Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

アニメ『平家物語』×映画『犬王』×小説『平家物語 犬王の巻』

アニメ『平家物語

平家物語』を見終わったのは、まさに『犬王』を観る一週間前くらいのことだった。
見始めたのは3月ころで、最終回を観たのは『鎌倉殿の13人』での壇ノ浦回くらいだったので、鎌倉殿とのキャラクターの違いを面白がりながら見た。


また、特に結びつきを考えずに行った4月頭の和歌山旅行も、良い感じに作用した。
アニメ『平家物語』4話では重盛が熊野古道を登り熊野那智大社を参拝し、10話では、維盛が那智の滝近くで、びわと会ったあとに、補陀落渡海から入水。
また、アニメや大河ドラマでは扱われなかったかもしれないが、源平の戦いでも活躍した熊野水軍が舟を隠したと言われる三段壁洞窟など、見どころが多く、タイミングが良かったと今さらながら思う。


全体を通して興味深く感じたのは、話が分かっているせいもあり、終盤に行くほど落ち着いていくように感じたこと。普通のアニメなら最終3話くらいは大盛り上がりだが、『平家物語』は気持ちが凪いでいく。
そんな中、最終話(11話)の壇ノ浦でのイルカの大群の登場(全く知らなかったが原典にも当然ある)は特に印象に残った。そしてラストまで見ると、アニメ全体の印象は、エンディングテーマ(agraph feat.ANI)の、ANIのラップが終わったあと、一転して音響的なインストに転じる、あの流れに似ている。
それは、平家物語のキーワードで言う「諸行無常」という言葉にも重なるが、物語の終わりまで知った上で、語り歌う主人公びわが配置されているからこその特別な感覚なのかもしれない。


アニメ『平家物語』は、主人公びわが、平家の滅亡、母親との再会と別れを通して、「語り継ぐ」道を選ぶという、彼女自身の物語となっていることが、最後まで視聴者を惹きつける要素になっていたと思う。

映画『犬王』

『犬王』についてはあまり知らなかった。

と、多少混乱してきたところで、アトロクで湯浅政明監督インタビューの放送を聞いて、大きな筋と、音楽に力を入れた作品だということを理解した。


さて鑑賞。
冒頭に現代の映像が挟まるので驚く。
また、今回、ビジュアルの予習をほとんどしてこなかったので、始まってから松本大洋がキャラクターデザインであることを知る。
そして、友魚&犬王のパフォーマンスが始まると、想像以上に曲の演奏に時間を取る演出に驚く。手拍子要求や、琵琶の背面弾き(というのか?)など、友魚たちのステージパフォーマンスの派手さもだが、衣装も楽しい。後半に行くほど、ほとんどふんどし一丁で、舞台が室町時代ということを忘れてしまう。


中でも一番楽しんだのは、そのステージが魔法だったり、アニメ演出上の非現実ではなく、室町時代でもこれなら出来るかもしれないと思わせるローテクで成立しているところ。
このあたりは、パンフレットに載っていた野木亜紀子(脚本)のインタビューが楽しい。

(能の描き方について)そのために勉強もしたし時間と労力をかけたんですが、必要なかったじゃん!と(笑)。あんなに真面目に能について考えたのは何だったんだと思うくらい、湯浅ワールドが炸裂してましたね。


~脚本では、しっかり能の形式をふまえたものとして書かれていたんですね。
そうです。思い返せば最初の打ち合わせのころから、湯浅さんがポップスターやフェスという言葉を出していたんですけど、喩えだと思っていたんです。でも作品を観て「喩えじゃなくて本当にそうだったんだ!」と。


~あのステージシーンに関しては、完全に演出の産物なんですね。
そのとおりです。あの舞台表現、すごいですよね。土の中から大量の腕が出てくる仕掛けとか、プロジェクション・マッピングのような演出とか、最後のバレエとスポットライトの乱舞とか、脚本にはまったくありませんから。まさに完全な「湯浅演出舞台」を私たちは見せてもらっているわけで、本当にポカンとしながら見入ってしまいました。


ということで始終魅了されながら見たステージシーンだが、不満な点もある。
足利義満の前で舞う最後の「竜中将」は、クライマックスで明らかになる犬王の直面(ひためん)が、デーモン閣下のような化粧をしているのがよくわからなかった。ここは当然ノーメイクの「素顔」が現れると思っていたので興醒め。

そして、結局、犬王と友魚(友有)の二人が袂を分かち、友魚が悲劇的な最期を迎える流れも、そのあとのフォローがあったので特に疑問を挟まずにエンディングまで進んだが、振り返るとよくわからない部分はあった。


とはいえ、森山未來の歌う「見届けようぜ」の声が、3週間過ぎた今も耳に残る、中毒性のあるステージシーンが圧巻だった。
今回、犬王を演じるアヴちゃん(女王蜂)のことは書かなかったけど、パンフレットもネットのインタビュー記事も、アヴちゃんの姿が出ているだけで、映画『犬王』の話というより、圧倒的にアヴちゃんの話にしか読めない唯一無二の存在で驚いた。


最後に湯浅監督のことを。
パンフレットにある各人の湯浅監督評が面白い。

  • 大友良英(音楽)「正直に書きます。湯浅監督の具体的なのか抽象的なのかさっぱりわからない無茶苦茶な注文と、素人目には何が描かれているか皆目見当がつかないスケッチ段階の動画に翻弄されまくった3年間でした」
  • 亀田祥倫総作画監督)「湯浅さんといえば業界内でも天才、鬼才と言われている方なので、現場に入るまで自分に何がやれるのか想像出来ず緊張していました。というのも絵コンテを見ても正直何が描いてあるのかわからずで(笑)湯浅さんの手振り身振りの作画打ち合わせでとっかかりの一端が見えた感じでした」
  • 野木亜希子(脚本)「こんなに言葉が伝わらないことってあるんだ!」と思うこともありました(笑)。やっぱり違う世界を見ている人なんだな、だからこういうものを作れるんだろうな、とも思います。私にとっては「リアルな鬼才」を目の当たりにした体験でもありましたね」

どの人も湯浅監督のことを奇人変人扱いしているが、終わってみたら傑作が出来ていたという評価が共通しており、監督への信頼を感じさせる。問題の絵コンテの一部はパンフレットにも載っているが、確かにラフではある(笑)
湯浅監督作品も、『マインドゲーム』と『映像研には手を出すな!』くらいしか見ていないので、もう少し手を出しておきたい。

小説『平家物語 犬王の巻』

結局今回、映画を観たあとに読んだのだが、驚いたことに、原作小説もとても面白い。
良かったことの一つは映画でピンと来なかった人間関係や展開がしっかり理解できたこと。
具体的には、犬王と、犬王の父親の率いる比叡座(ひえざ)、そして『犬王の巻』との関係が明確にわかった。

  • 比叡座を猿楽の諸座の中で一番人気にのし上げたのは犬王の父親の功績。
  • その源泉は、圧倒的に面白い新作群にあり、その面白さは、数多くのいけにえを引き換えにした妖術によるものだった。
  • …というような暴露話も含めて、実在の演者(犬王)の半生と合わせて平家物語を語り直する『犬王の巻』を友魚と犬王は語り演じ、人気を博す。
  • 「竜中将」で犬王が将軍からも賞賛を得たタイミングで、父親が死に、比叡座はトップ不在となる。数年後には犬王が比叡座のトップに登り詰め、友魚は「魚座」を立て、その魚座も比叡座も、それぞれで『犬王の巻』を語り演じることとなる。
  • しかし、平清盛を敬愛する足利義満は、異聞を禁じて平家物語の統一を図る。すなわち『犬王の巻』を語ることは禁止された。犬王(比叡座)はこれに従い、友魚は語り続け処刑される。
  • 歴史的事実として、当時、猿楽の能で将軍の愛顧を受けたのは、一番が比叡座(犬王)、二番が観世座(観阿弥)だったという。『犬王の巻』を禁じられた犬王は、観阿弥の演目に倣いながら興行をつづけたのだという。

