Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

肩書きや血のつながりではなく~HIKARI監督『レンタル・ファミリー』×白岩玄『プリテンド・ファーザー』

HIKARI監督『レンタル・ファミリー』

『レンタル・ファミリー』という映画は、東京で暮らす落ちぶれた俳優フィリップ(ブレンダン・フレイザー)が、「レンタル家族」の仕事を通して自分自身を見つめ直していく姿を描く。
フィリップは作中で多くの家族を演じるが、メインとなるのは、小学校受験の面接のために、6歳の娘の父親役を演じる話。ここだけ聞くと、お涙頂戴の話なんでしょ、と聴こえるかもしれない。実際自分も、傑作『37セカンズ』のHIKARI監督の最新作にしては、どうなのか…と思ってしまっていたが、見た人誰もが内省的に自分のことを見つめ直すことになる内容で、オチの切れ味も合わせて、大好きな映画となった。(というか、今のところ、2026年ベスト候補の映画です。)


白岩玄『プリテンド・ファーザー』

『プリテンド・ファーザー』は「父親のふりをする」というタイトルなので、まさに『レンタル・ファミリー』と同様の内容のように見える。あらすじは以下の通り。

シングルファーザーとして、4歳の娘を育てる36歳の恭平。亡き妻に任せきりだった家事、育児をひとりで背負うことになり、会社でもキャリアシフトを求められ、心身ともにギリギリの日々を送っている。そんななか再会するのが、高校の同級生・章吾。シッターというケア労働に従事しながら、章吾もまた、ひとりで1歳半の息子を育てていたのだった。互いの利害が一致したことから「父と子」×2での四人暮らしが始まるが……。

これだけ読むと「プリテンド」がどこにあるのかは分からないし、実際に冒頭から読み進めても、タイトルの解釈が出来ないまま話は進む。


さて、この小説は、恭平と章吾の独白めいた一人称の語りが交互に出て進むこともあり、映画『レンタル・ファミリー』と同様に、読者が我が身を振り返りながら読み進めることを促す作品。これについては、文庫解説の河野真太郎さんの文章があまりに良くて、自分の言葉をこれ以上連ねる気力を失っている(笑)。
はじめから一区切りするところまで長文引用する。

男たちは変わることができるだろうか。変わった男たちは、社会を変えることができるだろうか。男たちが変わるために、社会が変わることはできるだろうか。
この小説は対話に満ちている。それは二人のシングルファーザー、恭平と章吾のあいだの、齟齬もふくんだ間接的な対話であり(おなじ事象に対して二人がまったく違うとらえ方をしている様子が、巧みに対置される)、二人の対照的ともいえる男性の、容易には変わらないみずからの男性性、父性との内省的な対話であり、志乃と耕太という、異なる発達段階にある子供たちと、悩めるシングルファーザーたちとの対話である。
それだけではない。二人は、子育てはどうあるべきか、父/母はどうあるべきか、男らしさ/女らしさとは何かといった社会の側の理念や規範との、厳しい対立をともなう対話も行う。
そして、この小説を読む経験もまた、対話的な経験だ。読者は、恭平と章吾の曲がりくねった歩みを追いながら、自問をしないではいられないだろう。自問の内容はもちろん立場や属性によってさまざまではあろうが、例えば私のような、二人を、自分が子育てをしていた頃と重ねて考えないではいられない人間は(私はシングルファーザーではなかったが)、自分が恭平の、または章吾の立場にあったらどうするだろうか、二人のように真剣に自分自身と子供たち、そして社会に向きあうことができていただろうかという内省なしでこの小説を読むことはできない。そして、この小説との対話から学べることの一つは、そのような自己や他者との対話をしない、もしくは対話を拒絶することこそが男性のかかえる問題なのであり、本書で恭平と章吾が失敗しながらも継続してみせる対話こそが、そのような男性問題にとりくみ始める方法だということだ。

自分が漠然と思っていたことを、いわゆる「言語化」してもらったような文章だと感じたが、引用箇所の一番最後の指摘には、考えてもみなかったところを突かれて強く感動した。
ちょうど先日読んだ『数学ガールの秘密ノート』でも、「自分の理解」に目を向け、自分の中で対話すること、間違いを修正していくことの重要性が唱えられていたが、同じ視点が含まれている。
つまり、(反対から言えば)対話を拒絶する一方的な理解は、誰か別の人を疲弊させ、押し殺して、自己を正当化するように進んでしまう(結果として、その犠牲に気がつくこともない)、ということだ。


この小説の「対話」が説得力を持つものになっているのは、恭平の性格設定によるところが大きい。2人は共同生活を始めたものの、育児に対する考え方に根本的な違いがある。しかし、頑なな部分はあるものの、聞く耳を持っているのが恭平の良いところ。
あるとき、育児は自分に向いていないと言わんばかりの恭平に、章吾の思いが爆発する。

「働いてお金を稼ぐのも、子どもを育てる上で大事なことだからそれは否定しないけど、本当は恭平の心のどこかに、育児なんかしたくないっていう気持ちがあるんじゃないの?」
(略)
「僕が同意できないのはそこなんだよ。お金を稼ぐのが大事なのも、育児が得意じゃないのもよくわかる。でもだからって目の前にいる子どもから逃げていいわけじゃない。
自分は育児をしたくないっていうのはさ、子どもに向かって『おまえの面倒なんか見たくない』って言ってるのと同じなんだよ」
p156

これに対して恭平は、1日、自分を顧みてから章吾の指摘が正しいことを受け入れる。

心の中に「なんで俺が」という気持ちがあるのがすべての答えだという気がした。どんなに父親として努力していると言ったところで、結局俺は、なぜ俺が育児なんかしなければならないんだとどこかでずっと思っている。(略)
「なぁ、章吾」
「ん?」
「おまえの言う通りだったよ」
「何が?」
「俺は志乃から逃げてるだけだ」
章吾がなぜ怒ったのか、今ではその理由がよくわかった。半端な理屈を盾にして、志乃と向き合おうとしない自分を正当化したのが問題だった。

自分自身、既に2人とも大学生だが、子ども2人の育児については、ほとんど奥さんに任せっきりにしてしまっていた。その根本部分には、恭平と同じような考え方があったことは否めない。
だから、自分のような読者は、徐々に考え方を変えていく恭平に共感しやすい。


また、そんな恭平の性格をわかっているからなのか、後輩の井口(作中で最もフェミニズム的な考えを持つ人物)も、恭平に急激な変化を求めない。
育児の能力がないと思い込んでいる男性にも「フリをする」ことを推奨する。(つまり、井口も、恭平の背後にいる読者に「寄り添う」ようなアドバイスをする)

「そんなの別にフリでいいじゃないすか」
「ふり?」
「なじめないなって思っても、家族になるフリをし続ければいいんですよ。私がまだ新人でまったく契約が取れなかった頃に言ったでしょう?最初から仕事ができる人間なんていない、みんなそれらしく社会人のフリをしてるうちに少しずつ仕事ができるよういなるんだ、今はしんどくてもフリを続ければ、五年後にはちゃんとした営業の人間になってるよって、そう励ましてくれたのは汐屋さんですよ?」
p191


上の引用箇所では、タイトル通りの「フリをする(=プリテンド)」が出てくるが、より「プリテンド」度が高いのは、章吾の方であることが読み進めるうちにわかって来る。
最初は伏せられている、章吾の「秘密」は、小説の説得力を高めることに繋がっており、その開示の仕方が非常に巧い。

  • 京香の妹の佑香が、志乃を引き取りたい(普通養子縁組を利用したい)と言ってくる p122
  • 章吾が客から真実告知(あなたを産んだ親は別にいるということを子どもに伝えること)の相談を受ける p140

この過程を経てようやく、章吾が耕太と血のつながりがないことが読者に明かされる。


子育てをするのが男性か女性か、子育ては男女の夫婦でするものなのか、というテーマ設定で、恭平の物語を中心に据えてしまうと、「男女関係なく、血の繋がった家族が一番大切」という、それはそれで保守的な考え方に陥ってしまいかねない。しかし、章吾の存在のおかげで、読者は、そこからも自由になる。
そして、シッターとして経験が豊富な章吾は、「我が子」よりももっと広く「子ども」のためを思って社会の変革を望むのだ。恭平の話だけであれば、個人としてのピンチをどう切り抜けるか、という狭い話にとどまっていたが、章吾の存在が、より根本的な問題に読者の視線を向けさせる。

