Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「見る」「見られる」の非対称性を考える~『その〈男らしさ〉はどこからきたの?』×『ユニヴァースのこども』

小林美香『その<男らしさ>はどこからきたの』は、アトロクで取り上げられたのをきっかけに手に取った一冊。

中井敦子・森岡素直『ユニヴァースのこども』は、シリーズ「あいだで考える」の一冊でひうち棚さんのイラストも楽しい本。

広い意味では、どちらもジェンダーを扱った内容と言えるが、その中でも、「見る」「見られる」について触れられている部分が共通しており、自分としても考えるべき問題だと感じたので、まとめて感想を書いておく。

アンチフェミ的価値観への教育現場での対策

『その〈男らしさ〉…』は、「CM・ポスターに刷り込まれた“理想の男性”の虚像を暴く!」という、とっつきやすい内容がメインで、どこを読んでも面白いのだが、その主旨からは少し外れる「第6章 その〈男らしさ〉はどこへいくの? ―これからの教育と医療と男性性」(3名への対談で構成)が興味深かった。
特に、男子校でのジェンダー平等教育を教えている田中めぐみさんの語りの部分。
太田啓子『これからの男の子たちへ 「男らしさ」から自由になるためのレッスン』を念頭に授業を作ろうとした田中さんだが、「ゆるアンチフェミ」の生徒に悩まされ、そこが一つの課題のようだ。
何人かにアドバイスを求める中で、西井開さん(『「非モテ」からはじめる男性学』)から得たヒントが面白い。

西井さんは、研修やワークショップ、当事者会のような「場」において、①男性が自分の傷つきを見つめてその気持ちを言語化していくことと、②不平等な権力構造の維持に加担しないことの2つは別々に取り組んだ方がいいとレイウィン・コンネルの『マスキュリニティーズ男性性の社会科学』を引いて紹介してくださいました。
p236

このうち、①については、男性同士の「おしゃべり」を増やす必要がある、と繰り返し書かれているが、確かにその通りかもしれない。
性教育史を研究する堀川修平さんの話の中でも、以下のように書かれていて、①②はセットで(しかし切り分けて)学ぶ必要がある、ということがよくわかる。自分にも「上から目線」で「他人事」として捉えていた時期があったと感じる。

というのも、男性の受講生の中には、「ジェンダーって最近聞くようになったから」とか、女性の生きづらさの問題を他人事として知っておこう、という上から目線で来る人も多いんです。そこで、自分ごととして捉えてもらうためにも、「男性の生きづらさ」は必ず扱うようにしています。たとえば、過労死のジェンダー差について考えたりします。すると、ジェンダーは男性の生きづらさに関わる問題でもあることに気づくのです。
p248

合わせて、以下のような内容も、日々のネットでのディスコミュニケーション(また、チームみらいが、先の衆院選で重視した「批判を避ける」という選挙戦略)を見ていると、年齢性別問わず、日本人は、まだまだ学んでいく部分があるのではないかと感じる。

ディスカッションの中で、コミュニケーションとして批判をしたり、大切にしたいことを伝えられるようになることが、日常生活での性の受け止め方につながっていくと思います。性教育は他者とのコミュニケーションと切り離せないことであり、人と関わる上で相手の人権を侵害しないように学んでおかなければならないことなんだと思います。
p249

バカとエロの大縄跳び

上に挙げたような男性性の問題についての表現として紹介された「バカとエロの大縄跳び」という言葉には、衝撃を憶えた。あまりに理解でき過ぎる表現!
この言葉は、作家の白岩玄さんが、男性学研究者の田中俊之さんとの対談の中で述べた言葉だという。

僕の場合、自分が男性として育つ中で経験した「バカとエロの大縄跳び」が本当に嫌だったという実体験があるんです。男子はみんなでバカなことをするとか、エロを受け入れるという強制参加の大縄跳びのようなものがあって、とにかくそこに入らないことには男の子として認められないという空気がありました。

僕は嫌だったけれど入らざるを得ないから、もう飛んだふりするみたいな感じでやってきたのですが、本当につらかった。息子がもしそういうことを好まなかった場合、自分と同じようにその中で生きていくしかないとしたらつらいと思うのですが、親にできることは限られていますよね。
男性が「本音や弱音を吐きづらい」社会の問題点 白岩玄×田中俊之が語る「男性の生きづらさ」 | 生きづらい男たちへ捧ぐ 田中俊之の男性学 | 東洋経済オンライン

「第3章 自己鍛錬としてのメンズ美容」の締めの文章では、男性向け美容の広告は、これまで「バカとエロ」+「能力主義」が中心だったが、徐々に変わりつつある、という説明がなされる。
自分自身のケア実践を通して、他者への理解や想像力を広げ、共感を深めていくことの中にこそケアの本質があり、その方向に進んでほしいと望むまとめの文章は、以前読んだ『父と子のスキンケア』の強引なまとめとも通じる内容だった。

「一方的に見ること」を享受できる男性優位社会

この本が取り上げる具体的な事例をもとにした広告の読み解きはどれも面白いが、そもそも、この本の良さは、その制作意図に起因し、そこに一番共感できると感じる。


「はじめに」で「男らしさ」表現に注目する意図として、2つを挙げている。
1つ目は「男らしさ」表現を意識して読み解くことにより「デキる男」のイメージがフィクションに過ぎないことを明らかにしていくということ。
そして2つ目は、ジェンダーと表現の問題が広告の「炎上」で話題になるとき、多くの場合は女性に対する性差別的な表現が焦点化され、男性の表現がジェンダーの観点から問題になることがほとんどないから、ということ。

実際のところ、メディアや広告について「女性に対する性差別的な表現をなくすべきだ」という声は明快な意見として挙げられます。しかし、男性の広告表現には、男性に課せられる期待や役割、抑圧的なメッセージが内在しているのにもかかわらず、そのことが意識化されることはめったにありません。それこそが、ジェンダー表現の問題を、もっぱら女性に対する性差別の問題として捉えてしまう要因であり、男性からはあたかも他人事のような距離感で扱われてしまう要因でもあります。
女性を性的容体として捉える「男性の眼差し(male gaze)」が社会に浸透しているために、男性は自らが「眼差しを向ける側」であると認識します。「眼差しを向ける側」とは、あたかも透明な存在であるかのように、姿を見られることなく「一方的に見ること」を享受できる側のことです。男性が自らの視線をそのような位置に重ねあわせることに慣れてしまうと、「眼差しを向けられる側」になることで経験する傷つきや痛みを言い表すことが困難になるのかもしれません。
p21

この部分の、男性が「一方的に見ること」を享受できる側にある、という指摘は、(女性側からすれば、言わずもがななのかもしれないが)確かにそうかも知れない、という発見があった。

「第5章 選挙ポスターに見るジェンダー表現」の中で繰り返し扱われるTBS「news23」でのトラウデン直美の「おじさんの詰め合わせ」発言は、まさに「見る」立場から(慣れない)「見られる」立場に替わったときの男性側の逆上の良い例だ。この事例について言えば、確かに「炎上」したが、実際には「炎上」ではなく「逆上」と言えるだろう。

見られる側のプレッシャーと、一面的な見られ方


同時期に読んでいた『ユニヴァースのこども』でも、この「見る」「見られる」問題が繰り返し取り上げられる。本の概要は以下の通り。

敦子さんと素直さんは、互いを大切なパートナーとして、敦子さんが出産した満生ちゃんと3人で暮らしている。素直さんの性は女性/男性のどちらにもとどまらず、3人の関係は〈母親/父親/こども〉の枠に収まらない。性のあり方、関係性のあり方を枠にはめず、名前をつけず、ゆらぎ変化していく全体として日々の生を生きようとしてきた2人が、出会いの頃から満生ちゃんの誕生、現在の暮らしまでの出来事と思いを語った「声のおたより」の記録。
Amazonあらすじ)

この中で、いわゆるトランスジェンダーに対する、自分の持っていたイメージが、(たとえ「偏見」ではなかったとしても)当事者にプレッシャーを与えているということがよくわかった。

森岡素直(もっちゃん)は、子どもの頃にあまり性別違和がなかったが、世間のイメージに自分を合わせて、(子どもの頃からスカートが嫌いだった等の)嘘を語っていたのだという。

メディアの報道をもとにつくられていく、性同一性障害に関する固定観念やイメージが当時のぼくにはすごく大きくのしかかっていました。それは、単に「偽物」と思われるだけではすまないんです。偽物と思われることで、自分が望む性のあり方で生きることが否定されてしまう。それは裏を返せば、世間の固定観念にはまることで初めて「本物の性同一性障害」とか「本物のFTM (=Female To Maleの略。出生時は女性を割り当てられ、性自認は男性である人。現在は多く「トランス男性」と呼ばれる)」として認められる、自分が選んだ性のあり方が正当化されるという現実があると思います。


p119

このあとの部分では、これを「自身のチューニングを世間に合わせる」のではなく、社会の、ひとりひとりのチューニングが変わる可能性が、希望として語られている。

しかし、これは、あくまで「どう見られるか」が中心にある。


別の部分では、アレクサンダー・テクニークという技法の話と合わせて、「どう見るか」の話が出てくる。

私がアレクサンダー・テクニークでいちばん学んだことは、「人から見られる」という矢印じゃなくて、「自分が世界を見る」という矢印が自分の中心にあるという、その感じ。「女性として見られる」っていう視線のプレッシャーがあって、それは当時の私にとってはものすごいプレッシャーだったんだけれども、「自分が世界を見ている」っていう質感をふくらませていく、充実させていく中で、そのプレッシャーがだんだん小さくなっていった。それは行きつ戻りつで、時々「見られてる」プレッシャーがわっと大きくなって、ちょっとやめとこう、猫背にして胸を隠して歩こうとかね、そうなってしまうんやけど、「自分が世界を見てるんだ」っていう質感をまたとり戻していく。そういう変化が、少しずつやけど、確実にあったのです。
p39