こうして全体ストーリーを眺めると、この物語は、タイトルの通り『平家物語 犬王の巻』にまつわる内容であることがよく理解できる。


しかし、この小説の一番の特徴は、こういったストーリー的な部分よりも、「音」としての小説の面白にある。
古川日出男は、朗読ライブを行う人と聞いていたので、声に出したときの言葉を大事にする作家という印象だったが、解説で池澤夏樹はこう書く。

小説はプロットだと人は思っている。
あるいは登場人物。
時代や社会。
しかし、小説は文芸なのだ。だからまずは文体。
この『平家物語 犬王の巻』の文章はどのページを開いてもわかるとおり、速い。センテンスが短く、改行が多く、形容に凝らない。ばきばきと進む。

この解説の中で、「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」で「平家物語」を頼む際に一瞬も迷うことなく古川日出男を挙げたという。*1
実際、その池澤夏樹の意図は、小説を読むと十分に果たされていて、故に読後感は、とても独特だ。古川日出男の本も久しぶりに読んだが、「高速」な文体をもっと堪能したいと思った。

これから読む本

今回、『平家物語』に関する3作品に立て続けに触れてきたが、肝心の『平家物語』をまだ読んでいないので、ぜひチャレンジしてみたい。
また、池澤夏樹解説では、こうも書かれている。

古川さんに「源氏物語」は頼まない。あのうねうねと続く微細な情感描写に満ちてねっとりとした文章は彼にはそぐわない。そちらは角田光代さんにお願いすることにして快諾を得、長い歳月の後、すばらしい訳が仕上がった。ぼく自身は簡潔にさくさくと進む「古事記」を担当した。

これを読むと3作とも読みたくなる。特に、角田光代源氏物語』は以前から気になっていたが、池澤夏樹古事記』が気になる。『古事記』のあとで雄略天皇を主人公とした小説も書かれているということでそちらも読んでみたい。

*1:ここで意図したのは「『ベルカ、吠えないのか?』のように広大な小説空間を亜音速で走り抜ける作」とあるので、『ベルカ…』も読まなくちゃいけない。

サーリャは今も頑張れているのか~川和田恵真監督『マイスモールランド』


『マイスモールランド』は、同僚から最近見た映画として薦められて、その名を知った。
クルド人難民の映画と聞いて気にはなったが、「社会問題」をテーマにしたドキュメンタリー映画(と勘違いしていた)は、少し敷居が高い。『シン・ウルトラマン』など観たい話題作もあったので、後回しになっていた。
しかし、その後、毎週見ているお馬鹿番組『全力脱力タイムズ』(5/20)で、ゲスト出演した嵐莉奈が『マイスモールランド』を「自らの主演映画」として宣伝していて驚き、俄然、興味が湧いた。
あれ!こんなにザ・モデルな感じの人なのに、恋愛映画じゃなくて、クルド難民の女子高生を演じる?一体どういうことなのか?


その後は、アトロク「ムービーウォッチメン」のコーナーで取り上げられ(5/27)、さらには、同番組内での川和田監督のインタビュー(6/14)もあり、気になりながらも上映館数と上映時間が限られるので、土日は上手く時間を合わせられず先延ばしになっていた。
が、水曜の会社帰りにちょうど良い時間に上映していることを知り予約してみたら舞台挨拶回ということで、得した気分で6/22新宿ピカデリーに向かったのだった。

今回はアトロクで事前情報もかなり仕入れているし、どんな映画か大体わかっているつもりだったが、実際に見るとやはり新たな驚きがあった。

「青春映画」だった

自分は、ヒロインが可愛く見える映画が大好きで、ストーリーが破綻していたって問題ない。演技はむしろ下手くらいの方が推せると思ってしまう。*1
嵐莉奈さん主演だったらそんなタイプの映画もあり得る。
でも、「社会問題」を取り上げた映画であることを考えると絶対にそうはならないはず。どうやって…?
というのが、自分のひとつの注目点だった。


結論を言えば、嵐莉奈さんは可愛く撮れている。
しかし、演技の巧さとストーリーがそれに勝り、10倍印象に残るので、この映画を観て「嵐莉奈が可愛い映画だった」という感想を持つ人はごくごく少数だと思う。嵐莉奈ではなく「サーリャ」のことが気になる映画だ。

また、彼女が演技が巧いことが目立ち過ぎると、それもマイナスの印象となるが、相手役(聡太)の奥平大兼が、これまた相当に巧い。
2人で会話をするシーンはたくさんあるが、2人とも台詞のない演技がとても多い。しかも「笑う」とか「泣く」とかではない。相手のことをじっと見つめて相手を傷つけないように考えながら自分が何を言うか、どんな顔しようか悩む、そんな演技ばかり。


2人の関係性も面白い。サーリャは、同級生にも内緒にしていた祖国のことを聡太に初めて話すし、聡太も自分の夢を語る。かといって、ずっと昔からの幼馴染だったり「運命の人」だったりするわけではなくて、さよならを言ったあとずっと会わない可能性もある。お互いが「探り探り」の状況なのだ。
この映画の聡太がリアルなのは、常にサーリャのために動くのではなく、自分の夢に向かう行動が9割で、残りの一部がサーリャに向いている、というバランス。
だから、「しょうがないよ」というサーリャに「そんなことない!」と反論していた聡太は、状況をある程度理解してから2度目にその言葉を聞いたときは、何も言えなかった。


反対に、サーリャの「大阪について行く」という言葉も、聡太への思いというよりは、自らが、今の世界から逃げ出す「出口」を、少し離れた場所に求めたいという気持ちが言葉として出たものだろう。


色々なことができる、でも、色々なことができない、
それが『スモールランド』青春映画としての面だ。
でも、サーリャには普通の日本人なら当たり前の自由を享受できない…。

家族の映画だった

最近、アニメの『SPY×FAMILY』を一気見していたせいもあり、末っ子のロビンは(スパイファミリーに登場する)アーニャに重なって、とても可愛かった。
しかし、2作品の家族は、同じ家族でも大きく違う。
SPY×FAMILY』は偽物の家族だが、『マイスモールランド』の家族は役柄どころか実際にも本当の家族。だからというべきか、家族の嫌な面もたくさん見える。


サーリャが父親から「聡太に二度と会うな」と言われる場面や、同じクルドの中で結婚相手を勝手に決められていることがわかる場面は、束縛する父親の嫌な面が見える。
もうひとつ強烈なのは、妹アーリンが、サーリャに嫌味を言う場面。クルドの同胞の手助けで忙殺されているサーリャを見て「自業自得だよ」と。これだけ周りのために、勿論、家族のために一所懸命になっているのに、何でそんなことが…と思ってしまうが、原宿に行きたくても行けないアーリンも悩みを抱えていたのだろう。

こういう負の場面があるからこそ、最後の面会室の場面などは本当に印象に残る。
一連の家族映画としての流れを考えると、これに似た映画は『家族を想うとき』だろうか。*2

「社会問題」が前面に出ない映画だった

舞台挨拶は、川和田監督と西川美和監督の対談だったが、その中で西川監督が言った言葉が印象に残っている。

この映画には悪い人が出てこないのが特徴で、成功している。
悪を描くと、自然と観客は主人公と同じ側に立って安心してしまう。


また、川和田監督は、ドキュメンタリーではなくフィクションを選んだ理由を問われて、社会問題として扱うことで、自らの問題として捉えられなくなることを挙げていた。このあたりの意図と思いはパンフレットの川和田監督インタビューにも書かれていた。

取材で出会ったあるクルド人のかたに、「社会問題としてではなく、それぞれ生活や文化、物語をもった人間として、見てほしい」と言われたことは大きかったですね。遠くにある問題ではなく、物語の中に入って、自分のことのように理解しながら観てもらえるものを作りたいと思いました。

つまり、この映画は、「社会問題」を伝えるようには作られていない。
何が問題か、ということは示している。
しかし、西川監督の指摘する通り、「悪」は描かれない。
登場人物で言うと、難民申請が通らなかったことを伝える出入国在留管理局の職員が「悪」に近い人になり、サーリャの父が激怒する相手も彼だが、彼には何の権限もない。

