Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

紀元前から現代までを18の漫画でつなぐ~茂木誠・大久保ヤマト 『バトルマンガで歴史が超わかる本』

歴史と漫画の相性が良いことはよく知っている。駿台予備校世界史講師による本ということもあり、これはかなり期待できるのではないか?
と思っていたが、店頭で本を実際に見ての印象は悪かった。

  • 18章あるので仕方ないとはいえ、漫画は戦争シーンのみ7~8ページで短い。
  • 前後に「小太郎」(中1)と「つきじい」(2500年前から来た古代ギリシアの歴史家トゥキディデス)の会話による補足情報が挟まるだけで、突っ込んだ解説がない。

これでは、18個の戦争イベントの不十分な解説を「一見わかりやすく」読ませられるだけではないかと考えた。
しかし、読んでみると、バトル01~バトル18を通して、紀元前から現代まで数珠繋ぎのように時系列に上手く繋がっており、宗教的な対立や民主主義と専制主義の流れを理解するのにとても役立った。
特に、カトリックプロテスタントの対立については、日本への影響を含めて、改めて頭の整理ができたことは非常に良かった。
確かに「平和ボケした日本人に喝を入れる」という目的のため、日本国憲法を否定的に取り上げる(p116)部分など、若干抵抗を感じながら読んだ部分もある。
しかし、ウクライナの戦争の状況を見ていれば、「平和憲法が日本を守ってくれる」などと言えないことは明らかで、過去の歴史から学ぶということは圧倒的に正しい。
ということで、自分史上、最大限の興味を持って世界史について少しずつ勉強している今の時期に、歴史全体を俯瞰して学ぶことができる良い本だった。
なお、一般にバトルマンガの「バトル」というのは、「人VS人の戦い」を示し「戦争」そのものは指さないのでは…?という懸念はあるが、全編を通して同じ漫画家(大久保ヤマトさん)が書いているので漫画部分は非常に読みやすい。そしてとても巧い。
これを次の興味、次の読書に繋げていきたい。

各章の内容+個人的感想(★)

この本のとても残念なところは「年代」が全く書かれていないこと。
おそらく、「世界史=年代」という苦手意識を持った人への配慮なのではないかと思うが、自分は年代暗記の語呂合わせが好きだったので、家にあった以下から合わせて載せる。(赤字)

バトル01 ペルシアvsアテネ
民主主義と自由を死守「ペルシア戦争

バトル02 ローマ帝国vsユダヤ
信仰は武力に屈しない「ユダヤ戦争」

バトル03 ヤマトvs隋帝国
独立国だと認めさせた「遣隋使」

  • 日本侵攻も視野に入れていた隋は、その後、高句麗遠征に失敗し、じり貧に。
  • 浪費や、むなし隋滅亡(618:ろうひや)/隋が滅亡して唐がおこる

バトル04 唐帝国vsヤマト
独立国家としての決意「白村江の戦い


バトル05 ムハンマドvs多神教
世界史の大勢力が誕生「啓示/聖戦(ジハード)」

バトル06 イスラム教徒vs十字軍(キリスト教徒)
仁義なき聖地争奪戦「エルサレム攻防戦」


バトル07 金vs南宋
平和国家の悲劇「宋金戦争」

  • 軍人の反乱によって滅びた唐のあとに中国を統一した宋は科挙で選ばれた官僚に政治を任せた(文治主義)
  • それゆえ軍の弱い宋(南宋)は話し合いで平和を維持しようとし、金に負けるが、貢ぐことで何とか残る。
  • その後、モンゴル帝国が興り、金を滅ぼし、宋も滅ぼす。
  • 人々逃げろ江南へ(1126:ひとびとにげろ)/靖康の変
  • ★著者が現代日本を一番重ねて見ているのは(話し合いで平和を維持しようとして失敗した)宋王朝のようだ。

バトル08 元(モンゴル帝国)vs日本
モンゴルの侵略を防いだ「文永・弘安の役

  • 元寇のあと、モンゴルはベトナムやジャワにも遠征したため軍資金がなくなってしまった結果、3度目の元寇は計画のみに終わる。
  • その際、モンゴル兵はベトナムやジャワの遠征でマラリアに苦しめられた。
  • 逆に、ペスト(黒死病)はモンゴルによって世界に広めた

バトル09 オスマン帝国vsビザンツ帝国
交通の要所をめぐる「コンスタンティノープル包囲戦」

  • メフメト2世VSコンスタンティノス11世
  • ビザンツ帝国は、東ローマ帝国が縮小しギリシアだけを支配する小国となった状態
  • 大砲が投石機にとって代わり、大砲・鉄砲が騎馬戦法を無力化した。(モンゴルもロシアの鉄砲隊に制圧されていった)
  • 黒色火薬の発明から鉄砲・大砲という武器の変化は、中国→イスラム→欧州→日本と渡り、日本にも影響する。
  • 一夜で降参、ビザンツ帝国(1453:ひとよでこうさん)/ビザンツ帝国滅亡

バトル10 スペイン人征服者vsアステカ王国
信仰心が欲望を正当化「アメリカ大陸征服」

  • 十字軍は失敗したが、キリスト教徒はイスラム教徒に奪われたイベリア半島の南側の領土を取り戻した(レコンキスタ
  • これによって出来たスペイン・ポルトガルは世界中に宣教師と軍隊を送り込んだ。(ex.ザビエル)
  • アステカはスペインのコルテスによって滅ぼされる。アステカは免疫を持たなかった天然痘にも苦しめられた。(スペインはこれまで何度も流行ったため免疫があった)
  • 以後追試、明日手変え、残るテストで、手の内とらえん(1521:いごついし)/コルテスがアステカ王国を征服

