Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

シンプル・イズ・ベスト~チョン・ミョンソプ『記憶書店 殺人者を待つ空間』

韓国ミステリは、以前、キム・ヨンハ『殺人者の記憶法』を読んでおり、かなり良い印象を持っている。『殺人者の記憶法』は、いわゆる、「絶海の孤島」「雪山の山荘」的なミステリではなく、独白が多めの、私小説的、日記的なミステリで、『記憶書店』もそれに似る。

今回、また「記憶」かよ…と思ってしまう部分もあったが、映画『殺人の追憶*1から始まる、韓国ミステリの伝統なのか、もしくは翻訳タイトルとして「こっちが売れる」という判断なのかもしれない。

ただ、読んでみれば、内容に沿った良いタイトル。
物語自体も、日本のミステリのように、こねくり回さない、シンプルで満足度の高いミステリだった。

やや書き過ぎの「あらすじ」

他ジャンルと比べてミステリが読みやすいのは何故かと言えば、「何が物語のゴールなのか」が早い段階から(多くの場合、読む前から)明示されているからだ。
この本も、あらすじを見るだけで、ゴールがわかる。(以下、あらすじに続けて「このあらすじはネタバレは含んでいないけど書き過ぎだよね…」という文章を書くので、読まずに飛ばすのも良し…)

残忍な男によって、目の前で妻と娘の命を奪われたユ・ミョンウ。犯人は捕まらず、未解決のまま15年を迎えた。犯人が古書に異常な執着を持っていることを見抜いたユ・ミョンウは、犯人をおびき出すために古書だけを扱う〈記憶書店〉を開店した。そこに現れた4人の怪しい客。「この中に犯人がいる」と確信し、調査をはじめるが……。
家族を失った怒れる男のかつてない復讐劇が、いま始まる。

Amazonあらすじ)

ただ、個人的には、やや書き過ぎのように思う。ネタバレを含まないというルールにしたがってはいるが、この本の魅力の一つである、叙述の緊張感をすっ飛ばしてしまうからだ。

この本は、犯人である「ハンター」の独白から始まり、その後、主人公のユ・ミョンウとハンターの心理描写が交互に表れる。その中で、読者が過去のいきさつを把握していくのが、序盤の楽しさなのだが、あらすじを読むと、この楽しさが削がれてしまう。
...というようなことがいつでも生じうるのが「あらすじ」なので、自分は、基本的に、本を選ぶときは目を通すが、実際に本を読み始める前には、あらすじは読まない。(読み始めるまでの間に忘れているので、「読まない」のではなく、「直前には読まない」。)

わかりやすいゴールまでシンプルに辿り着くミステリ

話が横道にそれたが、反対に言えば、「終盤になっても読者がゴールを掴めないミステリ」は、ミステリとして失敗している。それが、一つ前に読んだ、あさのあつこ『彼女が知らない隣人たち』の失敗だと思う。
このあたりの話は、自分の書いた文章(2019年5月)で、非常に上手く整理していた部分があった。

最近、小説や映画を観る際に自分が意識しているのは、読者のフォーカス。つまり、読者が「クライマックス」だと感じるキーポイント(物語を引っ張る鍵)が事前にしっかり示せているか?それがいつ来るのか?全部解決しているか?
満足度200%のドイツミステリー~セバスチャン・フィツェック『乗客ナンバー23の消失』 - Yondaful Days!

フィツェック『乗客ナンバー23の消失』の面白さを説明している文章だが、これにしたがって言えば、『記憶書店』のキーポイントは、あらすじにも書かれているよう「犯人は誰なのか」「主人公は復讐できるのか」で、序盤に明確に示されており、非常にシンプルだ。
そして、実際に、このゴールに向かって一直線に物語は進み、展開のひねりも最小限(でもピリリと辛い)でエピローグまで進む。改行多めで行間も緩い250ページなのであっという間に読めるのも良くて、満足度は高い。


同じ内容を日本の作家が書けば、シンプル過ぎてつまらない、と思ってしまっただろうが、実際、端々に表れる異国の香りもアクセントになり、個人的には「韓国」を味わった気がしてよかった。
特に、物語の後半、あらすじにも書かれる「4人の怪しい客」のうちの3人に対して身辺調査を行う場面が出てくるのだが、それぞれの住む家*2に向かう交通手段や周辺の風景描写を読んで、ちょっとした小旅行気分を味わった。

シンプルということで言えば、日本では、ここまでシンプルなミステリを書こうとする人はいない気がする。訳者あとがきでも書かれているが、韓国では近年まで推理小説作家が少なかったというので、それゆえなのだろう。*3
中国・韓国のSFが注目されるのと同じことが、ここでも起きているように思う。


ということで、改めてミステリの「ド真ん中」にある良さを感じた一冊でした。
翻訳ミステリを苦手とするのは変わらないけど、国外の文化を知る楽しさもあったし、何といっても、すぐに読み終わるのが良かった。

これから読む本

調べてみると、韓国ミステリも、もう少し複雑で面白そうなものもあるじゃないか。
ちゃんと読んでみよう。
あと、自分の過去のブログを読んで気になったフィツェックのドイツミステリも。

誘拐の日 (ハーパーBOOKS)

誘拐の日 (ハーパーBOOKS)

Amazon

*1:『記憶書店』の中でも引用されている。実在の事件が元になっていることもあり、韓国の中でも特別な作品なのだろう

*2:ところどころに「半地下」が出てくる

*3:軍事政権下では、エンタメ目的で小説を書くという発想が無かったからと聞いた

社会派ミステリの「失敗」~あさのあつこ『彼女が知らない隣人たち』

最近読んで最もガッカリした小説。
端的に言うと、「社会問題を他人事ではなく、自分事として捉えてほしいという主旨で書かれたにもかかわらず、それが失敗した小説」に思えた。現実離れした展開を避け、実際に読者の身の回りに起こりそうな話をミステリの枠に押し込もうとし、結果として、どっちつかずの話になってしまった。

あさのあつこさんの小説なので期待し過ぎてしまったのかもしれない。

2つのタイプの「隣人」

あらすじは以下の通り。

地方都市で暮らす三上咏子は、縫製工場でパートとして働きながら、高校生の翔琉と小学生の紗希、夫の丈史と平凡な毎日を送っていた。ある日の夕方、駅近くの商業施設から白い煙が上がるのを目撃。近くの塾に通う息子が気になり電話を掛けるが、「誰かが爆弾を仕掛けたテロだ」と興奮して語る様子に違和感を覚える。翌日、今度は市立図書館でも同様の事件が発生。いったいなぜこの町で、こんなことが? 咏子は今まで気にも留めなかった、周囲の異変に気がついていく……。

あらすじで全く作品テーマに触れないのも自信のなさの現れなのか、読んで驚いてほしいのかよくわからない。しかし、読み始めるとすぐに、主人公・咏子が働くパートの職場にベトナム人技能実習生が登場する。
そこから察せられるよう、外国人労働者を一つのテーマに据えた小説なのだが、タイトルにある「彼女が知らない隣人」は、咏子がこれまでその存在を意識しなかった「外国人労働者」以外に、別の種類の「知らない隣人」が用意されており、それゆえ「隣人”たち”」なのだろう。