現実は理想のようにはいかない。恭平が言っていることもすごくよくわかるので、それ以上反論はしなかった。でもこのまま何もせずにいるのは、気にせずにいられる環境にあぐらをかいて、困っている人たちを対岸の火事のように眺めているのと同じだ。
「僕が今の仕事をしてるのはさ」
(略)
子どもを持つことが、つらく苦しいことだって思う人が、少しでも減ればいいなっていう思いがあるからなんだ。まあ、それが自分にできる唯一のことだっていうのもあるんだけど……なんていうか、子どもたちをみてると、たとえ親のエゴでこの世に生まれたんだとしても、彼らが大人たちから歓迎されないような社会にはしたくないって思うんだよ。だって、自分が受け入れられることを疑わずに生まれてくるのに、最初から面倒な存在だと思われてたらあんまりじゃない?」

章吾の視線は、京香(恭平の亡くなった妻)のような、亡くなってしまった親にも向けられる。志乃ちゃんの世話をしながら、自分に言い聞かせるように「愛情」について語るのが印象的だ。

ハンドソープの泡を載せた小さな手がこすり合わされるのを眺めながら、肩書きや血のつながりではなく、行為によって親になるんだと自分にそう言い聞かせた。僕の存在が志乃ちゃんの記憶に残らなくても、行為の中に愛があるのなら、それでいい。大事に思う存在が、その愛を栄養にして育つのであれば、僕がここにいる意味はあるのだ。
「どうしたの?」
少し涙ぐんで洩をすすったのを気づかれてしまい、「なんでもないよ」とごまかした。
手を拭くためのタオルを取ってやりながら、これからも記憶に残らないような行為を積み重ねていこうと思う。だいたい、いつか忘れられてしまうその愛情の価値を認めなかったら、京香さんのような、幼い子どもを残して亡くなった親たちを否定することになってしまう

『レンタル・ファミリー』も人間の生死の問題を挟みながら、人が個人としてどう成長するかではなく、どう他人をケアするか、助け合って生きていくのか、ということをテーマにした物語だった。
2作品を通して、家族の中の自分、会社組織の中の自分など、多くのことを振り返り、改めて考える良いきっかけとなった。ここで得たものを、今後の考え、行動、発言に少しでも繋げられるようにしていきたい。

読みたい本

解説で河野真太郎さんも触れている通り、白岩玄さんの前作は同様のテーマで男性を描いた内容で、以前から読みたかったもの。さらによく見ると、この人は『野ブタ。をプロデュース』の人なのか。
また、河野真太郎さんの本は以前から気になっていたけど、まずは一冊読んでみたい。

学ぶことは楽しい!そのときに大切なのは?~結城浩『数学ガールの秘密ノート/学ぶための対話』

数学ガール(と言っても本編ではなく、秘密ノート)はかなり久しぶりだったが、先日、シリーズが完結したと聞いて久しぶりに読んでみた。
「秘密ノート」のシリーズの中でもタイトルがとっつき易いものを選んだが、これは結構すごい本だった。


内容は確かに薄い。
なんたって、「数学ガール」と題しておきながら、結局、直線グラフ(一次方程式)のみを5章を通じて延々と繰り返し取り上げる低スピード。
ところが、「理解すること」について取り上げる深さは、他に類する本はないのでは?


「数学ガール」は、「僕」とレギュラーメンバーの女子中高生との対話で数学の理解を深めるシリーズだが、この本に出てくるのは、いつもの「僕」(高校生)、ユーリ(中学生)と、今回の主役であるノナ(ユーリの同級生)となる。
とにかくノナの理解が遅い。


数学ガールは基本的に会話で話が進むのだが、ノナの喋り方はこんな感じ。

  • 「意味が……意味がわからない…xX」
  • 「意味がわからない……わかりません…oO」
  • 「暗記……暗記しますか…??」

これに対して「僕」が、イライラして早口になってしまうのが面白いが、まさにこの本が題材としている対話、もっと言えば「常にスムーズに行くとは限らない対話」は、ノナがいるから生じる。

ノナとの対話は、同じところを何度も何度も回る。
なかなか、数学の話まで行き着けない。
教えるって、時間が掛かる。
考えるって、時間が掛かる。
本当に、時間が掛かることなんだ。
でも。
でも、僕がノナと対話する時間は無駄じゃない……と思う。
僕は彼女と、とても大切な対話をしている。
そんな、手応えがある。  

構成としては、

  • 1、2章で、ノナとの対話の難しさを読者も共有する。
  • 3章はノナはお休みで、「僕」とユーリが、ノナの「わからない」をどうしたらいいか作戦を練る。
  • 4章では、ノナのこれからについて大きなアドバイスを示し、5章では、そのアフターフォローを行い、ノナに自信を与えてあげる。

3章までが良いのは、「僕」が、これまでユーリやテトラさん達=スムーズに対話が進む相手に対してでは、見過ごしてきた「対話」のむつかしさに初めて気がつくところ。
ノナは、説明内容がわからなくても、質問をしないだけでなく、「はい」と生返事をしてやり過ごそうとしてしまう。そんなことは「僕」が想定していなかったことだ。
こうした、多様な「わからない」のあり方を踏まえるからこそ、事態に光が見える4章はクライマックスにあたり、非常に読み応えがある。


数学ガールのシリーズを通してのスローガンは「例示は理解の試金石」で、自分が理解できているかどうかを確かめるために、具体例を作ってみることを推奨している。
今回「僕」がノナに、一番大切にしてほしいと伝えることは、このアレンジなのだが「自分の理解に関心を持つ」という態度
この部分の対話を抜粋する。

ノナ「まちがってもいいの……いいんですか...??」
僕「まちがっても、いいんだよ。まちがうことを恐れていたら何もできなくなっちゃう。ただし、まちがったときには『どこをまちがったのか』をきちんと確かめて訂正する必要があるけどね。<自分の理解に関心を持つ>態度でいるなら、自分がまちがったところを確かめて訂正するのがすごく楽しくなるよ。自分の理解がより正しくなるわけだから」

 
これこそが、本書のいちばん重要なメッセージだが、女子中学生のノナちゃんだけに向けられたメッセージではないと感じた。
SNSでは膨大な情報が溢れ、それらにどう向き合うかを本来は日々考える必要がある大人たちだって、<自分の理解に関心を持つ>態度が必要だろう。
「まちがわない」ことが重要なのではない。
自分が理解できていない部分、自分が過去にまちがった部分を確かめて改めることこそが大切なのだ。*1


ただ、この理屈も、ノナちゃんには届かない。
何故なら、ノナちゃんは、まちがうこと自体が恐いのではなく、恥ずかしいわけでもない。
まちがったときに怒られるのが嫌だったのだ。
さらに対話が進む、ノナちゃんは家庭に大きな問題を抱えていることが示唆される。

僕「ノナちゃんはよく怒られるの?」
ノナ「何回教えてもまちがうなんて、この子は馬鹿じゃないの!っていつも怒られる……怒られます…xX」
急に甲高い声を出したノナに、僕は言葉を失う。
そんな、ひどいことを言うのは、誰だ?
親か?親なのか?