これに対して、パートナーの中井敦子(あっちゃん)が、さらに次のステージとして「自分のdesireを認める」ということについて触れる。

そういう変化が重なっていったからこそ、次のステージがあったんやなって思う。いま振り返ればやけどね。それは、自分の欲求とか欲望とかビジョンとかがあることを認めて、それを自分が決定していいっていうこと。つまり「自分のdesireを認める」ということ。(略)
「クローゼットから出ていく」っていうメタファーがあるやん。自分のセクシュアリティを隠している状態から出て、カミングアウトすることのたとえで。で、私にも自分の欲求が本当はあったんやと思う。でも、それはクローゼットに入れてた。
きっと。

p41

自分のdesireを認めたからこそ、第三者からの精子提供という方法で子どもを持つ、という選択に踏み切れたのだという。


こうした、多数派が作り上げた固定観念による抑圧の問題は、まったく別の場面でも取り上げられる。
二人の子どもの満生(まを)ちゃんは、2歳から保育園に通い始めたが、3歳になった次の春から行きたがらなくなり、発達検査を受ける。そこで「この子は手先が不器用で、それが理由で不安を感じている」という説明を受ける。
これへの反応に、自分はまた驚かされた。

でも私は、ともかくまず「満生ちゃんは不器用」っていうひとことが衝撃的で、自分の中にすごく残ってしまったんや。
それはなぜかというと、満生のこと、私は不器用か器用かという観点で見てこなかった。そういう言葉で満生のことを見ていたわけではないの。
(略)
はさみで細かく細かく切ったりとか、集中した時には非常に細かい作業もできる。それは、むしろ「器用」ともいえるんじゃないかと思うんだけど、そもそも私はそういう言葉では超えてなくて、繊細な指先、「感じている指先」っていうのかな。物をとり扱う時とか、ネコのトーベにさわる時のさわり方とかも、だんだん力の加減がわかってきて、指先の表情がすごく細やかになってきたし、探究する指先やなっていうふうに感じてた。
(略)そういう、美しい手やなって思って眺めてたものに対して、たとえば食事の途中でスプーンを放り出した時とかに「あ、不器用やからなんかな」って思うような観点が初めて出てきてしまった。で、そういうまなざしで見ている自分も嫌やったし。......そう、嫌だったんですね。そうそう。

p134-136

確かにそうかもしれない。何となく一般的な見方(ここでは器用/不器用)だと思っていたことが、実は、多くの面を切り落とした一面的な見方であることは確かにその通りだ。そして、その「眼差し」だけになることで、どんどん能力主義的な見方に毒されて行ってしまう。

確かに、「不器用かどうか」という部分は、個人の特質の切り取りという点では、『その〈男らしさ〉』4章で取り上げられる、メンズコーチ・ジョージ発のネットミーム(スポーツ経験がない男は)「厳しいって」「危機感持った方がいい」という視点と変わらない。

これは、勅使河原真衣さんの本でも読んだ内容で、自分自身、拭っても拭っても拭いきれない思い込みがあるので、気をつけたいと感じる部分だ。



2冊を読んでみて、見る・見られる(眼差し)が、個人の気持ちにも、社会の傾向にも大きな影響を与えていることがよくわかった。

『ユニヴァースのこども』では、当事者みずからが変えなくても、ひとりひとりの(当事者に向ける)チューニングが変わる可能性もある、ということが希望として語られる。が、そのためには、ひとりひとりが、他人事にせずに自らの問題に向き合う必要がある。

遠回りだが、そういう風に、学んでいくことはそれだけで楽しい。

と思いながら謙虚に勉強を続けていくしかない。



『その<男らしさ>はどこからきたの?』の参考図書

参考にしたい本が多数あったのでまとめておく。

  • p115 Netflixドキュメンタリー映画『ホワイト・ホット:アバクロンビー&フィッチの盛衰』(第2章 スーツとパンツ)
  • p155伊藤聡『電車の窓に映った自分が死んだ父に見えた日、スキンケアはじめました。』(第3章 自己鍛錬としてのメンズ美容)

上でも取り上げた「第6章 その<男らしさ>はどこへいくの?」では、取り上げられた3名の研究者の著書含め、気になる本が多かった。

  • p223 田中めぐみ『学校の「男性性」を問う 教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践』
  • p224 太田啓子『これからの男の子たちへ 「男らしさ」から自由になるためのレッスン』
  • p227 西井開『「非モテ」からはじめる男性学
  • p228 ダイアン・J・グッドマン『真のダイバーシティをめざして 特権に無自覚なマジョリティのための社会的構成教育』
  • p237 ヨシタケシンスケ『ヨイヨワネ』
  • p239 堀川修平『「日本に性教育はなかった」と言う前に ブームとバッシングのあいだで考える』


なお、本には直接触れられていないが、「バカとエロの大縄跳び」の白岩玄さんの小説も読んでおきたい。


『ユニヴァースのこども』の参考図書

こちらは巻末にガイドがあり、読む本を広げやすい。

直木賞と湊かなえとデタラメなGemini~村山由佳『PRIZE』

「どうしても、直木賞が欲しい」  
賞(prize)という栄誉を獰猛に追い求める作家・天羽カインの破壊的な情熱が迸る衝撃作!

2025年の話題作で、本屋大賞にもノミネート。
面白くないわけがなく、あっという間に読み終えた。
面白がれる要素としては3つあって、1つ目は直木賞に関わる編集者の苦労、2つ目は実在作家のアレコレ。そして3つ目は展開の妙。
それぞれ簡単にまとめたい。

直木賞に関わる編集者の苦労

直木賞選考過程についての詳細が解説されているわけではないが、これまでに聞いたことのある蘊蓄も含めて面白く読んだ。
ただ、部外者には楽しい「賞」レースも、当事者になってしまうと大変だ。
受賞連絡を待つ「待ち会」についても、手に汗握る状況が伝わってくるようだが、(受賞を逃したあとの)出版関係者たちが被る地獄絵図は辛すぎる。
特に、本作の「もう一人」の編集者である文藝春秋石田三成(さんせい、と読む)の受けるプレッシャーは相当のものだ。
まず、直木賞選考会の司会は「オール読物」*1編集長が務めるということで、候補作へのねじ込みを天羽カイン本人から示唆される(p53)。
そこで厳密な選考過程の説明が挟まるが、辛いのは、実際には司会進行が受賞作決定に多少なりとも影響する、と本人が認めてしまっている部分(p221)。
そこに来て、直木賞受賞作をコントロールするような脅迫文書。確かに、これが表沙汰になれば、何が選ばれても炎上必至だ。

さらに、天羽カインからは、知人の映画監督によるセクハラについての週刊文春のスクープ(いわゆる文春砲)もみ消しをしつこく依頼されるなど、大作家に信頼されるのは嬉しいだろうが、そこまでは献身的になれない…

ということで、石田三成は、「脅迫文書」の件がこたえて、物語からは、一旦途中退場してしまうのだが、これがリアルな編集者像であれば本当に辛い。ただ、お金も出すが金も出す、癖が強い顧客はどこにもいると言えばいるので、運なのか…。

なお、序盤に登場する天羽カインの衝撃的なエピソードである「文広堂」からの完成原稿引き上げの展開も、作家との信頼関係を築くことができなかった担当編集の問題だった。このあたりの「校閲」の話は、誤字脱字だけでなく、想像以上に内容に踏み込んだ指摘をする、ということが分かり興味深かった。校閲に関しては小説なども出ているからもう少し知りたい。

実在の作家あれこれ

作家の実名含めて詳細に書かれる実際のエピソードは、太宰治芥川賞への熱望と、太宰に「刺す」と言わせしめた川端康成の太宰作品への選評の話くらい。
それ以外は、実在の作家によく似た名前(馳川周、南方権三など)の作家のエピソードが出てくるのだが、どこまで実話なのかは不明。どこかで作中人物を整理したところはないだろうか…。

また、名前を出さない実際のエピソードとして、千紘が天羽カインに対して、「賞ってそんなに、どうしても欲しいものですか?」と聞くくだりで、以下の話が出てくる。

「小説作品そのものの値打ちとそれとは全然別物だと思うんですよね。色々あって、直木賞にはもう二度とノミネートしてくれるなと絶縁宣言をして、でもその後もずっと素晴らしい作品を書き続けている作家さんもいらっしゃいます」
p191

これ誰だっけ?と思って調べると興味深い記事が出てきた。

hochi.news

スポーツ報知の「4度目の“落選”湊かなえさんはなぜ直木賞を取れないのか…人気イコール受賞とならない理由」  という記事で、ここで、天羽カインに当たるのは、湊かなえだ。
「待ち会」のエピソードや、(馳川周の名で複数回登場する)馳星周が取り上げられているところも含めて、全体的に『PRIZE』の内容とマッチする部分が多く、時期を考えても、制作のヒントになっている可能性もある。


さて、この記事によれば、直木賞と絶縁宣言をした作家は伊坂幸太郎と、横山秀夫のようだ。横山秀夫半落ち』の件は、特に興味深かった。ただ、詳しく調べるとネタバレを踏みそうなので、読了してから調べることにしよう。


展開の妙

ちょうど先日観た映画『禍々女』も同様の感想だったのだが、急に世界がひっくり返る「どんでん返し」ではなく、徐々に世界がずれていく様が面白く描かれている小説だと思った。
もちろん、前半部で、ついていけないほど尖っているのは天羽カインその人で、担当編集が語り手になる章も挟まるものの、結局は天羽カインの物語なのだろうと思いながら読み進める。
ところが、南十字書房の緒沢千紘がおかしくなり出す。
天羽カインよりも千紘の「承認欲求」が前面に出てくるのだ。
さりとて、後半に入ると、千紘と天羽カインの2人で最後に手を入れた『テセウスは歌う』が直木賞を取る小説なのだろう、と思って読み進めているので、

  • 残りページ数が少なくなってきたが、これはどういう風に終わらせるんだ?
  • 直木賞を受賞する)ラストは分かり切っているが、それだけなのか?
  • もしかして、受賞したかどうか言わないパターンなのか?