バトル11 スペイン王国vsイングランド王国(イギリス)
新旧のキリスト教が激突「アルマダの海戦」


バトル12 江戸幕府+オランダvsキリシタン
列強による介入の危機「島原の乱

バトル13 イギリスvsアメリカ13植民地
植民地が主権を奪取「アメリカ独立戦争

バトル14 18世紀末
ヨーロッパ諸国vsフランス革命政府
国王から主権を奪取「フランス革命戦争

バトル15 フランス帝国vsロシア帝国
ヨーロッパ統一に挫折「ナポレオンのロシア遠征

バトル16 欧米列強+江戸幕府vs日本+長州藩
明治維新のはじまり「下関戦争/倒幕運動」

  • ★ここは著者の思いが強く表れたセレクション。「外国の侵略から日本を守る」という意志で「日本人の団結を目指す」高杉晋作こそ誇るべき日本人、ということのようだ。

バトル17 大日本帝国vsロシア帝国
植民地に希望を与えた「日露戦争

  • ロシアを迎え撃つために朝鮮半島遼東半島を奪取したい→日清戦争(1894)
  • 下関条約で割譲した遼東半島を清国に変換することを要求(三国干渉:ロシア・フランス・ドイツ)
  • これに対抗するため日英同盟(1902)
  • 日本に負け(1905)たロシアの民衆は革命運動を起こす
  • 響くは夜更けの旅順港、艦隊沈没、日本海(1904:ひびくはよ)/日露戦争
  • ★実は読んでないなんて言えない


バトル18 大日本帝国vsアメリカ合衆国
太平洋で二大勢力が激突「真珠湾攻撃

  • ルーズベルトは日本軍による真珠湾攻撃を知っていて黙っていた、という話は知らなかった…。これも映画等で勉強したい。

「叱られる小説」と思って読んだら「呆れられる小説」~ミン・ジヒョン『僕の狂ったフェミ彼女』


以前「狂ったフェミ彼女」の本を読んだことがある。
pocari.hatenablog.com


この本の衝撃(というか罵倒され体験)は自分にとって過去最大級に大きく、そのせいもあり、「叱られ好きな自分」でも、身構えるようにして、この本を読み始めた。

(あらすじ)
就活を前に不安な僕を癒してくれた、愛らしい僕の彼女。毎日のようにベッタリで、付き合って1周年を迎えた。そんなとき僕は、1年間の海外インターンシップに行くことに。遠距離は不安だけど、彼女なら安心だ、待っていてくれるはず――。しかし、出国当日。空港にいたのは、涙ぐむ彼女を抱きしめる僕ではなく、別れのメールをもらってメンタルが崩壊した僕だった。
そんな初恋を引きずりながら 大企業に就職し3年目を迎えた「僕」ことスンジュン。周囲はほとんど結婚して、「まだ独身なの?」とからかわれることも多い。結婚する女性を選ぶだけなのに、なかなか結婚への意欲がわかない。そんなある日、初恋の彼女と出くわした! 心がまた動き出す……ところが、彼女はこともあろうにフェミニストになっていた! 


この本の登場人物は基本的に2人。「僕」(キム・スンジュン)と「彼女」(名前は出てこない)のみ。

僕は彼女を「メガル」と呼び、
彼女は僕を「ハンナム」と呼ぶ。
 ⇒「メガル」は、韓国でフェミニスト女性への蔑称。日本で言うツイフェミに近い使われ方をする言葉か。
 ⇒「ハンナム」は、韓国で家父長制にどっぷりつかった男性に対する蔑称。

本を読んで一番良かったのはネット上のフェミニストと、それに対する男性側の向き合い方・認識が言語化され、頭の整理になったこと。これを読み改めて、フェミニズムに関する分断は、日本と韓国は似ていると思った。(ただし韓国には兵役があり、その分だけ分断は深いと想像する)
読む前に予想していたのは、「狂ったフェミ彼女」によって罵倒され続けた「僕」が考えを「アップデート」*1するという話。
お互い傷つけあうが、最後にはわかりあえる。
ドラマ化、映画化されるというし、であれば最後は恋愛ドラマっぽい終わり方なのか?と思っていた。


ところが、この予想は全くの不正解。
ラストは、喧嘩別れして、でも未練たっぷりの「僕」は、アイルランドに旅立つ彼女を見送りに空港に向かう。
つまり、2人は、わかりあえない。
それよりも、一番驚いたのは、「僕」がほとんど考え方を「アップデート」しないこと。


ラストシーンの「僕」の独白が印象的だ。

わざわざ国際空港に行くも、彼女には会えないまま、「フェミ彼女」との思い出を振り返る。

いつだったか、いきなりわけのわからない涙をあふれさせた彼女の前で、どうすればいいかわからず無力だった夜中のことを思い出した。あの時の彼女がどんな気持ちだったのか、相変わらず僕にはわからないままだ。実際わかろうともしなかった。ただ驚き、戸惑うだけで、早くその時間が過ぎることだけを願っていた。

「僕」視点で見れば、「哀愁漂う別れの場面」だが、「狂ったフェミ彼女」視点で見ると、「コイツ本当に何も考えてないな…」というドン引きのラストになっている。つまり、この小説は予想していた「叱られる小説」ではなく「呆れられる」小説だった。


最初に読んだときは、読み口が軽すぎて、また、「僕」が通常のドラマの主人公然とした「いい人」設定過ぎて(また、「彼女」に罵倒されて変わるだろうという希望もあり)、最後になるまで、彼のダメな部分を黙認しながら読んでしまった。*2
しかし、再読してみると、「僕」の無神経すぎるところは色々なシーンに散りばめられており、温存される。

