Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ほんとうのさいわい~是枝裕和監督・坂元裕二脚本『怪物』


是枝監督作品はそれほど見ていない。
それでも今作のタイトルにはとにかく惹きつけられたし、少年2人が楽しそうな予告編との「怪物だーれだ」という言葉の組合せはインパクトがあった。
残念だったのは、実際に見る前に「文脈」を意識せざるを得ないキーワードを耳にしてしまったことだ。最初は、Twitter上の誰かの言葉として。その後、カンヌ映画祭のニュースで大々的に…。
そんな風にして、物語の持つ強い「文脈」に触れてしまうと、そこから逃れるのが難しくなる。今回の感想も、購入したパンフレットを読まずに感想を書き、そのあとで改めてパンフレットを読むことにした。

羅生門」形式の3部構成による「真実」へのアプローチ

映画は、時系列で見ると、時間を遡って同じ出来事を繰り返す3部構成になっていた。
最初のパートは、主人公である麦野湊の母親役である安藤サクラ視点で進む。湊が学校で受けたケガについて、小学校の教師陣の対応があまりに酷く、悪い意味での国会答弁的な言葉の使い方から、まさか日本政府批判の映画なのか?と思ってしまった。穿った見方をせず素直に見ても学校側の対応の酷さは明らかで「怪物だーれだ」と問われれば、瑛太(担任の保利先生)と田中裕子(校長)だろうと考えた。


ちなみに瑛太は、あまりに社会常識がない、若い教師然とし過ぎていて本人と気がつかず。1982年生まれだから、現在40歳だけど、新任教師にしか見えなかった。
なお、物語のもう一人の主人公である星川依里は、このパートの後半で出てくるが、初登場時から不思議な雰囲気を醸し出し、素直そうに見える表情の裏に何が隠されているのか気になる。
そして、最初のパートは土砂災害警報の出る大雨の夜に、湊が部屋からいなくなり、部屋の外から湊の名を叫ぶ瑛太の声が聞こえる場面で終わる。


物語が巻き戻り、同じ出来事を別視点から見る「羅生門」形式の次のパートが始まってみると、第二部は、まさかの瑛太視点。
高畑充希瑛太の彼女)と登場するシーンは軽薄そうに見えたが、次第に、教師陣の中で一番「人間」*1的であることがわかってくる。
火事のあったビルのガールズバーに行っていたという話も嘘のようで、噂話のイメージの積み重ねで、人を見ることの怖さを知る。(とはいえ、(誤解を一番嫌うはずの)瑛太でさえ、校長のことを噂話を通した見方でしか見ることが出来なくなっているのは皮肉だが。)
このパートを見ると、湊のケガについての校長室での謝罪、その後状況が進み、会見から報道までの流れは、すべて瑛太の意に沿わない方法でセットされていたことがわかる。それと同時に、教師側から見ると、安藤サクラモンスターペアレンツとして認識されており、観客の視点で観ても、安藤サクラは、(弁護士を通じた5年生全生徒へのアンケートなど)瑛太の個人攻撃に走り過ぎているようにも映る。
2つのパートでの瑛太安藤サクラの見え方の違いを意識して振り返ると、最初のパートの瑛太の酷過ぎる描かれ方は、視点の違いだけでなく、安藤サクラの主観が入っていたのであろうことがわかってくる。
つまり、それぞれの視点で「事実」は異なり怪物は変わってくるわけで、つまり自分の内側にこそ怪物が潜むということだろうか。


瑛太は学校を追われ、高畑充希にも逃げられ、部屋を出ようと片づける際に、依里の作文を見つけ、「真実」に気がつき、大雨の中、湊に謝罪に行く。
ここで最初のパートに戻り、敵対関係にある瑛太安藤サクラのまさかの協力で、土砂で埋まってしまった湊の「秘密基地」に辿り着く。ここまでが第2部。


第3部は、基本的には湊の視点だが、最初は校長が登場する。自分は結局、校長がどのような人なのか読み切れなかったが、彼女も「人間」であることは確かなようだ。
このパートは、ある意味で答え合わせパートで、そして本編だ。
湊と依里の2人が素晴らし過ぎる。
2人の表情と声に会いに来るために、2度目の鑑賞に来たい。


この映画は、登場人物たちの色々な嘘や勘違いが積み重なって出来ている。
湊で印象的なのは、秘密基地の中で、依里を拒絶して逃げ帰ったあとで、自分の気持ちに気がつく流れ。
依里で一番印象が強いのは、「僕、治ったんだ」のシーン。玄関の前で湊が残され、しばらくした後、玄関のドアが再び開き「嘘だよ」と言い直す依里を叱りつける父親(中村獅童)。扉をまたいだ2人の思いに胸が痛くなる。
そして、湊が吹くトロンボーンの、怪物の声のような響き。


この第3部は、湊と依里が、大雨の中、秘密基地に入り、「ビッグクランチ」に備えるところは描かれるが、第2部で2人を救出に来た安藤サクラ瑛太とは会わない。会えないままに、そのあと雨が上がって秘密基地から抜け出した二人は笑いながら草原を駆けるのだ。
各パートが、それぞれの主観で描かれていたことを踏まえれば、草原の風景は夢の世界で、2人は救出できなかった(死んでしまった)と考えるのが一番自然だ、と最初は考えた。
2人の関係は、宮沢賢治銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラのように見えるが、あの話も夢の世界と現実が入り混じるような話で、しかも現実世界では死が描かれるからだ。


ただ、救出される前の意識を失っているときに夢を見ている、と考えたり、あそこから物語自体が分岐していると考えることも出来、そこら辺は曖昧にされている。ストーリーの整合性などよりも、彼ら2人にとっての「ほんとうのさいわい」に辿り着いたところに、この映画の感動はあるのだと思う。