「悪」は描かれないが、サーリャと聡太の「青春」が強調されればされるほど、サーリャの置かれた状況の理不尽が際立つ。

  • アルバイトもできない
  • 優秀な成績をとっていても進学先はかなり制限される
  • そもそも埼玉県から出る自由がない
  • 健康保険に入れない

ほとんど決まっていた推薦が断られ、高校教師が「先生も一緒に進学先を探すから頑張ろう!」と言ったときの、サーリャの「もう頑張ってます」という言葉が心に刺さる。
ここまで必死にやっているのに報われないという感覚は、『家族を想うとき』と似ているが、サーリャ達は、日本人と同様の生活をしているのに、日本(国)から拒否されているので、余計に辛い。
入管施設への長期収容を断念して、強制送還を受け入れる(それは死を意味するかもしれない)父親の決断も辛い。末っ子のロビンはそのことをしっかり理解できていない。


物語は、サーリャが顔を洗って前を向く場面で終わる。
気合を入れ直している場面に見えるが、「もう頑張ってる」のに…と、もっと辛くなってしまう。
立場の違う人の気持ちを想像し追体験する「他人の靴を履く」という言い方があり、「社会問題」を前面に出さず、主人公の苦境に焦点を当てた『マイスモールランド』もまさにそのタイプの映画と言える。日本の難民やクルドの問題に触れるたびに、サーリャは今も「頑張れている」だろうかと考えるだろう。

他の作品での描かれ方

「社会問題」をテーマにした他の作品は、問題をどう描いているか、過去のブログの文章を読んで少し考えてみた。


pocari.hatenablog.com
『むこう岸』は「生活保護」をテーマにしており、生活保護を受ける女子中学生と、同級生の男子がメインで描かれるので、『マイスモールランド』と似ている部分はある。
しかし、この作品の特徴は、生活保護と縁のない男子中学生(『マイスモールランド』の聡太にあたる)の目線で描かれ、彼が同級生女子の問題解決に向けて奔走すること。そして、生活保護という法制度が、困っている人を支援してくれるということだ。
『マイスモールランド』では、徹底的にサーリャの視線で描かれ、彼女はほとんど泣き言を言わない。聡太は彼女を助けようと奔走するわけではない。(そもそも、彼女の置かれた状況についてしっかり理解してあげられていない)
そして、生活保護制度とは異なり、難民に関する法制度は、彼らを助けてくれない。(とても理不尽だ)


pocari.hatenablog.com
『ふるさとって呼んでもいいですか: 6歳で「移民」になった私の物語』はイランから日本に来たナディさんの話。ナディさんの一家は「ビザのない外国人」として来日し、いつ強制送還されるかという不安とともに学校生活を過ごしていたと言い、置かれた状況はサーリャにとても良く似ている。
進学に関する悩みについても書かれており、ナディさんは無事に進学を果たすことができた。そういう意味では成功例にも見える。


しかし、サーリャがクルド人であることは、問題の解決をさらに難しくする。

日本の難民認定率はわずか0.4パーセント(2018年)で、他の先進国と比べても極端に低い。さらにクルド人については、難民認定された例は過去1件もない。日本政府がトルコとの友好関係を重視し、トルコ国籍のクルド人を難民と認めようとしないからだと言われている。
「国がないことが、私を一番悩ませる」クルド人の少女が求める自由 | ハフポスト 特集

上の文章の引用先の元記事や関連記事を読むと、本当に、今の日本は、外国人に優しくない国であると恥ずかしく思う。

www.huffingtonpost.jp
www.nhk.or.jp


「マイスモールランド」

パンフレットのインタビューで川和田恵真監督は、アイデンティティを重要なテーマに挙げている。

私も海外にルーツを持っていて、「自分は何人なのか。自分の国はどこなのか」という問いは、いつも心にありました。
日本で生まれ育ち日本語しか話せないのですが、見た目で判断されてしまうので、今もよく日常生活の中で「外人」とか「日本語上手ですね」と言われるんです。幼い頃からずっとそういう状況なので、すごく揺らいでいるというか…自分にとって、アイデンティティはとても大事なテーマですね。
そういう想いが、国を持たないクルドの人たちへの興味につながったのだと思います。
また、クルド人の家族の中でも、クルドの文化を大切にする親世代と、日本で育った子ども世代では、考え方にギャップもあります。
私は父がイギリス人なので、その点への共感は大きく、父と娘の関係は物語の骨格になりました。
本作はアイデンティティに悩んでいた10代の頃に自分が観たかった映画でもあるんです。

特に言及はなかったが、本作のタイトルは、国(ランド)を持たないクルド人を念頭に、日本で育ったクルド人にとっての「マイランド」としての日本があり、しかし、(埼玉から出られない人も含み)特定地域に集中して住んでいるクルド人同志で助け合うしかない「マイスモールランド」としているのではないかと思う。
つまり、実質的な「ふるさと」でありながら、日本の法制度で生活に著しい制限を受けた「ちっぽけな場所」という皮肉もこもっているのではないか。


サーリャは、本作一番の「胸糞」場面であるカラオケのシーンで「国へ帰れ」と言われるし、いわゆる入管施設の問題に対して同じように思う日本人も多くいるのだと思う。(多くの人が問題を感じていたら、容認されないのでは…)
しかし、他の日本人と同様に、長期間に渡って日本で暮らし、日本に生活の基盤がある外国人が、ちっぽけな「マイスモールランド」で暮らすことも許されず入管施設に収容され、長期収容か強制送還(≒自国での逮捕≒死)かを選べと迫るような現在の仕組みは、やはり間違っているように思う。


この問題については、上でも触れたナディさんの本の「あとがき」がとても良かったので改めて引用する。

何かを必要とする人が近くにいたとき、その人が「なに人であるか」と考えるよりも、「何が必要なのか」を考えるほうが、ずっとたいせつだと私は思います。
生まれや育ちにとらわれず、性別、年齢、見た目、国籍など、お互いの環境をいかに多角的に想像しあえるかが、とても重要なことだと思います。
困っている人がいれば、助けあえばいいのです。
来日したての私たちに、日本のご近所さんたちがしてくれたように。
(略)
法律や社会のありかたは、時間をかけてだんだんと人に寄り添うかたちに変化していくものです。
しかし、その変化の過程で取り残されてしまう人がいることを忘れてはいけないと強く思います。
これは、日本で育った日本人にも無関係ではありません。(略)
一度踏み外したらリカバリーのきかない社会が変われば、多くの人が生きやすくなると思います。
「多様性を認める」とは、そのような社会をめざすということではないでしょうか。
「日本人らしい日本人」や「外国人らしい外国人」だけの時代はもう終わろうとしています。
私たちは、見た目や国籍を超えて、同じ社会でともに生きています。

私のふるさとも、ここ日本です。

最近、名古屋入管施設の幹部不起訴処分(6/17)、大阪地裁の同性婚訴訟判決(6/20)と立て続けに、「多様性を認める」社会とは逆方向の司法の判断が出て、また日本が嫌いになっている。
そんな中で『マイスモールランド』が上映館数を増やしているというのは嬉しいニュースだ。映画を観た人は、国の姿勢の理不尽には気がつくだろうし、外国の人への向き合い方について少しずつ認識が変わると思う。
マザーテレサは「もしあなたが100人の人に食料を与えることができないのなら、ただの1人の人に与えなさい」と言ったという。入管施設の問題を含む、日本の外国人政策全体は途轍もなく大きな話だが、川和田監督の映画は、自分にとっては大きなものになった。自分も作品の紹介や日常の会話の中で、同志を増やしていければと思った。

*1:その最高峰は主演女優4名が皆可愛く、間宮祥太郎のカッコよさも光る『殺さない彼と殺さない彼と死なない彼女』です。

*2:ラストシーンを思い返して「ここで終わるのかよ」という絶望感が胸いっぱいに広がる。一方で『家族を想うとき』を観たときより『マイスモールランド』を観たときの絶望感が自分にとって少ないのは、やはりまだクルド難民の問題を他人事として見ていることが原因なんだろうと思う。