  • 再会してすぐの場面。彼女の考えを聞いたうえで「よくはわかんないけど、君の傷ついた心を癒してあげたいし、昔の明るくてポジティブな君に戻ってほしい」と慰めの言葉をかける。(p87)
  • 電話での会話。性暴力事件で裁判にも持ち込めないまま嫌疑なしの処分が出たことに憤慨していた彼女に対して、(事件のことを知らないのに)「被害者の言い分だけを信じるわけにはいかない。冤罪かもしれない。」と執拗に主張する。(p100)
  • 妊娠、中絶の話題について「男は何の心配もなくセックスできていいよね」という彼女に対して「女の方がいいだろ。特に君みたいな可愛い女は、男がみんなご機嫌とってくれるじゃん」と言い、心の中では「男はセックス一回のためにどれだけ頑張らなきゃならないか。女は違うじゃないか」と筋違いの主張。(p136)
  • 作家-編集者の立場を利用したセクハラ被害を訴え、カフェからタクシーで帰るときに泣き出した彼女を見て、これはチャンスと捉えてしまう→「逆境を共に克服する愛。僕が彼女の力になってあげて、彼女が『彼氏がいるメリット』を実感しながら、頼れる安定したパートナーの存在価値に気づくいい機会。」(p195)
  • デートで見たシスターフッド映画。「可愛かった女優が、なぜ、よく悪態をつく荒っぽいキャラクターを演じるように変わってしまったんだ」と嘆く(p205)
  • 彼女を皆に紹介して別れる原因となった友人結婚式について「メガルを社会復帰させようなんて、二度と考えるもんか。そう悟れただけでもかなりの収穫じゃないか」と嘯く。(p286)
  • 別れたあとの最後のデートでも「昔は普通の女の子だったよな。何で変わったの?」「男の方が辛いことが多いと思っていたのに。力仕事もみんな僕たちがやってるし」という頓珍漢過ぎる会話。(p306)
  • 最初から最後まで彼女のことを好きで好きでたまらないのに、「読んでみて」と渡された彼女が編集を担当したルッキズムの本すら読み切れなかったことが最後に判明。(p318)


「僕」が変わる、というオーソドックスな理想的な終わり方をしないことについて、著者あとがきを読むと、この本は、理想の上乗せを拒んだ、「リアル」な物語を志向していることがわかる。
著者のミン・ジヒョンさんは1986年生まれの女性で、この小説は、自身を映した「狂ったフェミ彼女」を男性側の視点から描いたものと言える。
あとがきで彼女は、今の強固な家父長制社会に取り込まれること、別の言い方をすると「通常の恋愛」を行うことを、「ゾンビになること」に喩えている。

愛は非理性的なものとは言うけれど、本当に理性を手放さなければ愛することなど不可能に見えてしまうほど、現実は暗澹としている。厳しい言い方をすれば、下手に愛を見つけようとして、見かけは人の姿をしたゾンビに嚙まれる可能性も高い。これを書いているわずか数週間前にも私たちは、裕福で端正な顔立ちの有名人たちが、実はドラッグを使ったレイプを楽しむ盗撮犯だったという事実を確認した。(そして現在も確認中だ)
ウォーキング・デッド」はいくら殺伐としていようとドラマに過ぎないが、悲しいことに、2019年の韓国のこの状況は現実だ。
これだから自分の人生を安全に守り、自分らしく生きたいという欲求と、誰かと共に生きたいという欲求が正面衝突するしかない。女性の場合は特に。
(略)
小説の中の「彼女」は選択をする。
だが外に出ればゾンビに噛まれることが目に見えている世界で、一人残ると決めることが、果たして本当の意味での選択と言えるだろうか?他の選択肢があって初めて、その選択には意味があるのではないか?今の状況ではこれは、ただ生きていくための最善策に過ぎない


ここで語られる通り、この小説は人生の「選択」の物語だ。
最初に出てくるデモや彼女がアイルランドに行く理由として繰り返される「中絶の合法化」についても、「選択できる人生」が主要テーマ*3だからなのだろう。
結婚式の帰り、「僕」と「彼女」が別れを決める場面で、結婚願望が強い「僕」に対して、彼女はこう言う。

「結婚を諦めたんじゃなくて、人生を選択したの!」

その後、「僕」が全くわかっていないことを見越して彼女は最後に、長い間貯め込んでいた言葉を堰を切ったように口にする。

「自分がすごくロマンチックで優しいと思ってるでしょ?あんたの愛し方、可愛がって、女の子扱いして、守るって建前で束縛して、みんなの前で着飾って式上げようってせがんで。私はそういうの望んでないんだって。なのに自分のやり方を強要し続けているよね。それがどんなに息苦しいかわかる?本当に自分勝手なのはどっち?」
「わかったよ。歳とって孤独死する時にせいぜい後悔するんだな」
あまりにも頭に来て、僕は本当に稚拙な言葉を吐いてしまった。

さらにその後の最後のデートの場面でも、この話は続く。

「だけどほんと、正直さ、考えると怖くならない? 将来、旦那も子どももいなかったら寂しいんじゃないの?」
「その代わり、私がいるはず。たぶんね」
「私」がいる……。彼女の言葉に、複雑な気持ちになった。
「いきなりだけどさ、僕ほんと、これからどうやって生きてけばいいんだろ? 結婚しろって親のプレッシャーがすごいから、友達になんで結婚したのかって聞いたことがあるんだ。だけど結論は何だったと思う?他にすることがなかったから、だってさ。たまにほんと、何のために生きてるんだろうって気になるよ」
「じゃあ一回ちゃんと考えてみないとね。本当に望んでることは何なのか。他人が望むことじゃなくて、自分が望んでること」
「だけどそんなに簡単にはいかないよ」
そうだよ、大変なことなんだよ

選択する「彼女」が、選択しない(というか、考えない)「僕」に対して、子どもに話すように諭しているこの場面は、(ウォーキング・デッドの怖さに気づかずに なあなあと生きてきた)自分にとっても耳が痛い。
しかし、そんな「彼女」の選択さえも、生きていくための最善策を選ばされただけであって、真の意味の「選択」とは言えないと著者が考えていると知ると、その絶望の深さは計り知れない。

ただ、あとがきには「絶望」と合わせて、2019年の堕胎罪の違憲判決など、「希望の光」についても触れられているのが救いでもある。

ハッピーエンド」へと向かうためのこの厳しい闘いの中で、この小説が、私たちが交わすべき無数の話を引き出すための小さな銃声になれるのなら、それ以上望むことはない。


なお、著者のミン・ジヒョンさんと訳者の加藤慧さんは、数十年来の友人のようで、あとがきだけでなくインタビュー記事でも、仲の良さが伺える。そして、それらには、必ず実際に起きた事件について触れられている。日本版向けの著者あとがきには、伊藤詩織さん事件についても書かれているが、日韓で、根っこが同じ事件が話題になっている(同時に、否定的な取り上げられ方も盛りあがっている)ことがよくわかる。


そうした事件に対して、また、現実に目の前の女性に対して、どうふるまうのか。スンジュンは最高の反面教師だと思う。彼のようにならないよう、日々考え、選択して生きていく必要がある。
book.asahi.com