「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄にわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫さけびました。
宮沢賢治銀河鉄道の夜』)

そのほか

ロケ地が素晴らし過ぎです。
最初に「上諏訪」と出てくるから諏訪湖なのでしょうか。湊と依里の2人がビッグクランチの話をする遊具のある高台の公園には、すぐにでも行きたいくらい。
秘密基地周辺や、ラストで2人が駆け回る草原、そして諏訪湖の遠景も良かった。
桐島、部活やめるってよ』もそうだったと思うが、高低差のある場所にある学校も魅力的。
でも、聖地巡礼に行きたい、というよりは、湊と依里の2人とセットで観たい風景なので、やっぱり映画をまた観たいのかな。


ややスッキリしない状態で映画が終わり、そこからエンドロールで流れる坂本龍一の曲も良かった。映画を観終えて、ストーリー性のない、環境音楽のような楽曲を聴くことはあまりないので、とても新鮮に感じた。

まとめて振り返ると、スッキリしない部分「込み」の映画として自分は満足しているが、「校長の論理」がよくわからなかった。このあたり、パンフにしっかり書かれていないだろうか?

パンフレットを読んで

インタビューは、脚本の坂元裕二が一番良かった。

もうひとつはアイデンティティに葛藤する、葛藤させられる少年たちを、映画の物語として利用してはいけないということです。
自分自身を好きになれない、好きにさせてもらえていない人たちのことを書きたいという考えがあったので、そこが間違っていないかどうかが大きな課題としてありました。お話を"作らない”ということが最終的に最も大事だったかと思います。 通常の作劇とは逆に、終盤に進むにつれ、物語性が希薄になってると思います。
最後に向かって、ただただこの子たちと共に生きる時間であってほしいと思っていました。

昨年、ろう者の登場するドラマ、映画を複数見て、それぞれでの描き方の違いも心に残っているので、「少年たちを、映画の物語として利用しない」という言葉に強く興味を惹かれた。
カンヌ国際映画祭で、(性的マイノリティなどを扱った映画に与えられる)クィア・パルム賞を受賞したことから、この作品と切り離せなくなってしまった「文脈」に警戒しながら観ることになってしまった映画だったが、ラストまで観て、その「文脈」にいやらしさを感じなかったのは、坂元裕二脚本ゆえなのだろう。
「最後に向かって、ただただこの子たちと共に生きる時間であってほしい」という願いは、十分に果たされたと思う。


そして、何といっても、自分の中で最高レベルの「文庫解説の名手」である角田光代の解説が素晴らしい。ここまでコンパクトに要点をまとめられるのは本当に羨ましい。今回も全文素晴らしかったが一部だけ抜粋する。

映画の前半に起きる、 一連の不可解なできごとは、とつぜん出現した自分自身と依里を守るための、あるいは救うための、湊の孤独で不器用な闘いだったと気づくとき、作中に響く金管楽器の音が、姿を見せない怪物のやさしくかなしい咆哮のように聞こえて、心が揺さぶられる。この音の正体は映画の後半でわかるが、このときの校長先生のせりふは、深く深く胸に刺さる。 怪物さがしの映画ではなかった。 私たちの内にいるかもしれない、ちいさくてもろい、すべての怪物に寄り添う映画だった。

そして、ここで書かれている「校長先生のせりふ」は、早稲田大学文化構想学部教授の岡室美奈子さんが、パンフレット内の別の解説で引用してみせる。岡室さんは、『怪物』の、映画『小さな恋のメロディ』との類似点を挙げつつ、以下のようにまとめる。

『怪物』では、同じく廃線となった線路上に打ち捨てられた列車の車両が重要な舞台のひとつとなる。親や教師ら大人たちを巻き込んで吹き荒れる終盤の嵐はこどもたちにとっての戦争だ。その闇の向こうには『小さな恋のメロディ』をはるかに超える美しいシーンが待っている。それは是枝と坂元が到達した、紛れもなくこどもたちだけの光にあふれた世界だ。そこには彼らに自分たちを怪物だと思わせた理不尽な社会も硬直した価値観も届かない。 あかるい光の中、ふたりが線路に向かって駆け抜けるエンディングが、私には彼らの結婚式に見えた。「怪物だーれだ」という問いへの答えは一様ではなく、誰もが怪物になりうる。けれども誰もが幸せにもなれるのだ。 田中裕子が演技を超えたまなざしを湊に向けて言うように、「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない」のだから。

このように見ると、自分の『銀河鉄道の夜』への連想は、校長の「しあわせ」に関する発言から来ていたことがわかる。
一方で、校長先生の言う「誰にでも手に入るものが幸せ」について、映画を観ていた自分にはすぐにピンと来なかった。しかし、例えば「結婚」という幸せは、「誰にでも手に入るもの」になっているのだろうか、と改めて考えてみると、ここでいわんとしていることは理解しやすくなる。
幸せを奪うもの(幸せになる権利を与えないもの)を「怪物」と呼ぶとすれば…とまで考えてしまうと、この作品のテーマが説教臭くなってしまうが、自分の内側にある差別心は「怪物」と呼べるものだろう。
この映画は「怪物だーれだ」のフレーズとともに、観客それぞれの中にある「怪物」そして「幸せ」について考えさせる作品になっているのだと思う。



是枝裕和監督の作品、坂元裕二脚本の作品は、ともにほんの少ししか観ていないので、もっと多くの作品に触れてみよう。

*1:安藤サクラが校長(田中裕子)に「あなたは人間ですか」と詰め寄るシーンが印象的

徹底した取材が陰謀論を退ける~堀越豊裕『日航機123便墜落最後の証言』


これまで、青山透子『日航123便 墜落の新事実』(以下、青山本)で衝撃を受け、日航機墜落の原因について「ミサイルによる撃墜」という陰謀論に傾きかけ、これを否定する杉江弘『JAL123便墜落事故 自衛隊&米軍陰謀説の真相』(以下、杉江本)を読み、「青山本は妄想」という杉江氏の主張に納得した。

