小林美香『その<男らしさ>はどこからきたの』は、アトロクで取り上げられたのをきっかけに手に取った一冊。
中井敦子・森岡素直『ユニヴァースのこども』は、シリーズ「あいだで考える」の一冊でひうち棚さんのイラストも楽しい本。
広い意味では、どちらもジェンダーを扱った内容と言えるが、その中でも、「見る」「見られる」について触れられている部分が共通しており、自分としても考えるべき問題だと感じたので、まとめて感想を書いておく。
アンチフェミ的価値観への教育現場での対策
『その〈男らしさ〉…』は、「CM・ポスターに刷り込まれた“理想の男性”の虚像を暴く!」という、とっつきやすい内容がメインで、どこを読んでも面白いのだが、その主旨からは少し外れる「第6章 その〈男らしさ〉はどこへいくの? ―これからの教育と医療と男性性」(3名への対談で構成)が興味深かった。
特に、男子校でのジェンダー平等教育を教えている田中めぐみさんの語りの部分。
太田啓子『これからの男の子たちへ 「男らしさ」から自由になるためのレッスン』を念頭に授業を作ろうとした田中さんだが、「ゆるアンチフェミ」の生徒に悩まされ、そこが一つの課題のようだ。
何人かにアドバイスを求める中で、西井開さん(『「非モテ」からはじめる男性学』)から得たヒントが面白い。
西井さんは、研修やワークショップ、当事者会のような「場」において、①男性が自分の傷つきを見つめてその気持ちを言語化していくことと、②不平等な権力構造の維持に加担しないことの2つは別々に取り組んだ方がいいとレイウィン・コンネルの『マスキュリニティーズ男性性の社会科学』を引いて紹介してくださいました。
p236
このうち、①については、男性同士の「おしゃべり」を増やす必要がある、と繰り返し書かれているが、確かにその通りかもしれない。
性教育史を研究する堀川修平さんの話の中でも、以下のように書かれていて、①②はセットで(しかし切り分けて)学ぶ必要がある、ということがよくわかる。自分にも「上から目線」で「他人事」として捉えていた時期があったと感じる。
というのも、男性の受講生の中には、「ジェンダーって最近聞くようになったから」とか、女性の生きづらさの問題を他人事として知っておこう、という上から目線で来る人も多いんです。そこで、自分ごととして捉えてもらうためにも、「男性の生きづらさ」は必ず扱うようにしています。たとえば、過労死のジェンダー差について考えたりします。すると、ジェンダーは男性の生きづらさに関わる問題でもあることに気づくのです。
p248
合わせて、以下のような内容も、日々のネットでのディスコミュニケーション(また、チームみらいが、先の衆院選で重視した「批判を避ける」という選挙戦略)を見ていると、年齢性別問わず、日本人は、まだまだ学んでいく部分があるのではないかと感じる。
ディスカッションの中で、コミュニケーションとして批判をしたり、大切にしたいことを伝えられるようになることが、日常生活での性の受け止め方につながっていくと思います。性教育は他者とのコミュニケーションと切り離せないことであり、人と関わる上で相手の人権を侵害しないように学んでおかなければならないことなんだと思います。
p249
バカとエロの大縄跳び
上に挙げたような男性性の問題についての表現として紹介された「バカとエロの大縄跳び」という言葉には、衝撃を憶えた。あまりに理解でき過ぎる表現!
この言葉は、作家の白岩玄さんが、男性学研究者の田中俊之さんとの対談の中で述べた言葉だという。
僕の場合、自分が男性として育つ中で経験した「バカとエロの大縄跳び」が本当に嫌だったという実体験があるんです。男子はみんなでバカなことをするとか、エロを受け入れるという強制参加の大縄跳びのようなものがあって、とにかくそこに入らないことには男の子として認められないという空気がありました。
僕は嫌だったけれど入らざるを得ないから、もう飛んだふりするみたいな感じでやってきたのですが、本当につらかった。息子がもしそういうことを好まなかった場合、自分と同じようにその中で生きていくしかないとしたらつらいと思うのですが、親にできることは限られていますよね。
男性が「本音や弱音を吐きづらい」社会の問題点 白岩玄×田中俊之が語る「男性の生きづらさ」 | 生きづらい男たちへ捧ぐ 田中俊之の男性学 | 東洋経済オンライン
「第3章 自己鍛錬としてのメンズ美容」の締めの文章では、男性向け美容の広告は、これまで「バカとエロ」+「能力主義」が中心だったが、徐々に変わりつつある、という説明がなされる。
自分自身のケア実践を通して、他者への理解や想像力を広げ、共感を深めていくことの中にこそケアの本質があり、その方向に進んでほしいと望むまとめの文章は、以前読んだ『父と子のスキンケア』の強引なまとめとも通じる内容だった。
「一方的に見ること」を享受できる男性優位社会
この本が取り上げる具体的な事例をもとにした広告の読み解きはどれも面白いが、そもそも、この本の良さは、その制作意図に起因し、そこに一番共感できると感じる。
「はじめに」で「男らしさ」表現に注目する意図として、2つを挙げている。