補足(中絶について)

今年(2022年)の夏に、中絶をめぐる米連邦最高裁判所の判断(いわば逆行)が何度もニュースになった。
そして、この本でも書かれているような、韓国での堕胎罪無効化も2019年で最近。
日本での中絶の状況がどちらに向かっているのか気になってくる。日本における中絶の歴史については河合香織『選べなかった命』でも一通り勉強したはずだったのに、覚えていなかったが、簡単に調べてみると、変化の速い韓国から置いて行かれていないか心配になってきた。

  • この本で何度も登場する「堕胎罪」については、日本ではまだ残っており、廃止を求める声がある。(共産党の山添さんの記事:赤旗
  • 米連邦最高裁判所のニュースの際に、日本の課題として挙げられることの多かった、中絶の「配偶者同意」は、立憲民主党のサイトになるが、「中絶に配偶者の同意が必要な国は、「203か国中11だけ」だという。

www3.nhk.or.jp

www.harpersbazaar.com

www.jcp.or.jp

cdp-japan.jp


いずれもさらっと読んだだけでは、理解しにくい部分もあるので、何か一冊本を読んでみようと思う。
あ、今年の8月に新書が出ているので、こちらから。


参考(過去日記)

韓国フェミニズム文学と言えば、何と言ってもキム・ジヨン
pocari.hatenablog.com

*1:最近は、アップデートという言葉は揶揄的に使われる。この言葉を使うこと自体、「アップデートしている私>アップデートしていないあなた」というような見下しの視線を感じるからだと思う

*2:つまり、自分は家父長制社会にどっぷりつかっているということの証拠

*3:そもそもフェミニズムの本質が「選択できる人生」なのか。

作品テーマを見抜けなかった~ジョーダン・ピール『NOPE』

今回、事前情報を出来るだけ遮断して観に行き、「UFOの映画らしい」程度のことしか知らなかった。そのことで逆に、映画館に入ってからもっと知っておくべきだったのでは?と不安になったが、広い牧場と空が絵的に美しい映画で、内容も、ホラーというかパニックものとしてとても楽しめた。


パニックものとしては、「敵」の性質・弱点、勝つための「ルール」が上手く示されていることで、「攻略」の仕方が理解しやすいのが良かった。(ジョジョで言うと3部のスタンド)


空に浮かぶ「ずっと動かない雲」に敵は隠れている。(これも『ジョジョの奇妙な冒険』っぽい設定でドキドキする!)
音楽をきっかけに敵はコチラに近づいてくるが、周囲に「無電地帯」をまとっているので、電化製品が止まり始めたら突然途切れたら敵が来た証拠。
レコードの音が突如遅くなり、止まると、一気に不穏な空気が立ち込める上手い演出で、それだけでドキドキする。
そうした敵の性質を逆手に、最終決戦時に、広い牧場の中に配置された「スカイダンサー」は、相手の接近を知らせるカナリア的役割を果たす。広い牧場にカラフルなスカイダンサーが舞っているのは、それだけで絵的に楽しいが、理に適っている。
敵の弱点(気管をふさぐような、旗など)も、納得感のあるもので、ラストの「勝ち方」もすんなり受け入れられた。
クライマックスはとても楽しく、「目を見てはいけない」という息苦しいルールはサスペンス度を上げる。また、突然の「金田のバイク」演出や、敵の「エヴァンゲリオン使徒」(もしくはゼットン)っぽい怖さも盛り上げに一役買っていた。


ただし、観た直後の感想は、「面白かったけど、前2作に比べると、テーマがよくわからなかった」というもの。
UFOをめぐるメインのストーリー以外に、チンパンジーの事件が並行して語られることで、UFOとチンパンジーの対比から何かを伝えようとしていることはわかる。
また、主役の兄妹、OJとエメラルドが、最後まで、生き残ることよりも、映像を撮ることにこだわっていたことが異様に感じたが、そこも何かを伝えようとしているということはわかる。
ただ、それらを繋げるものがピンと来なかった。


その意味で、今回はパンフレットが、非常に作品解釈の助けになった。
特にライターの稲垣貴俊さんの文章が上手くまとまっていたが、核心部分だけを引用する。

ピールが本作で暴くのは”見世物”、彼自身の言葉でいえば「スペクタクル」を求める人間の欲望と短絡的な消費行動だ。それに振り回される愚かさと悲しさ、消費する側と消費される側がグルグルと入れ替わる構造である。けれども特に野心的なのは、この主題を、そもそも見世物として誕生した”映画”というメディアで描いたこと。

あ、そうか。
これでだいぶ理解が進んだ。
その直前部分もわかりやすい。

現在、人間はあらゆるものを見世物として消費している。有名人の醜聞や政治家の汚職、凶悪犯罪、暴露話などが視聴率や再生回数、アクセス数のタネとして使われるや、人々は何かしらを物申し、議論し、罵倒し、やがて飽きると次のネタを探す。メディアやインフルエンサー、そのユーザーは何もかもを食べ尽くさんとする勢いだ。すなわち人間や動物、植物などを次々に食べては吐き出すUFOは、さながら現代社会を生きる人々の欲望そのもの。大手ゴシップサイト・TMZの記者があっけなく食べられてしまうのはいかにも象徴的だ。人間や事件を食い物にする存在が、文字通り食い物にされるのだから。


宇多丸の映画評は、映画を観終えてから聞いたが、ちょうど、この「見世物」「見る、見られる」の関係の話を中心に語られており、今回、もし映画評を聞いてから観たら、もう少し作品の本質にアンテナを張って観ることができたかも、とも思った。(が、わからないまま観るのが楽しいんだろうと思ってます)

パンフレットやこれらの解説も含めて振り返ると、自分が映画で十分読み取れていなかったのは、ジュープの内面と物語的な位置づけ。彼は子役時代に見世物的に消費されたのに、「UFO」を見世物として消費する側に回るという象徴的な意味を持つ。ジュープは、アジア人キャスティングということもあり、非常に親しみを持って見ていたはずなのに…。


