HIKARI監督『レンタル・ファミリー』

『レンタル・ファミリー』という映画は、東京で暮らす落ちぶれた俳優フィリップ(ブレンダン・フレイザー)が、「レンタル家族」の仕事を通して自分自身を見つめ直していく姿を描く。
フィリップは作中で多くの家族を演じるが、メインとなるのは、小学校受験の面接のために、6歳の娘の父親役を演じる話。ここだけ聞くと、お涙頂戴の話なんでしょ、と聴こえるかもしれない。実際自分も、傑作『37セカンズ』のHIKARI監督の最新作にしては、どうなのか…と思ってしまっていたが、見た人誰もが内省的に自分のことを見つめ直すことになる内容で、オチの切れ味も合わせて、大好きな映画となった。(というか、今のところ、2026年ベスト候補の映画です。)
白岩玄『プリテンド・ファーザー』
『プリテンド・ファーザー』は「父親のふりをする」というタイトルなので、まさに『レンタル・ファミリー』と同様の内容のように見える。あらすじは以下の通り。
シングルファーザーとして、4歳の娘を育てる36歳の恭平。亡き妻に任せきりだった家事、育児をひとりで背負うことになり、会社でもキャリアシフトを求められ、心身ともにギリギリの日々を送っている。そんななか再会するのが、高校の同級生・章吾。シッターというケア労働に従事しながら、章吾もまた、ひとりで1歳半の息子を育てていたのだった。互いの利害が一致したことから「父と子」×2での四人暮らしが始まるが……。
これだけ読むと「プリテンド」がどこにあるのかは分からないし、実際に冒頭から読み進めても、タイトルの解釈が出来ないまま話は進む。
さて、この小説は、恭平と章吾の独白めいた一人称の語りが交互に出て進むこともあり、映画『レンタル・ファミリー』と同様に、読者が我が身を振り返りながら読み進めることを促す作品。これについては、文庫解説の河野真太郎さんの文章があまりに良くて、自分の言葉をこれ以上連ねる気力を失っている(笑)。
はじめから一区切りするところまで長文引用する。
男たちは変わることができるだろうか。変わった男たちは、社会を変えることができるだろうか。男たちが変わるために、社会が変わることはできるだろうか。
この小説は対話に満ちている。それは二人のシングルファーザー、恭平と章吾のあいだの、齟齬もふくんだ間接的な対話であり(おなじ事象に対して二人がまったく違うとらえ方をしている様子が、巧みに対置される)、二人の対照的ともいえる男性の、容易には変わらないみずからの男性性、父性との内省的な対話であり、志乃と耕太という、異なる発達段階にある子供たちと、悩めるシングルファーザーたちとの対話である。
それだけではない。二人は、子育てはどうあるべきか、父/母はどうあるべきか、男らしさ/女らしさとは何かといった社会の側の理念や規範との、厳しい対立をともなう対話も行う。
そして、この小説を読む経験もまた、対話的な経験だ。読者は、恭平と章吾の曲がりくねった歩みを追いながら、自問をしないではいられないだろう。自問の内容はもちろん立場や属性によってさまざまではあろうが、例えば私のような、二人を、自分が子育てをしていた頃と重ねて考えないではいられない人間は(私はシングルファーザーではなかったが)、自分が恭平の、または章吾の立場にあったらどうするだろうか、二人のように真剣に自分自身と子供たち、そして社会に向きあうことができていただろうかという内省なしでこの小説を読むことはできない。そして、この小説との対話から学べることの一つは、そのような自己や他者との対話をしない、もしくは対話を拒絶することこそが男性のかかえる問題なのであり、本書で恭平と章吾が失敗しながらも継続してみせる対話こそが、そのような男性問題にとりくみ始める方法だということだ。
自分が漠然と思っていたことを、いわゆる「言語化」してもらったような文章だと感じたが、引用箇所の一番最後の指摘には、考えてもみなかったところを突かれて強く感動した。
ちょうど先日読んだ『数学ガールの秘密ノート』でも、「自分の理解」に目を向け、自分の中で対話すること、間違いを修正していくことの重要性が唱えられていたが、同じ視点が含まれている。
つまり、(反対から言えば)対話を拒絶する一方的な理解は、誰か別の人を疲弊させ、押し殺して、自己を正当化するように進んでしまう(結果として、その犠牲に気がつくこともない)、ということだ。
この小説の「対話」が説得力を持つものになっているのは、恭平の性格設定によるところが大きい。2人は共同生活を始めたものの、育児に対する考え方に根本的な違いがある。しかし、頑なな部分はあるものの、聞く耳を持っているのが恭平の良いところ。
あるとき、育児は自分に向いていないと言わんばかりの恭平に、章吾の思いが爆発する。
「働いてお金を稼ぐのも、子どもを育てる上で大事なことだからそれは否定しないけど、本当は恭平の心のどこかに、育児なんかしたくないっていう気持ちがあるんじゃないの?」
(略)
「僕が同意できないのはそこなんだよ。お金を稼ぐのが大事なのも、育児が得意じゃないのもよくわかる。でもだからって目の前にいる子どもから逃げていいわけじゃない。
自分は育児をしたくないっていうのはさ、子どもに向かって『おまえの面倒なんか見たくない』って言ってるのと同じなんだよ」
p156
これに対して恭平は、1日、自分を顧みてから章吾の指摘が正しいことを受け入れる。