外国人労働者というテーマについて、前半に登場する文章を引用する。

技能実習生が過酷な仕事に耐え切れず逃げ出したとか、行方不明になったとか、何の保障もないまま路頭に迷っているとか、以前より耳にすることが増えた。パートに出る前は何て気の毒なと同情を覚え、雇い主に腹を立て、国なり自治体なりに何とかしてほしいと望んだ。
それで、忘れた。
同情も怒りも望みもきれいに忘れて自分の日常に戻っていった。しかし、クエと知り合ってからまだ日は浅いというのに、報道番組や新聞で見聞きする技能実習生に関わるニュース、特にベトナム人に纏わる報道が心に引っ掛かり消えなくなっている。“ベトナム技能実習生"という括りではなく、クアット・ルゥ・クエという一人を知ってしまったら、名も知らない、会ったこともない人たちの問題が現実的な手応えで迫ってくるのだ。

実在する一個人を知っているだけで、社会問題が一気に身近になる…
このあたりは非常に共感する部分なので、むしろこれがまとめ部分に来ていた方が、読者に「伝わりやすい」小説になっていたのではないだろうか。
ただ、この考え方は、直接知ったカテゴリの人にしか関心を持てない、ということに繋がりかねない。
人の想像力をもっと信じ、本やフィクションの力を信じれば、直接の知り合いではなく、小説や映画によっても「名も知らない、会ったこともない人たちの問題が現実的な手応えで迫ってくる」ことがあり得る。まさに、この本が、それを感じさせてくれるような小説であることを望んでいたのだけれど…

そして、もう一種類の「彼女が知らない隣人」こそが、この物語のメインということになる。

「それが違うのよねえ。当たり前じゃないの」
桃子の唇がもぞもぞと動いた。明快な言葉にはならない。
「どういうこと?」
「何だかねえ、嫌な話だけど・・・・・・いるのよ」
「いるって、何が」
咏子は思わず身を縮めた。得体の知れない化け物や幽霊が桃子に憑いている。一瞬だが、そんな風に感じた。昔から、その手の話は苦手だ。ホラーも怪談も御免こうむりたい。
桃子の口調はそれくらい重く、湿っていたのだ。
「外国人、特にアジアやアフリカ系の人たちを自分と同等に考えられない人。自分たちより一段低い人種だって、堂々と言ってのけちゃう人ね」
「は?何それ? 誰のこと?」
「誰って・・・・・・たくさんだよ。この市にも隣の県にも、国中にもいっぱいいるの。何だかもう、嫌になっちゃうぐらい沢山ね」
「そんな。でも、わたしの周りには….....」
口をつぐむ。わたしの周りにはいないだろうか。そんなこと考えたこともなかった。なかったから、わからない。

つまり、もう一つのタイプの「隣人」は、身の回りにいるにもかかわらず、その本性を「知らなかった」タイプの隣人。それは誰なのか。

ことごとくハマらないミステリの「仕掛け」

ということで、読み終えて初めて、この小説は、「外国人排斥の運動(ネット書き込み等)に関与していたのは、長男だとミスディレクションさせておいて、実は…」という構造のミステリを意図していたことがわかる。
問題は、読者は何が物語の焦点なのかが理解できず、「誰が」には、ほとんど注目しないままに「実は…」が明かされることだ。

さらに、読み直してみると、ミスディレクションも酷い。
反抗期の高校生が親に隠れてこそこそやっていたのが、難民支援団体の手伝いだった、という展開。これがクリティカルにヒットするには、読み直したときに、「物語前半で感じていた長男のよそよそしい態度は、実は母親への”優しさ”があってこそのものだったのだ!」(あー!そうだったのか!)…と、なっている必要がある。
ところが、実際に読み返すと、やっぱり、長男は、母親を馬鹿にしたような喋り方をする「嫌な奴」なんですよ。

さらに、外国人排斥のネット書き込みをしていたのは、実は夫だった、というラスト。これも、前半部で、夫が「そんな風に見えない」「心優しい人間」であることを見せていてこそ衝撃が大きくなるはずなのに、読み返すと、やっぱり、夫は、最初から、自分勝手で「嫌な奴」なんですよ(笑)

結局、主人公は、夫からも長男からも蔑ろにされていた、という話にしかならず、しかも彼女が親から愛されずに育ってきたというエピソードがしょっちゅう挟まれるので、何を読まされていたんだ、という気持ちになってしまう。


さらに、読み終えて初出を見ると「しんぶん赤旗 日曜版」の連載小説(2020.7-2021.8:連載時のタイトルは「彼女の物語」)であったことを知る。「赤旗」についてどうこう言うつもりはないが、このテーマ自体が、あさのあつこさん本人からではなく、掲載紙からのニーズに応えて生まれたのだ、と思えば、小説としての不出来にも納得してしまう。

社会問題をフィクションに落とし込むのは確かに難しいだろうが、このテーマの場合、『アンダークラス』(2020年11月なので、連載開始直後に刊行)が非常によくできていたので、どうしてもこれと比べざるを得ない。
アンダークラス』は、殺人事件が軸になっており、『彼女が知らない隣人たち』よりも圧倒的にフィクション度が上がってしまうのだが、テーマに対する取材量や物語への落とし込みは、圧倒的に『彼女の…』より上回っていると感じる。
特に、『彼女の…』は、物語の「犯人」に当たる父親の掘り下げが浅いのが残念だった。『アンダークラス』では、「犯人」の主張にも見るべきものがあったのと対照的だ。今回、「ネット右翼」ということではないが、身近な人がネット右翼になってしまった、という話は溢れていて、それが小説のオチになるのは弱過ぎる。『ネット右翼になった父』という本があるが、「ネット内で攻撃的な人格」を持った家族がいることはむしろスタート地点として、「なぜ?」の方にもう少しページを割いても良かったかと思う。

物語中盤では、コロナ禍での、日本の特殊な雰囲気についても触れていて、これがもう少しうまく融合していれば、この時期にしか生みだせない小説になったかもしれない、と、その意味でも残念に思う。

と、ここまで書いてみると、そもそも自分は「社会派」の小説に多くのことを期待し過ぎているのでは?という疑問も湧いてくる。
ただ、その期待に応えるような小説も多く存在することも確かだ。
最近は、何となく小説の選び方が、エンタメ&純文学寄りだった気がするので、改めて社会派ミステリの王道である、桐野夏生あたりを読んでみたいと思った。


俺か、俺以外か。~済東鉄腸『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』


刺激的な本だった。
読後に、済東鉄腸さんは、一体どんな人なんだ、と検索して以下の記事を見つけた。
タイトルにもある、済東さんがルーマニアで小説家になった経緯は、記事の中にも書かれている。

toyokeizai.net


ルーマニアの映画作品との出会いから始まって、ルーマニア語を勉強しよう→Facebookルーマニア人の友達をつくろう→小説を書いてみよう、ルーマニアの友達に読んでもらおう→文芸誌に掲載させてほしい、というわらしべ長者のような流れは、読んでいてとても楽しい。
だが、記事を読むのと本を読むのとでは受ける印象が大きく異なる。自分は、この記事を読んで、何よりもまず、写真に写る、穏やかで人当たりの良さそうな表情に驚いた。読んだ本の作者は、絶対に、こんな爽やかな雰囲気の人ではない!(笑)


そう感じた理由ははっきりしている。
記事には「俺」が前面に出ていないからだ。


デビューのきっかけを作った文芸誌メディアを運営するミハイル氏について書かれた部分を、実際に、本文中から引用する。

ミハイル・ヴィクトゥス、我が親友にしてルーマニア文壇の気鋭、そして俺をルーマニア文壇にデビューさせた張本人。(略)
いやマジで日本の友達含めても、最も親しい友人の一人って言える人物だよ。もちろん。直接会ったことはないけどね。先に書いた通り、もし彼がいなければ俺はルーマニア語で小説家としてデビューしていなかったし、この本を書くこともなかった意味で大切な存在でもあるよ。加えて村上春樹よりも村上龍の方が好きで、日本文学のクソ陰惨な暴力が好きっていうバッドガイでもあるね。(p98)