そして、今回読んだのが日航機墜落に関する3冊目の本となる。

米国関係者への取材

この本は、青山本、杉江本と比べると大きな特徴があり、それは米国関係者への取材の量が圧倒的に多いことである。
以下に、本書に取材対象として登場する米国関係者を列記する。

  • 第2章 米紙にもたらされたリーク
    • 運輸安全委員会4(NTSB)の元幹部 ロン・シュリード
    • 当時のNTSBの委員長ジム・バーネット(故人)の母親、妹、親友
    • NTSBでバーネットの補佐役だったジョン・ハマーシュミット
  • 第3章 ボーイング社長の苦衷
    • ボーイングの航空安全マネジャーとして事故調査にあたったジョン・パービス
    • 事故当時のボーイング社長であるフランク・シュロンツ
    • 日本の捜査当局とボーイングの間に入った米司法省刑事局検事リンダ・キャンドラー
  • 第4章 消えない撃墜説を検証する
    • 空中分解したTWA800便の事故のNTSB主任調査官であるトム・ホエター(TWA800便の事故は123便と同様にミサイル撃墜の説が話題となった)
    • (事故から30年に合わせて、米政府の情報公開法に基づき、連邦航空局とNTSBに開示請求し、2年を経て公開された日航機事故に関する資料)
  • 第5章 墜落は避けられなかったか -機長たちの証言-

量だけでなく質も十分で、5章の英雄2人も含めればオールスター級の取材先とさえ言え、通常の新書のレベルを遥かに超えていると思う。
作者の堀越さんは、共同通信の記者で、ニューヨーク支局、ワシントン支局にいた時代が長い。ニューヨーク支局勤務時の2014年から取材を始めた、ということなので、立場を活かした取材ということなのだろう。
なお、取材から得られる米国関係者の印象について、あとがきには以下のように書かれているが、読者としての印象も同じで、米国側が何か隠しているようには到底思えなかった。

米国人は基本的にオープンで、筋道を立てて取材を申し込めば、かなりの人が協力してくれた。日本で外国人記者が取材しようとした場合、もっと壁が高いだろうと思う。話したくて仕方がないという人は誰一人いなかった。未曾有の大事故の調査や捜査を体験し、貴重な経験を後世に伝えねばならないという義務感や倫理感で対応してもらっている感じがした。(あとがき)

NTSBが高い技術力を誇り、安全文化の点でも日本より数段上であることは、杉江本でも示されていたことではある。
しかし、この本を読んでみると、日航機事故の原因に対して、取材を受けた全員(ボーイング社の関係者や、検事など様々な立場の人)がNTSBの判断に何の疑問を持っていないことが感じられた。日本国内関係者の(日本の)事故調に対する信頼感と比べると天と地ほどの差がある。(NTSBへの信頼感は、米国で陰謀説が出るTWA800便の事故についてさえ全く変わらず、専門知識を持った人ほど全幅の信頼を寄せているようだ。)
ということはつまり、NTSBの結論である圧力隔壁原因説は揺るがない、ということだ。青山本等が主張する「撃墜説」についても、自衛隊の誤射だったとすれば、米国側が隠蔽に加担する必然性がない、というその一点で崩れ落ちる。


なお、杉江本では、事故調の報告書の理屈が十分に科学的であることを、杉江氏自身が元機長としての経験と知識をもとに確認していっていた。
それに対して、この本で堀越氏は、(自身の経験や知識ではなく)関係者に取材を重ねていくことで、圧力隔壁原因説が妥当であるという同様の結論に至る。
結論は同じだが事故原因を検証する過程が異なるのが面白い。

国内関係者への取材

当初の予定は米国取材だけだったのに対して、平凡社新書編集長の金澤智之さんからのアドバイスで、国内取材も加えたそうだが、本人も自賛する通り、このおかげで非常に立体的なまとめになっている。
何よりも面白いのは、4章において、日航機事故へのスタンスが全く異なる2冊の本の著者である青山透子、杉江弘にインタビューをしていることだ。


本の中で立場を明確にすることはないが、堀越氏によるこの本は、先述の通り、杉江氏の主張と一致するところが多くある。
青山氏に対しては、その主張に多くの疑問を抱きながらも「一笑に付すことはできない」と一定の留保は見せる。ただし、青山本に登場する最も重要な目撃証言の証言者への取材を断られたことに関する記述など、青山本への不信感は間接的に書かれているように思う。

杉江本へと意見が異なる部分

一方で、この本が杉江氏の本と意見を異にするところもいくつかある。
まず、第5章では伝説の元機長たちに日航機事故の墜落が避けられたかを問うが、ちょうどこれは杉江本の第5章の「東京湾への着水シミュレーションによる墜落回避」と対応する内容と言える。
本の中では、123便の事故は「ハドソン川」や「UA232便」の事例よりも条件(機体の損傷や、地上が見えにくい夜の時間帯)が悪く、相当難しかった=「墜落は避けられなかった」と結論づけるが、これは、機長の機体操作に主眼を置き「墜落回避が可能だった」とする杉江本とは異なる。
また、再発防止のために「CRM」の重要性が語られるところも大変興味深い。
CRMとは、Cockpit Resource Management あるいはCrew Resource Managementの略で、「機長はもとより、副操縦士や客室乗務員の能力を最大限に引き出し、安全な飛行に役立てようという考え方」を指す。
ここではCRMに詳しい米国の航空評論家の言葉が引用されている。 