ということで、作品テーマは鑑賞直後にはわからなかったものの、いろんな部分で楽しめる映画でした。
今回の主人公OJを演じたダニエル・カルーヤは、『ゲット・アウト』で主人公を演じていた人なのか。生涯ベスト級に好きな映画なので、そろそろ見返すタイミングかな。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

あみ子は可哀想?~今村夏子『こちらあみ子』

今村夏子『星の子』のラストは、自分にとって衝撃だった。物語のセオリー通りに進まない話だったからだ。
pocari.hatenablog.com


しかし、その後、映画を観て改めて考え、読者の押し付けた幸福の物語に逆らって生きる、主人公ちひろの選択に納得した。
pocari.hatenablog.com


…という風に、『星の子』に何とかケリを付けた直後に新たな敵が現れた。その名は「あみ子」。


『こちらあみ子』の基本情報をおさらいする。

  • 主人公あみ子の小学生時代~中学3年生までの出来事がメイン
  • 基本的には、あみ子の一人称視点で物語が進む
  • 家族は、両親と、仲の良いお兄さん
  • ところがお兄さんは不良になって家にはあまり帰らなくなった
  • 片思いの相手がいるが、最後に「お前のことがずっと嫌いだった」とキレられる

書き出してみると、大まかな登場人物やプロット的には『星の子』にとても良く似ている小説と言えるが、受ける印象は全く異なる。
それは『星の子』初読時に感じ、そのあと払拭した感情「可哀想」が、あみ子に対しては拭えないからだ。
あみ子には魅力的な部分も確かにあるかもしれないが、ちひろとは対照的に、家族から見放された人だ。見捨てられてしまった人だ。


あみ子の「一人称視点」も、ちひろとは違う。
「神の視点」という言葉があるが、自分以外の人間が自分をどう見ているか、自分以外の人間が何を知っているか、がすべて分かっていれば、つまり「全知全能」であれば、一人称視点は、神の視点との差が小さい。実際にはそんなことはないので「ズレ」を楽しめる。
ところが、あみ子は知らないことだらけだ。そこにはズレどころではなく、全く違う独自の世界が広がっている。

  • 小学生時代からずっと好きな相手の苗字を知らない
  • 同居している母親が、入退院を繰り返していたことを知らない。
  • 生まれてくるはずだった赤ちゃんの性別を知らない
  • 霊の声に数年間悩まされる

これらの「あみ子視点」は、むしろ物語にアクセントを与えていて、赤ちゃんの性別に関するエピソードには、叙述トリック的なよろめきを感じる等、物語の展開としてはプラスの部分もある。


ただ、その分、あみ子には距離を感じてしまう。
「共感」という言葉を使えば、(『星の子』の)ちひろは、変わったところはあるけれど共感できる中学3年生だった。映画で芦田愛菜が演じるのを見てさらにその思いを強くした。物語のセオリー外の選択をするちひろを応援したくなった。
また、これまで読んだ小説を振り返ると、「共感できないけど魅力的なキャラクター」もいて、村田沙耶香の描く人物にそのタイプが多い。『コンビニ人間』は共感できないけど、考え方はわかる。『地球星人』は共感できず、考え方にも同意できないけど、理屈は理解できる。どちらもそれぞれ魅力的だ。

あみ子は、世界観が独自過ぎて、共感できず、理解もできない。そのため、あみ子に対しては、やっぱり少し上から目線で「可哀想」と思ってしまう。
例えば、『星の子』と『こちらあみ子』では、片思いの相手から最終盤で暴力(言葉の暴力)を受けるという展開がある。
そのとき、ちひろには共感しているから、「南先生」には怒りを覚える。しかし、あみ子に対しては呆気にとられてその行動を見ているので、「殺す」と息巻く「のり君」に対して、ストレートな怒りは湧かない。(というか、あみ子のクッキーのいたずらが酷い…)
また、母親がすべてに対してやる気をなくしてしまったのは、周りが見えていないあみ子の言動が一つのきっかけになっている。この時のあみ子の言動の破壊力が強すぎて、母親も気の毒だが、傷つけた母親の失意の様子を目の当たりにするあみ子が辛い。

どちらを読んでも、あみ子は「可哀想」と思ってしまう。


あみ子の持っているトランシーバーは壊れている。相手にあみ子の声は聞こえるけど、相手の声はあみ子には届かない。
そのせいで、母親に好かれたい、のり君から好かれたい、というあみ子の気持ちは、最悪の結果(相手の言葉ではなく行動)になって返って来る。
あみ子が母親のために(死んだ赤ちゃんの)お墓を作ろうとする話は、村田紗耶香の『コンビニ人間』に出てくる焼き鳥のエピソードと似ているが、破壊力が違う。焼き鳥の話は笑えるが、お墓の話は笑えない。
やっぱり可哀想じゃないか。


ただし、それでも、何度も読み返してしまうような力強い表現に出遭う。

「好きじゃ」
「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。
「好きじゃ」
「殺す」のり君がもう一度言った。
「好きじゃ」
「殺す」
「のり君好きじゃ」
「殺す」は全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真っ赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。p103

「どこが気持ち悪かったかね」
「おまえの気持ち悪いとこ?百億個くらいあるで!」
「うん。どこ」
「百億個? いちから教えてほしいか? それとも紙に書いて表作るか?」
「いちから教えてほしい。気持ち悪いんじゃろ。どこが」
「どこがって、そりゃあ」
「うん」
笑っていた坊主頭の顔面が、ふいに固く引き締まった。それであみ子は自分の真剣が、向かい合う相手にちゃんと伝わったことを知った。あらためて、目を見て言った。
「教えてほしい」
坊主頭はあみ子から目をそらさなかった。少しの沈黙のあと、ようやく「そりゃ」と口を開いた。そして固く引き締まったままの顔で、こう続けた。「そりゃ、おれだけのひみつじゃ」
引き締まっているのに目だけ泳いだ。だからあみ子は言葉をさがした。その目に向かってなんでもよかった。やさしくしたいと強く思った。強く思うと悲しくなった。そして言葉は見つからなかった。あみ子はなにも言えなかった。p120