何といっても一人称が「俺」のインパクト。そして、「引きこもり」というよりは、尊大な感じさえ受ける、自信に満ちた文体。
加えて、本には「著者近影」が無いため、表紙(横山祐一)の、何だかよくわからない軍人みたいな架空キャラクターが「俺」口調で話しかけてくるように感じ、読書中は一種のトリップ感があった。だから、写真の彼が書いたとはとても思えないのだ…。


終盤で、この「俺」文体について、自身で言及する部分があり、ここがとても興味深かった。
かくいう自分も、一人称は、話し言葉も書き言葉も、確信なく「自分」という言い方をすることが多い。仕事上では「私」も使うが、日常的には「僕」だと弱弱しく、「俺」だと偉そうで、「私」は他人行儀過ぎる。
結果として、一人称を使うのをなるべく避けるような喋り方になり、「日本語面倒くさい」と思うことが多々ある。


この本を読むと、そういう日本語の煩わしさも含め、済東鉄腸さんが色々と考えた末に「俺」に辿り着いたことがよくわかる。

いやさ、この本では俺俺言いまくってるけど、そんな俺にだって一人称が定まらないって時代はあったんだよ。
改めて言うが、俺の普段使いの一人称は「俺」である。 Twitter では別人格を作るって意図で「私」を多用しているが、基本的にはほぼ「俺」だ。昔からこれを使ってきわけだけど、何でかってやっぱ響きがカッコいいんだよ。例えばジャンプの主人公はかなりの数「俺」を使ってるだろ。空条承太郎とか黒崎一護とか。「僕」や「私」じゃ何か締まらないって感じでね。
それから特撮大好きな俺としては「仮面ライダー電王」の決め台詞である「俺、参上!」には毎回痺れてた。だからもはや「カッコいい=俺」なんて方程式が頭にできてる。学生時代なんか全くイケてない人間だったから、せめて一人称は「俺」を使ってカッコよさを気取ろうとしていた。
この価値観を再考し始めたのは大学でフェミニズムを学び始めた時だ。「俺」が持つカッコよさは男らしさと重なるが、これは女性を踏みにじる価値観と表裏一体ではないか。そして突き詰めすぎれば、自分自身をも苦しめる有害さを持つのではないか。「俺」って一人称はそんな危険性があると。(p215)

このあと、トランスジェンダーを排斥するTERFの台頭を見て、トランス当事者の声の書いた書籍を読み、クィア理論を学び、そんなことが、「俺」を使うことに背中を押すことに繋がる。

その後にも、トランス男性当事者の書いた文章や本を読んだが、特に彼らの一人称への葛藤に共感したよ。彼らもフェミニズムなど色々学んできて生き方を模索するなか、でも「俺って一人称は家父長制の象徴」なんて極端な論とかを超え、自らの手で「俺」を選び取ってたわけだよ。
これを読んでたら、自分も「俺」っていう一人称を素直に愛してもいいのではないか?っていう思いが生まれた。それでも一歩踏み出すってことの難しさがあった。
そこにこの本を書く機会が到来したんだ。俺の人生を書く機会ってやつが。

このあたりの流れは、とても良かった。
「文章を書く人が、使う一人称を迷う話」をあまり読んだことが無かったということもあり、済東鉄腸さんに非常に親しみを覚えた。他の人が書く、同テーマの文章があったら是非読んでみたい。


なお、その他の話題としては、ルーマニア語スペイン語やイタリア語と同じロマンス諸語に属する言語、周囲にあるブルガリアセルビアはスラブ語圏、さらにハンガリー語アルバニア語は周囲に似た言語のない孤高の言語群、と、外国語それぞれのグループ分け(p41当たりの話題)に興味を持った。このあたりは、世界史と合わせて勉強したい。
また、後半では、シオランの名前がよく出てくる。シオランルーマニアの哲学者である、ということも勿論だが、その主張(反出生学を代表とするペシミスト的主張)が広く受け入れられている、ということでもあるのだろう。以前さわりだけ勉強したが、このあたりもまた読んでみたい。


ということで、今のネット世界だからこそ可能になったルーマニアでの文壇デビューという派手な成果の背後に、悩み、思考、語学そのものへの興味など、済東鉄腸さんの「人間」の部分が感じられ、最初は違和感を覚えた「俺」に、最後には親しみを感じるようになった本でした。

今後読む本

巻末に映画・音楽・ブックガイドがあるのでその中から。
『吸血鬼すぐ死ぬ』は、アニメがあるのでそちらから先の方が良いのか。
語学関係もいくつか挙げられていて『ラテン語の世界』が気になったのですが、やはり難しそうなので、Amazon評で紹介されていたところからの孫引きで『英語の冒険』を。


2人の邂逅と1891年の日英露~松岡圭祐『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』

ホームズがクトゥルーに立ち向かう『シャーロック・ホームズとシャドウウェルの影』を読み、さあ、聖典コナン・ドイルによるホームズ本編)を読むぞ!と息巻いていたのが7月。
そんな自分だが、狙って探していたわけではなく、図書館の返却本棚*1で偶然出会ったホームズのパスティーシュがこの本。

あまりに大きなフックに惹きつけられ、一気読みした。

なぜホームズと伊藤博文なのか?

まず基本事項だが、タイトルとは異なり、伊藤博文シャーロック・ホームズは対立関係にはなく、協力関係にある。
日本を舞台に、2人が協力して立ち向かう相手は、ロシア。

この小説は、滋賀県大津市で起きたロシア皇太子暗殺未遂事件、いわゆる大津事件*2にまつわる企みを、2人が解き明かす物語なのだ。


と言っても「大津事件」。
確かに日本史の授業で出てきた記憶はあるけれど、なぜこれを扱うのか?と思ったが、読み終えてみると、非常に巧みな歴史事象の取り上げ方であることがわかった。

  • (1)時期
    • 決定的なのは、ホームズが「最後の事件」で滝に落ちた(1891年5月4日)直後に、大津事件(1891年5月11日)が起きているという時系列の連続性だろう。この小説では、「ホームズ死亡」直後に、兄マイクロフトの手を借りて単独渡日し、旧知の伊藤を頼る流れになっている。
    • また、冒頭では、若い二人の初対面の状況が描かれる。1864年に渡英した伊藤博文(当時は伊藤春輔=22歳)がホームズ兄弟(シャーロック=10歳、マイクロフト=17歳)の命を救い、この際に伊藤博文が見せた背負い投げが、ホームズが身につけた謎の武術「バリツ」の会得に繋がることになっている。
  • (2)大津事件の意義
    • 大津事件は、来日していたロシア皇太子が切られて重傷を負った暗殺未遂事件。犯人である津田三蔵が(ロシア側の望む)死刑ではなく無期懲役となったことで大騒動となったが、結果的に、(裁判所が政府の要望をはねのけたことにより)司法の独立を示したというところに大津事件の大きな意義がある。
    • この事実は、モリアーティ教授の断罪を司法の手に委ねず、私刑を下した形になったホームズの後悔とともに、最後までストーリーに絡むことになる。(この小説では、ホームズ、モリアーティの双方が意図的に滝での決着を狙ったことになっている)
  • (3)当時の日英露の関係
    • 1902年にロシアに対抗して日英同盟が組まれるように、大津事件当時の国際情勢として、日本は、極東支配を狙うロシアとアジアに手を伸ばす英国の対立の最前線にあった。
    • この事実が、対ロシアの交渉の中で、さもイギリスの意図通りに(スパイとして)動いているように見せるホームズが、日本で活躍する意味を大きくしている。