日航123便の悲劇の一つは、乗員間のコミュニケーション不足にあったのではないか。
修理ミスと急減圧が起きたという異常事態だったにせよ、CRMがもう少し機能していたら結果は違ったかもしれない。CRMというのは他人を直接的に批判する文化のある欧米のほうになじむが、上司の誤りを正すことに慣れていないアジア諸国のほうにこそ大切なことかもしれない。性別や年功といった壁を超えることが必要になる。

つまり(杉江本で強調されていた)機長個人の能力や事前訓練、というよりは、コミュニケーションなどチームに主要な問題があるという視点が提供される点が興味深い。
このあたりの「失敗学」的視点は、飛行機事故のことではなく、自らの職場の問題としても捉えて考えておきたい部分だ。


次に、杉江本がきつく非難した墜落直後の自衛隊および政府の対応(墜落地点特定の遅れ)についてだが、6章でその問題は指摘しつつも、「仕方がなかった面もある」という、やや自衛隊側に寄った結論になっている。当時の防衛庁航空幕僚幹部の広報室長に突っ込んだ取材をしている手前もあるが、本の成立過程(メインは米国関係者の取材であること)を考えれば、「ここは自分が突っ込んでかき回すところではない」と判断したのかもしれない。


そして最後に「再発防止」「刑事責任の追及」のどちらに重点を置くかという問題。
杉江本が何より「再発防止」に重点を置き、米国型の事故調査のメリットを強調していたのと比べると、かなり引いた書き方になっている。自分は、杉江本を読んで、「日本型ではもうだめだ(すべての元凶だ)」と感じてしまっていたので、「米国型が必ずしも上手く行くと限らない」という結論は新鮮に感じた。

再発防止に重点を置くか、刑事責任の追及に主眼を置くか。
法律は各国の歴史と文化に深く根差したものであり、どちらが正しいとは一概に言えない。
飛行機や鉄道の事故が起きると、米国型のシステム導入を求める声が高まる。遺族の間にもあるし、事故調関係者は特にその傾向が強い。
私は否定的で、米国のようなやり方が日本に根付くとは思えない。根付くのであれば、米国型のほうがいいと思う。再発防止に資すると思えるからだが、法手続きだけを表面的に〝移植"してもうまくいかない気がする。
米国には別の人の犯罪を洗いざらい提供する代わりに、自分を免責してもらう司法取引の制度も定着している。米国は自分の主張を語る文化であり、日本は黙っていることが美徳とされてきた。根本から違う。

ただし、これまでのやり方を変えなくて良いというのではなく、警察が改善すべき点として、(1)ミスを罰することの是非、(2)権力をかさに着る警察全体の体質を挙げている。
このうち一点目は、具体的には、運輸省元検査官が修理ミスを見落としたとして、群馬県警書類送検され、連日の事情聴取の中で自殺に追い込まれた件を指している。

県警は職務上、田島の刑事責任を問わねばならないが、問うたことで一体誰が幸せになったのだろうかと思う。(略)誰かに責任を取らせることで溜飲を下げる社会だとすれば、少し悲しい。プロにはプロらしい仕事を期待するが、事故が起こるまで認められてきた仕事以上の内容を急に求めるのは酷である。標準的な能力を持っていればミスを招かず、ミスをしてもどこかで元に戻せる環境をつくることが重要なのである。悪気のないミスに対 し、有形無形の圧力で追い詰めていく社会は健全でない。

NTSB関係者には「米国では考えられない」と言われているが、日本型組織では十分送る可能性のある流れでもあり、まさに仕事上のミスをめぐる自分自身の組織の問題(反面教師)として肝に銘じておきたい内容だ。

まとめ

ということで、ここまで書いた通り、青山本、杉江本のどちらとも異なり、徹底的な関係者取材や、資料の読み込みから「事実」を読み解いていく過程がなかなかスリリングな本だった。
3冊の中では執筆にかけた時間が最も多いと思われ、これを読んでしまうと、青山本は、(「科学」の成立根拠を「再現性」とするのであれば)「社会科学的」には稚拙で、根拠が希薄な本と言える。その感覚が分かっただけでも3冊読んだ甲斐があった。
また、最後に書いた通り、杉江本との微妙なスタンスの違いがやはり面白い。
このあたりも、物事を考えるときに2択(青山本か杉江本か)ではなく、3択、4択に出来るよう、考え方の引き出しを多く持っておく必要性を感じた。それもまた訓練が必要だ。


そして、このような大きな事故でも、大元は「ミス防止」という、どのような人の仕事にも関連する因子に分解できることを再確認した。実際に身近に生じた失敗事例を学び分析するのは勿論重要だが、直接は無関係な事例からも学べることは多くあるはずだ。
「失敗学」の本も一時期何冊か読んだが、今ならまた違う気持ちで読める気がする。とかく「仕事本」的な本は毛嫌いして避けてきた傾向があるが、読み直すべき時期が来ているというサインかもしれない。


なお、このように「自分事」にしていけばしていくほど、精神的にも「陰謀論に逃げる」ことは難しくなる。
陰謀論」は、問題を他人事として捉え、その原因を(できるだけ自分と直接は無関係な)「大きな存在」に求めようとして出てくるものとも言える。
安易に逃げない、ただそう思っておくだけでも、陰謀論を避けて生きていける気がしてきた。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

陰謀論から抜け出したい~杉江弘『JAL123便墜落事故 自衛隊&米軍陰謀説の真相』

青山透子『日航123便 墜落の新事実』(以下、青山本)の感想をまとめてから比較的早い時期に、「冷静になってみれば、やはり結論が”ミサイルによる撃墜”というのはさすがにないだろう」と思い始めた。

そもそも、自分は、子宮頸がんワクチン関連本*1を読んで、一度は「ワクチン・ビジネスけしからん。政府は信じられない。」と怒っていた人間。その後、総合的に判断して、自分の娘にもワクチンを打たせるまで変わったのだが、「政府が隠している!」系の陰謀論に嵌まりやすいタイプの人間だと自覚している。