と、ラスト近くは上手く落とせるのか不安になってくる。
しかし、人気動画チャンネルでの『テセウスは歌う』解説動画を観たときの天羽カインの衝撃から、その後の直木賞辞退からラストまでの展開までは怒涛。
「たった一行」の問題について、2人がどのくらい気にしていたかを読者が十分に理解しているからこそ成立する展開で、ここまでの種まきが実ったかたち。伏線回収という言葉はあまり好きではないが、徐々に承認欲求の病に侵されていく千紘の心理描写も良い伏線になっており、よくできたミステリのようだった。

デタラメなGemini

なお、有名な小説なので、生成AIも内容を知っているだろうと思い、直木賞辞退のエピソードのあと、『テセウスは歌う』が最後に受賞した文学賞について(作中では具体的に何なのか伏せられているので)質問してみたところ…

村山由佳さんの小説『PRIZE』において、主人公の天羽カインが物語の最後(終盤)に受賞した賞は、**「芥川龍之介賞芥川賞)」**です。
この作品は、カインが直木賞候補に選ばれながらも落選し、そこから文学界の波に揉まれながら再生していく姿を描いています。物語のクライマックスで、彼はそれまでの自伝的な作風とは異なる作品で、ついに芥川賞を射止めることになります

なわけあるか!
(しかも、カインを「彼」呼ばわりしていたり、「それまでの自伝的な作風」というのも誤認。堂々と言われてしまうと本当な気がしてくるのが怖い…)


そのあと、不見識を詰めて発言を撤回させ、再度聞くと天羽カインが最後に受賞したのは「谷崎潤一郎賞」なのだと、また断言。


あくまで断定的に発言するGeminiは避け、今度はChatGPTに変えて「候補に挙がっていることが事前には知らされない」「歴史ある文学賞」について確認したところ、以下のように教えてもらった。(すみません。裏取りはしていません)


ただ、作者の村山由佳さんの読売新聞記事を読むと以下のようにあるので、Geminiが断言した谷崎潤一郎賞ではなく、吉川英治文学賞が意識されているのかもしれない。

自身は1993年に小説すばる新人賞を受け、2003年に文芸春秋から出した『星々の舟』で、初めての候補で直木賞に輝いた。09年には『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞など三つの文学賞を受けた。はた目には賞に恵まれた作家人生に映るが、「(『風よ あらしよ』での)吉川英治文学賞まで12年あいたので、受賞の電話を受けたときにはボロ泣きしてしまった」とも。
「私自身一番恥ずかしい」 村山由佳さん「PRIZE―プライズ―」 : 読売新聞


というように、前回に引き続き、生成AIとの付き合い方について考えさせるやり取りも含め、楽しい読書体験でした。

実は、村山由佳は初読だったのですが、これを読んでしまうと、村山由佳直木賞受賞作、吉川英治文学賞受賞作を読んでみたくなりますね。

参考(過去日記)

前回、「博識」なGeminiの言うことを、疑わずに聞いてしまったのが、こちらの記事になります。
pocari.hatenablog.com


*1:『PRIZE』は「オール読物」の連載小説だったというところは驚き

ゴジラと被団協と優秀なGemini~ジェイムズ・モロウ『ヒロシマめざしてのそのそと』


あからさまにゴジラっぽいキャラクターが出ている表紙が気になるSF小説
あらすじは、牧眞司さんの「本の雑誌」での紹介が読みやすい。

太平洋戦争末期、誰の目にもすでに日本の敗戦は確実だったが、無条件降伏に追いこもうとアメリカはだめ押しの手段を探していた。ひとつは陸軍による原子爆弾開発、マンハッタン・プロジェクトだ。

そして、もうひとつ、海軍が進めている究極の生物兵器の開発、ニッカーボッカー・プロジェクトがあった。すでに品種改良によって、全長四〇〇メートルで火を吐く、狂暴なトカゲができあがっており、ベヒモスと名づけられていた。この怪獣は、いったん解き放ってしまえば制御不能。あまりに危険だ。

そこで、海軍は日本から外交団を招聘し、その前でデモンストレーションをおこなってベヒモスの脅威を印象づけ、実戦投入なしに相手の戦意を挫こうと考えた。段取りはこうだ。まず、ベヒモスの成獣三頭の威容を見せつける。そのうえで、ベヒモスの幼体を用い、日本の都市に見立てたミニチュア・セットの破壊を披露する。

ところが幼体は性質がおとなしく、思ったような演出ができないとわかった。切羽詰まった海軍は、実物そっくりの着ぐるみをつくり、スーツアクターに操作させる作戦をひねり出す。白羽の矢が立ったのは、ハリウッド映画でいくつものモンスター役をこなしているシムズ・ソーリーだった。彼がこの作品の主人公にして語り手である。
【今週はこれを読め! SF編】戦争にとどめをさすはずの巨大モンスター〜ジェイムズ・モロウ『ヒロシマめざしてのそのそと』 - 牧眞司|WEB本の雑誌


確かに設定は面白そうで、実際、最後まで読み進めた自分も、そこに引っ張られた。
ところが、この本は1984年時点でのシムズ・ソーリーの回想録として書かれていて、その中に虚実入り混じったB級ホラー映画の蘊蓄が満載で固有名詞が過多。
1945年と1984年を行ったり来たりする読みにくさはなかったが、本筋と関係ない内容が多過ぎて読み進めるのは辛かった。
それでも、上の引用記事にも書かれている通り、ソーリーは回想録を書き終えたら部屋のバルコニーから身を投げて自殺するつもりで、その結果が最後に待っている構成となっていて、そこも気になる。
というように、ニッカーボッカー・プロジェクトの成否とソーリーの最期が気になることが、読了できた一番の理由だが、全体を振り返れば、面白い本だった。(ただ、やっぱり無駄話が多過ぎる翻訳調の文体は辛い...)

プロジェクトの成否とテーマ

この作品の読み方、テーマについては、訳者あとがきがわかりやすい。
この中では、書籍化の企画が動き出してから数か月後に、日本被団協ノーベル平和賞を受賞したというニュースが飛び込んできたぐうぜんについてまず触れられる。それと重ねて、核の脅威と被爆者について取り上げ、特攻隊にも志願した(訳者・内田昌之さん自身の)父親にも触れながら、このように締めている。

たとえ戦場に出なくても、じかに空襲を体験しなくても、戦争は人の心に深い傷を残します。その暗い影はどこまでもつきまとい、消えることはありません。ヒバクシャをもう生まないというのは、広島と長崎を最後の被爆地にすることではないのでしょう。ウクライナやガザは言うまでもなく、世界中でいまも日々生み出されている、あらゆる戦争被害者をなくすことなのです。そのためにたゆまぬ努力を続けている、日本被団協の活動に敬意を表します。

つまり、ソーリーは与えられた任務をやり遂げ、日本外交団に恐怖を植え付けたが、プロジェクト自体は失敗し、日本は降伏せず、結局、ヒロシマナガサキで、多くのヒバクシャを生むことになった。
そこをソーリーは悔いているのだ。過去作品についての話題を求められているSF映画のさまざまな大会で、ひたすら原爆の恐ろしさについて語り継ごうとするが、それでも癒えない心の傷が、彼を自殺に追い込む。
核廃絶の意志は、若きクリエーターに継承される、という点でラストは明るい部分もあるが、あれだけ馬鹿馬鹿しく過去を振り返ったソーリーが最後に自殺(失敗するが)してしまうラストは、まさに「たとえ戦場に出なくても戦争は人の心に深い傷を残す」ということを指すのだろう。
ましてや核兵器
そう考えれば、(本の雑誌記事では、書評記事では使いたくない表現としているが)「いまこそ読むべき作品」なのだろう。

Geminiに聞くタイトルと用語

ところで、この本は、新聞書評で知ったのだと思うが、そのときから本を読み終えるギリギリまでタイトルを読み間違えていた。

ヒロシマめざして」の「その外」

と読み、「その外」って何だろう?何だか複雑なタイトルだと思い込んでいた。『バリ山行』のときは、本のせいにしていたが、今回は自分の問題。
原因は、「のそのそ」というのが、あまり使わない言葉である、ということだけなのだが、元のタイトルは『Shambling Towards Hiroshima』。
これについて、Geminiに直訳をお願いしたら、「広島へとよろめき歩く」「広島に向かって足を引きずり進む」という案を出したあとで、原作小説の内容を踏まえた解説も教えてくれた。