歴史的事実の謎へのアプローチ

やはりというべきか、歴史的事実を土台にしているストーリーは、少しでも歴史を勉強したい身からすると加点要素が大きい。
特に、今回、歴史に無知な自分にとっての一番の収穫は、大津事件で切られた皇太子が、ロシア帝国最後の皇帝で、日露戦争のときの敵のボスであるニコライ2世だということを知れたこと。このことは、この事件に大きな物語が生じる余地があることを意味し、実際、これを題材とした小説はいくつもあるようだ。
また、日本の皇太子が外国で暴漢に襲われたら…と改めて考えると、かなり大きな事件であり、何故この事件でロシアが日本に対して強硬姿勢を取らなかったのかは素直に不思議だ。
さらに細かな謎として、当初友好的だったニコライが、突然態度を急変させたことや、現場で津田三蔵を捕らえた車夫2人への待遇がロシア政府により一時金だけでなく終身年金も、という、過ぎた厚遇を与えられたこともある。小説内では、そういった歴史的事実の謎に対しても理由が明らかにされる。

伊藤博文の家庭の問題

伊藤博文というと、旧1000円札以外では、韓国総督府になり、安重根により暗殺(1909年)された晩年のイメージが強かったが、女好きとして有名だったということが、物語の中で、ホームズによって何度も蒸し返される。
特にホームズが世話になった伊藤家には、生子、朝子の2人の娘がいたが、ホームズは、すぐに朝子が、伊藤博文の妻である梅子の実子ではないことを見抜く。(梅子は元・芸妓で後妻。生子は梅子の子だが、朝子は女中の子だという。)
Wikipediaにも「女好き」の項目が設けられているが、ここには、明治天皇に「少し女遊びを控えてはどうか」と窘められたエピソードや日本で最初のカーセックスをした人物という記載がある。
ホームズはそのあたりは全部お見通しで、何かにつけて揶揄・非難を続ける。
しかし、この小説では、伊藤博文がホームズにコカインをやめさせるため、「きみがイギリスに帰るまでは、わたしも外で遊ばんと約束しよう」と自ら女遊びを封印する。(文面から”断腸の思い”が透けて見えるくらいのためらいを感じるが笑)
実際ホームズがコカイン中毒という設定は聖典でも途中から無くなっているようで、伊藤博文との約束がコカインをやめた理由として成り立つようになっているのも巧い。

ホームズの問題

この小説では、前述の通り、そもそもモリアーティを「(私刑の形で)殺した」ことへの後悔が何度も書かれており、物語の核になっていると言える。
それ以外に扱われるホームズ側の問題として、7歳上の兄・マイクロフトへの複雑な思いがある。この小説ではニコライの兄の扱いがポイントになっており、その部分と対照的になっているのも巧い。
ただし、悩ましいそれらの事項を除けば、ホームズは空気を読まずにズバズバと的確な推理をして相手を苛々させる天才として描かれており、その変人性も十分に堪能できた。
なお、ワトソンは、滝に落ちてホームズは死んだと思っていた立場なので、物語の最後(「空き家の冒険」の冒頭)にしか登場しない。そういう意味では、2人そろっての活躍をやっぱり見てみたいと思わせる本ではあった。

まとめとこれから読む本

この本を読み始めたのは久しぶりに行った海外旅行(バリ島)の帰りの飛行機だった。そのため、ちょうど「海外での生活」をしたばかりということから、訪日したホームズに少し共感しながら読むことができた。
なお、作中でもホームズから指摘されるが、伊藤博文は、品川御殿山での英国公使館焼き討ち事件(1863年)にも参加した「攘夷」の志士だった。その後の国際的な立場からすると意外だが、一昨年の大河ドラマ『青天を衝け』の渋沢栄一で経験済みだったので、素直に受け入れられた。(ちなみに、このドラマで伊藤博文を演じたのは山崎育三郎)
こういったこれまで見た作品の積み重ねが作品理解に効いてくるのも歴史を題材とした本を読むことの醍醐味だなあと感じた。


史実に基づいた松岡圭祐作品は、義和団事件を題材とした『黄砂の籠城』、太平洋戦争を題材とした『八月十五日に吹く風』などがあるという。このあたりは是非読んでみたい。


また、途中でも触れたが、「大津事件」を扱った小説はいくつかあり、その中では、吉村昭作品や山田風太郎作品(車夫に焦点があたる)が気になる。


なお、巻末解説では、ホームズ研究家の北原尚彦氏がお墨付きを与えており、日本に絡めたホームズのパスティーシュとしてやはりよく出来ているのだな、という気持ちを新たにした。シャーロキアンのいう「大失踪期間」(ホームズ死亡から復活までの期間)にホームズが来日していた、とする小説としては、加納一朗『ホック氏の異郷の冒険』があり、また、ロンドンで夏目漱石と会っていた、とする島田荘司漱石と倫敦ミイラ殺人事件』(漫画作品も!)があるという。このあたりにも是非手を伸ばしてみたい。

*1:最近、「図書館で借りた」「ブックオフで買った」を作者に伝えるべきでないというルールについてTwitter上で色々と意見を見ましたが、自分は伝えないし、ブログにもできるだけ書かないようにしています。というか、ここで感想を書く本の8割くらいは図書館で借りた本です。そもそも、本は「買うと読まないで積む」パターンが、これまた8割くらいに適用されるので、もうどうしようもありません。

*2:別名・湖南[コナン]事件というらしい

アイドルが描く、アイドルの気持ち・ファンの気持ち~モモコグミカンパニー『御伽の国のみくる』


2作目の小説『悪魔のコーラス』が話題になっていたことから作者に興味が湧き、1作目『御伽の国のみくる』を読んだ。


作者のモモコグミカンパニーさんは元BiSHのメンバー。
BiSHは色んなところで取り上げられていたので名前だけ知ってはいたが、結局、今年6月の解散まで聴かずじまいだった。最近だと『水星の魔女』のエンディングで、アイナ・ジ・エンドの声を聴いて「フィロソフィーのダンス」の日向ハルだけじゃないんだ!ここまで特徴的な声で歌が上手いアイドルは!!」と感動したけれども、楽曲には手を出さず。
そんなときにBiSHに2作も小説を出す人がいたと知り、俄然興味が湧いたのだった。


で、感想だけど、これは面白い!
先日読んだ(同じアイドル出身の)松井玲奈『累々』は、頭で考えて作った巧さだと感じた。
見せ場を最も効果的に見せられるよう、登場人物、場面、タイミングをミステリ的、パズル的に組み合わせて出来ている。


それに対して、こちらは、「登場人物が自ら動き出してしまった」的な面白さで、あまり計算(テクニック的な部分)が感じられない。


そして何よりも、冒頭でアイドルの面接に落ち、アイドルを夢見つつメイド喫茶で苦労する主人公(中井友美=みくる)の小説を現役アイドルが書くという構造が刺激的過ぎて、目が離せなかった。
しかも、ダメ男を好きになり、絶対にダメなのに、返ってこないお金を貸してしまうという最悪パターン。よくある展開と言えばその通りだが、終わらせ方によっては、嫌味に感じられるかもしれない題材。そのリスクを取ってまで書きたかったテーマは、アイドルを続ける意味を再確認するような内容で、深く心に染みるものだった。
また、この小説の中では、2つのタイプのファンが出てきて、片方は断罪され、片方は感謝される。前者はアイドルの変化を許さず、自らも変わらない。後者は、アイドルも自らも成長することに喜びを覚える、と言ったところだろうか。
このあたりの、アイドルとファンの在り方についての話も、現役アイドルこそ書くべき内容だ。そういう意味では、松井玲奈『累々』と比べて、相当に「巧い」と言えるのかもしれない。