軽い気持ちで読んだら歴史的名作でした~高木彬光『成吉思汗の秘密』


またもや『鎌倉殿』関連の読書。

『成吉思汗の秘密』というタイトルからは、昔流行した『人麻呂の暗号』を思い出すが、この本は名探偵が登場するタイプのミステリであることが大きな特徴だ。
それどころか、ここで登場する名探偵・神津恭介は、明智小五郎江戸川乱歩)、金田一耕助横溝正史)と並んで「日本三大名探偵」と称されるという。
それなのに、このトリッキーな内容。

兄・頼朝に追われ、あっけなく非業の死を遂げた、源義経。一方、成人し、出世するまでの生い立ちは謎に満ちた大陸の英雄・成吉思汗。病床の神津恭介が、義経=成吉思汗という大胆な仮説を証明するべく、一人二役の大トリックに挑む、歴史推理小説の傑作。

つまり、病床の名探偵が時間つぶしのために歴史的な謎に目を付け、アームチェア・ディテクティブならぬ、ベッド・ディテクティブ形式でストーリーが展開する。
全体を通して言えば、「義経=成吉思汗」説は、それなりに説得力のある内容になっていると納得して終わる。これはあらすじから想定した通りの内容なのだが、読後の満足度は想定していたものを大きく超えていた。
その理由は以下の通り。

構成が巧い

一人二役のトリックが成立するか否か」を調査の目的とし、まず二人の英雄が同時期の活動がないことを確認することからスタートする。

次に、源義経が、奥州衣川で戦死して「いない」ことを証明する。
この辺りは、源平の戦いから義経の人生のレビューになっているので、歴史のおさらいにもちょうど良い。ましてや、現在、『鎌倉殿の13人』『平家物語』『ギケイキ』などを集中的に履修中なので、少し触れる程度でも、しっかり思い出せてとても効率が良い。
さらに、「衣川」以降の義経が辿ったと思われる、宮古や八戸に、義経の史跡や地名がいくつもあることが示される。この辺りまで読むと、義経が衣川で死んでおらず、岩手県側から北に向かったのは事実ではないかと、どんどん説得されていく。(いわゆる北行伝承)
義経はその後、蝦夷地を経て、モンゴルに入ることになるが、そこら辺からは状況証拠の積み重ねになり、やや都合の良い事実の積み重ねっぽくはなる。
ただし、ここも、宋→元→明→清という中国史のレビュー等が入るので、気の利いた世界史の授業を受けている感じ。黄金で栄えた奥州藤原氏の「黄金」がどこから来たのかという話も、とても刺激的な内容だ。

反論がわかりやすい

全16章構成のこの本だが、10章から13章にかけて、神津恭介の友人の歴史学者によって徹底的に反論される。いわく、「義経=成吉思汗」説は、徳川時代から始まって、これまで4回繰り返されてきており、歴史学者にとっては「あり得ない話」であることが証明されているのだ、と。ここで、改めて論点を整理しながら、「伝説」が成立した歴史的沿革が説明される。
ここで面白いのは、今残っている歴史的文書や史跡がすべて正しいわけではない、という当たり前の事実。このあたりは、ストーリーとしての歴史の面白さとは別に、「歴史」とはどういうものかというメタ的な視点から歴史を楽しむことができる。

事実とのリンクが多い

読む前に全く想定していなかったが、この本がエキサイティングなのは、実際に起きたこととのリンクが比較的多く、単純なフィクションと言い切れない部分。

まず、そもそも「義経=成吉思汗」説に手を付けるきっかけとなったのは、1951年にイギリスで出版された実在の探偵小説『時の娘』にある。この本はベッド・ディテクティヴによる歴史ミステリでリチャード三世を題材にしている。ワトソン役の作家・松下研三が、それをヒントに、病床の神津恭介に提案したというのが物語の始まりて、松下研三は、「義経=成吉思汗」説のミステリ小説を『時の息子』というタイトルで出そうとしていた。

また、物語のラストである15章は、1957年に実際に起きたある事件を使って物語をうまくまとめている。実際、本をまとめるぞ!という時期に起きた事件とのことだから、作者自身あとがきに書いているが、運命的なものを感じたに違いない。

そして、15章までで出版されたこの本に対して、説を補強するような読み解きが作家の仁科東子(仁科美紀)から出されたことをきっかけに、16章が追加されている。16章は、神津恭介と直接話をするかたちで仁科東子自身が登場し、持論を展開するのだが、ここも非常に読みごたえがある。

さらに、全く別の面から興味深く感じるのは頻出する「今度の戦争」という表現だ。特に、この表現は、元寇の話のところで多く使われる。たとえばこんな風に。

ただ、この蒙古帝国との和戦の決は、たとえば今度の戦争で、米英両国に宣戦したような、国家の運命を賭ける決断だったのだろう。そういう大問題は、十八の青年が決断するには、あまりにも重大きわまる事柄だが…。
(略)でも、今度の戦争中に、歯の浮くようなお世辞をならびたてたごますり学者がいたでしょう。つまり元寇役では、敵が北からやって来たから、北条氏がこれを撃退した。今度は敵が東からやって来るのだから、東条氏がこれを守るのだと、まるで、ごろあわせのような議論をならべた人間がいたでしょう。

この本が出版された1958年当時は、終戦から13年。
ちょうど、今現在2022年から11年前の2011年の震災を思い出すのと同じようなスパンだ。この中で繰り出される「今度の戦争」論は、(集中して語られるのは元寇の部分だけだが)とても刺激的だった。

おまけが楽しい

本書には、あとがき2編と制作裏話的な「成吉思汗余話」。さらには「お忘れですか?モンゴルに渡った義経です」というタイトルで、高木彬光と成吉思汗の対談(!)が収められており、本書の推理の答え合わせがされている。
さらには、島田荘司の寄稿も良い。デビュー作にあたる『占星術殺人事件』で御手洗潔と石岡が後半にいたるまで室内を動かないままに物語が進行するのは、『成吉思汗の秘密』の影響が大きいというエピソードも、この作品の偉大さを感じさせる。
解説(推理小説研究科・山前譲)には、『成吉思汗の秘密』の江戸川乱歩評もあり、読む前は、『鎌倉殿の13人』つながりで読んでみるか、という軽い気持ちだった自分を責めたくなるほどだ。


名探偵神津恭介が歴史の謎に挑むシリーズは、このあと『邪馬台国の秘密』『古代天皇の秘密』があるというので、こちらも是非読んで、「日本三大名探偵」の活躍を味わいたい。
また、唐突だが、それらのテーマも含めて、星野之宣の「宗像教授」シリーズを読みたくなってきた。『宗像教授伝奇考』では元寇関連の話で、義経=成吉思汗伝説にも触れているとのこと。『宗像教授異考録』は完全に未読。
イロモノかと思ったら歴史的傑作に当たって大変満足しました。

「用例採集」の現場~飯間浩明『知っておくと役立つ街の変な日本語』


飯間浩明さんは、三省堂国語辞典の編纂に携わる「辞書の人」として名前は知っていたが本を読むのは初めて。
今回は、図書館で目立つ陳列がされていたので、VOWネタみたいなものを予想して、興味が湧いたところだけ読もうと気軽な気持ちで手に取った。


ところがどっこい、面白い。


本は街で見かけた「変なことば」を取り上げたコラムなので、確かにコンセプトはVOWに似てなくもない。
しかし、決定的に違うのは、当然のことながら、「言葉みつけ」の目的が辞書編纂のための「用例採集」(『舟を編む』に出てきたやつ!)であることだ。
その中でも面白いと感じたタイプは

  • 新語ではあるが、辞書に載るのはより一般化して最後に残る必要がありそうな言葉
    • 自撮り棒、セルフィ―棒、セルカ棒(p74)
    • メガ盛り、デカ盛り(p92)
    • ホームドア、ホームゲート、安全柵(転落事故を防ぐための可動式ドア、p170)
  • 実際に、「最近使われている感」を強く感じる言葉
    • コミュ力(1世紀経って登場した略語、p88)
    • ほぼほぼ(2016年の「今年の新語」、p72)
    • 〇活(就活、婚活は辞書に載っている。それ以外に終活、美活、菌活、妊活など、p84)

特に、「ほぼほぼ」はよく聞く。(自分はあまり使わない)その流れで言えば、本には載っていないが「推し」。「〇活」と組み合わせた「推し活」あたりまで、辞書に載っていても違和感がないほどだ。


