅡの間)
小泉進次郎が、農業の構造改革に力を入れていたこと等、それぞれの政治家がどのようなことを志向してきたかも一通り確認することが出来たのも有意義だった。


また、最終章に自民党政治の流れの総括がある。
以前は「Ⅱ」に入る自民党議員も多かったが、一度下野して以降は、立憲民主との差別化を図るという意識から自民党議員全体が右下にスライドしたという話はなるほどと思わされる。「右」過ぎる自民党憲法草案が、民主党政権のときに作られていることはその象徴だろう。


現在立候補を表明している岸田、河野、高市の中では、首相として違和感がないのは岸田さんだ。しかし、安倍さんの顔があまりにチラつき過ぎる。
したがって、(石破さんが現段階で意向を示していないが)やはり希望としては河野-石破ラインの「左側」で、安倍さん(麻生さん)が仕切る自民党政治の流れを断ち切ってほしい。
しかし、中島岳志さんのマトリクスでは表現されていない「説明能力」「合意形成」の部分が、実際には総理大臣に強く求められる部分だ。
特に、(コロナ分科会の尾身さんが繰り返し指摘する通り)政治家のメッセージの出し方は、新型コロナウイルス対策の重要な要素を占め、菅さんに最も欠けていた部分だ。河野さんも同様にここが相当に怪しい。
河野さんは、当然、こういった自身の弱点を自覚しているはずなので、自民党内部や対官僚に向けた(恫喝ではなく)「説得」ベースの合意形成や、国民への丁寧な説明に力を入れてほしい。そして、合理的な説明を是とする河野太郎なら、前言を撤回し、モリカケ桜の再調査もやってくれるはずだと信じたい。(信じるしかない)

次に読む本

中島岳志さんの、この分かりやすさはとても魅力なので、近作は読みたい。
また中島岳志さんが名著と推す野田聖子さんの本や、岸田さんの本。特に、今回、色々な政治家のエピソードで「加藤の乱」の話が何度も出てきたが、岸田さんの本ではそこにもページを割かれているとのことで期待だ。

人生はあっという間~シャマラン『オールド』×大江千里『マンハッタンに陽はまた昇る』

M・ナイト・シャマラン『オールド』


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シックス・センス」「スプリット」のM・ナイト・シャマラン監督が、異常なスピードで時間が流れ、急速に年老いていくという不可解な現象に見舞われた一家の恐怖とサバイバルを描いたスリラー。

この映画を見て感じることは、とにかく「時間はあっという間に過ぎる」ということ。映画の設定はSFだけれど、映画の中で起きていることは現実に起きていることと変わらない。年齢の高い人から亡くなる、病気を持っている人から亡くなる。ちょっと見ないうちに皺が増えている。視力・聴力に陰りが見られる。
ひとつの映画の最初と終わりで主人公の年齢が10~20歳変わっているのはよくあるだろうし、世代が変わることもある。しかし、一日で世代が変わってしまう映画を見るとなると、同じ2時間の映画を見ても受け取り方が全く違ってくる。
普通の映画ならば、他人の人生を他人として味わうが、『OLD』を見て、自分自身の人生に対する「切迫感」が増大した。これはおそらく、「死ぬ前に人生を振り返るときってこんな感じ」と漠然と頭に描いている風景とイメージが一致しているからで、そう受け取る人が多いのではないか。特に死ぬ間際のガイとマドックスが目や耳を近づけて会話するシーンは、二人の愛が感じられる感動シーンでもありながら、自分事として受け止めた。


そして状況は、コロナ禍の今と重なる。
いわゆる飲み会や対面のビブリオバトルから離れて1年半以上が経っている。それまで定期的に会っていた人とも年単位で会っていない。直接の知人の中にはいないが、COVIDで亡くなった人が出てもおかしくない状況ではある。
振り返れば5年、10年はあっという間だが、2020年に入ってからの1年半は本当に早い。今後、マラソン大会にも出ず、海水浴にもいかないままで人生を終えるということも、もしかしたらあり得るかもしれない…。
そんな状況で見た『OLD』は本当に怖いと感じる映画だった。高2中2の子どもたちと見た映画だったので、その後、30分で1年経つんだぞ!と脅していたが、彼らにはこの「怖さ」は実感を持って感じられなかったのだろう。