ただ、一般的な小説として見た場合、ここまで「この人なら信頼できる」という登場人物が出てこないのは、なかなか読んでいて辛い部分があった。
主人公が頼りないタイプなので、誰かに救ってほしい、と思いながら読んでいたが、結局、男性陣はほぼダメな人で、「いい人」扱いの「ひろやん」もはたから見れば「キモイおじさん」。
頼みの綱だった麻由子が、真にダメな人だったことが明らかになったときは本当にがっかりした。麻由子の行動の終始一貫していない部分は、この小説ではマイナスのように感じたが、もしかしたら、そういう女性がたくさんいる、ということなのか…。


負のオーラが全開になるクライマックスを経て数年後を描くエピローグでは、主人公の職場は介護施設に変わる。このエピローグは正味4ページという短い文章だが、上に書いたアイドルとファンの在り方の話も含めて本当に巧いまとめ方で舌を巻く。
この人が、アイドルを題材にしない小説を書いたらどうなるんだろう?という関心からも、最新小説『悪魔のコーラス』が気になったのでした。

「ここで働きたいなんて若者、珍しいねえ。 どうしてだね」
また、始まった。梶さんは散歩に行くといつも質問攻めにしてくるから気が抜けないのだ。
「んーと、人のためになりたかったんです」
「そんなしがない回答、求めちゃおらんよ。人間は、みーんな自分のために生きてるだろう? 違うかい?人のためになりたいなんて、わたしゃそんな奴はみんな、ほら吹きだと思ってるよ」
(略)
「人はみんな自分のために生きている。確かに、梶さんの言うとおりかもしれませんね。でも、誰かの生きがいになれたり、誰かのことを笑顔にできるのって素敵じゃないですか」
「どうしてそう思うんだね」
「うーん。前に、私のことを生きがいだって言ってくれた人がいました。その人は自分も大変な状況なのに、私のことをいつも瞳いっぱいに映してくれるような人でした。そのときは分からなかったんですけど、たぶん私、その人が瞳に映しだす自分の姿に、救われていたんです」
(エピローグより)

これから読む本

まずは『悪魔のコーラス』を読みたい。また、彼女によるBiSHヒストリー本ということで『目を合わせるということ』、そして何よりBiSHの楽曲を聴かないと。

「正しさ」を求めず「迷い、問い続ける」フェミニズム~ひらりさ『それでも女をやっていく』

ひらりささんは、オタク女子ユニット「劇団雌猫」を組んで、いくつか本を出しており、代表作『浪費図鑑』は昨年楽しく読んだ。
そんな彼女が30歳で一念発起し仕事をやめてイギリス大学院に留学し、フェミニズムについて学び、この本(『それでも女をやっていく』)を出すことになった。そんな話を、いつものラジオ番組アフター6ジャンクション(アトロク)で聴き、オタク趣味本メインの人と思っていたらそんな本を…と興味が湧いた。
番組での印象から、ひらりささんがこれまでの人生を振り返りつつ、女性であるから苦労したこと(男性だったら苦労しなかったこと)について書かれた本だろうと思って読んでみた。
つまりは、『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』のような、男性が読むと辛くて逃げ出したくなるようなタイプのフェミニズム本だと想像していた。

総評

確かに冒頭とラストだけを読むと、フェミニズム本に違いないのだが、中盤の壮大な寄り道が、途轍もなく深く重く痛い。この本は、作者が誰かを糾弾する本ではなく、自身が犯した友人への仕打ち*1を血を吐きながら告白するタイプの本だった。正直、途中でこれは何を読まされているんだ…と思うくらい。
でも、それがあるから彼女の意見に芯が通っていると感じられる。


彼女の経験豊富というかネタに事欠かないタイプの人生を一冊にまとめる場合、切り口によっては、(毒親とは少し違うタイプの)母娘本にもなっただろうし、飲酒本にもなったかもしれない。単なる読書遍歴を披露する本にもできただろう。
しかし、そこにフェミニズムという芯を通してみると、不思議とバラバラの話題がまとまって見えてくる。
彼女のフェミニズムは、理論で押し切らない。しかも、自身の性的指向への揺らぎへの言及も含め、迷っている。フェミニズムに辿り着いたのではなく、今もフェミニズムを探っている感じがよくわかる。
真実を「知ってしまった」人が上から諭してくる意見よりも、真実を「探っている」人が仲間を見つけようとしている意見の方が、とっつき易い。
そもそも、タイパ(タイムパフォーマンス)が何より重要とされ、短い言葉で正しいことが言い表されているような断言口調の本が持て囃される中で、ここまで現在も過去も長期にわたって迷っている半生を、分析的に書かれた本は珍しいのではないだろうか。

「タクシーで帰ってほしい」問題

セクハラという観点で書かれたエピソードがいくつかあるが、そのうち二つは、自分にとってはかなり刺さるものだった。


一つ目は、本の一番最初。大学に入ってからの経験を語る部分のエピソード。
彼女は東京大学文科一類に入学するが、男女比的には「ほとんど男子校」で、30人クラスで女子学生は5人。入学早々のクラス飲み会で「男だけの内輪感、その内輪を盛り上げる装置として使われている外野としての自分」という状況に、やり場のない怒りを感じる。
また、大学4年生になっても「男は女の顔をジャッジしていい」と考える”男子校出身”的な男子*2の無邪気な外見品評発言に激しく傷つく。

ここで挙げられる事例は、どちらとも直接的な外見いじりではなく、人によっては笑って受け流してしまう発言なのだが、それでも人を深く傷つけてしまう。男子校から大学に入った自分としては、どこかでやってしまった可能性が大いにあるもので、他人事と考えてスルー出来ない。


また、ひらりささんは、これらの発言について思い出し、不快感を述べるだけでなく、「その場で怒るべきだったのに怒らなかった理由」を分析する。分析の中で、当時は、名誉男性として「東大男子」になり、どんちゃん騒ぎをして爆笑している側になりたい気持ちもあったということまで吐露している。(勿論、今では「怒らなければならなかった」と理解している)
このあたりが、この本のとても誠実なところであり、一方で、さらに自分を苦い気持ちにさせる。これまでの人生で、名誉男性側に入る女性も数多く見ているからだ。それが正解だったのかどうかは本人にしかわからない。

毎度感じるアンチフェミVSフェミ論争の中に欠けているのは、こうした内面の掘り下げだと思う。どんな人にも内面にはせめぎ合いの部分があるはずなのに、そこを無理矢理切り分け、自分の過去の発言・感情すら塗り替えてしまう。これは、アンチフェミ・フェミに関係なく、双方に見られる。(ネット論争は、立ち止まって自らを省みる隙を与えないというのも理由だろう)