歌詞かと思うほどに洗練された文章表現。これぞ声に出して読みたい日本語だと思う。


なお、一緒に収録された『ピクニック』も、あみ子とは違った意味で「可哀想」を感じさせる話だった。
これら自分が「可哀想」という言葉で表現した作品主人公の特徴について、解説で町田康は「一途に愛する者は、この世に居場所がない人間でなければならない」と「一途な愛」という言葉を使って説明している。
確かにそうかもしれない。自分は、「世間に居場所がない」面のみを見て「可哀想」と思っていたが、町田康の言う通り、ピュアで一途なものが表現されている作品には、人の心を動かす何かが含まれているのかもしれない。


特に、上に引用した、あみ子とのり君の「好きじゃ」「殺す」の応酬は、ここ最近読んだ中でも最も印象に残る文章で、町田康のいう「一途の愛」は、ここにまさに現れている。
文庫巻末には、さらに穂村弘の書評が追加されている。最後の部分を引用する。

でも、こわい。あみ子はこわくないのだろうか。だって世界から一人だけ島流しなのに。
物語がさらに進んで、あみ子がぼろぼろになればなるほど、何かが生き生きとしてくるのを感じる。「こちらあみ子」という呼び掛けに応えて、年齢や性別を超越した異形の友人たちの姿が見え隠れする。前歯のないあみ子を中心に、新しい世界が生まれようとしている。

穂村弘も、ぼろぼろのあみ子に魅力を感じているようだ。
それもわかる、と思いかけて、やはりわからない、と思い直す。
一人だけ島流しなのは辛い。
やっぱり「可哀想」じゃないか。と思う。


冒頭と話の最後のあみ子は、20歳くらいだろうか。彼女なりに幸せに暮らしているようだ。それならば、上から目線で「可哀想」というのは、筋違いで無礼なのではないか?


そもそも、主人公のことを「可哀想」と思ってしまったら、物語を面白く読むこと自体ができないのか?


さまざまな謎を抱えたままだが、今回は終わり。続きは『むらさきのスカートの女』を読んでから考える。少し触れかけたが同時収録の中編『ピクニック』もかなり変わった話だったので、併せて再読して考えたい。

映画

忘れていたが、『星の子』を読んだのは『こちらあみ子』の映画がきっかけだった。
「あみ子」は『星の子』以上に映画化が難しい内容だと考える。
「霊の声」もだが、あみ子の目でのみとらえることができる「田中先輩」(ライオンの姿)等の処理も難しいが、それ以上に「可哀想」をどうするのか。
映画を観た感想が「あみ子、可哀想だったね」とか、そんな映画あるのだろうか。
探せばまだ映画館でも見られるはず。
行ってみたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

タイル楽しい~加藤郁美『にっぽんのかわいいタイル 昭和レトロ・モザイクタイル篇』


今年の夏休みは、岐阜への帰省にかこつけて、あいちトリエンナーレ(今年から名称が変わり、「トリエンナーレ」が取れて「あいち2022」となった)に行ってきた。
といっても使える時間は2時間+半日。
そこで、名古屋会場はパスして、一宮会場(2時間)と常滑会場(半日)で、アートを満喫した。



特に常滑は、今回のイベントのための作品もとても面白かったが、「焼き物の街」として十分魅力的だった。
そんな常滑の地元企業「伊奈製陶所」から発展したのがINAX(会社名としては現在LIXIL)。そんなINAXの運営する巨大な敷地の企業博物館「INAXライブミュージアム」にも行ってきた。
ここでは焼き物体験等いろいろな時間の使い方が出来そうだが今回は断念。
ただ、「あいち2022」の展示だけではもったいないので、「世界のタイル博物館」は足早に見学してきた。タイルの歴史がイスラームの文化と深いかかわりがあること等を知ることが出来たが、何より、タイルそのものに色かたち含めて興味を持った。
これまであまり「タイルそのもの」を意識したことが無かったのだ。


そこで読んでみたのがこの本。(ちょうど2022/9/16に増補版が出ているようですが、自分の読んだのは旧版)

「モザイクタイル」とは、タイル1枚の表面積が50平方センチメートル以下のタイルのこと。かつては一般の家庭でもお風呂や炊事場で、あるいは銭湯や映画館、煙草屋などでごく普通に使われていました。驚くべきは、昭和を彩ったこのモザイクタイルの約8割が、わずか4キロ四方の小さな町、岐阜県多治見市笠原町で作られていたこと。その立役者は一人の青年・山内逸三で、彼の独創と努力によって笠原町のタイルは、日本全国に、そして世界に広まったのです。 笠原町では2016年6月3日、藤森照信氏設計による独特の建物も話題の多治見市モザイクタイルミュージアムが開館しました。本書は、同館所蔵モザイクタイルの名品を収録する第1部、23歳で美濃焼モザイクタイルを創製した山内逸三、そして彼と藤井厚二や甲子園ホテルとの知られざる関連を追う第2部、町全体がひとつの工場のような笠原町を訪ね、タイルの製造過程を紹介する第3部、人魚や桃太郎といった美しくも妖しいモザイクタイル画など、笠原タイルを今に残すレトロな街町を歩く第4部で構成されます。なつかしいモザイクタイルを深く楽しく紹介する、充実の一書です。


本の内容は、上にほとんど書いてある(笑)が、目次は4部構成で、1部がカタログ的内容、4部も旅行・街歩きガイド的内容。
2部、3部が、それぞれ山内逸三、笠原町に焦点をあてたタイルの歴史ということになる。
+昭和レトロタイル・コレクション
+山内逸三という青年がいた
+タイルの町、笠原町の人びと
+モザイクタイルの旅
どの章も写真が多く、気軽に読み進めることのできる本だった。


表紙にあるようなシンプルタイルは1部で多く取り上げられ、同じパーツで組み替えたデザインや、釉薬を変えた色違いなど、カタログ的に見ていても楽しい。
それ以上に、4部で多く取り上げられるドット絵のようなモザイクタイル画は実物を見に行きたくなる。
特にお気に入りは