そのような自分の考え方を糺す意味でも他の本も読んで勉強しようと思い、手に取ったのが、青山本よりも後に出ている2冊だった。
今回はそのうちの一冊について取り上げる。


読んでみるまで

著者の杉江弘氏は、元・日本航空の機長。いわば「中の人」の中でも最も信頼に足る人のはずだが、読む前の印象はマイナスに振れていた。
というのも、「巷に横行する陰謀説の欺瞞をあばく」という惹き文句を見て、非専門家(元客室乗務員とはいえ)の女性に対して、専門家の男性が「これだから素人は困る」と得意な部分を詳細にまくしたてるも、全ての疑問に答えようとしない「政治家答弁タイプ」の文体を想像してしまったからだ。
しかし読んでみると全く異なり、むしろ頑固なくらいの高い倫理観を持った技術畑の人間として、尊敬できる人物だと感じた。

第1章 青山透子『日航123便 墜落の新事実』の真相

第一章では、陰謀論の中心的な言説とされる池田正昭氏による複数の著作での主張(自衛隊&米軍によるミサイル誤射説)を退けたあと、青山本の問題点を次のように説明する。

  • 科学的検証に必要なのはブラックボックスに入ったフライトレコーダーとボイスレコーダー。ミサイルなどの衝突があれば、123便のフライトレコーダーに確実に記録が残るはずだが、そのような記録は存在しない。
  • また、目撃証言から123便と並んで飛んでいたとされるファントム機も、スクランブル発信命令時刻とフライトレコーダーの飛行記録を合わせて考えると、時間のずれがあり、近距離を同時に飛んだとは考えられない。
  • こうしたフライトレコーダーの記録からすれば、目撃証言には誤りがあると考えるのが妥当だが、青山本ではフライトレコーダーへの言及が全くない。
  • 世界中で起きた墜落事故の例では、目撃証言の時系列的な錯誤がきわめて多い。(例えば、墜落後に炎上したものを「燃えながら墜落」)

これらのことより、青山本は「物的証拠による検証を経ていない「証言」だけに偏った非科学的な説」であり「証言を切り貼りしてひとつのストーリーを作った妄想」と結論付けている。
なお、人命救助を後回しにして証拠隠滅を図った、という指摘についても、ブラックボックスやミサイルが衝突したとされる垂直尾翼を含む機体後部が残っていることから最も重要な証拠を残してしまっており、整合性が無いとしている。
いずれも青山本の弱点をしっかり衝いており腑に落ちる内容だと感じた。


ということで、タイトルにもあるメインディッシュ(自衛隊&米軍陰謀説の真相)は1章で片付けてしまうのだが、2章以降では政府擁護に走るわけでないのが興味深い。
青山本と同様に、政府や主に事故調の問題を指摘し、古巣の日本航空も含めてダメ出しをしまくる内容で、結論を除けば青山本と同じ方を向いている。

第2章 「ブラックボックス」は語る~「JAL123便墜落」徹底検証

この章では事故原因について語られる。
杉江氏は、事故の原因は「7年前に起きた伊丹空港での尻もち事故後の圧力隔壁修理のミス」(ボーイング社が発表し、後追いで事故調が見解を述べた内容)で基本的には正しいとする立場。

それでも多くの人が極端な陰謀論に走ってしまうのは、事故調に対する不信感がすべての根源である、と杉江氏は主張する。
それゆえ、事故調を断罪することに多くのページが割かれるのだが、そもそも事故調への不信感の理由は以下の4点にまとめられるという。

1.相模湾での海底捜索を十分に行わなかった。
2 事故現場の特定過程での自衛隊、警察の混乱ぶりの経緯について言及しなかったこと。
3 事故調が運輸省の内局という立場で、政府、省庁、航空会社等の利害関係から独立した公正な組織でなかったこと。
4 急減圧を証明する実験を行わなかったこと。


このうち2は、墜落現場の特定に右往左往した警察や自衛隊の経緯について、事故調報告書で一切の記述がないことを指したもの。
この原因について、杉江氏は、上記3と同根としている。つまり、日本の事故調は運輸省のなかの一組織でしかなく、外務省、防衛庁警察庁との関係や連携に介入できるほどの権限を与えられていなかったため、各省庁間で合意される事実以外に触れることができなかったのではないかと推測している。
そして、「独立性」の観点では、各省庁から完全に独立した組織である、米国のNTSB(国家運輸安全委員会)と事故調との差が論じられる。
具体的には、1996年のニューヨーク、ロングアイランド沖に沈んだTWA800便の事故調査の成功事例と比較しながら、事故調査において、警察優先(原因特定でなく犯人検挙を目指す)となってしまっている日本の方法では、有効な再発防止策まで辿り着かないことを嘆く。
そう、まさに、「再発防止」こそがポイントとなっている。
特に4章、5章が特徴的だが、この本は(主にパイロットの視点から)同じ事故が起きたときにどのように動けば多くの人命が救えたか(再発を防止もしくは被害を最小化できたか)に重点を置いて書かれている。
これは、原因推定までで留飲を下げる青山透子さんの本とは大きく異なるポイントになっている。事故調だけでなく、検証本や特別番組も、すべてが「再発防止」のために作られるべきだと繰り返し主張する杉江氏の様子から、彼の使命感が伝わってくる。


また、上に挙げたうちの4つ目に出しているのが「急減圧」についてだ。「急減圧」は、事故調報告書で原因を示す言葉として用いられるが、杉江氏の主張は、「圧力隔壁が破壊される程度の減圧はあったが、急激なものは無かった」というものである。この「急減圧」が問題となるのは何故かと言えば、報告書発表後に「急減圧で生じるはずの機内の急激な気温低下が見られない」などの疑問が集中した部分だからだ。
しかし否定的な指摘があったにもかかわらず、「急減圧」という言葉はそのまま残り、急減圧を証明する実験も行わなかったことも、事故調報告への不信感が増す原因となった。