そして、もう一つ、この本で最も強く刺さったのは、「男」でフェミニズムの立場に立っている人(=男性特権や加害者性に対しての罪悪感・贖罪意識で女性に向き合ってくる男性)の発言について書かれた文章。
仕事で知り合った出版社の営業の男性と2人で飲みに行ったときのエピソード。盛り上がって深夜2時にひらりささんが先に帰る際「歩いて帰ります」と言ったのに対して、「危ないからタクシーで帰ってほしい」と強硬に主張されたという。ニュアンスを伝えるために長めに引用する。

「自分と別れたあと、東京の夜道でレイプされた女友達がいて。 僕と解散したあとにあなたがそういう目にあったら耐えられない。本当にタクシーで帰ってほしい」
有無を言わせぬ雰囲気に、わたしはゆるめた表情を引っ込めた。 わたしはわたしの人生の中で自分なりに自分の安全を見積もり行動しているつもりだが、彼の経験からすると、どうやら不十分なようだ。理由は理解したし、わたしが折れて数百円のタクシー代を払えば円満に解決するのは明らかだったが、それでもわたしの行動を制限されることには、違和感があった。 「レイプ」という言葉を彼は切実な根拠を示すために挙げたのだろうが、そのときのわたしには一種の脅しを受けたようにも感じられた。それでもその瞬間は、彼を合理的に説得する言葉が浮かばなかった。

彼女は、この経験について思考を重ねる。たとえば「ミニスカートを履いていた女友達がレイプされたことがあるので、ミニスカートを履くのはやめてほしい」と言われたら?等。そうしたことも考えた上で、次のように結論付ける。

つまり、彼のようなタイプの人---男性ジェンダーの加害者性に対して責任を強く感じフェミニズムにたどりついた人が、その反面、目の前のすべての非男性*3に対して"か弱い被害者"という眼差しを向け、相手個人を、ひどく無視してしまうこともあるのではないかということだ。 よく考えたら、飲み会でフェミニズムに関わる話をしている間も、彼の言葉は、自分の罪悪感の吐露が中心だった。本当はわたしは、しゃべっている間は楽しくあろうと努めていただけで、うっすら居心地が悪かったのではないか? わたしは自分で自分を守りたいし、自分の意思で何かを選びとることのできる存在として、わたしを見てくれない人と話したくはない。

この一連の話は、話題に出るたびに悩んでしまう「ソロキャンプ女子」の問題とも根っこが同じだ。
単独行動が好きな自分にとって、ソロキャンプというのは魅力的に映る趣味だ。だから自分が女性だった場合を想像すると、ソロキャンプを望むことを否定されたらとても嫌な気持ちになる。まさに、「何故、一部の悪いやつらのために自分の行動に制限をかけられなくてはならないのか」と。
しかし一方で、自分の娘がソロキャンプに行きたいと言ったら間違いなくやめてほしいと考えるだろう。20代30代に戻って同い年くらいの意中の女性に言われても同じだ。

以前、このあたりの落としどころを考えて、自分もやはりひらりささんと同じ結論に辿り着いた。
つまり、一方的な価値判断の押し付けは、相手をひとりの人間として尊重する考えがないところから生まれてくる、という点でNGであるということ。
「ソロキャンプ女子」の問題は、一律に答えが出るものではないが、相手が(親の保護下になく)自立した個人であった場合、本人がどうしても行きたいという気持ちとリスク低減手段を改めてよく考えて決めてほしい、と伝えるくらいしか出来ないのではないか。


そのように考えていくと、フェミニズムの一番の核は、男女の関係性(対立)ではなく、性別と無関係な、それぞれの個人の尊重にある。
だからこそ、映画『バービー』は、クライマックスで、バービーだけでなくケンも含めた「個人」に焦点が当たるのだろう。
(一方で、無意味に男女間の対立を煽る場面が多いように見えたので、やはり自分はあの映画のことがまだ分からない)
ただ、頭で理解したとしても、それが真に身についていなければ、いろいろと間違える。
未だに、フェミニズムを標榜する作品を見るときに「叱られる」気持ちで見てしまうのも、そのせいだ。もっと精度を高めて考え続ける必要がある。


なお、ひらりささんは、この事例を出したあとで、自分自身の加害者性にも言及している(↓)。このあたりのバランス感覚が、まさに彼女を「信頼できる人」と感じる理由だ。フェミニズムに関する話題への納得感は、このように「信頼」が土台になければ成立しにくいと思う。細かいラリーで勝負をつけたがるTwitter上のフェミニズム論争は、相手を信頼し、理解したいという感覚が皆無で、理論のみの空中戦になってゴールに辿り着くことはない。

彼が自分なりのイデオロギーで実践・発信したことに、救われた人たちもきっといると思う。だとしても、わたしが「潜在的被害者」として彼の気持ちをありがたく受け取らねばならないというのはやっぱり違うだろう。一方でわたしもきっと、総体としての男性の加害者性に厭気を抱きすぎて、男性個人 に 「潜在的加害者」のレッテルを貼ってしまったことが、ないとはいえない。フェミニ ズムの勉強をしていると、自分の加害者性に気づかされることも多い。誰も彼もが、貼られたレッテルに苦しんだり、何がしかで傷ついたりしている。社会にとって正しいと思ってやっていることが、同時に、自分の傷つきを解消するための代替行為でもありえる。じゃあどうしたらいいんだって言われると、わたしの中でまだ答えは出ていない。 すごく難しくて頭がこんがらがる。 

正しくなくてもフェミニスト

この本は、最後に、彼女の考えるフェミニズムについての総括(「正しくなくてもフェミニスト」)があるのだが、その前段に、もう一つ印象的なエピソードが登場する。
英国留学からの一時帰国中に、久しぶりにあった女性の知人と食事をし、フェミニズムに関する自分の意見を嬉々として並べ立てていたら泣かれてしまった、という話だ。
これについても、やはり的を射た分析が挟まる。

  • 知っている、わかっているという感覚は、ときに人を傲慢にするものである。
  • フェミニズムに対して屈託がある女性を無意識にフェミニズム的正論で「説得」しようとしたのは、明らかにわたしの傲慢だった。
  • 「正しく」世界を認識すれば、ジェンダーをめぐる差別をなくすことに女性はみんな同意するだろう、とわたしはうっすら思っていた気がする。
  • 「勉強」は何もえらくないとわかっているのだが、勉強すると自信がついてしまうのが恐ろしいし、かといって勉強が不要というわけでもない。難しい。

ここで、フェミニズムとの距離感について次のように書き、本書の最後で「あなたは、フェミニストですか?」と問いかける。

日本で身近な友人にフェミニズムの話をしてみると、「正しい」「強い」 フェミニストのイメージゆえに、自分にはフェミニストの資格がないと思っている人が多いことに気づく。わたしにも依然としてその抵抗感はある。無謬であること、責任を持つこと、覚悟を持つこと、盛んに声を上げること、連帯をすることなどを背負えるほど十全にフェミニストではないと思っていた。でも、それとは別に「自分のために声を上げられなかった」という傷つきがあるがゆえに、フェミニズムから遠ざからなくてはならない人たちがいるのだということを、わたしは彼女が中華料理屋で涙を見せた夜に、やっと理解できたのだった。 

わたしはフェミニズムのことをわかっていない、女のことをわかっていない、世界の ことをわかっていない。そうした事実をいつでも忘れてしまう。そもそも適切に「正しい」「正しくない」という言葉を使える人間なのか? 「わからない」という意識を持ち続ける上で、わたしの場合は、フェミニストをまだ名乗りきれない、という自認がひとまず必要なのだと思う。"正しさ”の前で立ち止まっている人たちに接続する方法で、 自分のあらゆる文章に自分なりに自分のフェミニズムをひそませていくための、それがスタート地点。ここから、わたしが見過ごしていることの多さを思い知っていきたい。 
だから、わたしは毎日この問いを自分に問うし、この問いのいろいろな答えを知りたいし、それができるだけの信頼を、周りと築いていきたい。「女」を引き受けている人とも、そうではない人とも。焦らず、お互いにとって適切な速度で。それもまた、フェミニズムの実践だと思うのだ。
あなたは、フェミニストですか?