このタイトルには、単なる移動以上の意味が込められています。

  • Shambling(シャンブリング)の意味: 足をもつれさせながら、あるいはゾンビや怪獣が重い足取りで歩くような様子を指します。この小説が「ゴジラ」のような巨大怪獣映画のパロディを含んでいるため、怪獣の動きを連想させる言葉選びになっています。
  • ウィリアム・バトラー・イェイツの引用: このタイトルは、有名な詩『再臨(The Second Coming)』の一節 "slouches towards Bethlehem"(ベツレヘムへとのろのろ進む) のもじりである可能性が高いです。本来は聖なる場所へ向かうはずが、不吉な存在が近づいているという「破滅の予兆」を暗示しています。


あともうひとつ、作品内でも、あとがきでも言及がなかった、ニッカーボッカー・プロジェクトというプロジェクト名についてもGeminiに教えてもらった。

「ニッカーボッカー・プロジェクト」という名称は、歴史的な文脈とニューヨークの文化を絶妙に掛け合わせた、非常にセンスの良い(そして少し皮肉の効いた)ネーミングですね。

結論から言うと、これは「マンハッタン・プロジェクト」のネーミング規則をなぞったパロディであり、かつニューヨークという土地への強いこだわりを感じさせるダブル・ミーニングだと言えます。

なぜこの言葉が選ばれたのか、その背景にある「ニッカーボッカー(Knickerbocker)」の正体を紐解いてみましょう。


1. 「マンハッタン」に対する「ニッカーボッカー」
マンハッタン・プロジェクト(マンハッタン計画)の名前の由来は、初期の事務局がニューヨークのマンハッタンに置かれていたことにあります。

マンハッタン: ニューヨークの「場所」を指す。
ニッカーボッカー: ニューヨークの「住人(特に生粋のニューヨーカー)」を指す。

つまり、場所(マンハッタン)の名前を冠した公式計画に対し、その土地の魂や居住者の名前を冠した裏の計画、という対比構造になっています。


2. オランダ系移民の象徴
「ニッカーボッカー」という言葉は、もともとニューヨークを築いたオランダ系移民とその子孫を指す言葉です。

由来の豆知識: ワシントン・アーヴィングが1809年に書いた風刺本『ニューヨークの歴史』の筆名「ディートリヒ・ニッカーボッカー」から広まりました。

「古いニューヨークの象徴」であり「特権階級」や「古き良き伝統」を連想させるため、フィクションにおいては「歴史の裏側に潜む古くからの組織」や「エスタブリッシュメントによる極秘計画」というニュアンスを持たせるのに最適な単語です。


3. 他のポップカルチャーとの親和性
この言葉はニューヨークを象徴する単語としてあちこちで使われています。

NBAチーム: 「ニューヨーク・ニックス(Knicks)」の正式名称は「ニューヨーク・ニッカーボッカーズ」です。

カクテル: 「ニッカーボッカー」という有名なカクテルも存在します。

これらを知っている読者からすると、「マンハッタン(カクテル名でもある)」と並んで「ニッカーボッカー」が出てくるのは、非常にニューヨークらしい遊び心を感じる設定に映ります。

結論
このネーミングは、単なるパロディを超えて、「マンハッタン計画(表の軍事計画)とは別の、ニューヨークのより深いルーツや特権階級に根ざした裏の計画」であることを示唆する、知的な暗号のような役割を果たしていると考えられます。

ここまで教えてもらえるとありがたいが、改めて、人間が文章を書く意味合いがどんどん減っていることを感じて辛い。
また、ここまでしっかり教えてもらってしまうと、言われたことをそのまま信じてしまう…。
馴染みがある分野であれば、さら問いをして、AIを詰めていけば、より正確な情報を得られるが、詳しくない分野ほど、適切に質問ができない。
そこらへんは、もう少し巧く使っていく必要がありますね…

→直後に、全部デタラメじゃないか…?と不安になる事例が発生しました…
pocari.hatenablog.com


これから読む本

一応、SFということで、Amazonで見ると、関連本としてSFが並ぶ。
ハードSFは苦手ジャンルではあるけれど、ソフトなら行けそうな気がする!


想定外の「リアル」~アレックス・ガーランド脚本・監督『ウォーフェア』

アメリカ国内での分断を、実際の戦争として描いて見せた『シビル・ウォー』は、観た当時も衝撃を受けたが、むしろ最近になって、映画を思い起こさせるニュースが頻発しており、昨年感じていた不安が恐怖に変わりつつある。(特に、ICEを巡る状況は酷い。)
そんな社会情勢の中で観る、同じアレックス・ガーランド脚本・監督(レイ・メンドーサとの共同脚本・監督)の『ウォーフェア』の惹き文句は「95分間、戦場(劇場)に閉じ込める」。
物語が付加されていないのが売りの映画だから、リアリティをとことん追求した映画なのだろう。
ただ、どんな気持ちでそれを見ればいいのか?戦場での体験に没入できたとして、何を自分が持ち帰るのか?全く予想がつかなかった。

感想

もちろん想像通りのこともあった。
『シヴィル・ウォー』が、現場を記録することに徹する「ジャーナリズム」の映画だと捉えれば、この『ウォーフェア』は、まさにその精神で作られたものと言えるだろう。

しかし、まさにその「戦闘状態=Warfare」の現場こそが、自分がイメージしていたものとは全く異なるものだった。

市街戦

冒頭のエクササイズのビデオ後にタイトルが出たあと、カメラは「戦地」を空中から捉える。
その風景が、日本の郊外のように見えて驚いた。
こんな市街地が、この戦争の舞台なのか!
そこにまず驚いた。
実際、民家の2階から照準を合わせて狙う先では、現地の人たちの普通の生活が営まれているように見える
そして、戦闘が始まってしまえば、隣家の2階や屋上、曲がり角など、完全に敵の姿が見えるかたちでの銃撃戦。
確かに、『シビル・ウォー』で描かれたのも、こういうタイプの戦争だったが、ガザや、ウクライナでの戦争の報道で観る映像は、ミサイル攻撃によって廃墟になってしまった市街地。先日、砂川文次『小隊』で読んだ戦争は、人が住んでいないような場所での戦闘だったので、イメージは大きく異なる。

負傷兵

一番衝撃を受けたのは負傷兵について。
先に挙げた砂川文次『小隊』は、まさに「小隊」(もしくはその一つ下の「分隊」)を対象としているので、今回の映画とスケール的には近い。その中では、身近にある死が描かれていた。すぐ横で命を落とす仲間や、戦地に転がる死体。
今回も「リアル」に見せるための材料として「死」が描かれるものだと思っていた。しかし、その読みはハズレた。確かに、死体の映像もあったが、むしろ抑制的で、一番目立ったのは「負傷兵」だった。
「音」に力を入れて作られたこの映画で、ずっと鳴り続くのは、負傷兵のうめき声。
そうか。戦地だからと言って、撃たれたり、怪我をしてすぐに死ぬわけではない。仲間を救わなければならない。そんな簡単なことに気づかされた。

救援が、あと10分で到着する!あと3分、あと2分…
観客も負傷兵を何とかしてやりたいので、戦況によって、救援が遅れることが判明すると(観ているだけなのに)辛さが何倍にも増す。
あとから合流したチームには負傷者がいないためなのか、負傷兵への扱いが雑(足をぶつけたり、気合重視の声かけ等)なことにも苛々が募る。

兵器類

銃器や戦闘機などについては、パンフレットに期待していたが、大した情報が無かったのは残念。
そんな中で、押井守が自称「軍オタ」の立場から補足的に解説を載せていた。
特に、押井守が、戦車ではなく歩兵戦闘車だと字幕を訂正する「ブラッドレー」。映画の中盤までは、救急車のような働きを見せつつ、ラスト近くでは、住居の2階をどんどん壊していく様子に、当然ながら「働くクルマ」ではなく「兵器」なのだと実感した。
なお、『小隊』の中で最も活躍するのはBMPという小型の戦車だったが、イマイチイメージが湧かなかったので、その実物が見られて良かった。もしかしたら呼称が異なるだけなのかもと思って「同じものなのですか?」とGeminiに聞いてみたら、厳しいお言葉をいただいた。

結論から言うと、ブラッドレー(Bradley)とBMPは全くの別物です。 どちらも「歩兵戦闘車(IFV)」という同じカテゴリーの兵器ですが、生まれた国も、設計思想も、運用する陣営も対照的です。
例えるなら、「アメリカのSUV」と「ロシアのセダン」くらいの違いがあります。

ということで、いわゆる「戦車」にも色々とあることが映像として理解できた。
そして、もうひとつ押井守が褒めていて、これまで全く知らなかったのが、戦闘機による威嚇飛行。その衝撃波は視覚的にも聴覚的にも、最も迫力のある映像だった。

鑑賞後

確かに95分間、閉じ込められる映画だった。
繰り返しになるが、「戦場のリアル」としてイメージしやすい「死」を前面には出さない画面でも、常に死を意識し緊張し、プレッシャーを感じながら観る稀有な映画体験となった。
そして、極端に「直接的な価値判断」を廃する映画でもあった。
自分は、戦争映画なのだから、戦闘の巻き添えを食らうイラクの民間人、もしくは誤射で亡くなる米兵などの映像が挟まるものと思っていた。つまり、戦争反対のメッセージが、どこかに入るものと思っていた。
しかし、そのような絵は一切なく、ひたすら「戦闘状態」が続き、(メタな視点を取らせず)現場にいることを強いられた。
もう一度観たいかと言われれば答えに躊躇するが、今回観て本当に良かった。