1つ目は「男らしさ」表現を意識して読み解くことにより「デキる男」のイメージがフィクションに過ぎないことを明らかにしていくということ。
そして2つ目は、ジェンダーと表現の問題が広告の「炎上」で話題になるとき、多くの場合は女性に対する性差別的な表現が焦点化され、男性の表現がジェンダーの観点から問題になることがほとんどないから、ということ。
実際のところ、メディアや広告について「女性に対する性差別的な表現をなくすべきだ」という声は明快な意見として挙げられます。しかし、男性の広告表現には、男性に課せられる期待や役割、抑圧的なメッセージが内在しているのにもかかわらず、そのことが意識化されることはめったにありません。それこそが、ジェンダー表現の問題を、もっぱら女性に対する性差別の問題として捉えてしまう要因であり、男性からはあたかも他人事のような距離感で扱われてしまう要因でもあります。
女性を性的容体として捉える「男性の眼差し(male gaze)」が社会に浸透しているために、男性は自らが「眼差しを向ける側」であると認識します。「眼差しを向ける側」とは、あたかも透明な存在であるかのように、姿を見られることなく「一方的に見ること」を享受できる側のことです。男性が自らの視線をそのような位置に重ねあわせることに慣れてしまうと、「眼差しを向けられる側」になることで経験する傷つきや痛みを言い表すことが困難になるのかもしれません。
p21
この部分の、男性が「一方的に見ること」を享受できる側にある、という指摘は、(女性側からすれば、言わずもがななのかもしれないが)確かにそうかも知れない、という発見があった。
「第5章 選挙ポスターに見るジェンダー表現」の中で繰り返し扱われるTBS「news23」でのトラウデン直美の「おじさんの詰め合わせ」発言は、まさに「見る」立場から(慣れない)「見られる」立場に替わったときの男性側の逆上の良い例だ。この事例について言えば、確かに「炎上」したが、実際には「炎上」ではなく「逆上」と言えるだろう。
見られる側のプレッシャーと、一面的な見られ方
同時期に読んでいた『ユニヴァースのこども』でも、この「見る」「見られる」問題が繰り返し取り上げられる。本の概要は以下の通り。
敦子さんと素直さんは、互いを大切なパートナーとして、敦子さんが出産した満生ちゃんと3人で暮らしている。素直さんの性は女性/男性のどちらにもとどまらず、3人の関係は〈母親/父親/こども〉の枠に収まらない。性のあり方、関係性のあり方を枠にはめず、名前をつけず、ゆらぎ変化していく全体として日々の生を生きようとしてきた2人が、出会いの頃から満生ちゃんの誕生、現在の暮らしまでの出来事と思いを語った「声のおたより」の記録。
(Amazonあらすじ)
この中で、いわゆるトランスジェンダーに対する、自分の持っていたイメージが、(たとえ「偏見」ではなかったとしても)当事者にプレッシャーを与えているということがよくわかった。
森岡素直(もっちゃん)は、子どもの頃にあまり性別違和がなかったが、世間のイメージに自分を合わせて、(子どもの頃からスカートが嫌いだった等の)嘘を語っていたのだという。
メディアの報道をもとにつくられていく、性同一性障害に関する固定観念やイメージが当時のぼくにはすごく大きくのしかかっていました。それは、単に「偽物」と思われるだけではすまないんです。偽物と思われることで、自分が望む性のあり方で生きることが否定されてしまう。それは裏を返せば、世間の固定観念にはまることで初めて「本物の性同一性障害」とか「本物のFTM (=Female To Maleの略。出生時は女性を割り当てられ、性自認は男性である人。現在は多く「トランス男性」と呼ばれる)」として認められる、自分が選んだ性のあり方が正当化されるという現実があると思います。
p119
このあとの部分では、これを「自身のチューニングを世間に合わせる」のではなく、社会の、ひとりひとりのチューニングが変わる可能性が、希望として語られている。
しかし、これは、あくまで「どう見られるか」が中心にある。
別の部分では、アレクサンダー・テクニークという技法の話と合わせて、「どう見るか」の話が出てくる。
私がアレクサンダー・テクニークでいちばん学んだことは、「人から見られる」という矢印じゃなくて、「自分が世界を見る」という矢印が自分の中心にあるという、その感じ。「女性として見られる」っていう視線のプレッシャーがあって、それは当時の私にとってはものすごいプレッシャーだったんだけれども、「自分が世界を見ている」っていう質感をふくらませていく、充実させていく中で、そのプレッシャーがだんだん小さくなっていった。それは行きつ戻りつで、時々「見られてる」プレッシャーがわっと大きくなって、ちょっとやめとこう、猫背にして胸を隠して歩こうとかね、そうなってしまうんやけど、「自分が世界を見てるんだ」っていう質感をまたとり戻していく。そういう変化が、少しずつやけど、確実にあったのです。
p39
これに対して、パートナーの中井敦子(あっちゃん)が、さらに次のステージとして「自分のdesireを認める」ということについて触れる。