1センチ角のユニットから成るモザイクタイル壁画は東郷青児や高井貞二などに依頼し意匠登録した絵画デザインがあり、INAXライブミュージアムにデザインのカタログもあるという。
今はドット絵は、懐古的な意味もあり人気があると思うので、こういったタイルを使ったデザインは受け入れられやすいだろうし、そういうデザインを売りにしているところがあったら行ってみたい。
なお、上に挙げた例もほとんどが銭湯だが、比較的近くにある平間温泉(川崎市幸区)は、2018年で閉店。もともと、本でも「旧○○湯」と紹介されているところが多く、これらのデザインは保護しようとする人の手が入らなければ、どんどん失われていくのだろう。


今回、興味を持ったが、日常的にはあまり意識してこなかった「タイル」。本の中でも紹介があったが、岐阜にはしょっちゅう行っているので、少し足を延ばして多治見市モザイクタイルミュージアム藤森照信設計)*1には行ってみたい。

なお、博物館で売っていたブックレット『I LOVE タイル~タイルがつなぐ街かど』には、銭湯のような室内ではなく、外壁に使われたタイルデザインがたくさん紹介されていた。街歩きの際には、少し気にして探してみようと思う。

追記

あ、こんな本も。
ドット絵と相性のよいクロスステッチ
これはモザイクタイルではなくマジョリカタイルということになると思うが、こちらも楽しい。


クロスステッチで本を探ると…立体物も作れるのか!

ブライアンを愛でる映画~『ブライアン・ウィルソン 約束の旅路』

ビーチボーイズは、自分にとって本当に思い入れのあるグループで、ビートルズはむしろビーチボーイズとの関連から聴き始めた。すなわち『ラバーソウル』に対抗して『ペットサウンズ』が出来、『ペットサウンズ』に対抗して『サージェントペパーズ』が出来た、という話からビートルズに触れていったみたいなところもある。
1995年頃、インターネットを始めた頃に、音楽関係のテキストサイトをまさに「サーフィン」する中で、いつも訪れていたのは萩原健太のサイトだったということが大きいだろう。


今回、ブライアン・ウィルソンの映画が上映されていることを知り、『ペットサウンズ』~『スマイル』あたりの頃の知られざる事実を語り、当時の秘蔵映像が出てくるような映画なのかと勝手に想像していた。
ところが、観てみると、これは相当に変わった映画で、最も誤解していたのは、情報量(蘊蓄)がメインの映画では全くないということ。


ひとことで言うと、この映画は、ブライアン・ウィルソンを愛でる映画だったというのが自分の感想。
というのは、映画は、ほとんどが、ブライアンの友人である編集者ジェイソン・ファインとのプライベートな会話で成立しているからだ。そしてそのほとんどが車中の映像。こんな映画は見たことが無い。
インタビュー嫌いのブライアンの話を聞き出すため、運転席のジェイソン・ファインと助手席のブライアンが、ただただ会話をする映像が3年間で70時間分撮影され、これを映画にしたのが本作だという。
編集前の70時間の中には全く話さない時間がかなりあったというが、映画になった部分もブライアンは饒舌というわけではない。ただ、そのひとことひとことに誠実さを感じられるので、言葉が出てくるのを待つ時間も楽しい。20代の頃のブライアンのインタビュー映像も出てくるが、自分はブライアン・ウィルソンの顔、表情が好きなのかもしれない。


映画で語られるのは現在の音楽活動と過去の思い出話。思い出話の中心を占めるのは、2人の弟であるデニスとカールについてで、この映画のタイトル(Long Promissed Road)もカールの作った曲のタイトル(『Surf's Up』収録)から取っている。
ドライブは、思い出の場所を訪れていくかたちをとる。カール・ウィルソンの自宅を立ち寄ったとき、挨拶に行くと車を降りるジェイソン・ファインにブライアンはついていかない。51歳で亡くなったカールが闘病で辛い時期を思い出すからだという。車中映すカメラが、無言で涙をぬぐうブライアンを捉えたシーンが、この映画のクライマックスで、ここはもらい泣き。


映画はインタビュー以外に、スタジオでの録音など現在の音楽活動の映像も多く、今なお現役のミュージシャンとして精力的に活動している様子も楽しめる。ここ数年は彼の音楽に触れていなかったが、また聴き直してみよう。そう思わせる、すばらしい映画でした。


なお、パンフレットを読むと、自分が当初期待していた蘊蓄を詰め込んだ映画は、過去に何作か作られているようだ。

  • 1985:『アン・アメリカン・バンド』→『ペットサウンズ』から『スマイル』にかけてのブライアンの音楽的冒険についても触れられている
  • 1995:『駄目な僕』→同名アルバムのレコーディングをするブライアンの姿とキャリアの振り返りをまとめたもの*1
  • 2015:『ラブ&マーシ― 終わらないメロディー』→過去2作+α

つまり、これらの映画で過去の業績については十分に触れられているので、本作はブライアン自身の精神的なヒストリーに焦点が当てられているという。
と思うと、やっぱり1995年の『駄目な僕』が見てみたいなあ。


なお、今回さっそく聴き直したのは映画の中でかかることの多かった「God Only Knows」「Long Promised Road」でしたが、『ペットサウンズ』『SMILE』関連楽曲以外だと好きなのは『SUNFLOWER』収録の「This Whole World」です。うんばでぃりっぱ、うんばでぃりっぱ、ってずっと歌ってしまいます。

www.youtube.com

*1:渋谷系が盛り上がったこの時期に、自分はビーチボーイズとブライアンのソロ作に興味を持ってたくさん聞いていたので『駄目な僕』は懐かしいタイトルだ。

「フラグ」に逆らって生きる~大森立嗣監督『星の子』


今村夏子『星の子』は、自分にとって衝撃をもって受け止めた作品だけに、映画では、どのように改変されているのか?そして芦田愛菜はどう演じているのか?
色々と興味を持ってみた映画だった。
そして、同時期に読んだ今村夏子『こちらあみ子』が、『星の子』以上に弩級の破壊力があり併せて感想を書こうと思ったが、長くなり過ぎたので、二つに分けて、まずは映画『星の子』の感想から。