第3章 生存者を見殺しにした日本政府とJALの責任

事故後の対応について、まず、米軍海兵隊のアントヌッチ元中尉による証言について取り上げられる。

アントヌッチ証言は、現在でも「謎」とされている解明すべき点を多々、指摘している。
まず、第1に、現場にたどりついて降下しようとしていた海兵隊とアントヌッチ元中尉の乗務するC130機に帰還命令が出されたのはなぜか。
第2に、C130機は19時15分には現場の位置を横田基地の管制に通報したというのであれば、即刻その情報は日本側に伝えられたはずである。にもかかわらず、日本の救援隊の到着は、夜が明けた翌13日になってからというのはなぜか。
第3に、21時20分頃に、現場へ到着したという日本側の救難機は、仮にこれが事実ならば、もちろん本部に墜落場所を通報しているはずだ。しかし、現場の特定は二転三転している。
p122

さらに、米軍関係者の話では、横田基地には救難部隊が編成され、いつでも出動できる態勢にあったが、日本側の要請が最後まで来なかった、という酷い話も聞こえてくる。
これについては、直接救援にあたる自衛隊や警察だけでなく、日本政府の問題でもあるとして、当時の運輸大臣山下徳夫と総理大臣・中曽根康弘が主体的な動きをしていないことを強く批判している。
併せて、元の職場であるJALについても、32年間対策会議さえ開かなかったこと、また、「死者に鞭打つ行為」になるから殉職したクルーへの批判になることはやめようと、事故時行動の検証と再発防止に向けた建設的議論が行われなかったことを非難している。
さらには、その矛先はマスメディアにも向けられる。繰り返される特別番組などのテーマは「事故原因は何か」という一点に集中しており、番組制作のエネルギーは再発防止には向けられないことを挙げ、マスメディアの報道も米国と比べてレベルが低いと指摘している。
繰り返すが、2章、3章での関係者への苦言は、青山本と同じ法を向いている。しかし、(青山本の「証拠隠滅」のように)救難作業が遅れた理由について深く突っ込まないのは、証拠のないことは憶測で言わないという姿勢を貫いているからだろう。

第4章 パイロットに残された教訓、第5章 「ハドソン川の奇跡」に学ぶ最善の生還術

第4章、第5章は、元パイロットとしてのやや専門的アプローチで、やはり米国の事例を引き合いに出している。
挙げられているのは以下の2事例だ。

なお、後者は『ハドソン川の奇跡(原題:Sully)』という映画で有名だが、前者も『レスキューズ緊急着陸UA232(原題:A Thousand Heroes)』という映画があるようで見てみたい。

UA232便の事故で驚いたのは、救難訓練の賜物で、パイロットの技術だけでなく、空港接近前に警察、医療チーム、レスキュー隊員などの連携による準備が十分にできていたこと。さらに、地元の人々も進んで献血に参加し、長い行列を作り、採血した血液は推定必要量を超えて約142リットルにも及んだというのは衝撃的だ。

ハドソン川の事例では、何といってもバードストライクの怖さ。カナダ雁の群れに遭遇してエンジン2つの能力を失ったというが、いつ起きてもおかしくないように聞こえてしまう。調べると、バードストライク自体は日常茶飯事のようだ。しかし、事故に繋がるものは、国内の航空会社ではほとんど事例がないと知り胸をなでおろした。


123便は異常事態発生後、右に大きく旋回し結果的に御巣鷹山に向かうが、左に旋回し(ハドソン川のように)東京湾を目指すべきだったというのが作者の杉江氏のスタンスで、このシミュレーションが5章に示されている。ハドソン川の事例で緊急着水を成功させることが出来たのは、機長があらかじめ不測の事態への思考訓練ができていたからだろうと考え、このシミュレーションもその実践と言える。過去の事例から教訓を得て次につなげる「米国流」の航空安全文化を日本は多く学ばなくてはならない。


なお、4章では、そもそもそれが無ければ事故は起きていなかった「尻もち事故」についても原因と対策について触れられている。
日本における尻もち事故は、着陸用に使うフラップの角度が世界標準とされることの多い30度ではなく、より難度の高い25度で設定されていることが原因だという。
上手く操縦できれば25度の方が騒音対策や燃料削減に役立つというが、うまく操縦できなければ逆に燃料の消費や騒音を大きくしてしまい逆効果で、尻もち事故のリスクも高めてしまう。
この話は、以降に出版された本↓でも主題になっているようだ。飛行機に乗る際は、(都内に住んでいるから必然的に)羽田空港を利用することが多い自分にとって大きな問題なので(そして、読みやすいブックレットなので)こちらも読んでおきたい。


まとめ

終章では、日米の「安全文化」の差について改めて指摘するとともに、これまでに出たJAL123便墜落事故に関する書物(事故原因を主要なテーマとしたもの)の傾向について記されている。 

圧力隔壁の破壊を認めない 「作家」や「識者」の方々は、事故調が相模湾での海底捜索を十分にやらなかったことや、事故現場の特定に時間がかかったこと、さらには米軍の救助が中止になったことに対する調査がなされなかったことなどへの不信をもって、「このような事故調の言うことは信用できない」と主張する。結果、事故調が使った減圧のプロセスでの計算式や数値そのものへの検証や批判を行うことなく、頭から圧力隔壁破壊説を否定するのだ。