当然ではあるのだが、この問題の解決を家族間の問題として処理しないところが、「さすが数学ガール」という部分だ。
「僕」は次のようにアドバイスをする。

僕「ノナちゃんがまちがったとき、もしかしたら<誰か>は怒るかもしれない。でも、それは気にしなくていい」
ノナ「はい…??」
そのとき、僕の心に言葉が舞い降りてきた。
僕「そうだよ。ノナちゃんは、ノナちゃん自身の先生になるんだ
ノナ「答え、知らないのに…??」
僕「そうだよ。先生の仕事は答えを教えることじゃない。先生の仕事は理解を助けることなんだから」
ノナ「理解…oO」
僕「ノナちゃんは、ノナちゃん自身の先生になる。自分の理解を助ける先生になる」
ノナ「先生......になる…??」
僕「理解を助ける先生。理解しているかを確かめる先生。どこを理解していないのか探す先生。何回まちがっても怒らない先生。時間が掛かっても急かさない先生。それを跳ね返してくれる先生。ノナちゃんは、そんな先生になろう。ノナちゃんは、ノナちゃん自身の先生になる」
ノナ「先生……先生になる…oO


数学がノナちゃんに生きる力を与えている!
この部分は本当に感動的だった。
5章では「5.6 理由が大事な理由」で、さらにノナちゃんの背中を押す。

僕「誰が怒ろうとも、ノナちゃんの主張に正しい理由があるなら、ノナちゃんは正しい。年齢も性別も国籍も無関係。誰がなんと言おうとも、正しいものが正しい。それは、数学のおもしろさの一つなんだよ。だから、難しそうに思えても、理由をしっかり考えようね」
ノナ「はい..!!」
僕「正しいかどうか判断するために理由を考えること。どうして、と問うこと。それはノナちゃんの強いく武器> になってくれるかもしれないよ。ノナちゃんが考えるための武器、学ぶための武器にね」

思考は武器になる。
そして、考えること、学ぶことは楽しい。
そうした数学ガールに通底したメッセージが強く表れた一冊だった。
巻末に章ごとに用意された、読者への問いかけも、とても教育的で、このシリーズをもっと読み進めたいと思わされた。



なお、数学ガールを完結させた結城先生の最新小説は『AIと生きる』。
早速購入してみると…登場人物は数学ガールの面々じゃないですか!
ノナもいる!
AIの活用も気になるし、早く読み進めよう!


参考(過去日記)

前にシリーズの感想を書いたのは15年前と12年前!
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:奇しくも、先日ドラマを観終えたばかりの『テミスの不確かな法廷』で、松山ケンイチ(安堂清春裁判官)が口にする「分からないことを分かっていないと、分からないことは分かりません」を思い出した。傑作ドラマでした…

これは芥川賞の皮をかぶった本屋大賞受賞作~鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』

読後に驚いた芥川賞受賞作。
芥川賞なのに、こんなにスッキリとパズルが嵌まるように伏線が回収されるなんて、そんなことがあっていいのか?笑
自分が芥川賞に求めるのは、もっと「おいおいこれで終わるのかよ…」という砂川文次『ブラックボックス』や、タイトルに翻弄され、どこに連れていかれるのか全く分からなかった『バリ山行』のような作品。
その意味では、芥川賞らしくない。


ただ、その一番の特徴はテーマ設定と文体にあり、物語を通じて、読者は、高名はゲーテ学者・博把統一(ひろばどういち)の思考の中のゲーテ批評を読まされることになる。
ちょっとハードル高めの内容に思えるが、それが苦にならないところが、この作品の文章と構成の巧いところなのだろう。

実際、何度もそこに舞い戻る最重要テーマ「ジャムか?サラダか?」の議論は、なかなか面白い内容で繰り返し読んでも飽きなかった。

「(略)世界は多様である、という真理と同じくらい、世界はいかに一つであるべきか、という問いの出自は古い。その二つはいわば抱き合わせで、特に一神教をその基盤とする西洋的知性において、何度も繰り返し問われてきた。……そして、この多様性と統一性の問題について、ゲーテほど悩み抜き、書き残した人は他にいない」という一文で始まる本書には、ゲーテの二つの警句が重要なキーワードとして登場する。

  • 世界は粥やジャムでできているのではない。固い食物を噛まねばならない。(「格言風に」より)
  • 世界はいわばアンチョビ・サラダ。何もかも一緒くたに平らげねばならない。(「比喩的およびエピグラム風に」より)

統一はこの二つの異なる世界観をそれぞれ、ジャム的とサラダ的と名付ける。日く、ジャム的世界とは、すべてが一緒くたに融け合った状態、サラダ的世界とは、事物が個別の具象性を保ったまま一つの有機体をなしている状態を指す。
p30

語義通りでも十分面白いが、政治的イシューとして見た場合、また変わって見えてくる。統一は巷で「サラダおじさん」と呼ばれるほど、サラダ的な交じり合いを好むが、それが目指すところはかつてEUが追い求めていた共同体ということになる。

しかしながら、ヨーロッパ的共同体性を核に据える統一の理論は、ブレグジット以降何かと旗色が悪く、昨今のウクライナ情勢はそれに追い討ちをかけるようであったのもまた事実。
p32

そして、当然ながら、小説の中で、統一が出典を探し続ける、ゲーテが言ったとされる「Love does not confuse everything but mixes.」についても、ジャム・サラダと結びつけて考えていくことになる。

「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」と今度は日本語に直してみる。そうすると、一寸はゲーテらしくなったか。そのとき、統一の念頭にあるのは勿論、ジャム・サラダのこと。
愛はすべての事物を、ジャム的に混淆せず、サラダ的に渾然となす、とファウスト博士のように私訳してもよい。しかし、mixをどうとるべきかは、まだそれほど自明ではない。
「confuse」(混同)、言うなればジャム的統一への対立概念として、「mix」(混ぜる)をサラダ的統一と解釈したが、本当にそれでいいのか?
それはこの言葉の原文を探し当て、文脈の中で判断するより他なかった。  
p32


そして、(ジャム・サラダとゲーテを巡る話以外に)もう一つの柱になるのが「名言」に関連する話題。
統一の親友とも言える研究仲間、然紀典(しかりのりふみ)が序盤に名言について蘊蓄を語る場面も印象的だ。たとえば「愛の反対は無関心」を言ったのはエリ・ヴィーゼルと言う人の言葉だが、マザー・テレサの言葉とした方がありがたい…等々。こういった偉人の嘘エピソードも含め、誰が言った言葉だとしても、その言葉が実際に「機能」すればいいのではないか?という切り口は、誰もが考える内容なのでとっつきやすい。 
以下は、統一の夢の中で、「先生」のかたちで講義をしてくれるゲーテの言葉。「ゲーテはすべてを言った」というけれど、多言語で語られるすべてをゲーテが言えるはずながない、という指摘への回答も含んでいる。

世の中は、いつも同じものだね。いろんな状態がいつも繰り返されている。どの民族だって、ほかの民族と同じように、生き、愛し、感じている。あらゆることは既に言われていて、われわれはせいぜい、それを別の形式や表現で繰り返すだけだ」と言った。
p89

しかし、このあと、物語は一気にスリリングになっていく。
「誰が言ったかなんて無意味だ」という正論を通過したあとで、反対に、「誰がどこで言った言葉なのか」の正しさが問われる「捏造と盗用」が終盤の話題の中心になっていくのだ。
物語の発端である「Love does not confuse everything but mixes.」について、何の検証もしないままに「ゲーテの言葉」だと決めつけてしまえば、統一自身も捏造を疑われかねない。


という風に、きな臭くなった捏造騒動は、一番最後に思わぬ幕引きを迎える。


…のだが、その前に「「Love does not confuse…」を本当にゲーテが言ったのかどうか、という件。
こういう話の振りにオチをつけないのが芥川賞だと思い込んでいたのだが、この名言の大元まで辿り着いてしまうから驚きだ。
しかも、調べる過程で、

  • 娘の徳歌(のりか)が付き合っていた相手が実は…
  • 妻の義子(あきこ)が師事していたYoutuberが実は…
  • 徳歌と彼は、個人製作のHPを運用していて…

などが次々と明らかになっていき、また「3分de名著」ライクなゲーテ『ファウスト』についてのテレビ番組出演など、終盤は全く飽きさせない展開で、ミステリ的な話運びが非常に巧い。
やっぱりこれは芥川賞ではないのでは?(笑)