キャスト

映画『星の子』は、本当にキャストが良かった。
実質的に芦田愛菜の映画とも言えるが、両親を演じた原田知世永瀬正敏は、新興宗教にハマりながら、それでも「我が子のため」がまさって見えるギリギリのラインを演じている。
岡田将生の、憧れの南先生は、冷たく意地悪な性格を原作通りに演じた。『大豆田とわ子と三人の元夫』を見て「あの感じ」いいじゃん!と思ったので、それとのギャップが良かった。
ちひろを両親から引き離そうとする雄三おじさん(大友康平)も良かったし、宗教団体幹部の海路さん(高良健吾)、昇子さん(黒木華)の裏のありそうな善人ぶりも素晴らしい。
そして何より、小学生時代のちひろ役を演じた粟野咲莉(あわのさり)と、そして姉のまーちゃん役・蒔田彩珠(まきたあじゅ)が良かった。蒔田彩珠は、朝ドラ『おかえりモネ』で清原伽耶の妹役を演じた人だが、本作では短い出番ながら印象に残る演技で巧い。


芦田愛菜ちひろは、小説に比べると、両親に対する「配慮」を強く感じさせる。中学3年生にしてはとても大人だ。自分が親からどれほど愛情を受けて育てられているのか認識しており、周囲が両親をどう見ているかも理解しつつ、両親を「非難する側」にはならず「守る側」に立とうとする。
両親を守ろうとするちひろの姿勢が小説より増して感じるのは、台詞が追加されているというよりは、芦田愛菜の演技ゆえだと思う。

突然のアニメシーンを除けば、映画は、非常に原作に忠実な作品だ。

小説を読んだ直後は、これを映画でやるなら、ラストを変えるか、イベントを増やすなどの改変を入れないと、ポカーンとしてしまう、と思っていたが、芦田愛菜の演技がそれをカバーしていると思う。それほどに彼女の演技は大きな位置を占めていた。

信じる

この映画で有名なのは、完成報告イベントで「信じる」ことについて訊かれたときの芦田愛菜の受け答えだろう。映画を観ていなくても、このやり取りを知っている人は多いはずだ。

『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて


だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど


でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました

そうか、「信じる」というのがキーワードなのか、あまり気がつかなかった…。
と思って公式サイト(https://hoshi-no-ko.jp/)を見ると、皆が「信じること」について語っている。
大森監督は次のように語っている。

『星の子』という小説を読んで思ったのは、
自分のことを置いといてでも人を思う気持ちです。
敏感で多感な14歳の少女は風に揺れながら
飛んでいってしまいそうな小さな体で立っています。
それでも自分のことのように人を思うのです。
これなんだろう? と思ったら、優しさでした。
この映画が清涼な一陣の風のように、
皆さまを優しさで包み込むようになればと思っています。

つまり、映画を見て感じた通り、映画は小説の中の、ちひろの「優しさ」に寄せて物語を組んでいるようだ。ほかの出演者(芦田愛菜以外)のコメントも監督に近い内容を語っている。
その意味では、公式サイトにおける原作者・今村夏子のコメントは、少し浮いている。

この小説を書いた後、私の信仰の有無について訊かれる機会が何度かありました。信仰に限ったことではありませんが、私は「信じる者」でも「信じない者」でもありません。「信じたいのに、信じることができない者」であり、「信じていたことが、だんだん信じられなくなってくる者」です。信じる、信じない、の狭間にあるこの物語を、映画という形で味わえること、とても楽しみにしています。

自らを「信じたいのに、信じることができない者」「信じていたことが、だんだんと信じられなくなってくる者」と説明し、この作品を「信じる、信じないの狭間にあるこの物語」とまとめていることを見ると、今村夏子の視点は、大森監督とは違って「信じられなくなる」方に寄っていることがわかる。
また、文庫巻末の対談で、今村夏子が別の結末として話をしていた「海路さんと昇子さんに絡めとられていくラスト」を考えると、中学3年生までのちひろは、両親を信じようとする立場にいるが、その後、どんどん「信じられなくなる」側にいく。そのギリギリのラインを描きたかったのが、この作品なのだと思う。
昇子さんとの別れ際の会話のやり取り(映画独自と思う)を見ると、映画の方でもわずかながら、この「別のラスト」を示唆している部分があり、その意味でもやはり原作に忠実と言えるかもしれない。


芦田愛菜の言うことはつまり、「信じる」には2種類あり、強い自己を確立できていれば「(裏切られても)思いが揺るがないこと」を示すが、確立できていなければ「希望」でもあり「強がり」でもある。
それほど強くないほとんどの人にとって「信じる」とは後者を指すことになるだろう。そしてそれは、今村夏子の表現したかった「信じ切れない」  を上手く汲み取って回答しているとも言え、考えれば考えるほど芦田愛菜の頭の良さが目立つやり取りだった。

フラグに逆らって生きる

まだ見ぬゴールに向けての決断は、その時点では是非が判断できない。
小説には終わりがあって物語が進行することがほとんどだから「伏線」や「フラグ」みたいなものを意識しがちだが、現実にはそんなものはない。
『星の子』という小説には、読者目線では「フラグ」的なものがたくさん立っているが、ちひろには全てがわかるわけではない。ラストシーンの時点でちひろが「信じる」ことを選ぶのは、ちひろの目線では当然で、映画では芦田愛菜が「フラグ」にさからって生きる様子が強調され、むしろそこに強い意志を感じた。だから、このエンディングはこれでいいのだ。

映画や小説などの作品を見るときに、自分は、ハッピーエンドかバッドエンドか、という要素を気にし過ぎているのかもしれないと気づかされた作品だった。

見たい映画

芦田愛菜は、ついこの前やっていた『メタモルフォーゼの縁側』。原作は1巻のみ読んだけど、合っているように思う。


蒔田彩珠の演技が見たい!と考えると…

志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は、南沙良蒔田彩珠のダブル主演のようだ。志乃ちゃん役の南沙良は『鎌倉殿の13人』の大姫役ということで、まずこれが見やすいか。(原作は読みました)

『朝が来る』も、映画公開時からテーマ込みで気になっていた作品。辻村美月の原作は未読なので、原作を読んでからチャレンジかな。監督が河瀨直美であることは知らなかった。東京オリンピックの前の作品ということになるのか。