心の中に「なんで俺が」という気持ちがあるのがすべての答えだという気がした。どんなに父親として努力していると言ったところで、結局俺は、なぜ俺が育児なんかしなければならないんだとどこかでずっと思っている。(略)
「なぁ、章吾」
「ん?」
「おまえの言う通りだったよ」
「何が?」
「俺は志乃から逃げてるだけだ」
章吾がなぜ怒ったのか、今ではその理由がよくわかった。半端な理屈を盾にして、志乃と向き合おうとしない自分を正当化したのが問題だった。
自分自身、既に2人とも大学生だが、子ども2人の育児については、ほとんど奥さんに任せっきりにしてしまっていた。その根本部分には、恭平と同じような考え方があったことは否めない。
だから、自分のような読者は、徐々に考え方を変えていく恭平に共感しやすい。
また、そんな恭平の性格をわかっているからなのか、後輩の井口(作中で最もフェミニズム的な考えを持つ人物)も、恭平に急激な変化を求めない。
育児の能力がないと思い込んでいる男性にも「フリをする」ことを推奨する。(つまり、井口も、恭平の背後にいる読者に「寄り添う」ようなアドバイスをする)
「そんなの別にフリでいいじゃないすか」
「ふり?」
「なじめないなって思っても、家族になるフリをし続ければいいんですよ。私がまだ新人でまったく契約が取れなかった頃に言ったでしょう?最初から仕事ができる人間なんていない、みんなそれらしく社会人のフリをしてるうちに少しずつ仕事ができるよういなるんだ、今はしんどくてもフリを続ければ、五年後にはちゃんとした営業の人間になってるよって、そう励ましてくれたのは汐屋さんですよ?」
p191
上の引用箇所では、タイトル通りの「フリをする(=プリテンド)」が出てくるが、より「プリテンド」度が高いのは、章吾の方であることが読み進めるうちにわかって来る。
最初は伏せられている、章吾の「秘密」は、小説の説得力を高めることに繋がっており、その開示の仕方が非常に巧い。
- 京香の妹の佑香が、志乃を引き取りたい(普通養子縁組を利用したい)と言ってくる p122
- 章吾が客から真実告知(あなたを産んだ親は別にいるということを子どもに伝えること)の相談を受ける p140
この過程を経てようやく、章吾が耕太と血のつながりがないことが読者に明かされる。
子育てをするのが男性か女性か、子育ては男女の夫婦でするものなのか、というテーマ設定で、恭平の物語を中心に据えてしまうと、「男女関係なく、血の繋がった家族が一番大切」という、それはそれで保守的な考え方に陥ってしまいかねない。しかし、章吾の存在のおかげで、読者は、そこからも自由になる。
そして、シッターとして経験が豊富な章吾は、「我が子」よりももっと広く「子ども」のためを思って社会の変革を望むのだ。恭平の話だけであれば、個人としてのピンチをどう切り抜けるか、という狭い話にとどまっていたが、章吾の存在が、より根本的な問題に読者の視線を向けさせる。
現実は理想のようにはいかない。恭平が言っていることもすごくよくわかるので、それ以上反論はしなかった。でもこのまま何もせずにいるのは、気にせずにいられる環境にあぐらをかいて、困っている人たちを対岸の火事のように眺めているのと同じだ。
「僕が今の仕事をしてるのはさ」
(略)
「子どもを持つことが、つらく苦しいことだって思う人が、少しでも減ればいいなっていう思いがあるからなんだ。まあ、それが自分にできる唯一のことだっていうのもあるんだけど……なんていうか、子どもたちをみてると、たとえ親のエゴでこの世に生まれたんだとしても、彼らが大人たちから歓迎されないような社会にはしたくないって思うんだよ。だって、自分が受け入れられることを疑わずに生まれてくるのに、最初から面倒な存在だと思われてたらあんまりじゃない?」
章吾の視線は、京香(恭平の亡くなった妻)のような、亡くなってしまった親にも向けられる。志乃ちゃんの世話をしながら、自分に言い聞かせるように「愛情」について語るのが印象的だ。
ハンドソープの泡を載せた小さな手がこすり合わされるのを眺めながら、肩書きや血のつながりではなく、行為によって親になるんだと自分にそう言い聞かせた。僕の存在が志乃ちゃんの記憶に残らなくても、行為の中に愛があるのなら、それでいい。大事に思う存在が、その愛を栄養にして育つのであれば、僕がここにいる意味はあるのだ。
「どうしたの?」
少し涙ぐんで洩をすすったのを気づかれてしまい、「なんでもないよ」とごまかした。
手を拭くためのタオルを取ってやりながら、これからも記憶に残らないような行為を積み重ねていこうと思う。だいたい、いつか忘れられてしまうその愛情の価値を認めなかったら、京香さんのような、幼い子どもを残して亡くなった親たちを否定することになってしまう。
『レンタル・ファミリー』も人間の生死の問題を挟みながら、人が個人としてどう成長するかではなく、どう他人をケアするか、助け合って生きていくのか、ということをテーマにした物語だった。
2作品を通して、家族の中の自分、会社組織の中の自分など、多くのことを振り返り、改めて考える良いきっかけとなった。ここで得たものを、今後の考え、行動、発言に少しでも繋げられるようにしていきたい。
読みたい本
解説で河野真太郎さんも触れている通り、白岩玄さんの前作は同様のテーマで男性を描いた内容で、以前から読みたかったもの。さらによく見ると、この人は『野ブタ。をプロデュース』の人なのか。
また、河野真太郎さんの本は以前から気になっていたけど、まずは一冊読んでみたい。



