ということで、ゲーテについては名前しか知らない自分のような人間も、何も問題なく最後まで読み終えることができ、芥川賞だからと言って構える必要のない、言うなれば「芥川賞の皮をかぶった本屋大賞」作品だった。
もちろん、ゲーテに対する興味が湧くのは必然。作中でも紹介があったが、『ファウスト』の入門は手塚治虫の漫画作品が良いようなので、こちらを読みたい。また、手塚治虫でファウストと言えば、絶筆作品となった『ネオ・ファウスト』があるので合わせて読みたい。(『百物語』は『ファウスト』の翻案漫画だとのこと!こちらも)

ファウスト

ファウスト

Amazon



なお、登場人物名は変なものが多かったが、複数回登場する独自表記として「済補」がある。「スマホ」とフリガナが振られて登場するので、その後は、スマホのこととわかるのだが、読み飛ばしていたらなかなか付いていけないかもしれない、と思ってしまった。なお、「最先」と書いて「さっき」と読ませるのも独特だった。
「済補」については、以下のインタビュー記事でも言及があった。

newsdig.tbs.co.jp

「まずスマホっていう言葉がね、あまり小説では使いたくない感じがした。電子機器の固有名詞は小説と相性悪いと思う。ポケベル、ファクシミリとか、とたんに時代感が出る。星新一さんとか手塚治虫という漫画家はすごくそれを意識していて、必ず最新のものに書き換えてたんですよね。新作が出る度に。夏目漱石がすごく好きなんですが、漱石って当時、イギリスに留学してて、たくさん英語の言葉を日本に持ち帰ってきたんです。けど、それを当て字に必ずするんです。僕はすごくその感覚が好きで、今回それをやってみた」

とても納得できる意見。
芥川賞受賞後の作品はタイトルに「携帯」と入っているし、「済補」は登場するのだろうか。

携帯遺産

携帯遺産

Amazon

「見る」「見られる」の非対称性を考える~『その〈男らしさ〉はどこからきたの?』×『ユニヴァースのこども』

小林美香『その<男らしさ>はどこからきたの』は、アトロクで取り上げられたのをきっかけに手に取った一冊。

中井敦子・森岡素直『ユニヴァースのこども』は、シリーズ「あいだで考える」の一冊でひうち棚さんのイラストも楽しい本。

広い意味では、どちらもジェンダーを扱った内容と言えるが、その中でも、「見る」「見られる」について触れられている部分が共通しており、自分としても考えるべき問題だと感じたので、まとめて感想を書いておく。

アンチフェミ的価値観への教育現場での対策

『その〈男らしさ〉…』は、「CM・ポスターに刷り込まれた“理想の男性”の虚像を暴く!」という、とっつきやすい内容がメインで、どこを読んでも面白いのだが、その主旨からは少し外れる「第6章 その〈男らしさ〉はどこへいくの? ―これからの教育と医療と男性性」(3名への対談で構成)が興味深かった。
特に、男子校でのジェンダー平等教育を教えている田中めぐみさんの語りの部分。
太田啓子『これからの男の子たちへ 「男らしさ」から自由になるためのレッスン』を念頭に授業を作ろうとした田中さんだが、「ゆるアンチフェミ」の生徒に悩まされ、そこが一つの課題のようだ。
何人かにアドバイスを求める中で、西井開さん(『「非モテ」からはじめる男性学』)から得たヒントが面白い。

西井さんは、研修やワークショップ、当事者会のような「場」において、①男性が自分の傷つきを見つめてその気持ちを言語化していくことと、②不平等な権力構造の維持に加担しないことの2つは別々に取り組んだ方がいいとレイウィン・コンネルの『マスキュリニティーズ男性性の社会科学』を引いて紹介してくださいました。
p236

このうち、①については、男性同士の「おしゃべり」を増やす必要がある、と繰り返し書かれているが、確かにその通りかもしれない。
性教育史を研究する堀川修平さんの話の中でも、以下のように書かれていて、①②はセットで(しかし切り分けて)学ぶ必要がある、ということがよくわかる。自分にも「上から目線」で「他人事」として捉えていた時期があったと感じる。

というのも、男性の受講生の中には、「ジェンダーって最近聞くようになったから」とか、女性の生きづらさの問題を他人事として知っておこう、という上から目線で来る人も多いんです。そこで、自分ごととして捉えてもらうためにも、「男性の生きづらさ」は必ず扱うようにしています。たとえば、過労死のジェンダー差について考えたりします。すると、ジェンダーは男性の生きづらさに関わる問題でもあることに気づくのです。
p248

合わせて、以下のような内容も、日々のネットでのディスコミュニケーション(また、チームみらいが、先の衆院選で重視した「批判を避ける」という選挙戦略)を見ていると、年齢性別問わず、日本人は、まだまだ学んでいく部分があるのではないかと感じる。

ディスカッションの中で、コミュニケーションとして批判をしたり、大切にしたいことを伝えられるようになることが、日常生活での性の受け止め方につながっていくと思います。性教育は他者とのコミュニケーションと切り離せないことであり、人と関わる上で相手の人権を侵害しないように学んでおかなければならないことなんだと思います。
p249

バカとエロの大縄跳び

上に挙げたような男性性の問題についての表現として紹介された「バカとエロの大縄跳び」という言葉には、衝撃を憶えた。あまりに理解でき過ぎる表現!
この言葉は、作家の白岩玄さんが、男性学研究者の田中俊之さんとの対談の中で述べた言葉だという。

僕の場合、自分が男性として育つ中で経験した「バカとエロの大縄跳び」が本当に嫌だったという実体験があるんです。男子はみんなでバカなことをするとか、エロを受け入れるという強制参加の大縄跳びのようなものがあって、とにかくそこに入らないことには男の子として認められないという空気がありました。

僕は嫌だったけれど入らざるを得ないから、もう飛んだふりするみたいな感じでやってきたのですが、本当につらかった。息子がもしそういうことを好まなかった場合、自分と同じようにその中で生きていくしかないとしたらつらいと思うのですが、親にできることは限られていますよね。
男性が「本音や弱音を吐きづらい」社会の問題点 白岩玄×田中俊之が語る「男性の生きづらさ」 | 生きづらい男たちへ捧ぐ 田中俊之の男性学 | 東洋経済オンライン

「第3章 自己鍛錬としてのメンズ美容」の締めの文章では、男性向け美容の広告は、これまで「バカとエロ」+「能力主義」が中心だったが、徐々に変わりつつある、という説明がなされる。
自分自身のケア実践を通して、他者への理解や想像力を広げ、共感を深めていくことの中にこそケアの本質があり、その方向に進んでほしいと望むまとめの文章は、以前読んだ『父と子のスキンケア』の強引なまとめとも通じる内容だった。

「一方的に見ること」を享受できる男性優位社会

この本が取り上げる具体的な事例をもとにした広告の読み解きはどれも面白いが、そもそも、この本の良さは、その制作意図に起因し、そこに一番共感できると感じる。


「はじめに」で「男らしさ」表現に注目する意図として、2つを挙げている。
1つ目は「男らしさ」表現を意識して読み解くことにより「デキる男」のイメージがフィクションに過ぎないことを明らかにしていくということ。
そして2つ目は、ジェンダーと表現の問題が広告の「炎上」で話題になるとき、多くの場合は女性に対する性差別的な表現が焦点化され、男性の表現がジェンダーの観点から問題になることがほとんどないから、ということ。

実際のところ、メディアや広告について「女性に対する性差別的な表現をなくすべきだ」という声は明快な意見として挙げられます。しかし、男性の広告表現には、男性に課せられる期待や役割、抑圧的なメッセージが内在しているのにもかかわらず、そのことが意識化されることはめったにありません。それこそが、ジェンダー表現の問題を、もっぱら女性に対する性差別の問題として捉えてしまう要因であり、男性からはあたかも他人事のような距離感で扱われてしまう要因でもあります。
女性を性的容体として捉える「男性の眼差し(male gaze)」が社会に浸透しているために、男性は自らが「眼差しを向ける側」であると認識します。「眼差しを向ける側」とは、あたかも透明な存在であるかのように、姿を見られることなく「一方的に見ること」を享受できる側のことです。男性が自らの視線をそのような位置に重ねあわせることに慣れてしまうと、「眼差しを向けられる側」になることで経験する傷つきや痛みを言い表すことが困難になるのかもしれません。
p21