まさに、今回自分が反省すべきもここにあっただろう。

青山本のみを読んで判断するのは難しいが、目撃情報のみを証拠として作ったストーリーをそのまま信じてしまうのは軽率だったといえる。
子宮頸がんワクチンも同様で、副反応が出た方の意見に重きを置き過ぎ、「専門家は真実を隠そうとしている」という思考に走ると、事実から遠ざかってしまう(陰謀論に嵌まってしまう)。このあたりのバランスをどう取るかは、色々な事例に触れながら考えていくしかないが、今回のように、読書感想というかたちで書き残すことで、バランスのとり方を少しずつ学んでいければと思う。

なお、青山透子さんの本を「完全にデタラメ」と思ってしまうのも姿勢としては誤りだと感じる。異なる情熱をもって書かれたそれぞれの本で(論理展開や表現の仕方で)見習うべきところは何処かを考えていきたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

*1:斎藤貴男『子宮頸がんワクチン事件』だと思うので2015年のこと

文章からも挿絵からもカヨへの愛が溢れる~内澤旬子『カヨと私』

この本には下心(邪念)があって読み始めた。

内澤旬子さんの著作で読んだことがあるのは『飼い喰い』という、三匹の豚と半年間一緒に暮らしたあとで食べてしまう実話。その人がヤギと暮らす、その距離感に興味があった。
ちょうど『ヤギと大吾』と言うテレビ番組*1もあるし、「リアリティ番組」風な、「突撃取材」風な、それでいてテレビとは違って自己言及、自己分析が多めなエンタメノンフを予想していた。


さらに言えば、(この本を読んでいて気付いたが)ここで書かれている時期は、もしかしたら『ストーカーとの七〇〇日戦争』の時期と重なるのではないだろうか。本は2部構成で、第二部は「突然、海の見える家をでて引っ越ししなければならなくなった。」から始まるが、その理由が書かれていない…。


というように、色々と「邪念」含みで読み始めた本だったのだが、その「邪念」を吹っ飛ばすほどに「良い本」だった。

読んで感じる愛と信頼

予想と大きく違っていたのは、ヤギに対する視点だ。
もう少し「観察」寄りかと思っていたところが、完全にヤギと同じ目線で、飼っているというより、パートナーとしてヤギを見ている。特に何匹も登場するヤギの中で一番年長のカヨに対しての、愛情と言うより「信頼感」が強く感じられる。


一緒に暮らし始めたのはカヨ1匹なのだが、その後、カヨの4度にわたる出産もあり、ヤギは増えていく。本のタイトルから、「カヨ(1匹)と暮らした3年間」みたいな話なのかと思ったら、実際には、最初の出産で生まれたチャメとタメ、次に生まれた金角、銀角、次に生まれてすぐに引き取られた2匹、さらに最後に生まれた雫、一時期同居していたまさお、とかなり賑やかだ。


この、妊娠、出産にかかわる話こそが、この本の一番の核となっている。
例えば、初産の前、発情期で騒がしいカヨをどうすればいいか考えているときは、死まで思いを巡らせる。

カヨがもし死んでしまったら、どうしよう。 妊娠から出産までのことを調べていると、死んでしまう可能性に突き当たる。 大丈夫だと思いつつ、不安でしかたがない。
こんなに美しい生き物が、この世からいなくなるなんて、考えたくないけれど、たぶん私が生きている間に、カヨは私よりもずっと早く老いて、走り去ってゆくのだろう。
p66

この章のタイトルは「食べる是非」。カヨを食べることは考えていないが、以前育てた豚と比較しながら、死をどう捉えるかについて具体的に考えている。


また、乳腺炎にならないように搾乳を試みる場面では、カヨは怒って角を立てて抵抗する。
抵抗され、カヨにお願いして「許される」(もしくは許されない)。
逆に、カヨがお願いしてきて、それを許す(もしくは許さない)。
この流れ、すなわちカヨとの「対話」が本の中では何度も登場する。

それでも毎日搾り続けていると、カヨも搾れば乳房の張りがとれることがわかってきたのか、すこしずつではあるけれど、「搾らせてあげる」時間ができてきた。 一分が二分に、そして五分。
(略)
ああ、たぶんこれなんだ。馬に乗る人たちが、味わうという幸福。 彼らが私たちのために分けてくれる。許してくれる。私たちが一方的に操り、支配し、利用するのではなくて、家畜たちが、許してくれるからこそ、乳を搾ったり、背に乗って走らせたりできるのだ。私たちは、動物に許されて、譲られて、勝手をしている。 「使役」なんておこがましい。
カヨ、分けてくれて、教えてくれて、ありがとう。
p105


雫を生んだあとにも、発情期*2になると「雄ヤギのいるところに軽トラに乗せて連れてってくれ」とお願いをするカヨに対して、内澤さんは、その願いには応えられないと告げる。

ごめんね、カヨ。おまえが欲しいもの、したいこと、本当は全部かなえてあげたかった。心地よく楽しく暮らしてほしい。でも、この先も休みなく妊娠して出産し続けたら、間違いなくおまえの寿命は縮まってしまう。それが私には耐えられないんだよ。
私の、人間側の都合なのかもしれない。私たちは自分にも一緒に時間を過ごす相手にも、どうしても健康と長寿を欲してしまう。 もしかしたらカヨは発情しているのに交尾できないことのほうが辛いのかもしれないのに。
p230

このあたり、ある程度「当然」で済ませてしまうような(避妊や去勢をめぐる)話題にも、ヤギの目線で悩むのが内澤さんらしい。
坂東眞砂子の「子猫殺し」事件*3についても、事件当時は動物を飼っていなかったが「複雑な気持ちになった。たしかに私たちは動物の性欲をあまりにも簡単に取り上げがちだと気づいた」(p202)としている。


そういった、カヨや、そのほかのヤギ達への思いが詰まっているのが、何といっても、内澤さん自身による挿絵だ。最初に出会ったときから「美しい」「愛らしい」と描写する内澤さんのカヨへの思いは、その丁寧な描線に込められていると感じる。