…というように、『ウォーフェア』は、よくある「戦場のリアル」でもなく「戦争反対」でもなく、タイトル通り「戦闘状態」を映し出す映画だった。
もちろん、今回の映画で描かれたのは2006年当時のイラクでの戦場であり、ドローンが多用される現在ではまた、全く違う戦場のリアルがあるのだろう。
そんな中で、『シビル・ウォー』に戻って考えると、戦場を取材するジャーナリストの重要性に改めて思いがゆく映画でもあった。
 

戦争に限らず、こうした映画やドキュメンタリー、本を通して疑似的な体験を重ねることで得られる想像力もあるはず。今後も積極的に、そのような作品に触れていきたい。

大きく振りかぶったが…~荻堂顕『いちばんうつくしい王冠』

夏休みの初日、目が覚めたあたしは、見知らぬ体育館にいた。周りには7人の少年少女と、着ぐるみを着た謎の人物が発した言葉――「キミたちにはこれから、一本の劇を演じてもらいます」。なぜあたし達はここに連れてこられたのか。そして、劇が完成した先に待つものとは。
その理由と物語の結末が明かされた時、読む者の心も炙り出されていく。

久しぶりに「えっ!これで終わりなのか?」という終わり方をする小説を読んだ。
この本を知ったのは、おそらくwebの紹介記事。人を傷つけた側の物語である、という紹介のされ方に惹かれたが、このテーマは、自分にとっては、そこだけで点数を挙げざるを得ない、関心度の高いものだった。大きく振りかぶった球は、ストライクど真ん中の豪速球が来るのではないかと思っていたのに…


しかし、結果的には、その期待を満足させてくれる小説ではなかった。
以下、何がダメだったのか、内容を振り返りながら少しダラダラと綴る。

納得いかなかった「デスゲーム」設定

ある学校の体育館に、知らない者同士の中学2年生8人が集められ、「座長」から「ここから抜け出すためには、演劇を完成させ上演しなくてはならない」と告げられる。
漫画や映画では定番のデスゲームに似た出だしながらも、やはり先が知りたくなってしまう設定で、むしろ高評価だ。
問題は、「なぜ、このデスゲームを成立させるために、ファンタジーやSF要素に頼らなかったのか?」という部分。


まず、妖精の着ぐるみの格好をした「座長」の問題。

  • なぜ「座長」は、立派な大人なのに40日間も子どもたちにつきっきりでいられるのか?
  • 40日間の「矯正プログラム」を誰が組んでいるのか?
  • いわゆるサラリーマンではないことは当然として、どんな権力や金を持っていれば、このような暴挙が可能なのか?

ファンタジーにすれば、適当に済ませていい部分だが、リアルになってしまうとどうしても違和感が残る部分だ。
しかし、これについては、結局ほぼ明かされない。


最後になって、「座長」と「マッチョのエイリアン」との2人の経緯と、それぞれの思惑が明かされるくだりはあるが、結局「座長」が何者であるかは不明だ。
全国の中学校に対するアンケート調査の実施が可能、という点から考えれば、個人ではなく何かの機関なのだろう。
しかし、アンケート調査の結果をすべて読んだ上で個々の家庭に直接、了承を取り付けに行くのは少なくとも「座長」本人が行っているようだ。
さらに周囲の友人に聞き込み調査をした上で、矯正プログラム(演劇の脚本、クイズの出題)を作る。さらに芸能事務所と交渉し、14歳の女優に対して他の仕事をストップさせてまで、40日間のプログラムへの参加を取り付ける。
…となると、40日間(休みなし)のために、どれだけ人とお金をかけているのか。不審者と見なされ通報されるリスクもあるようなギリギリの事前準備だと思う。


そして、親についても相当な違和感がある。
拉致監禁に限りなく近い長期外出が問題にならないのは、「デスゲーム」への参加について親の了承を得ているという説明があるが、夏休み丸々40日間を本人の事前承諾なしに奪ってしまうのは、子を持つ親の立場としてもあり得ない。
子どもの人権を無視して、初対面の正体不明者の説得を丸呑みし、「怪しいプログラム」への参加を勝手に決めてしまう親は、子ども以上に何か心に問題を抱えているのではないか。


この話を読みながら、途中で映画『かがみの孤城』(辻村深月の原作は未読)を思い出した。設定に類似箇所が多いが、あちらは、期間が長いながらもファンタジーの世界の話だったので、無理は少なかった。後述するように、実際には、この物語自体、『かがみの孤城』のような作品を、ということで書かれた小説ということだが、あまり重ならないように、敢えて現実に寄せた物語にした、ということなのだろうか。


これら、デスゲーム成立を納得させられるだけの背景は何なのか?というのは、本を読み進める上で、常に頭にあった疑問で、どうオチをつけるのかに非常に期待していたので、本当に拍子抜けだった。

子どもたちにとっての40日間

そもそも、親が関与していることを知り身の危険はないだろうとわかったとはいえ、自らの意思に反して拉致に近い形で集められて、演劇への参加を求められる中学生たちの気持ちはどうなのだろう。
しかも、いつ終わるのかが知らされていない。
そのような中で、協力して演劇の練習を続けることが可能だろうか。
タダシサ王子・タイガくんが「座長」を拘束して脱出を試みるシーンがあり、そうなるのも当然、と思っていたが、結局すぐに元の演劇生活に戻ってしまう。
自分だったら真面目に練習ができるのは10日間程度と思っているので、脱出を諦めて「座長」の指示にしたがう時点で、読者としては、先が気になりつつも、、8人の中学生たちについていけないと感じ始めてしまった。
終盤になると、演技に加えて大道具、小道具も自らで作る必要が生じる。この辺までくると、目的に対してあまりに遠回りしていないかということも気になって来る。

いちばんうつくしい王冠とは?

この物語のキモは、中学生8人が取り組む演劇で、台本はその都度渡されるが、終わらせ方は、彼ら自身で考えなくてはならないという部分にある。
演じる8人の王子の抱える問題は、彼らが現実世界で起こした問題が反映されている。つまり、自らの問題にどう対処するのかの答えを見つけて、演劇の中で表現しなければならない。
しかも彼らが過去に傷つけた相手が、観客として見に来ている。


自分は、演劇を通して、他人の立場になって考える経験というのは、かなり効果的だと感じている。*1
だから、「傷つけた側」に、実際に近い出来事を通して「傷つけられた側」の気持ちを理解してもらう、という意図で、このような演劇プログラムが行われるというのは、とても納得感がある。

しかし、肝心の終わらせ方に巧い着地を感じなかった。同時に、印象的なタイトルである「いちばんうつくしい王冠」についてもぼんやりしてしまった。
尻切れトンボとなった脚本の一番最後を読むと、王様が「いちばんうつくしい王冠」だとした花冠は、もうなくなってしまった。彼ら自身しか関与しない狭い範囲で自己中心的に考えてきたことが、「いちばんうつくしい王冠」を失ってしまった理由であるという。
この部分は、まだ世間を知らない王子たちの境遇と、中学2年生の立場が重ねられているのだろう。
だからこそ、(明確には書かれていないものの)この時点で、王子たちが外に出ていくラストになることが示唆されている。

「それはもう、いちばんうつくしい王冠ではないのです」
「そんなはずはありません。王様は『それこそがいちばんうつくしい王冠である』とおっしゃいました」
ヨワサ王子・エマちゃんの前まで歩いていって、ヤサシサ王子・あたしは王冠を外す。ここでは外したふりで、ヨワサ王子・エマちゃんがそれを見上げる。宮殿の外庭で、ふたりで一緒に編んだ花冠を。
「......この花は、かつて、この国の至るところに咲いていた花です。まだ王子だった頃の王様は、商人に変装して宮殿を抜け出し、人々の暮らしを見物することを趣味にしていたそうです。そのときに、子供たちが作っている不揃いな花冠を見て、宮殿のなかにあるどんな宝石も、あのうつくしさには敵わないと感じたそうです。そして、その景色が、子供たちが花冠を作って遊んでいられるような平和がいつまでも続いてほしいと思ったそうです」  
(略)
「豪勢な暮らしに慣れてしまった王様は、いつからか、この国に住む人々のことを考えなくなりました。人々は飢えに苦しみ、大地さえ貧しくなり、かつて、この国の至るところに咲いていたあの花は、もう花を付けなくなってしまったのです。…(略)」
そう言うと、ヨワサ王子・エマちゃんは立ち上がり、客席のほうを振り返った。
向こう側は、宮殿の外だった。
たくさんの人たちがそこに暮らしていて、宮殿ではなく、本当はそちらこそが「この国」のはずなのに、この演劇には、まったくと言っていいほど登場していなかった。あたしたち、王子様たちのすべては、この宮殿のなかで完結していたから。
「死にかけている大地に花は咲きません。ぼくたちはもう二度と、いちばんうつくしい王冠を作ることができません。それと同じことなのです」
ヨワサ王子・エマちゃんが客席を指差す。
あたしたちは引き寄せられるように、ヨワサ王子が指差す先に目を向ける。
窓の外を見てください。この国を見てください。この国でなにが起きているのか、ご自分の目で確かめてください。貧しさ、苦しさ、悲しさ、それらはすべて、ぼくたちのせいなんです。ぼくたちがすべきなのは、王位を分かち合うことなんかじゃありません!ぼくたちがすべきなのは・・・・・・」
ヨワサ王子の台詞の途中で台本は終わっていた。
p344