また、この本の真骨頂は「変なことば」を叱るのではなく、受け入れるところで、そのこころは「はじめに」に非常に分かりやすく説明がしてある(名文)が、一部を抜粋する。

「変なことば」は、それまでの硬直したことばに新しい展開をもたらします。昨日とは違うものごとを表現するために、あるいは、他人とは違う考えを表現するために、「変なことば」は生まれ、いつの間にか一般に受け入れられ、定着していきます。


飯間さんが「変なことば」とどう向き合うのかがよくわかるのは、取り上げられている言葉で言うと、「強化買取中」。
飯間さんは、2009年に秋葉原でこの言葉を見たときの感想をこう書く。

「強化買取中」は変わった言い方です。「買い取りを強化する」のだから、普通は「買取強化中」と言うはず。気になります。語順が違うのでは?
(略)私は最初、これを書いたのは外国人ではないかと思いました。日本語では、たとえば「生産を促進する」を縮めて「生産促進」と言いますが、中国語では「促進生産」と言います。(p66)

つまり、用法が生まれて広まるまでの流れを想像する。これが面白い。

その他、誤用ともいえる「アフォガード」*1も、本来はイタリア語でaffogatoで「ト」が正解だが、よく知っている「ボディガード」などに引きずられて「アフォガード」と言いたくなってしまうためと推定する。

こうした現象は、昔からありました。「ナプキン」が「布巾」に類推して「ナフキン」に、野菜の「パースリ」が「芹」に類推して「パセリ」になるなどの例があります。(p152)

また、似た変化として「バック(bag)」の例については、少し事情が異なるという。

もともと「ッ」(促音)の後の音は濁りにくいのです。「キューピッド」が「キューピット」、「ドッジボール」が「ドッチボール」、「ブルドッグ」が…。日本語として、促音の後の濁音は難しく、清音になるのはごく自然なことです。(p154)


今回、特に、用例採集の対象を活字や放送ではなく、街の中に求めているという点が、元々VOWネタ*2が好きな自分にとっては強く惹かれる要素だったのだと思う。
今後、これまで以上に看板や「ことば」に気をつけながら街を眺めていきたいと思う。飯間さんの文章にも惹かれたので、文章術関係の本も読んでみたい。

*1:熱いコーヒーなどをかけたアイスクリームのこと。知らない笑

*2:一般用語のように書いてしまいましたが、80~90年代の文化的遺産です笑。ググると出てきます。

芸術とAIと青春~斜線堂有紀『ゴールデンタイムの消費期限』

斜線堂有紀の本は初めて。そもそもは5月に見た映画『死刑にいたる病』からの連想で著作『恋にいたる病』経由でその名を知り、今回、Amazonでレビュー数の多かった本書を読んでみた。


ミステリ作家の中でも、清涼院流水の系譜なのか、実在しない苗字のペンネームは、メフィスト賞っぽいかライトノベルっぽい印象があり、今回も、ついこの前、潮谷験に求めて得られなかったものと同様のもの(本格ミステリベースの反則すれすれエンタメ)を自然に求めてしまう。
実際、あらすじを知らずに読み始めた本書も、シチュエーションは「絶海の孤島」という王道で、登場人物も癖があり、これは期待できる!と序盤を読み進めた。


あらすじは以下の通り。

自分の消費期限は、もう切れているのかーー

小学生でデビューし、天才の名をほしいままにしていた小説家・綴喜文彰は、ある事件をきっかけに新作を発表出来なくなっていた。孤独と焦りに押し潰されそうになりながら迎えた高校三年生の春、綴喜は『レミントン・プロジェクト』に招待される。それは若き天才を集め交流を図る11日間のプロジェクトだった。「また傑作を書けるようになる」という言葉に参加を決める綴喜。そして向かった山中の施設には料理人、ヴァイオリニスト、映画監督、日本画家、棋士の、若き五人の天才たちがいた。やがて、参加者たちにプロジェクトの真の目的が明かされる。

★招かれた全員が世間から見放された元・天才であること。このプロジェクトが人工知能「レミントン」とのセッションを通じた、自分たちの「リサイクル計画」であることをーー。

俊英が贈るAI×青春小説!

毎回思うが、大体の小説において、あらすじは「書き過ぎ」であることが多い。
今回も、「★」以降の内容は、読んでから知って「おお!」と驚く方が楽しい。
自分は「AI」が関連することさえ知らなかったが、それはさすがに触れずにいられないとしても、集められたのが「元・天才」であることまで書く必要は全くない。
序盤の面白いところは、主人公が、長らく小説を書けていない「天才・小説家」であることへの悩み・コンプレックスが、一堂に会した「若き天才たち」の中で、劣等感を強くする心理描写にある。小説の主旨は、こういった「才能」に対する劣等感やプレッシャーにあるので、事前にこれを削ぐような種明かし(★の部分)は避けた方が良いと思う。

また、『レミントン・プロジェクト』の目的が明かされていない段階では、突如「館の主」が、皆に向けて「さあゲームの始まりです」とデスゲーム開幕を宣言する可能性も残されており、「絶海の孤島」に集った5人の若者たちが憎しみ合い、殺し合った末に犯人捜し、という展開もあり得た。★の部分のネタばらしは、こういった読者の想像力を根っこから奪ってしまうという点で罪深いと思う。


話を元に戻す。
「レミントン・プロジェクト」が「天才」を集めて切磋琢磨させるのではなく、「元・天才」を、「AIの力で再生」させることが目的と分かって以降、この小説は、趣を変える。

すなわち、「絶海の孤島」に集った5人の若者たちが憎しみ合い、殺し合った末に犯人捜し、という典型ミステリ展開の可能性がどんどん薄れて、芸術分野におけるAIと人間の協力・対立の関係を論じる内容になっていく。


料理、日本画、音楽、映画、小説、これらの芸術分野で優れた作品をつくるにはどうすれば良いか。
これに対して、まずは統計的なアプローチを採る、というのが、この本の中でのAI(レミントン)のアプローチだ。つまり、多くの専門家が優れていると感じるように、料理であればレシピを、音楽であれば演奏のリズムや強弱を、日本画であれば構成をAIが指定する。その指定通りに、基礎技術を習得している(が、何かが欠ける)「元・天才」が作品を仕上げれば、一級芸術品が完成する、ということになる。
それでは小説はどうか、と言えば、レミントン(AI)は、自然言語の解釈は出来ないが、46万冊の小説の学習によって「ベストセラーになる小説の展開」を把握できるようになっているというのが、この本におけるAIの設定だ。
したがって、作家の特性に合わせたベストセラー小説の展開(いわばレシピ)を提示することができる。
特徴的なのは

  • 「よくできた人物描写には、実際の人物の取材が必要」という観点から、小説の登場人物が、レミントン・プロジェクトの参加者と同様の構成(ヴァイオリン奏者、棋士、映画監督、料理人、画家、小説家)になっている
  • 「レシピ」通りを徹底させるため、作家には、最後の展開をギリギリまで知らないまま、執筆させる(結末を知っていると、レシピから離れてしまう)

という部分。

こうして書いてみると強引な気もするが、読んでいるとそこまでの違和感はない。
ただし、レミントン(AI)が、参加者たちの性格や心理を把握し過ぎていることについては説明がない点は拍子抜けに感じた。そこが最終日前に起きる「事件」に大きく関わるだけに、もっと陰謀論っぽいこじつけを入れた方がしっくり来ただろうと思う。
しかし、作者の意図は、ストーリーのまとまりよりも、少しでも多く、若い人たちの自分の才能への迷いや葛藤を書くことにあったに違いない。むしろこの本は、ストーリーも悩みを読ませる小説で、その悩みは、「天才」でなくても多くの人が若い時期に共感できるようなものになっていると思う。


参加者の何人かに共通するのは、その道を進む動機の中で、「親に認めてほしいから頑張る」という、自己表現とは別種の要因が大きな部分を占めている点だ。
それなのに若い頃にその「才能」を見出され、持ち上げられてしまう。
本来、芸術の本質は、自己表現のはずだが、表現する自己がないままに周囲の賞賛を浴びてしまうと、同じ意識のまま続けていこうとすると厳しくなるのは当然だ。