一方で別の怖さも感じたのは、シャマランが1970年生まれの51歳であるということ。*1自分と4歳しか違わない。
自分は、著名人と比べて、同年齢のときに自分は何かを成し遂げただろうか、ということに(考えこそすれ)ショックを受けることは少ない。しかし、『OLD』を見ると、もうすぐ死んでしまうのに、自分はやりたいことを出来ているのか、という気持ちが湧いてくる。
30分で1年が過ぎてしまう…そんな風に考えていたら毎日では疲れてしまうが、それくらいの切迫感を持って、真剣に考えていかなくちゃいけない、と自分を戒め、引き締める映画体験だった。

大江千里『マンハッタンに陽はまた昇る』

80年代のエピック・ソニーといえば、渡辺美里小比類巻かほる岡村靖幸が好きだったが、大江千里はほとんど聴いていなかった。ところが、先日、たまたま渡辺美里を聴いていてサビの暗さが最高!と懐かしく感じた「夏が来た!」の曲提供が大江千里と知る。よくよく見れば「10years」も「すき」もじゃないか。*2
ちょうど10日ほど前にダイアモンド・オンラインの大江千里のインタビュー*3が話題になったこともあり、本を読んでみようということになった。

ところが、期せずして『OLD』と同じ思いに襲われることになる。
この本のプロローグは「還暦の僕からあの頃の「君」へ贈る言葉」と題して、20歳、30歳、40歳…の自身に向けてメッセージを贈っている。

40歳の君は、喪失とあり余る創作意欲とのはざまにいる。30歳のときよりシリアスで悲しい目をしているね。限りある一回きりの人生をどう生きるか、すぐ先の道が分かれていることをすでにわかっているのだろう。(略)
君は47歳でアメリカに「ジャズ留学」し、50歳では念願のジャズ大学で20歳の学生たちに交じって再び夢中の日々を送る。吹っ切れたように明るいのに、どこかポップからジャズに来たことに引け目を感じている。「堂々と」していればいい。若さは瞬間風速だ。君は負けない。心の熱の温度こそが自分を測る物差しだよ。
10年先もジャズ山の途中で地団駄踏んでいることは、今言うとかわいそうなので秘密だが、人生は君が今思っているよりも本当にあっという間だから、「この先も失うことを恐れちゃいけない」とだけ伝えたい。

そうだった。大江千里のジャズ留学は今の自分と同じ47歳だった。
そうか、この年から大学で20前後の若者たちと学び直すのか。学生として過ごす4年間を考えると、また自分の日常の時間の見方が変わってくる。
それと同時に本の中でも繰り返される「限りある一回きりの人生」という言葉、そして、50歳の自分に向けたメッセージ。

人生は君が今思っているよりも本当にあっという間だから、「この先も失うことを恐れちゃいけない」とだけ伝えたい。

この辺りは映画『OLD』から受け取ったものと一致で、背筋が伸びる。


本の内容は、基本的には「60歳から始まる青春グラフィティ」という 副題の通りニューヨークでの生活を綴るエッセイ。授業で学生たちに夢を聴いたり、ツアーの準備に忙しかったり。その文体は、とてもテンポよくさっぱりしている。
今回初めて大江千里の近作(ジャズアルバム)も聴いてみたが、ピアノは目立ち過ぎず、ベースやドラムとのバランスが良く、文章から受けるのと同じ印象で面白い。
また、本は何といっても時折挟まる写真がいい!愛犬「ぴ」の写真もいいが、大江千里本人の笑顔がキュートで素晴らしい。こんな60歳になりたい!