本の中で、あっちに行ったりこっちに来たりする、ひらりささんの「迷い」の中に、フェミニズムに感じていた「正しさ」の押し付けについてや、男性がフェミニズムに向き合うべきか、など、自分の興味の関心が、詰まっていたように思う。
むしろ、(男性である)清田隆之さんのフェミニズム関連本を読んだときより、同じ部分で考え、迷っている人がいるのを知り、強いシンパシーを感じた。そして彼女が考え続ける宣言をしていることに勇気をもらった気がする。このような話題で「アップデート」という言葉が使われることもあるが、これに対するモヤモヤも「正しい方向性」が明確になっているイメージの言葉だからという気がする。今後も、フェミニズムに関する話題には、正しいかどうか、ということよりも、考えることに重きを置いて触れていきたいと思った。

なお、清田隆之さんとは友達になれそうな気がするが、この本の壮絶な友達エピソードを読む限り、自分はひらりささんとは到底友達にはなれそうにないと思う。そういった意味でも強烈な本でした。

(メモ)気になる本

上ではスルーしていたが、この本のもう一つの読みどころは、BLや百合に対する向き合い方の変化についての自己分析。「腐女子」と名乗らなくなったことも含めて、色々と興味深い内容だった。そんな中では、読書遍歴についても披露されているが、気になるものが多かったので、少しだけメモ。

  • 和山やま『女の園の星』:著者が女子校出身でないことが不思議なくらい的確な「女子校あるある」が驚きだという。『夢中さ、きみに。』は読んだけど、これはまだなので早く読まないと。
  • 葉鳥ビスコ桜蘭高校ホスト部』:『ベルサイユのばら』以来の課題だった、男装女子は、女らしさへの呪縛は解いてくれるものの、最後は恋愛が実るために、「本来の性別に戻る」ことが強調されてしまうというジレンマから逃れた男装女子もの。ちなみに「部」は「クラブ」と読むのですね。
  • 宮田眞砂『夢の国から目覚めても』:レズビアン当事者ではない人々が百合を描き読むことの意味に正面から立ち向かう小説。メタフィクショナルな内容を含む。
  • 服部まゆみ『一八八八 切り裂きジャック』:事件当時の1888年に実在した100人以上の人物を登場させ、切り裂きジャックの正体に迫る小説。

*1:今回、ここには触れない。この本では、女子のみの生活だった中高一貫進学校時代、大学時代、そして就職してから、と節目節目での友達づきあいについて書かれているが、仲良くなった友だちと絶好状態に陥ることを繰り返す。中高6年間を共にした人達と今は音信不通という告白は、かなり重い。おそらく自分は友だちになれないタイプ。

*2:この部分に補足的についている説明はさらに具体的だ。いわく、「つまり、テニスサークルに所属しそこで彼女を作り、司法試験に通ったら当然渉外事務所で初年度年収1000万円をゲットするぞと息巻いている、常に他者をジャッジすることにためらいがない男子」

*3:読んでいる時は気がつかなかったが、ここを「女性」と書かずに「非男性」と書く配慮はすごい。

全然わかりませんでした…~グレタ・ガーウィグ監督『バービー』


もともと、映画『バービー』は、予告編を何度も観たが興味が湧かず、スルーするつもりでいた。
それが、いわゆる「バーベンハイマー」*1での炎上騒ぎで悪い意味で注目される一方で絶賛評も多いことから、少しずつ気になっていったが、決め手は、もう一つの炎上騒ぎだった。

漫画「GANTZ」の作者、奥浩哉氏がミソジニー批判に反論 映画「バービー」をめぐる議論で(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース


奥浩哉先生がどんな思想の持ち主かは知らなかったが、この騒ぎを見て「またアンチフェミが騒いでる」と思ってしまった。しかし、その後、奥先生は、騒動に乗っかり映画を観ないまま発言を叩く人が多いことに苦言を呈していて、まさに自分のことではないかと反省し、観に行くことを決めたのだった。
なお、その後、DJ SODA関係の(フェミニズムの話というよりは)性差別の話*2も出て、それも含めて「叱られに行こう」という気持ちで映画館に行った。(この姿勢がダメなんだと思うのだが、フェミニズムに関する作品というと身構えてしまうことは確か)


で、観た直後の感想は「わからない…」

良いところ

最初に、映画の良かったところを挙げる。


まず、マーゴット・ロビーが魅力的。
そもそも、予告編で最初に感じたのは、バービーという「お人形さん」を演じるには年齢が行き過ぎていないか?というものだった。日本で「お人形さんみたい」という褒め言葉は未成年、行っても22、23歳くらいまでの女性に対して使うと思う。33歳のマーゴット・ロビーが演じるのは、無理があるのではないか、と感じたのだ。
でも、観てみると、マーゴット・ロビーの無邪気で豊かな表情(楽しい、悲しい、泣きたい、疲れた)は本当にキュートだったし、スタイル含めてバービーそのものの外見によって、バービー文化を体験できたように思う。


次に、ピンクを中心としたデザイン。この世界の中でバービーやケンが歌い踊るのを見るのは、それだけで楽しい。バービーたちが乗り物にのってバービーランドとリアルワールドを横スクロールで行き来するシーンが何度か繰り返されるが、ここも見ていて飽きない。


そして、「エンディング」を、「恋愛」に持ち込みたい社長の意図に反して、バービーは、大統領や医者、ノーベル賞受賞者などではなく、「何でもない女性」を選ぶ。しかも、あれほど変化を嫌っていたバービーが、死が待っている人間社会にチャレンジする、という終わり方は、わかりやすいと言えばわかりやすい。


ただ、この映画は、ストーリー上の突っ込みどころ(難点)が多く、そのメッセージをどう受け取ればよいのかさっぱりわからなかった。
自分の感じた難点を少し整理して説明する。

バービーランド、バービーの考えが幼い

バービーランドの大統領は確かに女性だが、その「大統領」自体が、おままごと遊び*3の大統領なので、リアルワールドの大統領とは意味合いが異なる。医者でさえ、具体性に欠け、それはケンの職業が「ビーチ」(ライフガードなどではなく)であることと、大して変わらない。
確かにケン達は蔑ろにされているが、バービーランドに「女社会」が出来上がっているというより、女性キャラクター主体のおままごと遊びが繰り広げられているのがバービーランドというイメージだ。


そして、バービーも、素朴、という言い方もできるが、悪く言えば、考えが幼い。
リアルワールドの人間に会って「私が、あなたたちの憧れのバービーよ!どう!」みたいな発言をしてしまう、無邪気すぎる感覚は、初対面のサーシャ(グロリアの娘)が感じたように痛々しい。
バービーランドに戻ると、そこがケンランド(ケンダム)になり、元の世界が失われてしまったことに絶望して寝転がるバービーは可愛い。しかし、つまり物語の終盤になっても、観客は、幼い子どもに対する視点で、物語の主人公であるバービーを眺めている。ここからは深い話が広がりようがない。