さて、途中で終わった台本の続きについては、作中の登場人物たちが相談をする場面があるので、避けたラストもよくわかる。

「王様は決まってなくて、いちばんうつくしい王冠がないことも分かって、しかも隣の国は攻めてきてて……。どう考えても、この先にいい終わり方があるだなんて思えない」
(略)
なんだかんだあって最終的には、8人の王子たちは和解して、すっきりと終わるんだとばかり思っていた。現実はそう上手くはいかないのに、物語の世界なら、簡単に「上手くいく」ができると思い込んでいた。誰かに恨まれているとしたら先輩しかあり得ないって、勝手に確信していたのもそうだ。あたしは浅はかで、なにも見えていなかったんだ。
p354

続きの部分を読むと、タイガくんにとっての「王冠」は、壊れてしまったが取り戻したい、最終的な答えのようだ。

やり直せない。一度壊れたものは、二度と同じ形にはならないだろ」
突き放すように、タイガくんは言った。
壊れたものは元には戻らない。
戻れない。
枯れた花で作った花冠は、落としたら最後、バラバラに散ってしまう。
それなら、なにをしても意味はない。
きっとそれは、タイガくんがここに来る前に出していた結論だ。転校して、違う場所でやり直すことを決めたタイガくんだからこそ、やり直すことがどれほど過酷なのか、嫌と言うほど知っているんだろう。自分がしてしまったことが原因で、地元に近付くことさえできなくなったタイガくんは、もしかしたら、あたしたちのなかの誰よりも切実に、壊れたものを元に戻す方法を知りたがっていたのかも知れない。
p355

そういう風に一度失敗して、誰よりも考えているタイガくんによって、一番シンプルな、相手に「謝る」ラストは、すぐに封じられてしまう
「謝る」=「許される」ではない。
「許されない」こと前提で考えなければならない。

「そしたら、カシコサ王子が『濡れ衣を着せてごめんなさい』ってヨワサ王子に謝るシーンを書けばええんちゃう?そういうのを、全員で考えて書いていけばええんやないかな、って思たんやけど」
「殴ってごめんね、って言えばいいってこと?」
そう訊ねたカンナちゃんが、「口だけならいくらでも謝れるけどさ」と続ける。嫌な言い方かも知れないけど、謝るということには、そういう面も含まれていると思う。本心が違っていても、言葉でならなんだって言えてしまう。(略)
  「たぶん、そうじゃない」
タイガくんが言った。(略)
「僕たちは前提を間違えてる。……どうすれば許してもらえるのかは、僕たちの気持ちだ。許してもらえるって、期待してしまっている。でも、そうじゃない人だっている。僕だって、そのひとりなんだ」
小学生の頃、タイガくんはいじめに遭っていた。
耐えて、耐えて、耐え切れなくなって、最終的に、いじめていた人を切りつけた。
僕たちは、許されないかも知れない。……それでも、どうしたいのか。それが答えになるんだと思う」
p370


最後の最後で、自分の演じるヤサシサ王子との共通点から、ホノカは、正しい「優しさ」だと信じ込んでいた行動で、翠ちゃんを傷つけてしまっていたことに思い至る。

あたしの頭は、翠ちゃんに言われたことを思い出していた。
わたしが言ったら、聞いてくれなかったのかな。
誤解が解けて、クラスのみんなが前みたいに翠ちゃんに話し掛けるようになったあとのことだった。一緒に帰っているとき、翠ちゃんはあたしに「ありがとう」って言ってくれた。あたしは翠ちゃんの役に立てたことが嬉しくて、そのあとに翠ちゃんが言ったことを、深く考えたりはしなかった。
今になって、ようやく分かった。
あたしは翠ちゃんから、自分で説明する機会を取り上げてしまった。解決さえすればいいって思っていたあたしは、代わりにあたしが言うことと、翠ちゃんが自分で言うことの違いを、少しも考えていなかった。
p442

あたしは自分が楽になるために、優しさを使っていた。
都合のいい優しさで、自分を守ってきた
p444


正直に言えば、自分にとっては、この核心部分がピンと来ないことが原因で、物語全体がピンボケしてしまう。
ホノカの「罪」は、翠ちゃんを孤立させて、自分に依存するように仕向けた、ということになっているが、ホノカが後悔しているのは、翠ちゃんの代わりにクラスメイトの誤解を解いたエピソード。これで40日間拉致監禁は厳し過ぎるのではないか、と思ってしまうのだ。


さて、彼らが一所懸命考えたうち、タダシサ王子・タイガくんのラストは、一種の逃げではあるが、用意された脚本の最後の部分とも呼応し、ラストとして収まりが良い。ただ、ムジャキサ王子・コタロウの便乗はムカつく。(最も嫌いなキャラクターなので笑)

タダシサ王子の台詞は、何度も書き直していた。ここで謝ることもできたけど、最終的には、そうしないことにした。用意した言葉を伝えるだけなら、これまでと同じになってしまう。だから、タダシサ王子は立ち上がり、ヨワサ王子の隣を通り過ぎていく。ツメタサ王子のようには、まだ答えを出せていない。だからこそ、タダシサ王子は、宮殿を出てこの国の人々に会いに行く道を選んだ。これから人と関わっていくなかで、答えを見付けようとしている。
「歩きながら、考えてみよう」「僕も行くよ!」
飛び上がったムジャキサ王子が、タダシサ王子を追い掛ける。
「ここに残ってもよいのだぞ」
「王子様じゃなくなるんでしょう?なら、外に出ないとね。みんなと会って、話をしてみたいんだ。ズルサ王子も一緒に行こうよ。カシコサ王子もいるんだし」
ムジャキサ王子がやろうとしていることも、タダシサ王子と同じだった。王子様ではなく、ひとりの人として、みんなと関わっていく。自分が誰を傷つけて、誰に恨まれていたのかを、自分の力で知るために

しかし、ヤサシサ王子のラストは、タダシサ王子の分かりやすさと比べると、やや難解だ。
ヤサシサ王子(ホノカ)は、ヨワサ王子(翠ちゃん)とは別々の道を選ぶ。

「あなたとヨワサ王子は、幼い頃からいつも一緒でした。もし、あなたも付いていくというのなら、私がここに残ってもいい。ひとりくらいは、宮殿にいなくてはなりませんから」
心が揺れそうになる。あたしが一番言ってほしい台詞を書いたから当然だ。ツメタサ王子が譲ろうとしているのは、許されるための機会だった。
付いていくって、言ってしまいたくなる。
これからも一緒にいたかった。
それは、紛れもないあたしの本心だった。
「……いえ、私がここに残ります」
「しかし、いいのですか?」
ヨワサ王子には、ヨワサ王子の道がある。
あたしは、あたしの道を歩かないといけないんだ。
「私はここに残って、降伏の準備をします。宮殿にいる者たちが、無事にここを出られるように」
(略)
「旅の安全を祈ります」
マントを羽織ったツメタサ王子とズルサ王子、そしてヨワサ王子に、あたしはそう声を掛ける。
あたしはヨワサ王子のことを見なかったし、ヨワサ王子も、あたしと目を合わせようとはしなかった。
それでも、あたしがヨワサ王子の無事を願っていることに変わりはなかった。
p450

小説の最後には、新学期になった中学校の廊下で、ホノカが翠ちゃんと目を合わせず無言で通り過ぎる場面が描かれる。

あたしは、翠ちゃんの心を傷つけた。いなくなるのが怖くて、ずっと一緒にいてほしくて、あたしは翠ちゃんをひとりぼっちにさせた。翠ちゃんから友達を作る機会を奪っていた。あたしがいなくなれば、翠ちゃんは違う未来を歩いていける。だから、あたしは、翠ちゃんのいない道を歩くことを選んだ。ポケットに入れてた手紙は、渡さなかった。そこに書いた「ごめんなさい」は、今はまだ、大切な友達のためじゃなくて、自分のためのものかも知れなかったから。
また「ホノカ」って呼んでもらえないことが悲しかった。
前みたいに話がしたかった。
夏休みにできなかったぶん、遊びに行きたかった。
いつまでも一緒にいたかった。
でも、そうできなくなるくらいのことを、あたしはやったんだ。真辺先輩たちが謝ってきても、許せるかどうかは分からない。これから先、許せるようになるかなんて、もっと分からない。それと同じで、謝ったからといって、必ず許してもらえるわけじゃない
涙が止まらなくて、せめて、声だけは我慢した。
今は泣いていい。
これは、あたしがあたしに許す、最後のずるさだった。
いつか許してもらえるなんて、期待するのはやめる。
でも、いつか許してもらえるような人になることを、あたしは絶対にやめたくなかった。

あくまで、ホノカの主観で進む小説だから仕方ないのだが、この終わらせ方は、考え抜かれているように見えて、少し自己中心的に感じる。翠ちゃんの気持ちを勝手に決めつけているようにも読めるからだ。
限られたエピソードからは、それほどまでに翠が傷ついた原因が読者にはよくわからないので、謝ってやり直す方が適切のように見えてしまう。
宮殿から出ないことが、「いちばんうつくしい王冠」を失った原因だったことは全員に共通しているのだから、ホノカも宮殿から出て、国の人々の声に耳を傾けるべきではなかったのか。
また、現実問題として、友人関係を100/0でしか捉えられないのは、少し危険な考え方のように感じる。このあと、同じ中学校で同学年の翠ちゃんとは何度も顔を合わせるはず。
個人の考え方にしたがって筋を通すよりも、「過去に気まずいことがあったけど、今も何となく友達」という50点、60点での友達とのつきあい方ができることの方が、より重要な気がする。
過去に無自覚に多くの人を傷つけてきたムジャキサ王子・コタロウが、適当な気持ちで新学期を迎えてしまうことを考えると、ホノカには「君は十分考えた。そこまで自分を追い詰める必要はない」と声をかけてあげたい。