この部分の、男性が「一方的に見ること」を享受できる側にある、という指摘は、(女性側からすれば、言わずもがななのかもしれないが)確かにそうかも知れない、という発見があった。

「第5章 選挙ポスターに見るジェンダー表現」の中で繰り返し扱われるTBS「news23」でのトラウデン直美の「おじさんの詰め合わせ」発言は、まさに「見る」立場から(慣れない)「見られる」立場に替わったときの男性側の逆上の良い例だ。この事例について言えば、確かに「炎上」したが、実際には「炎上」ではなく「逆上」と言えるだろう。

見られる側のプレッシャーと、一面的な見られ方


同時期に読んでいた『ユニヴァースのこども』でも、この「見る」「見られる」問題が繰り返し取り上げられる。本の概要は以下の通り。

敦子さんと素直さんは、互いを大切なパートナーとして、敦子さんが出産した満生ちゃんと3人で暮らしている。素直さんの性は女性/男性のどちらにもとどまらず、3人の関係は〈母親/父親/こども〉の枠に収まらない。性のあり方、関係性のあり方を枠にはめず、名前をつけず、ゆらぎ変化していく全体として日々の生を生きようとしてきた2人が、出会いの頃から満生ちゃんの誕生、現在の暮らしまでの出来事と思いを語った「声のおたより」の記録。
Amazonあらすじ)

この中で、いわゆるトランスジェンダーに対する、自分の持っていたイメージが、(たとえ「偏見」ではなかったとしても)当事者にプレッシャーを与えているということがよくわかった。

森岡素直(もっちゃん)は、子どもの頃にあまり性別違和がなかったが、世間のイメージに自分を合わせて、(子どもの頃からスカートが嫌いだった等の)嘘を語っていたのだという。

メディアの報道をもとにつくられていく、性同一性障害に関する固定観念やイメージが当時のぼくにはすごく大きくのしかかっていました。それは、単に「偽物」と思われるだけではすまないんです。偽物と思われることで、自分が望む性のあり方で生きることが否定されてしまう。それは裏を返せば、世間の固定観念にはまることで初めて「本物の性同一性障害」とか「本物のFTM (=Female To Maleの略。出生時は女性を割り当てられ、性自認は男性である人。現在は多く「トランス男性」と呼ばれる)」として認められる、自分が選んだ性のあり方が正当化されるという現実があると思います。


p119

このあとの部分では、これを「自身のチューニングを世間に合わせる」のではなく、社会の、ひとりひとりのチューニングが変わる可能性が、希望として語られている。

しかし、これは、あくまで「どう見られるか」が中心にある。


別の部分では、アレクサンダー・テクニークという技法の話と合わせて、「どう見るか」の話が出てくる。

私がアレクサンダー・テクニークでいちばん学んだことは、「人から見られる」という矢印じゃなくて、「自分が世界を見る」という矢印が自分の中心にあるという、その感じ。「女性として見られる」っていう視線のプレッシャーがあって、それは当時の私にとってはものすごいプレッシャーだったんだけれども、「自分が世界を見ている」っていう質感をふくらませていく、充実させていく中で、そのプレッシャーがだんだん小さくなっていった。それは行きつ戻りつで、時々「見られてる」プレッシャーがわっと大きくなって、ちょっとやめとこう、猫背にして胸を隠して歩こうとかね、そうなってしまうんやけど、「自分が世界を見てるんだ」っていう質感をまたとり戻していく。そういう変化が、少しずつやけど、確実にあったのです。
p39

これに対して、パートナーの中井敦子(あっちゃん)が、さらに次のステージとして「自分のdesireを認める」ということについて触れる。

そういう変化が重なっていったからこそ、次のステージがあったんやなって思う。いま振り返ればやけどね。それは、自分の欲求とか欲望とかビジョンとかがあることを認めて、それを自分が決定していいっていうこと。つまり「自分のdesireを認める」ということ。(略)
「クローゼットから出ていく」っていうメタファーがあるやん。自分のセクシュアリティを隠している状態から出て、カミングアウトすることのたとえで。で、私にも自分の欲求が本当はあったんやと思う。でも、それはクローゼットに入れてた。
きっと。

p41

自分のdesireを認めたからこそ、第三者からの精子提供という方法で子どもを持つ、という選択に踏み切れたのだという。


こうした、多数派が作り上げた固定観念による抑圧の問題は、まったく別の場面でも取り上げられる。
二人の子どもの満生(まを)ちゃんは、2歳から保育園に通い始めたが、3歳になった次の春から行きたがらなくなり、発達検査を受ける。そこで「この子は手先が不器用で、それが理由で不安を感じている」という説明を受ける。
これへの反応に、自分はまた驚かされた。

でも私は、ともかくまず「満生ちゃんは不器用」っていうひとことが衝撃的で、自分の中にすごく残ってしまったんや。
それはなぜかというと、満生のこと、私は不器用か器用かという観点で見てこなかった。そういう言葉で満生のことを見ていたわけではないの。
(略)
はさみで細かく細かく切ったりとか、集中した時には非常に細かい作業もできる。それは、むしろ「器用」ともいえるんじゃないかと思うんだけど、そもそも私はそういう言葉では超えてなくて、繊細な指先、「感じている指先」っていうのかな。物をとり扱う時とか、ネコのトーベにさわる時のさわり方とかも、だんだん力の加減がわかってきて、指先の表情がすごく細やかになってきたし、探究する指先やなっていうふうに感じてた。
(略)そういう、美しい手やなって思って眺めてたものに対して、たとえば食事の途中でスプーンを放り出した時とかに「あ、不器用やからなんかな」って思うような観点が初めて出てきてしまった。で、そういうまなざしで見ている自分も嫌やったし。......そう、嫌だったんですね。そうそう。

p134-136

確かにそうかもしれない。何となく一般的な見方(ここでは器用/不器用)だと思っていたことが、実は、多くの面を切り落とした一面的な見方であることは確かにその通りだ。そして、その「眼差し」だけになることで、どんどん能力主義的な見方に毒されて行ってしまう。

確かに、「不器用かどうか」という部分は、個人の特質の切り取りという点では、『その〈男らしさ〉』4章で取り上げられる、メンズコーチ・ジョージ発のネットミーム(スポーツ経験がない男は)「厳しいって」「危機感持った方がいい」という視点と変わらない。

これは、勅使河原真衣さんの本でも読んだ内容で、自分自身、拭っても拭っても拭いきれない思い込みがあるので、気をつけたいと感じる部分だ。



2冊を読んでみて、見る・見られる(眼差し)が、個人の気持ちにも、社会の傾向にも大きな影響を与えていることがよくわかった。

『ユニヴァースのこども』では、当事者みずからが変えなくても、ひとりひとりの(当事者に向ける)チューニングが変わる可能性もある、ということが希望として語られる。が、そのためには、ひとりひとりが、他人事にせずに自らの問題に向き合う必要がある。

遠回りだが、そういう風に、学んでいくことはそれだけで楽しい。

と思いながら謙虚に勉強を続けていくしかない。



『その<男らしさ>はどこからきたの?』の参考図書

参考にしたい本が多数あったのでまとめておく。

  • p115 Netflixドキュメンタリー映画『ホワイト・ホット:アバクロンビー&フィッチの盛衰』(第2章 スーツとパンツ)
  • p155伊藤聡『電車の窓に映った自分が死んだ父に見えた日、スキンケアはじめました。』(第3章 自己鍛錬としてのメンズ美容)

上でも取り上げた「第6章 その<男らしさ>はどこへいくの?」では、取り上げられた3名の研究者の著書含め、気になる本が多かった。

  • p223 田中めぐみ『学校の「男性性」を問う 教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践』
  • p224 太田啓子『これからの男の子たちへ 「男らしさ」から自由になるためのレッスン』
  • p227 西井開『「非モテ」からはじめる男性学
  • p228 ダイアン・J・グッドマン『真のダイバーシティをめざして 特権に無自覚なマジョリティのための社会的構成教育』
  • p237 ヨシタケシンスケ『ヨイヨワネ』
  • p239 堀川修平『「日本に性教育はなかった」と言う前に ブームとバッシングのあいだで考える』


なお、本には直接触れられていないが、「バカとエロの大縄跳び」の白岩玄さんの小説も読んでおきたい。


『ユニヴァースのこども』の参考図書

こちらは巻末にガイドがあり、読む本を広げやすい。

直木賞と湊かなえとデタラメなGemini~村山由佳『PRIZE』

「どうしても、直木賞が欲しい」  
賞(prize)という栄誉を獰猛に追い求める作家・天羽カインの破壊的な情熱が迸る衝撃作!