その典型が、最後の最後に思いを爆発させてしまったヴァイオリン奏者の秋笠奏子だ。彼女は、ヴァイオリン講師に「中身がない」と言われて、こう独白する。

お願い。何も無いなんて言わないで。

私、もっと頑張るから。
特別じゃなくてもいい。一番になれなくていい。
ただ、私が頑張ってきたことには意味があると思わせてください。
p291

しかし、これほど本人の悩みが深くても、「売れた」相手に対して「天才だ」と持ち上げた世間は、その悩みには興味が無いというのが残酷なことだ。

主人公・綴喜文彰の言葉は、持ち上げた「世間」を批判する内容で、読者にとって耳の痛い内容だが、「有名人」としてやっていくには周囲の反応に敏感過ぎるとも感じさせる。周囲の声を気にせずに、自分はこれを表現したい、という部分を押し切る強さも大事なのだろう。

ちやほや持ち上げられたいわけじゃない。これ以上、下に落ちたくないだけなんだ。たった一回天才だって持て囃されたお陰で、僕は一生そのツケを払わされる。ただ生きているだけで消費期限を突きつけられるんだよ。終わった人間相手には何を言ったって赦されるとみんな思ってる。過去に書いたものもあげつらわれて、お前は偽物だったって言われ続けるんだ」
p112

主人公の綴喜とヴァイオリン奏者の秋笠の内面は似ていて、二人とも、かつての栄光に縛られて、自分をうまく表現できないし、自分とうまく付き合えない。*1

結局、レミントン・プロジェクトを経て、最後に二人はそれぞれ、小説、ヴァイオリンの道を目指さないことを決める。新しい道に進んだ彼らが、「自分自身」を取り戻しているラストは清々しい。


なお、悩みの問題だけでなく、それに絡めたAIと芸術の話も面白い。
世界的な映画監督を父親に持つ凪寺映深(えみ)の言葉は、レミントン・プロジェクトによる小説の書き方が、芸術の本質から外れていることを見抜いている。つまり、自分の中から湧き出るものが芸術には必要とわかっていつつも、「売れる」方法という切り口では、レミントンの方法が「あり」であることを認めてしまう。

「第一、この物語には伝えたいテーマが無いじゃん」
「結末も知らないのに何でそんなことが言えるんだよ」
「真取こそ分かんないの?たとえどんな高尚なテーマがこの物語に盛り込まれていたとしても、それはレミントンがそのテーマなら共感を得られると判断したからでしょ。深い洞察も高い共感性も、レミントンが心の底から伝えたいことじゃない。レミントンには心が無いんだから。私はそれが気に食わない」
凪寺がきっぱりと言い切る。
「…でもまあ、悔しいけど、普通に売れるとは思う。そういう作り方をしてるんだから、当然」
苦々し気に、凪寺がそう締めくくる。この小説がどんな結末を迎えるにしろ、それはある程度消費者の好みを反映するものになる。それに伝えたいことがあればいい小説だ、というわけでもない。
p150

もちろん、この「AIと芸術」のテーマには特に答えを出しているわけではないが、凪寺だけでなく、参加メンバー皆が一番興味を持っている部分で作中ではそれぞれがAIとどう付き合っていくかを表明するので、基本的な部分で理解の助けになった。今後も勉強して、もう少し突っ込んで考えたいテーマだ。

ということで潮谷験『エンドロール』に引き続き、「反則的なミステリを読もう」と心に決めていただけに「まじめか!」と突っ込んでしまう結果となったが、テーマに対して真摯に取り組むタイプの作家は好きなので、別作品も読んでみたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

*1:なお、私小説形式を得意とする綴喜が、自己の経験を切り売りするように書こうとして医者から止められる流れがあるが、エッセイ漫画家が陥りやすい罠だと思う。「このままだと、人生を丸ごと小説に食い尽くされることになる」という医者の指摘がそのまま当てはまるような人もいるのではないか

何度も体験したいアトラクション~『トップガン マーヴェリック』


「前作を予習してから」とも思っていたが、それだと結局観ないことになるかもしれない。「前作を観なくても楽しめる」との友人からのアドバイスも受けて水曜日の仕事帰りに急いで観に行った。

感想は

SU・GO・I !!!

この映画の良さは何かと言えば、映画というより、それを超えたアトラクションであるということ。ストーリーも面白いが、映像体験そのものが圧倒的に魅力的。
作中でも「G」(重力加速度)の話が何度も出てくるが、映画を観ているだけで、それを追体験している気になるし、映像に合わせて呼吸を止めてしまう。
そんなシーンが最初から最後まで山盛りで、かと言って、繰り返される戦闘シーンが全く飽きないまま、クライマックスで盛り上がりがピークを迎える。それは何故かを考えると、理由は大きく二つあると思う。

(1)ミッションの行動の流れが分かりやすい

これは映画の見せ方が巧いとしか言いようがないのだが、登場人物がするべき行動の流れが理解しやすい、という当たり前のことが映画の盛り上げに一役買っている。
対照的な映画として、今年の劇場用コナン(ハロウィンの花嫁)を挙げるが、あの映画は、クライマックスでのコナンの取る行動の意図がよくわからないところに問題があった。しかも、コナン一人で短時間で済むミッションではなく、少年探偵団はじめかなりの大人数がコナンの意図を理解して協力して初めて成立する話なのだが、最後まで進んでも観ている側に対して「それで解決する」という説得力がなかった。


これに対して、『トップガンマーヴェリック』は慎重だ。
まず、ミッション全体の流れについて、最初にマーヴェリックから説明がある。流れだけでなく、2分30秒という制約条件や、敵からの攻撃に対する(高度に応じた)安全性の話。そして、戸田奈津子っぽいとも揶揄される日本語訳「棺桶ポイント」。
そして、訓練シーンでは、一連の流れについてシミュレーションが繰り返される。この中で

  • そもそも常人には2分30秒が難しい
  • ウラン濃縮施設を破壊するためには、2機連続で同じ個所に命中させる(ミラクルその1、その2)必要がある。
  • 低空飛行からの急上昇は体への負担が大きい
  • 急上昇のあとの「棺桶ポイント」が生死を分ける(この訳語は正解でしょう)

トム・クルーズからの説明および訓練の中で、観客にもこれらの難しい点が頭に叩き込まれるので、いざ実戦という際に、まさに息をのみながらミッション成功の可否に集中できる。
なお、シミュレーションで何度も繰り返しているからと言って、本番になり観客側が慣れて退屈するということは全くない。本番では、敵国の対空ミサイルや第五世代機の存在が、失敗は死に繋がることが想起され、緊張感が全く異なる。

(2)落として上げるマーヴェリック活躍の流れ

結局終わってみるとマーヴェリックの活躍が目立つ映画なのだが、いくつか「ダメなのか」→「そうくるか」という下げ→上げの流れがあった。

  • マーヴェリックは、あくまで教官として作戦に関わり、実際に極秘ミッションに向かう教え子の中から編隊長を選ぶ方針(そうか。今回の映画では、トムは教育側に徹するのか…) → マーヴェリック自身が編隊長に。(当然だよな)
  • 実際のミッションではプラント破壊に成功(あれ?これでエンディングだとマーヴェリックのスーパーマンっぷりに話が寄り過ぎでは?) → マーヴェリック機は撃墜(あれ?飛行機から下りて映画が続くの?それはそれで面白そうだけど米国には帰れないよね…) → 敵国のF-14を盗み出す(そう来たか!しかもここで2人が同じ機に乗るし最高の流れ)
  • とはいえ、盗み出したF-14で、敵の第五世代戦闘機に勝てるはずもなく…(どうすんだどうすんだ…) → ハングマンが敵機を撃墜(そもそも、ハングマンではなくルースターがなぜ選ばれたかよくわからなかったけど、チーム1の実力者が最後にいい見せ場!)