そういう変化が重なっていったからこそ、次のステージがあったんやなって思う。いま振り返ればやけどね。それは、自分の欲求とか欲望とかビジョンとかがあることを認めて、それを自分が決定していいっていうこと。つまり「自分のdesireを認める」ということ。(略)
「クローゼットから出ていく」っていうメタファーがあるやん。自分のセクシュアリティを隠している状態から出て、カミングアウトすることのたとえで。で、私にも自分の欲求が本当はあったんやと思う。でも、それはクローゼットに入れてた。
きっと。p41
自分のdesireを認めたからこそ、第三者からの精子提供という方法で子どもを持つ、という選択に踏み切れたのだという。
こうした、多数派が作り上げた固定観念による抑圧の問題は、まったく別の場面でも取り上げられる。
二人の子どもの満生(まを)ちゃんは、2歳から保育園に通い始めたが、3歳になった次の春から行きたがらなくなり、発達検査を受ける。そこで「この子は手先が不器用で、それが理由で不安を感じている」という説明を受ける。
これへの反応に、自分はまた驚かされた。
でも私は、ともかくまず「満生ちゃんは不器用」っていうひとことが衝撃的で、自分の中にすごく残ってしまったんや。
それはなぜかというと、満生のこと、私は不器用か器用かという観点で見てこなかった。そういう言葉で満生のことを見ていたわけではないの。
(略)
はさみで細かく細かく切ったりとか、集中した時には非常に細かい作業もできる。それは、むしろ「器用」ともいえるんじゃないかと思うんだけど、そもそも私はそういう言葉では超えてなくて、繊細な指先、「感じている指先」っていうのかな。物をとり扱う時とか、ネコのトーベにさわる時のさわり方とかも、だんだん力の加減がわかってきて、指先の表情がすごく細やかになってきたし、探究する指先やなっていうふうに感じてた。
(略)そういう、美しい手やなって思って眺めてたものに対して、たとえば食事の途中でスプーンを放り出した時とかに「あ、不器用やからなんかな」って思うような観点が初めて出てきてしまった。で、そういうまなざしで見ている自分も嫌やったし。......そう、嫌だったんですね。そうそう。p134-136
確かにそうかもしれない。何となく一般的な見方(ここでは器用/不器用)だと思っていたことが、実は、多くの面を切り落とした一面的な見方であることは確かにその通りだ。そして、その「眼差し」だけになることで、どんどん能力主義的な見方に毒されて行ってしまう。
確かに、「不器用かどうか」という部分は、個人の特質の切り取りという点では、『その〈男らしさ〉』4章で取り上げられる、メンズコーチ・ジョージ発のネットミーム(スポーツ経験がない男は)「厳しいって」「危機感持った方がいい」という視点と変わらない。
これは、勅使河原真衣さんの本でも読んだ内容で、自分自身、拭っても拭っても拭いきれない思い込みがあるので、気をつけたいと感じる部分だ。
2冊を読んでみて、見る・見られる(眼差し)が、個人の気持ちにも、社会の傾向にも大きな影響を与えていることがよくわかった。
『ユニヴァースのこども』では、当事者みずからが変えなくても、ひとりひとりの(当事者に向ける)チューニングが変わる可能性もある、ということが希望として語られる。が、そのためには、ひとりひとりが、他人事にせずに自らの問題に向き合う必要がある。
遠回りだが、そういう風に、学んでいくことはそれだけで楽しい。
と思いながら謙虚に勉強を続けていくしかない。
『その<男らしさ>はどこからきたの?』の参考図書
参考にしたい本が多数あったのでまとめておく。
- p115 Netflixドキュメンタリー映画『ホワイト・ホット:アバクロンビー&フィッチの盛衰』(第2章 スーツとパンツ)
- p155伊藤聡『電車の窓に映った自分が死んだ父に見えた日、スキンケアはじめました。』(第3章 自己鍛錬としてのメンズ美容)
上でも取り上げた「第6章 その<男らしさ>はどこへいくの?」では、取り上げられた3名の研究者の著書含め、気になる本が多かった。
- p223 田中めぐみ『学校の「男性性」を問う 教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践』
- p224 太田啓子『これからの男の子たちへ 「男らしさ」から自由になるためのレッスン』
- p227 西井開『「非モテ」からはじめる男性学』
- p228 ダイアン・J・グッドマン『真のダイバーシティをめざして 特権に無自覚なマジョリティのための社会的構成教育』
- p237 ヨシタケシンスケ『ヨイヨワネ』
- p239 堀川修平『「日本に性教育はなかった」と言う前に ブームとバッシングのあいだで考える』
なお、本には直接触れられていないが、「バカとエロの大縄跳び」の白岩玄さんの小説も読んでおきたい。
『ユニヴァースのこども』の参考図書
こちらは巻末にガイドがあり、読む本を広げやすい。












