2025年の話題作で、本屋大賞にもノミネート。
面白くないわけがなく、あっという間に読み終えた。
面白がれる要素としては3つあって、1つ目は直木賞に関わる編集者の苦労、2つ目は実在作家のアレコレ。そして3つ目は展開の妙。
それぞれ簡単にまとめたい。

直木賞に関わる編集者の苦労

直木賞選考過程についての詳細が解説されているわけではないが、これまでに聞いたことのある蘊蓄も含めて面白く読んだ。
ただ、部外者には楽しい「賞」レースも、当事者になってしまうと大変だ。
受賞連絡を待つ「待ち会」についても、手に汗握る状況が伝わってくるようだが、(受賞を逃したあとの)出版関係者たちが被る地獄絵図は辛すぎる。
特に、本作の「もう一人」の編集者である文藝春秋石田三成(さんせい、と読む)の受けるプレッシャーは相当のものだ。
まず、直木賞選考会の司会は「オール読物」*1編集長が務めるということで、候補作へのねじ込みを天羽カイン本人から示唆される(p53)。
そこで厳密な選考過程の説明が挟まるが、辛いのは、実際には司会進行が受賞作決定に多少なりとも影響する、と本人が認めてしまっている部分(p221)。
そこに来て、直木賞受賞作をコントロールするような脅迫文書。確かに、これが表沙汰になれば、何が選ばれても炎上必至だ。

さらに、天羽カインからは、知人の映画監督によるセクハラについての週刊文春のスクープ(いわゆる文春砲)もみ消しをしつこく依頼されるなど、大作家に信頼されるのは嬉しいだろうが、そこまでは献身的になれない…

ということで、石田三成は、「脅迫文書」の件がこたえて、物語からは、一旦途中退場してしまうのだが、これがリアルな編集者像であれば本当に辛い。ただ、お金も出すが金も出す、癖が強い顧客はどこにもいると言えばいるので、運なのか…。

なお、序盤に登場する天羽カインの衝撃的なエピソードである「文広堂」からの完成原稿引き上げの展開も、作家との信頼関係を築くことができなかった担当編集の問題だった。このあたりの「校閲」の話は、誤字脱字だけでなく、想像以上に内容に踏み込んだ指摘をする、ということが分かり興味深かった。校閲に関しては小説なども出ているからもう少し知りたい。

実在の作家あれこれ

作家の実名含めて詳細に書かれる実際のエピソードは、太宰治芥川賞への熱望と、太宰に「刺す」と言わせしめた川端康成の太宰作品への選評の話くらい。
それ以外は、実在の作家によく似た名前(馳川周、南方権三など)の作家のエピソードが出てくるのだが、どこまで実話なのかは不明。どこかで作中人物を整理したところはないだろうか…。

また、名前を出さない実際のエピソードとして、千紘が天羽カインに対して、「賞ってそんなに、どうしても欲しいものですか?」と聞くくだりで、以下の話が出てくる。

「小説作品そのものの値打ちとそれとは全然別物だと思うんですよね。色々あって、直木賞にはもう二度とノミネートしてくれるなと絶縁宣言をして、でもその後もずっと素晴らしい作品を書き続けている作家さんもいらっしゃいます」
p191

これ誰だっけ?と思って調べると興味深い記事が出てきた。

hochi.news

スポーツ報知の「4度目の“落選”湊かなえさんはなぜ直木賞を取れないのか…人気イコール受賞とならない理由」  という記事で、ここで、天羽カインに当たるのは、湊かなえだ。
「待ち会」のエピソードや、(馳川周の名で複数回登場する)馳星周が取り上げられているところも含めて、全体的に『PRIZE』の内容とマッチする部分が多く、時期を考えても、制作のヒントになっている可能性もある。


さて、この記事によれば、直木賞と絶縁宣言をした作家は伊坂幸太郎と、横山秀夫のようだ。横山秀夫半落ち』の件は、特に興味深かった。ただ、詳しく調べるとネタバレを踏みそうなので、読了してから調べることにしよう。


展開の妙

ちょうど先日観た映画『禍々女』も同様の感想だったのだが、急に世界がひっくり返る「どんでん返し」ではなく、徐々に世界がずれていく様が面白く描かれている小説だと思った。
もちろん、前半部で、ついていけないほど尖っているのは天羽カインその人で、担当編集が語り手になる章も挟まるものの、結局は天羽カインの物語なのだろうと思いながら読み進める。
ところが、南十字書房の緒沢千紘がおかしくなり出す。
天羽カインよりも千紘の「承認欲求」が前面に出てくるのだ。
さりとて、後半に入ると、千紘と天羽カインの2人で最後に手を入れた『テセウスは歌う』が直木賞を取る小説なのだろう、と思って読み進めているので、

  • 残りページ数が少なくなってきたが、これはどういう風に終わらせるんだ?
  • 直木賞を受賞する)ラストは分かり切っているが、それだけなのか?
  • もしかして、受賞したかどうか言わないパターンなのか?

と、ラスト近くは上手く落とせるのか不安になってくる。
しかし、人気動画チャンネルでの『テセウスは歌う』解説動画を観たときの天羽カインの衝撃から、その後の直木賞辞退からラストまでの展開までは怒涛。
「たった一行」の問題について、2人がどのくらい気にしていたかを読者が十分に理解しているからこそ成立する展開で、ここまでの種まきが実ったかたち。伏線回収という言葉はあまり好きではないが、徐々に承認欲求の病に侵されていく千紘の心理描写も良い伏線になっており、よくできたミステリのようだった。

デタラメなGemini

なお、有名な小説なので、生成AIも内容を知っているだろうと思い、直木賞辞退のエピソードのあと、『テセウスは歌う』が最後に受賞した文学賞について(作中では具体的に何なのか伏せられているので)質問してみたところ…

村山由佳さんの小説『PRIZE』において、主人公の天羽カインが物語の最後(終盤)に受賞した賞は、**「芥川龍之介賞芥川賞)」**です。
この作品は、カインが直木賞候補に選ばれながらも落選し、そこから文学界の波に揉まれながら再生していく姿を描いています。物語のクライマックスで、彼はそれまでの自伝的な作風とは異なる作品で、ついに芥川賞を射止めることになります

なわけあるか!
(しかも、カインを「彼」呼ばわりしていたり、「それまでの自伝的な作風」というのも誤認。堂々と言われてしまうと本当な気がしてくるのが怖い…)


そのあと、不見識を詰めて発言を撤回させ、再度聞くと天羽カインが最後に受賞したのは「谷崎潤一郎賞」なのだと、また断言。


あくまで断定的に発言するGeminiは避け、今度はChatGPTに変えて「候補に挙がっていることが事前には知らされない」「歴史ある文学賞」について確認したところ、以下のように教えてもらった。(すみません。裏取りはしていません)


ただ、作者の村山由佳さんの読売新聞記事を読むと以下のようにあるので、Geminiが断言した谷崎潤一郎賞ではなく、吉川英治文学賞が意識されているのかもしれない。

自身は1993年に小説すばる新人賞を受け、2003年に文芸春秋から出した『星々の舟』で、初めての候補で直木賞に輝いた。09年には『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞など三つの文学賞を受けた。はた目には賞に恵まれた作家人生に映るが、「(『風よ あらしよ』での)吉川英治文学賞まで12年あいたので、受賞の電話を受けたときにはボロ泣きしてしまった」とも。
「私自身一番恥ずかしい」 村山由佳さん「PRIZE―プライズ―」 : 読売新聞