という具合に、トム・クルーズが活躍する映画なんでしょ?→え?前半しか活躍しない?→え?最終盤は飛行機を降りた映画になる?→え?やっぱり奇跡は起き続けない?…と紆余曲折があり、結局、トム・クルーズが活躍する映画ではあったけれど、チームワークと成長が上手く描けた映画だった。

不満

ということで大満足だったが、いくつか不満があった。

  • ルースターの顔を「ひげ」で認識していたので、コクピットに入り、ひげの隠れたルースターを彼と見分けられなかった。
  • F-18に一人で乗るのか二人で乗るのか、どんなつくりになっているのかという基本的な説明がなく、2人ずつセットで任命されたチーム編成も最初はスッキリわからなかった。
  • 技術的な問題があり最新鋭機を選ばないのは分かったが、F-18は40年くらい前の漫画『エリア88』の時から登場していた戦闘機なのにまだ現役という感覚がよくわからない。そもそも、お笑い界は第七世代まで行ってるのに、第五世代戦闘機が最新というのがわからない(笑)。実際には冒頭にあるように無人戦闘機が主流になるのか気になる。

このうち、戦闘機の問題は、おそらくパンフレットに書いてあるだろう、と思っていたのだが、全く載っておらず…。

映画製作の裏側

パンフレットは、PRODUCTION NOTESとして、インタビューを整理した映画製作の裏側の記事+キャストの紹介、というシンプルなものだった。が、普通の人なら映画を観る前に知っているはずの内容を、自分は初めて知り衝撃を受ける。

戦闘機の映像は、すべてCGではなくリアルなもので、俳優も全員が戦闘機に乗って撮影をしている!*1

映画を観ているときは、トム・クルーズのバイクの運転はカッコいいなという程度にしか思っておらず、戦闘機シーンは「何かうまい方法」で撮影しているんだろうという程度にしか思っていなかった。
しかし、舞台裏を知ると、トム・クルーズの指導のもとで若手俳優たちが訓練(映画では数週間だったが実際には数か月!)を受ける、という、映画の内容と全く同じことが行われていることを知る。以下の記事や動画を見ると、トム・クルーズがマーヴェリック同様に信頼されていることがわかる。

www.youtube.com

www.youtube.com
eiga.com


さらに、そもそも前作の『トップガン』自体が、シドニー・ポラックに薦められて飛行機操縦技術を即習得、即座に免許を取得していたことありきで進んだ企画で、映画製作にもこのときから関わっていたという。
今さらながらトム・クルーズというのは相当に凄い人だったのだということを知る。
なお、戦闘シーンで、一人だけ吐かなかったのがモニカ・バルバロだったというエピソードは面白かった。
theriver.jp


まとめ

実は、トム・クルーズの映画はミッション・インポッシブルシリーズも含めて、あまり見たことがありませんでした。今回『トップガン マーヴェリック』を観て、前作のときから続く、彼の映画への情熱と才能を知り、しっかり観ていかないといけないなと気持ちを新たにしました。
まずは、来年公開の最新作の前に、ミッションインポッシブルのシリーズから制覇していこうと思います。

*1:F-18自体は軍のパイロットが操縦し後部座席で俳優が自身で撮影

「相互感謝」でもあり「善意の押し付け」でもある~『31cm~ ヘアドネーションの今を伝え、未来につなぐ~』

髪をもらう人、髪をわたす人は、何を感じているのだろう。
ヘアドネーションを日本で最初に始めた非営利団体Japan Hair Donation & Charity (NPO法人JHD&C〈ジャーダック〉)初の監修本。

とあることがきっかけで、切った髪を寄付する「ヘアドネーション」に関する、この本を読んだ。
タイトルの「31㎝」は、ヘアドネーションをするために最低限必要な髪の長さ。
Amazonにも書かれている「ヘアドネーションに様々な立場で関わる16人のインタビューを、著名なイラストレーターの個性豊かなビジュアルと共にお届けします。」との説明の通り、イラストや写真が多く、カラフルで読みやすい内容で、小中学生でも読みやすい。
インタビューを受ける「様々な立場」の人は以下の通り。

  • レシピエント(ウィッグを受け取る人)
  • ドナー(髪の毛を提供する人)
  • 美容師(髪の毛をカットする人)
  • 医療者(病気の治療に関わる人)

より厳密には、ドナーやレシピエントの親も含む。


レシピエントの方からは、病気で髪が抜け始めて泣いた時期の話、無毛症で5歳からウィッグをつけているが、そのことを隠し続けたとの話など、辛い体験談も多く、改めて「髪」は、日々の生活に密接していることを改めて知らされる。
だからといって、ヘアドネーションは「いいこと」としない精神が、この本の底流に流れていて、インタビューを受けるドナーは、ほとんどの人がジャーダックが目指す「必ずしもウィッグを必要としない社会」について触れている。
結果として、この本自体が、「差別」や、「生きやすい社会」を考えさせる内容になっているのが特徴的だ。


例えば、レシピエントのお母さんのインタビュー。

子どもが病気になると、どうしても周りの人に対して猜疑的になってしまいます。この人は何を求めているのか、何かやってあげましたという感じで接してきているのか、その人がどのような心持ちで接してくるのか、とても敏感になるのです。娘も、誰にも何もして欲しくないという感じでした。
「お気の毒」という人は、共感はしてくれていますが、形として共感してくれているだけの人が多いのです。そんな気はなかったとしても、差別的な、どこかで「してやった感」を感じさせる人がいるのです。p63


また、ドナーの立場の柴咲コウのインタビューでは、小学校時代に「場面緘黙」の同級生がいたが、その障がいのことを当時は知らなかったことが理由で、国語の朗読の時間に、根比べのように長い沈黙が続いたという話がある。「様々な人が自分らしく生きられる社会」を目指すには、まず「知ること」が大事ということも、この本に一貫している内容だ。
ドナーの中には、動くことも話すことも困難な重度の障がいを抱えている人もいるが、その両親のインタビューでも「知らせること」の重要性が説かれている。(両親は二人とも高校教師なので、教育的視点に目の行きやすい人なのだと思う)

知らせることは大切だと思います。
我が家では、芳と一緒に写った家族写真を年賀状で送ります。重度の障がい者が、普通にかけがえのない家族として存在している姿を年賀状でお伝えすることで、見慣れていってくれたらと思っているからです。
そして、芳と一緒によく外出もします。社会が重度の障がい者に見慣れていき、少しでも優しい気持ち、普通と変わらない接し方をしてくれたらと思っています。p96


少し面白い視点として、美容師のインタビューの中で、ドナーの人には、「何となく美容院に行かないうちに伸びてしまった人」がいて、そういう人は「過去に美容室で嫌な思いを経験し」「自分の髪にコンプレックスを持ち、美容室が嫌いに」なっているという話があった。
だから、そのコンプレックスを無くし、髪質や骨格を否定せず、すべて肯定した形で仕上げることで「自分の髪を好きになってもらうこと」を大切にしているのだという。

自分の髪を好きになることができれば、それは自分を受け入れ自分をもっと好きになるということ。自分を受け入れられるほど他人のことも受け入れられるので、みんながそうなれば今よりもう少し優しい世界になるのではないかと思っています。p164


そんな中、ジャーダックの人を除けば最後のインタビューとなる医療従事者の野澤桂子さん(国立がん研究センター中央病院亜プアランス支援センター長)のインタビューの出だしが手厳しくて、軽くショックを受ける。

人毛100%のウィッグを提供するジャーダックの活動は「人毛神話(人毛ウィッグが最も品質が良く、自然に見える)」という誤ったイメージを広めることにつながるので、医療者としては困っていました。
技術革新が進んだ現在では(略)人毛ウィッグは選択肢のひとつに過ぎないのです。
今、ジャーダックの活動については子どもたちを支援しているという気持ち、美しい話ばかりが広がっています。
(略:提供されるウィッグの数は圧倒的に少なく、申請から届くまでに1~2年かかり治療期間に間に合わない)
つまり、実数的にはジャーダックの活動はそれほど役に立っていないのです。だからジャーダックの活動はファンタジー、現実と乖離した美しい夢の世界に皆を引き寄せるファンタジーなのです。p192