バービーランドの住人のほとんどが、バービーとケンである、というのも(商品に忠実だからなのかもしれないが)、物語理解の邪魔をしている。端的に言って、リアルワールドと別世界過ぎて、何をどう捉えて良いのかわからない。
バービーが女性、ケンが男性を表しているとして、バービーの味方をしたアランは、クィア?。それにしては、ミッジ等、非バービーのキャラクターの配置に特に意味が与えられていないように見える。

男女逆転世界の描き方が機能していない

男女逆転世界は『大奥』や『ザ・パワー』で履修済み。フィクションで上手く使えば、作品メッセージを伝える上で大きな武器になると知っているので、そこにも期待した。


序盤は女性優位のバービーランドでケンたちは蔑ろにされており、いわばリアルワールドでの女性の扱いを表現しているのだろう。(が、先述した通り、ケンが特殊過ぎるので、あまりピンと来ない)
終盤では、リアルワールドからケンが輸入した「男社会」という考えが広まり、バービー達もそれに洗脳される。このコンセプトはわかる。しかし、ここで描かれる、バービーランドに現れた「男社会」の「おぞましさ」は、これまでバービーが自分勝手にふるまえたピンク色の世界の一部が失われた、言うなれば楽しいおもちゃが奪われたことでしかなく、現実世界と状況が大きく違う。


そして物語終盤の展開。もともとのバービーランドは女性上位の社会であり、ケンランドは男性上位の社会なので、両方を経験したバービーたちによる「融和」が、作品の結論になるのかと思ったら、元の姿に近い形で、バービーランドが復活する。
それどころか、バービー達は、「女性を使って」(ケン達をたぶらかして)、その隙に、ケンランド成立を阻止する。
話し合いも選挙もなく、単に議会を占拠して思い通りの世界に戻そう、とするさまは、トランプ支持者たちの議会占拠事件と何が違うのか。また、そこに至る過程で、性的に男をたぶらかし、結果的に対立状態を煽るような展開は、フェミニズム的に言ってもどうなのか。


その他、リアルワールドに降り立ったバービーが、最初に(通常は下層の仕事と見られがちな)工事現場を見に行く、というのもよくわからない。前半部にバービーランドで工事現場が魅力的に描かれるシーンがあったのだろうか。
また、ラストで、人間になることを選択したバービーが最初に行くところが「婦人科」?このギャグは高度過ぎてわからない。
作品内で何度も言葉が出てくる「ツルペタ」を直したいということなのだろうか?であれば、性別適合手術ということになるが、生々し過ぎて全然笑えない。

リアルワールド住人の悩みに焦点があたらない

物語で一番スリリングだったのは、サーシャが「誰もバービーを好きじゃない。バービーはファシスト」と言い放ち、学校まで訪れたバービーを泣かせる場面。
彼女がどうしてそう思うに至ったのか、彼女の悩みは何なのか、バービーとの出会いを通してそれはどう解消されたのか。そこがあってこそのハッピーエンディングのはずなのに、そこが全く描かれない。
ドラえもん映画なら、のび太たちが仮想世界の住人と過ごし、双方が成長する、もしくは、のび太が仮想世界を救って別れる。(この映画ではそれが逆になっていて、最後にバービーがリアルワールドに行く選択をするところが興味深い。)
しかし、『バービー』では、ドラえもん映画なら焦点が当たるはずの、サーシャやグロリアの成長は描かれない。


映画の中で最も女性を鼓舞するメッセージとしてわかりやすいのは、グロリアが、自らの経験を踏まえた強い言葉でバービーたちの洗脳を解く場面。
ここに、グロリアの物語が、また、サーシャの物語が嵌まれば、受け取り方は違ったかもしれないが、ストーリーの裏付けのない、スローガンのようなものに聴こえてしまった。言っている意味は分かるが、例えば『82年生まれ、キム・ジヨン』でも『僕の狂ったフェミ彼女』でも、フィクションならば、印象的なセリフの背後には、発した人物の物語が広がっていたように思う。


彼女たち母娘が、バービーランドの経験で得たものもあまりないように感じるし、2人の扱いがおざなりだったのは残念だ。
繰り返すが、バービーやケンは素朴かつ別世界過ぎて感情移入しにくいので、リアルワールドのキャラクターに重きを置いてもらった方が作品に乗りやすかった。実際、男性キャラクターで、一番「こういう人いるよね」という意味で愛憎入り混じる気持ちを持てたのは、ケンではなく、リアルワールドのマテル社社長だった。

メッセージ

エンディング近くに、作品の持つメッセージが、ある程度時間をかけて語られる。
現代は女性が輝く社会、ということで大統領を目指す人もいるし、医者を目指す人もいる。しかし、誰もがそれらの職業を目指す必要はないし、誰もが恋をして結婚するべき、ということもない。
男性、女性それぞれが、「男性だからこうあるべき」「女性だからこうあるべき」ということから逃れて生きて良い。(ケンが「ケン is me!」*4と喜んだように)
ただ、「そのままの君でいい」は、日本のフィクションや歌の定番過ぎて全く新鮮味がなく、一周回って、自分にとっては、メッセージ性ゼロの物語となった。しかも、ケンは完全に別世界の人なので、男性の自分にはなおさらメッセージの受け取り方がよくわからない。
ケンみたいに、馬と男社会にしがみついている男性なら感じるところが多い映画なのかもしれない。
でも、自分はケンじゃない。


幼い頃に(もしくは大人になってからも)バービーで遊んだ記憶がたくさんある女性なら楽しめるのは間違いないだろうが、バービーに馴染みがなく、ケンからも程遠い男性が観た場合は、「なんだこれ?」という感想になるのが普通ではないだろうか?
ということで、最初に戻って、奥浩哉先生の感想を拾うと、

  • 最初の方はお洒落だし可愛いし笑いながら観てたけど後半になるにつれてだんだん冷めていった。なんか強烈なフェミニズム映画だった
  • 男性を必要としない自立した女性のための映画。こんなの大ヒットするアメリカ大丈夫なの?
  • きっと田嶋陽子先生は大拍手するだろう

確かに、グロリアによる洗脳解除からバービー大勝利までの流れは、「強烈なフェミニズム映画」「男性を必要としない自立した女性のための映画」という言い方が正しい気もする。また、無意味に男女の対立を煽るような内容にも取れるし、そういう意味では、「こんなの大ヒットするアメリカ大丈夫なの?」という奥先生の感想も的外れではないのではないか。
しかし、繰り返し書くが、自分は、この映画がフェミニズム的な主張をしているのかどうか、わからない。というか、作品の持つメッセージという観点で考えると、やっぱり全体的に何だかよくわからない映画だった。


わかった人たちは、最後にバービーが婦人科に行くところで、くすっと笑ったり涙を流したりするんだろうか。


…ということを確かめるために、(あとで読もうと思いブックマークしていた)有識者たちの解説・感想を読んで勉強しようと思います。

*1:『バービー』+『オッペンハイマー』を意味する。解説は、例えば→原爆投下のネタ画像に批判殺到→ハリウッド映画『バービー』が謝罪…大炎上の背景は? | 井の中の宴 武藤弘樹 | ダイヤモンド・オンライン

*2:これはひどい話→DJ SODAさん “音楽イベントで性被害受けた” SNS投稿で拡散 | NHK | 大阪府

*3:ここで意図しているのは、女性の政治が三流とか、そういう意味ではなく、おままごと遊びに使う人形の演じる大統領は、リアルの大統領と全然違うよね、という程度の意味です。

*4:全国の、ケン・イズミさんに思いが及びます。立憲民主党の党首の人とか…笑