というように、前回に引き続き、生成AIとの付き合い方について考えさせるやり取りも含め、楽しい読書体験でした。

実は、村山由佳は初読だったのですが、これを読んでしまうと、村山由佳直木賞受賞作、吉川英治文学賞受賞作を読んでみたくなりますね。

参考(過去日記)

前回、「博識」なGeminiの言うことを、疑わずに聞いてしまったのが、こちらの記事になります。
pocari.hatenablog.com


*1:『PRIZE』は「オール読物」の連載小説だったというところは驚き

ゴジラと被団協と優秀なGemini~ジェイムズ・モロウ『ヒロシマめざしてのそのそと』


あからさまにゴジラっぽいキャラクターが出ている表紙が気になるSF小説
あらすじは、牧眞司さんの「本の雑誌」での紹介が読みやすい。

太平洋戦争末期、誰の目にもすでに日本の敗戦は確実だったが、無条件降伏に追いこもうとアメリカはだめ押しの手段を探していた。ひとつは陸軍による原子爆弾開発、マンハッタン・プロジェクトだ。

そして、もうひとつ、海軍が進めている究極の生物兵器の開発、ニッカーボッカー・プロジェクトがあった。すでに品種改良によって、全長四〇〇メートルで火を吐く、狂暴なトカゲができあがっており、ベヒモスと名づけられていた。この怪獣は、いったん解き放ってしまえば制御不能。あまりに危険だ。

そこで、海軍は日本から外交団を招聘し、その前でデモンストレーションをおこなってベヒモスの脅威を印象づけ、実戦投入なしに相手の戦意を挫こうと考えた。段取りはこうだ。まず、ベヒモスの成獣三頭の威容を見せつける。そのうえで、ベヒモスの幼体を用い、日本の都市に見立てたミニチュア・セットの破壊を披露する。

ところが幼体は性質がおとなしく、思ったような演出ができないとわかった。切羽詰まった海軍は、実物そっくりの着ぐるみをつくり、スーツアクターに操作させる作戦をひねり出す。白羽の矢が立ったのは、ハリウッド映画でいくつものモンスター役をこなしているシムズ・ソーリーだった。彼がこの作品の主人公にして語り手である。
【今週はこれを読め! SF編】戦争にとどめをさすはずの巨大モンスター〜ジェイムズ・モロウ『ヒロシマめざしてのそのそと』 - 牧眞司|WEB本の雑誌


確かに設定は面白そうで、実際、最後まで読み進めた自分も、そこに引っ張られた。
ところが、この本は1984年時点でのシムズ・ソーリーの回想録として書かれていて、その中に虚実入り混じったB級ホラー映画の蘊蓄が満載で固有名詞が過多。
1945年と1984年を行ったり来たりする読みにくさはなかったが、本筋と関係ない内容が多過ぎて読み進めるのは辛かった。
それでも、上の引用記事にも書かれている通り、ソーリーは回想録を書き終えたら部屋のバルコニーから身を投げて自殺するつもりで、その結果が最後に待っている構成となっていて、そこも気になる。
というように、ニッカーボッカー・プロジェクトの成否とソーリーの最期が気になることが、読了できた一番の理由だが、全体を振り返れば、面白い本だった。(ただ、やっぱり無駄話が多過ぎる翻訳調の文体は辛い...)

プロジェクトの成否とテーマ

この作品の読み方、テーマについては、訳者あとがきがわかりやすい。
この中では、書籍化の企画が動き出してから数か月後に、日本被団協ノーベル平和賞を受賞したというニュースが飛び込んできたぐうぜんについてまず触れられる。それと重ねて、核の脅威と被爆者について取り上げ、特攻隊にも志願した(訳者・内田昌之さん自身の)父親にも触れながら、このように締めている。

たとえ戦場に出なくても、じかに空襲を体験しなくても、戦争は人の心に深い傷を残します。その暗い影はどこまでもつきまとい、消えることはありません。ヒバクシャをもう生まないというのは、広島と長崎を最後の被爆地にすることではないのでしょう。ウクライナやガザは言うまでもなく、世界中でいまも日々生み出されている、あらゆる戦争被害者をなくすことなのです。そのためにたゆまぬ努力を続けている、日本被団協の活動に敬意を表します。

つまり、ソーリーは与えられた任務をやり遂げ、日本外交団に恐怖を植え付けたが、プロジェクト自体は失敗し、日本は降伏せず、結局、ヒロシマナガサキで、多くのヒバクシャを生むことになった。
そこをソーリーは悔いているのだ。過去作品についての話題を求められているSF映画のさまざまな大会で、ひたすら原爆の恐ろしさについて語り継ごうとするが、それでも癒えない心の傷が、彼を自殺に追い込む。
核廃絶の意志は、若きクリエーターに継承される、という点でラストは明るい部分もあるが、あれだけ馬鹿馬鹿しく過去を振り返ったソーリーが最後に自殺(失敗するが)してしまうラストは、まさに「たとえ戦場に出なくても戦争は人の心に深い傷を残す」ということを指すのだろう。
ましてや核兵器
そう考えれば、(本の雑誌記事では、書評記事では使いたくない表現としているが)「いまこそ読むべき作品」なのだろう。

Geminiに聞くタイトルと用語

ところで、この本は、新聞書評で知ったのだと思うが、そのときから本を読み終えるギリギリまでタイトルを読み間違えていた。

ヒロシマめざして」の「その外」

と読み、「その外」って何だろう?何だか複雑なタイトルだと思い込んでいた。『バリ山行』のときは、本のせいにしていたが、今回は自分の問題。
原因は、「のそのそ」というのが、あまり使わない言葉である、ということだけなのだが、元のタイトルは『Shambling Towards Hiroshima』。
これについて、Geminiに直訳をお願いしたら、「広島へとよろめき歩く」「広島に向かって足を引きずり進む」という案を出したあとで、原作小説の内容を踏まえた解説も教えてくれた。

このタイトルには、単なる移動以上の意味が込められています。

  • Shambling(シャンブリング)の意味: 足をもつれさせながら、あるいはゾンビや怪獣が重い足取りで歩くような様子を指します。この小説が「ゴジラ」のような巨大怪獣映画のパロディを含んでいるため、怪獣の動きを連想させる言葉選びになっています。
  • ウィリアム・バトラー・イェイツの引用: このタイトルは、有名な詩『再臨(The Second Coming)』の一節 "slouches towards Bethlehem"(ベツレヘムへとのろのろ進む) のもじりである可能性が高いです。本来は聖なる場所へ向かうはずが、不吉な存在が近づいているという「破滅の予兆」を暗示しています。


あともうひとつ、作品内でも、あとがきでも言及がなかった、ニッカーボッカー・プロジェクトというプロジェクト名についてもGeminiに教えてもらった。

「ニッカーボッカー・プロジェクト」という名称は、歴史的な文脈とニューヨークの文化を絶妙に掛け合わせた、非常にセンスの良い(そして少し皮肉の効いた)ネーミングですね。

結論から言うと、これは「マンハッタン・プロジェクト」のネーミング規則をなぞったパロディであり、かつニューヨークという土地への強いこだわりを感じさせるダブル・ミーニングだと言えます。

なぜこの言葉が選ばれたのか、その背景にある「ニッカーボッカー(Knickerbocker)」の正体を紐解いてみましょう。


1. 「マンハッタン」に対する「ニッカーボッカー」
マンハッタン・プロジェクト(マンハッタン計画)の名前の由来は、初期の事務局がニューヨークのマンハッタンに置かれていたことにあります。

マンハッタン: ニューヨークの「場所」を指す。
ニッカーボッカー: ニューヨークの「住人(特に生粋のニューヨーカー)」を指す。

つまり、場所(マンハッタン)の名前を冠した公式計画に対し、その土地の魂や居住者の名前を冠した裏の計画、という対比構造になっています。


2. オランダ系移民の象徴
「ニッカーボッカー」という言葉は、もともとニューヨークを築いたオランダ系移民とその子孫を指す言葉です。

由来の豆知識: ワシントン・アーヴィングが1809年に書いた風刺本『ニューヨークの歴史』の筆名「ディートリヒ・ニッカーボッカー」から広まりました。

「古いニューヨークの象徴」であり「特権階級」や「古き良き伝統」を連想させるため、フィクションにおいては「歴史の裏側に潜む古くからの組織」や「エスタブリッシュメントによる極秘計画」というニュアンスを持たせるのに最適な単語です。