このあと、「だからといって意味がないとは思いません」とジャーダックの活動へのフォローが入るのだが、口調も辛辣で、本当に手厳しい。
野澤さんは、ウィッグではなく「がん患者」に向けられる視線についても取りあげる。

がんの患者さんは、純粋に髪の毛のことで悩んでいるというより、どちらかというと、髪がないことからがんだと気づかれてしまい、先がない人、かわいそうな人、と思われてしまって、これまで通りの対等な人間関係でいられなくなってしまうのではないか、ということで悩んでいます。p194

最近の研究で、大人の場合は自分のがんや外見に対する考え方が、その症状と大きさ以上にその人の行動に影響を与えるということがわかってきました。
一般の人を対象にがんのイメージという統計をとると、かわいそうな人、というイメージが強いのです。大人の患者さんで、かわいそうな人と思われたくないという思いが強い人は、それまでがんの人に対して、かわいそうな人と見ていた人、偏見を持っていた人が多いのです。だから自分ががんになった時、絶対に隠さないといけないと思いがちです。
つまり、それは人の目ではなく、自分の目なのです。結局、人間の行動は自分の考えによって規定されるのです。


しかし子どもの場合、親の接し方がとても大きな影響を与えることがわかってきました。
(略)だから、とても心配なのはわかりますが、親御さんがお子さん以上に率先してウィッグを探すのだけはやめましょう、と伝えているのです。そうすれば、がんの子も、脱毛症の子も、こだわりがもう少し軽くなるのではないかと思うのです。p198-199

特に、「かわいそうな人」問題は、『エンド・オブ・ライフ』でも提示された課題で、自分は、病気の人にどういう視線を向けているか、自分が病気になったときにどう思うかということを繰り返し考えている。
このように、『31㎝』は、ヘアドネーションを通して、様々な人の立場と思いを知り、それによって誰もが少しずつでも生きやすくなる社会を模索していこうとする、ジャーダックの意図する通りの本になっていると感じた。

「いいこと」がもたらす社会の歪み

今回、本を読もうと思ったきっかけは、ネットに掲載されていたジャーダック代表理事渡辺貴一さんのインタビュー記事がとても良かったから。
『31㎝』でも、ヘアドネーションという活動への迷いや、社会への問題提起の思いは強く感じたが、インタビュー記事は、さらに切り込んでおり、胸に刺さるような言葉が多い。


まずはインタビューの前編。
laundrybox.jp

ここは、髪の毛がある人がほとんどの社会なんです。

(略)

そのような社会において、髪の毛がないということは圧倒的なマイノリティーです。これは髪の毛に限ったことではないですが、それが今の社会です。

(略)
髪の毛がないというマイノリティーの人たちのために髪の毛を集め、ウィッグを作る。運営側はそんな風に思っていないですが、「普通に買ったら50万円ほどする人毛ウィッグをタダでどうぞ、さあ被った方がいいですよ」という構図に結果的にはなっている。

圧倒的マジョリティーがマイノリティーに対して、ウィッグが必要だという無意識の押し付けになっているんじゃないのかと。

一生懸命髪の毛を伸ばして、「私はヘアドネーションをしました、いいことをした」は本質的な解決ではない

私たちは、彼らがウィッグが欲しいから買っていると思っていますが、そうでしょうか?ウィッグを買う、そのコストって一体何への対価なのか。

社会の大多数に髪の毛が生えているから、マジョリティー側の人たちに、マイノリティの人が自分を寄せていかなければならない。この社会は非常に歪んでいますよね。

ヘアドネーションすらできない人に対して、その行為自体が、無意識に彼らに「髪の毛があることは素晴らしい」というマウンティングのジャブを打ち続けている。


インタビューの後編。
laundrybox.jp

みんなこの活動を広めたいと言うんですが、広めた結果のことまで考えが至っていない。

企業はCSRの文脈で、私たちはこの活動に力を入れていますと周知するだけであったり、それによって拡がった当事者のニーズを誰が継続的に支援し続けるのかまで考えているのでしょうか。

実際、今は髪の毛が集まっても対応しきれずヘアドネーション団体が撤退しはじめています。その結果、私たちのところに送られてくる数が増えています。

世の中の差別がなくなれば必要なくなる活動で、ないに越したことがないはずなのに、この活動をずっと続けられるように僕らは算段をしないといけなくなっている

目的と手段が入れ替わってしまうのは本末転倒ですよね。

私たちが望んでいるのは、こんな活動が1日も早くなくなる社会です。発展的な解散が私たちの目標です。

今はやりがいも見出せていませんし、別にいいことしているだなんて最初から全く思っていません。正直続けていくことは、ただただしんどいです。

でも、もしジャーダックが必要ない社会がきたら、初めて僕らには存在価値があった、僕たちの行動が社会になにかしら寄与したと言えると思っています。

差別はなくならないと思っています。ただ、この違和感には気付いたほうがいいと思っているので僕は伝えています。

もちろん、善意のマウンティングは無意識ですので、このような話をされると不快になる方もいると思います。勉強すれば解決するということでもありません

だからこそ、自分自身は常にマウンティングをする危険があり、自分は正しいのか、誰かを傷つけていないのかを常に考える必要があるんじゃないでしょうか。そして、きっとそれが常識のようになっていくんだと思います。

(略)

われわれ自身にもその刷り込みがある。僕は50歳を超えていますが、未だにはっと気付くことは多いです。

私たちには、わからないことが多くある。それを知ろうとするかどうかだと思っています。 

ちょうど今年のアカデミー賞では、ウィル・スミスの平手打ち事件が話題になった。
元々は、クリス・ロックがウィル・スミスの妻の髪型に関する冗談を口にしたことから生じた騒動だったが、そのときは「脱毛症」という言葉にあまり馴染みがなかったというのも事実だ。
そして、色々な差別的表現がNGになってきている日本のお笑いの中でも、「ハゲ」「ヅラ」ネタは、まだテレビで見かけることも多いように思う。そして自分も、そこに大きな怒りを感じたりせず、一緒になって笑っていたフシもある。


エンタメ作品であれば、世間的に良いか悪いかのルールを決める(規制する)のではなく、観る側の評価の総体を受けて、作品が作られる、作り直されるのであろう。
一方で、自分がどう思うか、多数派がどう思うかにかかわらず、それを見聞きして確実に不快に感じさせたり、きまずい思いにさせる表現もあり、そうしたものに敏感になることが必要だ。
目の前の人を傷つけないのは当たり前として、たとえ周囲に当事者がいなくても(見えなくても)、「知ること」が大切。さらに、知ってもなお、差別をしてしまうことを自覚する。


よく、「いいこと」に対して「偽善」という批判があり、それに対して「しない善よりする偽善」というカウンターがあり、というような流れがあるが、そもそも、おおもとの「いいこと」とは何か、という立ち位置に何度も立ち返る必要がある。
インタビュー記事で「善意のマウンティング」とされているのは、「困っている人を助けてあげる」ことに目を向けても、そもそも「困る必要があることなのか」というところに目が向いていない場合に起きている。世の中には「困る必要がないことで困っている」というパターンも多いことを学んでいく必要がある。


ぶり返すようだが、一方で、ドナー側がこの活動で救われているという話も本の中には何度も出てきている。
膵臓腎臓の臓器移植を受けたレシピエントの方が、自らがヘアドネーションをする中で、ドネーションを通じた相互感謝の気持ちを表しているし、レシピエントの母親の立場からではあるが、こんな言葉もあった。

ヘアドネーションは、髪を贈る人も嬉しいし、その髪を受け取る人も嬉しい。贈る人も主役だし、受け取る人も主役。そんな世の中は、捨てたものじゃないと思います。

日常の活動に制限があったり、また、時間が取れない中でも気軽にできる社会貢献活動があれば、それは自己肯定感ややる気に繋がる。
それが生きる支えになることもある。
ヘアドネーションは「相互感謝」が成立しているという一面も確かにありつつ、「善意の押し付け」になってしまうことへの警戒感を団体代表者が持っているのは素晴らしいと思った。そして、同じ問題を個々人も考えていく必要があり、そのためにやはり「知ること」「勉強すること」から始めていかなくてはいけないと感じた。

なかなか難しいテーマだと改めて思う。