インタビュー記事とやっぱりラスト

朝日新聞の読書コーナー「好書好日」でのインタビューを見ると、『かがみの孤城』がきっかけとなっていることや、意図的にホノカに限定した一人称にしていることなどが書かれている。
はっきり言って、問題意識はよくわかるし、これをトリッキーなどんでん返しエンタメにしなかったことに強く共感する。
だからこそ、このラストは、大きく振りかぶってストライクを狙った剛速球がすっぽ抜けてしまったような印象を受ける。自分の読み解きが浅いのかもしれないので、他の人にも感想を聞きたい本だ。

ポプラ社から、若い読者に向けたものをと提案を受け、荻堂さんの頭に浮かんだのは、辻村深月さんの「かがみの孤城」だった。いじめを受けた中学生が鏡の中の異世界に吸い込まれる「傷つけられた人と再生の物語」。自分ならどう書くか。傷つけた側の物語を構想した。
(略)
ホノカもはじめは、自分が劇に参加させられた本当の理由が分からない。一人称で描くからこそ、荻堂さんは読者に、ホノカに感情移入をして気付きを感じてほしいという。「多視点にすれば、読者に親切だし、もっとトリック的なことができるかもしれないが、これはあくまでもホノカの人生の話」。ホノカが見たこと、知っていること、思ったことだけが、そこにある。

ホノカの人生は、劇を終えた後も続いていく。荻堂さんは「謝ったら、許す」という単純な構造は昔から好きではないという。では、過ちに気付いた後、どのように「罪」に向き合えばいいのだろうか。「読後感がいい小説ではないけれど、後に何も残らない読書をする必要はないと思う。読んで考えてほしいです」
荻堂顕さん「いちばんうつくしい王冠」 傷つけた側、どう罪に向き合えば |好書好日

次に読む本

荻堂顕さんは、一冊ごとに作風が変わるタイプの作家ということなので、次は、吉川英治文学新人賞受賞作で直木賞候補にもなった『飽くなき地景』を読んでみたい!
そして、このタイミングだからこそ、未読の『かがみの孤城』を!

過去日記

pocari.hatenablog.com

追記

ちょうど、荻堂顕さんと辻村深月さんの対談が!
しかも作者本人が「デスゲーム」って言ってるじゃないか!
この対談を読んでも、自分は、荻堂さんの物語が書こうとしたテーマは理解でき、共感するところが多いのですが、やっぱり、気になってしまう部分がたくさんある小説でした。
realsound.jp



*1:ブレイディみかこさんが、エンパシーの話を持ち出すときに、イギリスの義務教育課程での演劇の授業について触れることが多く、非常に納得して読んでいる

「ルールに基づく国際秩序」のあとに来るもの~鶴岡路人『はじめての戦争と平和』×カーニー演説

ロシアによるウクライナ侵攻に関連してラジオ番組「セッション」に出演した鶴岡路人さんの解説を聞いて手に取った本。
高市政権になって以降、日中関係が悪化し、今後が見通せない中、安全保障については勉強しておかなければならないと思って読んでみた。
目次は以下の通り。

第一部 世界をみる三つの視点
 第一章 個人を中心に考える
 第二章 国家を中心に考える
 第三章 国際システムを中心に考える

第二部 何から何をいかに守るのか
 第四章 「何から」守るのか――脅威
 第五章 「何を」守るのか――国益
 第六章 「いかに」守るのか――軍事力
 第七章 「誰と」守るのか――同盟
 第八章 核兵器ってなんだろう

第三部 より平和な世界をつくる
 第九章 国家はどうすれば協力できるのか
 第一〇章 戦争はどうすれば抑止できるのか
 第一一章 日本の平和と世界の平和

コラム──戦略とはなにか
さらに学ぶための読書案内
あとがき
索引

特に、同盟についての基本が学べる第7章が面白く、トランプ政権下の米国とNATOや日米同盟の関係など、今まで当たり前と思ってきたものが、当たり前でなくなる2026年現在、この部分を勉強できてよかった。
アメリカ・ファーストという言葉自体、各国との同盟関係の中で、米国の負担が大きかったこと(米国が圧倒的な力を減じても負担が大きかったこと)が背景にあって出てきた言葉であって、そうでない国が「ファースト」を主張しても、カッコがつかない。
なお、改めてだが、自衛隊の位置づけについても少しだけ理解が進んだ。軍隊ではないという建前にこだわる手前、階級や装備の呼び方について国際標準と変えている状況(p107)など、「普通の国」にしたい高市政権が、階級名変更の検討を進める状況も背景が理解できた。(今急いでやることではないのでは?という気がしてしまうが)


ちくまプリマー新書というレーベルへの期待通り、非常にわかりやすく、頭の整理になったが、いざ読んだ内容を復習しようと以下のメモを整理するのに3時間以上かかってしまった。
生成AIに任せれば、1分以内で、数倍グレードの高いものが出来てしまうので、やり方はもう少し考えたいが、あくまで自分の中の整理として…。
(まとめの下の方に、カナダのカーニー首相による演説について触れた続きを書いています)

第一部 世界をみる三つの視点

ケネス・ウォルツの提唱する「第1イメージ(人間)、第2イメージ(国家)、第3イメージ(国際システム)」にしたがって、戦争と平和を考える。

  • 第一章 個人を中心に考える
    • プーチンの戦争、ゼレンスキーの戦争
    • 個人としての兵士
    • 一般市民が常に平和的であるとは限らない
  • 第二章 国家を中心に考える
    • カント「永遠平和のための第一確定条項」=民主主義国家は戦争をしない
      • 非民主主義国家に攻撃された場合は応じる必要があり、非成立
    • 「デモクラティック・ピース(民主主義による平和)論」=民主主義国家同士は戦争をしない
      • なぜ→(1)制度によるもの(権力の分率によるチェックアンドバランス)
      • なぜ→(2)価値観によるもの=リベラル・ピース(自由主義による平和)
      • 民主主義の拡大が平和への道(成功例:冷戦後の中東欧)という考え方
      • 日本国憲法前文「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」
    • 足元をみられる民主主義国家(ウクライナ侵攻、二次大戦における初動の遅さ)
  • 第三章 国際システムを中心に考える
    • パワーバランスの重要性:ビリヤード・ボール・モデル(政治体制によらず同じ状況に置かれれば同じように反応する)
    • 覇権安定(1国)、二極体制(米ソ)、五大国(19世紀のウィーン体制のイメージ)
    • 力の真空(軍事的に弱い国があれば、近隣の大国の侵略を誘発する)、緩衝地帯

第二部 何から何をいかに守るのか

  • 第四章 「何から」守るのか――脅威
  • 第五章 「何を」守るのか――国益
  • 第六章 「いかに」守るのか――軍事力
    • 自衛隊は国際的には軍隊。軍隊として国際人道法の遵守などの義務も背負う。
    • 陸海空、サイバーと宇宙、軍隊のほかに海洋法執行機関(海上保安庁
    • 武器の輸出入:輸出入が悪だとすると自国生産できない国は自衛を諦める必要
  • 第七章 「誰と」守るのか――同盟
    • 集団的自衛権国連憲章第51条)はあるが、権利なので基本は助けない
    • 集団的自衛権を権利ではなく義務にするのが同盟(集団防衛)※双方向
    • 日米安全保障第5条は「米国本土の攻撃」は対象でなく「片務的」
    • 第6条で国内基地の提供をし「双務性」を確保
    • 2015年の平和安全法制により「存立危機事態」でより双方向に。(憲法上行使できないとされていた集団的自衛権の行使を可能に)
    • 同盟では、敵対国の抑止よりも、同盟国への「安心供与」の方が難しい
      • 「巻き込まれ」:日米同盟でのこれまでの日本側の懸念
      • 「見捨てられ」:近年、上昇している懸念
      • 同盟を安定的に維持するための「バードンシェアリング(負担分担)」→米国の不満を和らげる意図

第三部 より平和な世界をつくる

  • 第九章 国家はどうすれば協力できるのか
    • 安保理や国連からロシアを追放しない、また拒否権が導入されているのは、一次大戦後の国際連盟の失敗があったから(米国が加盟を見送り、日独が脱退し無意味化した)
    • 地域統合による平和:EUASEAN
    • 国際法:無力と言われることもあるが、存在により国際法違反との指摘に対する弁明が求められるという点だけでも有意義。「ルールに基づく国際秩序」のために必要
  • 第一〇章 戦争はどうすれば抑止できるのか
    • 懲罰的抑止:代表的なものは核抑止。敵国の第一撃に対して生き延び確実な第二撃能力を確保することが抑止の信頼性を向上。
    • 拒否的抑止:ミサイル防衛
    • 有事だけでなく、平時も継続的に行い、攻撃すれば「成功するかも」「利益があるかも」と一瞬たりとも相手に思わせてはいけない
    • 相手への「能力」と「意思」の伝達が重要(軍事演習の公開の意味)
  • 第一一章 日本の平和と世界の平和
    • 食糧やエネルギーなどの基本的な問題も含め、世界の平和と日本の平和はつながっており、国際関係が少しでも日本の安全と繁栄にかなうものになることに努力することが、日本の中心的な国益に適う。
    • 日本の最大の柱は経済で、世界への関与の中心はODAなどの経済支援。国際連携の中で安全保障上の役割も求められる。
    • グローバルサウス諸国が、イスラエルに対するダブルスタンダードを批判するように、自由や民主主義を掲げる諸国の信頼性や正当性自体が低下しつつある。日米同盟は引き続き重要だが、これらの国とも価値を共有し、強い関係を保持し続ける必要がある。