3. 他のポップカルチャーとの親和性
この言葉はニューヨークを象徴する単語としてあちこちで使われています。

NBAチーム: 「ニューヨーク・ニックス(Knicks)」の正式名称は「ニューヨーク・ニッカーボッカーズ」です。

カクテル: 「ニッカーボッカー」という有名なカクテルも存在します。

これらを知っている読者からすると、「マンハッタン(カクテル名でもある)」と並んで「ニッカーボッカー」が出てくるのは、非常にニューヨークらしい遊び心を感じる設定に映ります。

結論
このネーミングは、単なるパロディを超えて、「マンハッタン計画(表の軍事計画)とは別の、ニューヨークのより深いルーツや特権階級に根ざした裏の計画」であることを示唆する、知的な暗号のような役割を果たしていると考えられます。

ここまで教えてもらえるとありがたいが、改めて、人間が文章を書く意味合いがどんどん減っていることを感じて辛い。
また、ここまでしっかり教えてもらってしまうと、言われたことをそのまま信じてしまう…。
馴染みがある分野であれば、さら問いをして、AIを詰めていけば、より正確な情報を得られるが、詳しくない分野ほど、適切に質問ができない。
そこらへんは、もう少し巧く使っていく必要がありますね…

→直後に、全部デタラメじゃないか…?と不安になる事例が発生しました…
pocari.hatenablog.com


これから読む本

一応、SFということで、Amazonで見ると、関連本としてSFが並ぶ。
ハードSFは苦手ジャンルではあるけれど、ソフトなら行けそうな気がする!


想定外の「リアル」~アレックス・ガーランド脚本・監督『ウォーフェア』

アメリカ国内での分断を、実際の戦争として描いて見せた『シビル・ウォー』は、観た当時も衝撃を受けたが、むしろ最近になって、映画を思い起こさせるニュースが頻発しており、昨年感じていた不安が恐怖に変わりつつある。(特に、ICEを巡る状況は酷い。)
そんな社会情勢の中で観る、同じアレックス・ガーランド脚本・監督(レイ・メンドーサとの共同脚本・監督)の『ウォーフェア』の惹き文句は「95分間、戦場(劇場)に閉じ込める」。
物語が付加されていないのが売りの映画だから、リアリティをとことん追求した映画なのだろう。
ただ、どんな気持ちでそれを見ればいいのか?戦場での体験に没入できたとして、何を自分が持ち帰るのか?全く予想がつかなかった。

感想

もちろん想像通りのこともあった。
『シヴィル・ウォー』が、現場を記録することに徹する「ジャーナリズム」の映画だと捉えれば、この『ウォーフェア』は、まさにその精神で作られたものと言えるだろう。

しかし、まさにその「戦闘状態=Warfare」の現場こそが、自分がイメージしていたものとは全く異なるものだった。

市街戦

冒頭のエクササイズのビデオ後にタイトルが出たあと、カメラは「戦地」を空中から捉える。
その風景が、日本の郊外のように見えて驚いた。
こんな市街地が、この戦争の舞台なのか!
そこにまず驚いた。
実際、民家の2階から照準を合わせて狙う先では、現地の人たちの普通の生活が営まれているように見える
そして、戦闘が始まってしまえば、隣家の2階や屋上、曲がり角など、完全に敵の姿が見えるかたちでの銃撃戦。
確かに、『シビル・ウォー』で描かれたのも、こういうタイプの戦争だったが、ガザや、ウクライナでの戦争の報道で観る映像は、ミサイル攻撃によって廃墟になってしまった市街地。先日、砂川文次『小隊』で読んだ戦争は、人が住んでいないような場所での戦闘だったので、イメージは大きく異なる。

負傷兵

一番衝撃を受けたのは負傷兵について。
先に挙げた砂川文次『小隊』は、まさに「小隊」(もしくはその一つ下の「分隊」)を対象としているので、今回の映画とスケール的には近い。その中では、身近にある死が描かれていた。すぐ横で命を落とす仲間や、戦地に転がる死体。
今回も「リアル」に見せるための材料として「死」が描かれるものだと思っていた。しかし、その読みはハズレた。確かに、死体の映像もあったが、むしろ抑制的で、一番目立ったのは「負傷兵」だった。
「音」に力を入れて作られたこの映画で、ずっと鳴り続くのは、負傷兵のうめき声。
そうか。戦地だからと言って、撃たれたり、怪我をしてすぐに死ぬわけではない。仲間を救わなければならない。そんな簡単なことに気づかされた。

救援が、あと10分で到着する!あと3分、あと2分…
観客も負傷兵を何とかしてやりたいので、戦況によって、救援が遅れることが判明すると(観ているだけなのに)辛さが何倍にも増す。
あとから合流したチームには負傷者がいないためなのか、負傷兵への扱いが雑(足をぶつけたり、気合重視の声かけ等)なことにも苛々が募る。

兵器類

銃器や戦闘機などについては、パンフレットに期待していたが、大した情報が無かったのは残念。
そんな中で、押井守が自称「軍オタ」の立場から補足的に解説を載せていた。
特に、押井守が、戦車ではなく歩兵戦闘車だと字幕を訂正する「ブラッドレー」。映画の中盤までは、救急車のような働きを見せつつ、ラスト近くでは、住居の2階をどんどん壊していく様子に、当然ながら「働くクルマ」ではなく「兵器」なのだと実感した。
なお、『小隊』の中で最も活躍するのはBMPという小型の戦車だったが、イマイチイメージが湧かなかったので、その実物が見られて良かった。もしかしたら呼称が異なるだけなのかもと思って「同じものなのですか?」とGeminiに聞いてみたら、厳しいお言葉をいただいた。

結論から言うと、ブラッドレー(Bradley)とBMPは全くの別物です。 どちらも「歩兵戦闘車(IFV)」という同じカテゴリーの兵器ですが、生まれた国も、設計思想も、運用する陣営も対照的です。
例えるなら、「アメリカのSUV」と「ロシアのセダン」くらいの違いがあります。

ということで、いわゆる「戦車」にも色々とあることが映像として理解できた。
そして、もうひとつ押井守が褒めていて、これまで全く知らなかったのが、戦闘機による威嚇飛行。その衝撃波は視覚的にも聴覚的にも、最も迫力のある映像だった。

鑑賞後

確かに95分間、閉じ込められる映画だった。
繰り返しになるが、「戦場のリアル」としてイメージしやすい「死」を前面には出さない画面でも、常に死を意識し緊張し、プレッシャーを感じながら観る稀有な映画体験となった。
そして、極端に「直接的な価値判断」を廃する映画でもあった。
自分は、戦争映画なのだから、戦闘の巻き添えを食らうイラクの民間人、もしくは誤射で亡くなる米兵などの映像が挟まるものと思っていた。つまり、戦争反対のメッセージが、どこかに入るものと思っていた。
しかし、そのような絵は一切なく、ひたすら「戦闘状態」が続き、(メタな視点を取らせず)現場にいることを強いられた。
もう一度観たいかと言われれば答えに躊躇するが、今回観て本当に良かった。


…というように、『ウォーフェア』は、よくある「戦場のリアル」でもなく「戦争反対」でもなく、タイトル通り「戦闘状態」を映し出す映画だった。
もちろん、今回の映画で描かれたのは2006年当時のイラクでの戦場であり、ドローンが多用される現在ではまた、全く違う戦場のリアルがあるのだろう。
そんな中で、『シビル・ウォー』に戻って考えると、戦場を取材するジャーナリストの重要性に改めて思いがゆく映画でもあった。
 

戦争に限らず、こうした映画やドキュメンタリー、本を通して疑似的な体験を重ねることで得られる想像力もあるはず。今後も積極的に、そのような作品に触れていきたい。