さて、時系列に語られるエッセイの後半は丸々新型コロナウイルス関連の話題。
「Hmmm」ツアーの中止から始まり、ニューヨークでのロックダウンの生活が語られる。この部分は日本との感覚の違いが大きいと感じる。
「わかっているのは元にはもう戻れないということだけ」(p293)というような言葉が繰り返されるのは、ニューヨークでの惨状*4が本当に辛かったからなのだろう。
しかし、何となく日本人が「あと数か月待てば”元通り”の生活になるのでは?」と思い続けているのに対して、もう以前の生活は続けられない、と思いきってしまった方がこれからの世界には適応していける気がする。


本の最後は、「人生100年」の時代ということで、70歳、80歳、90歳、100歳になった「君」に向けたメッセージがある。夢に溢れていて、大江千里の笑顔の写真を思い出して、読みながら幸せな気持ちになる。
自分は、「今」を生きるのに必死で、こんな風に過去の自分、未来の自分と向き合ってこなかったように思う。『OLD』を見て、また『マンハッタンに陽はまた昇る』を読んだのをきっかけに、一日一日を大切に生きるのと合わせて、過去・未来の自分と向き合う時間を多く取ろうと思った。

*1:シックスセンス』(1999)という圧倒的な作品は29歳のときの作品だったのか。

*2:関連して、大江千里渡辺美里のデュエット曲「本降りになったら」も教えてもらった!こんな曲も!

*3:大江千里氏が「ラーメン1杯2200円」の米国から語る、安い日本の深刻問題 | 週刊ダイヤモンド特集セレクション | ダイヤモンド・オンライン

*4:実際、大江千里も地下鉄に「地獄」を見たと書いている

親切設計なのに分からなかった自分に鉄槌~竹宮ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』


読み終えて、あれ?思っていたのと少し違ったと思った。
というのは、ラノベをあまり読まないので、そこに、漠然と野崎まど的な「ぽかーん感」を期待していたところがあるからだ。
ここでいう「ぽかーん感」というのは、いうなればSF不可解オチで、放り投げられたままの読後感が正解というような作品。
でも、この本は、もっと筋が現実的でしっかりしていて、それなのに分からないところがあったことが少しストレスに感じたのだ。

思い返してみると、そもそも、この本に辿り着いたのは、竹宮ゆゆこの近著『心が折れた夜のプレイリスト』の書評を見て興味を持つ→検索すると著名作家であることを知り、映画化されている作品もあるじゃないか!というルートだった。
SABU監督の映画『砕け散るところを見せてあげる』は俳優陣も豪華で、今年の4月に公開されたばかりで予告編を見ても、自分がラノベに抱いているぼんやりしたイメージよりも、だいぶ通常のミステリ寄りだ。この映画のさわりを見た直後に読めば、イメージとのずれは無かっただろうが完全に忘れていた。

実際、この本の中盤以降のシリアスな展開への変化は見事で、現実味も十分あり、手に汗握りながら本を読み進めた。が、最後の最後で、作品の重要なテーマであるはずの「UFO」の話がピンと来なさ過ぎて、結局よくわからないまま読了に至った。そこに悔しさを感じた。


で、すぐに解説ブログを読む。(笑)
wakatake-topics.com
emptystudy.hatenablog.com


これらを読むと、この小説自体が「わかりにくい」部分に対して、かなり丁寧なつくりをしていて、「わからなかった」という感想自体、読み手の努力不足であることを知った。確かにUFOが何かという読み解き自体は少しだけハードルが高いかもしれないが、「仕掛け」自体は素直。
読了後にすぐ冒頭を読み返せば、作品に対する「わからなさ」のほとんどはクリアできる親切設計であることも身をもって感じ、「違和感があったらすぐに冒頭を読み返せ!」ということを、この種のエンタメを読むときの遵守事項として、自分の胸に刻み付けたい。

ただし、そこまでわかっても、魅力的なタイトルの直接的な意味はよくわからないのは残念。やはり力不足かもしれない。


さて、敗北感に打ちひしがれ、内容について簡潔にまとめてあるブログを読んでしまい、本編についてはもう書きたい気持ちはなくなってしまったので、映画について少し。

主人公・濱田清澄役の中川大志はハンサムすぎるのでどうかと思うが、「いじめられっ子だけどちゃんとしたら美少女」という難しいキャスティング・蔵本玻璃役の石井杏奈は面白い。尾崎・妹役は清原果耶で、彼女の持つ「天性の暗さ」からすると、玻璃役でも合っていた気もするが明るい役も見てみたい。
そして何といっても玻璃の父親の堤真一。これは見たいなあ。


www.youtube.com