今後読む本

本書には、最後に読書案内がついており、ここから新書を中心に次に読む本を選んでみた。この本の中にも少し言及があり気になったので、鶴岡さんの以下の本で、NATOEUの関係についても勉強出来たらと思う。なお、回顧録が薦められているのが面白い。


本編の内容からはややズレるが、コスタリカは軍隊をもっていない(p34)ということを初めて知った。実際、1948年からの長期に渡ってその状況のようだが、周辺国は、それほど治安が良いとは思えない中、どうして可能なのかはとても気になるので、一冊読んでおきたい。


カーニー首相のダボス会議での演説

ひと通り書き終えたタイミングで、カナダのカーニー首相によるダボス会議での演説(2026/1/20)が話題となった。
年明けから、トランプが、ベネズエラに続き、グリーンランドにしつこく言及しており、欧米間での亀裂に注目が集まる中での、歯に衣着せぬ内容。
本の中では、国際関係の中で最も中心に据えられた「ルールに基づく国際秩序」を、演説では否定してみせているところが印象的だ。
小林恭子さんの記事から引用する。

カーニー首相が注目されたのは、世界秩序の危機を的確に言語化したことにある。

同氏は演説の核心としてルールに基づく国際秩序は既に崩れつつあり、過去の延長線上では世界は安定しない」と指摘した。多くの国や専門家は、単に「世界が不安定だ」と感じていても、それを明確に言語化できていなかった。カーニー氏はこれを「rupture(破断)」という言葉で表現し、現在の国際情勢をシンプルかつ説得力のある概念として提示した。

「破断」の時代 カナダはこうして生まれた カーニー演説の背景を分析(小林恭子) - エキスパート - Yahoo!ニュース

特に、中堅国(日本もこの中に含まれると思うが)に対して団結を呼びかけるところに特徴がある。いくつか全文訳があるが、Yahoo記事の高橋浩祐さんのものを引用する。
なお、いくつか読んだが、和訳にはブレがあり、ここで言う「ミドルパワー」は、他では「中堅国」と訳される場合が多い。小林恭子さんの「破断」は「断絶」と訳される場合が多い。

大国は単独行動が可能です。市場規模、軍事力、交渉力があります。ミドルパワーにはそれがありません。覇権国と二国間でのみ交渉すれば、私たちは弱い立場から交渉し、提示された条件を受け入れ、最も迎合的であろうと競い合うことになります。

それは主権ではありません。従属を受け入れながら、主権を演じているにすぎません。


大国間競争の世界で、中間に位置する国々には選択があります。
大国の歓心を買うために互いに競い合うのか、それとも結束して影響力ある第三の道を切り開くのか。
ハードパワーの台頭に目を奪われるあまり、正統性、信頼性、そしてルールの力が、私たちがそれを共に行使する意思を持つ限り、依然として強い力であり続けるという事実を見失ってはなりません


ここで再び、ハヴェルに立ち返ります。
ドルパワーにとって「真実に生きる」とはどういうことでしょうか。
現実を名指しすることです。「ルールに基づく国際秩序」が、いまだ機能しているかのように唱えるのをやめること。現状を正しく呼ぶこと。
それは、大国間の競争が激化する時代であり、最も強大な勢力が経済統合を威圧の武器として自らの利益を追求する時代なのです。


一貫して行動することです。同盟国にも競争相手にも同じ基準を適用すること。一方からの経済的威圧を批判しながら、他方には沈黙するなら、私たちはまだ看板を掲げたままです。


信じると言っているものを実際に築くことです。旧秩序の復活を待つのではなく、言葉どおりに機能する制度や合意を創ること。
そして、他国による強制を可能にしているレバレッジを減らすことです。強い国内経済の構築は常に最優先事項であり、国際的多角化は単なる経済的な慎重策ではありません。それは、誠実な外交政策を支える実体的な基盤です。各国は報復に対する脆弱性を減らすことで、原則に基づいた立場をとる権利を獲得します。
「ルールに基づく国際秩序は終わった」カナダ首相がダボス会議で放った“衝撃の現実主義”演説全文(高橋浩祐) - エキスパート - Yahoo!ニュース

このあとで、エネルギー超大国であることなど、日本にはないカナダの特性についても言及があり、日本はここまで堂々とトランプに反旗は翻せない、と感じてしまうのも確かだ。

しかし、「価値に基づく現実主義」という原則を掲げ、ダブルスタンダードを否定してみせ、中国などともパートナーシップを結ぶ状況を見るにつけ、これこそ日本が進むべき道だったのではないか(そして、今の日本は逆を言っていないか)と感じてしまう。

私たちの新たなアプローチは、アレクサンダー・ストゥブ氏の言う「価値に基づく現実主義」に立脚しています。言い換えれば、原則を守り、かつ現実的であることです。
主権と領土的一体性、国連憲章に合致する場合を除く武力行使の禁止、人権尊重といった基本的価値への原則的なコミットメント。
同時に、進展はしばしば漸進的であり、利害は分岐し、すべてのパートナーが価値を共有するわけではないという現実を認識する実利主義。私たちは世界をあるがままに直視し、望む世界を待つのではなく、現実の世界に主体的に関与します。

カナダは、関係の深さが価値観を反映するよう、各国との関係を調整しています。流動化する世界秩序とそのリスク、そして次に来るものの重要性を踏まえ、影響力を最大化するため、幅広い関与を優先しています。

私たちはもはや価値の強さだけに頼るのではなく、自らの強さの価値にも依拠しています。

その強さを国内で築いています。
「ルールに基づく国際秩序は終わった」カナダ首相がダボス会議で放った“衝撃の現実主義”演説全文(高橋浩祐) - エキスパート - Yahoo!ニュース

なお、いまさらだが、カナダのトルドー首相は、ほぼ1年前の2025年2月に退任していたことを今回のニュースで初めて知った。
そのトルドー首相の後任を、またこのような優秀な人が引き継いでいるのは羨ましい。このような政治家が生まれ、また、その言説についていける国民性については、小林恭子さんの記事で書かれていたカナダの歴史についての内容が勉強になった。


なお、カーニー演説を受けて、トランプは、自らが指揮を執る「平和評議会」*1への招待を撤回したというが、価値も秩序も何もない「平和評議会」の構想は、本当に潰れてほしい。


カナダの外交については、10年以上前の本だが、以下を読んでみたい。

あしかVSリングVSちくわ~三浦晴海『なぜ「あしか汁」のことを話してはいけないのか』

完全にタイトルに惹かれて読んだホラー小説だったが、良かった。
期待度と満足度、そして全体ボリュームがバランスした読書。
カクヨム発のホラーだというが、こういうエンタメに徹した小説が心地よい。


簡単な流れはこのような感じになるだろうか。

  • 周囲で起きる不可解な死
  • 謎を解くための手がかり
  • 謎の解明(第一段階)※地域の歴史
  • 協力者の死
  • 謎の解明(第二段階)※(自らの行動選択の)他者の死への関わりを自覚


最近のホラーブームには乗り遅れているので、かなり頓珍漢な指摘かもしれないが、これは、あれじゃないか!『リング』じゃないか!


ただ、『リング』と比べると、(自らが動き回って疲弊するが故の)追い詰められていくような怖さはなく、作り手が、複数の情報をどう組み合わせれば怖さが倍増するかを分かって作っているような感じがする。昭和のアイドルソングと最近のアイドルソングとの関係にも似ている。(両方とも好きです)
既にデフォルトの化学調味料が存在していて、消費者側も、自分の好みにあった味付けの物語を選ぶようなイメージ。
それでは、今回、その化学調味料は何だったのか?



(以降、少し直球のネタバレを…)



まず、怖さを引き出す化学調味料①は、「太平洋戦争中の隠されていた新兵器研究」だった。
これは常套手段で、たとえば、もはやホラーという認識の、漫画『劇光仮面』も序盤、戦争ネタをかなり引っ張って、怖い雰囲気を醸し出す。
それが成り立つのは、「戦争」が「命を失うかもしれないもの」であるから、ではないように思う。日本人にとって、太平洋戦争は、国が主体的に多くの人の命(敵味方関係なく)を奪った直近の記憶であり、「罪悪感」を刺激するものだから、怖さにつながるのではないだろうか。

そして『あしか汁』も『リング』も、自らが被害者の立場から加害者(をサポート)の立場に入れ替わるポイントが用意されており、やはり加害者としての「罪悪感」は恐怖のひとつの類型なのだろう。


そして、怖さを引き出す化学調味料②は「人肉食」だった。
これもホラーとしては昔からよくあるものと言えるのでは?ただ、地域の歴史や祈祷、呪術を用いた兵器という組み合わせ方に面白さを感じた。
ところで、読み終えて、結局、なんで「あしか汁」というネーミングだったんだっけ?と読み返してみた。

「あしか汁は……アシカのスープではない?それは、今まで食べたことのない物を説明するため、仮にそう名付けたに過ぎなかった?」
p165

という程度の書き方しかしておらず名前の由来に触れられていなかったが、これは明確に「足かじる」から来ているんですよね。
そういう意味では、タイトルの時点で気がつく人もいるくらい、「フェア」な謎の提示の仕方かもしれない。
ちょっとタイトル的には「あしか」VS「ちくわ」を対決させてみたいけれど、「ちくわ」は本当に、死ぬほどちくわが出てくる小説で、あれはあれでフェアだった。(笑)
pocari.hatenablog.com


次は、こうしたカクヨム発ホラーということで、まずは近畿地方を、そして『右園死児報告(うえのしじほうこく)』というのも読んでみたい。あと『リング』。