上は、一緒に暮らし始めた頃に、食べる草を選り好みして、椿の花を美味しそうに食べるカヨ。
表紙、背表紙を含めて何十点もあるイラストすべてが、それだけで文章の何倍もの情報量を持っている。
是非、実際に本を手に取ってパラパラとめくってほしい本だと思う。

まとめ

この本を読む前に、多和田葉子『献灯使』を読んでいた。SF的設定、そして言葉遊びに近い表現や、登場人物たちの考え方には、「面白い」と感じる一方で、「震災後文学の頂点」などと評されると読み解きが必要で面倒な文章と思ってしまったことも確かだ。

それに比べてこの本はシンプル。

大きなメッセージはないが、言葉以上にイラストからカヨへの思いが伝わってくるようで、内澤さんの思いを辿りながら、あっという間に読んでしまった。

生きること、食べること、育てること。この本のテーマは、リアリティ番組のように消費されるものではなく、誰もがこれまで考え、これからも考えていく題材だ。

飼い喰い』のときにも感じていたはずの、内澤旬子さんの愛情や情熱は、読後に忘れてしまい、何となく「単なる面白エンタメノンフ作家」として覚えてしまっていたが、他の作品をぜひとも追ってみたい作家になりました。

次は、やはりストーカー本と、小豆島の話を読んでみたい。小豆島も行ってみたいなあ。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

*1:千鳥の大吾がヤギと旅する内容?→https://www.tv-tokyo.co.jp/yagitodaigo/

*2:種類によるが、カヨの種類は21日ごとに発情期が訪れる

*3:これについて本が出ていることを知った→https://www.amazon.co.jp/dp/4902465159

個人的好みから外れた「絶対安全コナン」~『名探偵コナン 黒鉄の魚影』

公開時期から少し遅れて4/29に観てきました!

総評

展開が早く、隙なくまとまって面白かった。登場人物の豪華さとテンポだけで言えば、コナン映画の中でもベストと言えるかもしれない。
灰原がさらわれて本題に入るのも早く、映画恒例の「楽しく華やかな(でも無駄な)部分」がホエールウォッチングくらいに抑えられていた。(博士のクイズも早かった)
この結果、灰原救出という、わかりやすい最終ゴールが早期に提示され、ストーリーを追いやすい映画になった。
一方、救出の是非にかかわらず敵の手に渡ればゲームエンドの「老若認証」システムも、これまでのコナン作品に親しんだことのある誰もが、その危険性(コナンと灰原の正体を知られてしまう)を認識できるという意味で、優れたアイデアだった。


また、全体を通して、灰原のコナンに向けた想いについて丁寧に説明するような映画になっていて、灰原をより深く理解できた。
正直、「灰原によるコナン救出」の際の人工呼吸シーン*1についても、クールな灰原なら別に何も気にしないでしょ、と思っていた。が、灰原は、陸に戻ってから蘭に「キスを戻す」くらい気にしているということが分かり、微かな恋心を知った。*2
その意味で、2人の関係性について、これまで以上に深く確認できた。


が、個人的に求める理想像と比べて、コナン映画の潜在能力をフルに発揮できていたかと言えば、足りなかった感がある。
その原因を考えてみた。

「そうはならんやろ!」が少ない

これに尽きる。
人によって感覚が全然違うだろうし、自分もかつては煩わしいと思っていた部分だが、コナン映画は、「そうはならんやろ!」と突っ込みを入れながら観る映画だと思っている。
しかし、今回、すべてがやや現実寄りで、自分の言い方でいう「ボカンコナン」の破天荒な部分が少なかった。
今回、突っ込みを入れた非現実的なシーンは、ホテルの4階?から飛び降りてピンガを仕留めようとする蘭のシーンくらいで、最後の赤井秀一の狙撃ですら、いつもと比べると現実的だった。
踏み外せば死ぬ高所で格闘を繰り広げたり、異常な長距離からピンポイント過ぎる的に狙撃したり、巨大サッカーボールを使って何が起きたのか理解できないままに大勢を救ったり、地球外から攻撃されたり…という、これまでのコナン映画の定番である「普通じゃないシーン」が少なかった。
恒例のボカンボカンの爆発シーンはあるにはあったが、それですら、皆が退避を済ませたあとの爆発、という、どこかに気を遣っているのか?と勘ぐってしまうくらい、安全に終わってしまった。


そもそも、今回は灰原救出がメインストーリーということで、『沈黙の15分』で、99.9%無理な状態から脱出(救出)するようなクライマックスを期待してしまったところもある。
そう考えると、今回の映画は、コナン映画の「角」を矯めて牛を殺してしまった「絶対安全コナン」とでもいうべき作品になっていると感じられた。

ダメ過ぎる黒ずくめの組織、適切過ぎる博士の発明

常に言われることだが、そもそも組織内部の対立もあるのに、潜入され過ぎ。
今回も、水無、安室がいて、さらに、ベルモットまでがコナンに肩入れしている状態。
普通の映画なら、ベルモットの企みがギリギリでばれて絶体絶命に…というようなシーンが描かれるが、それもないので、観客は、ただただ安心して時を過ごすことが出来る。


また、映画で描かれる危機に対して、阿笠博士が、「適切過ぎる、使い勝手が良過ぎる発明品」を作ってくれている。
そのため、発明品が登場した場面でクライマックスに向けた気持ちの準備が出来てしまう。


結局、これらが「そうはならんやろ」を繰り出さなくても事件が解決してしまうことの一因にもなっている。

「老若認証」システムのアイデアが中途半端

「老若認証」システムは、コナン映画のアイデアとしては素晴らしいけど、国レベルでの運用を考えると、個人のプライバシーの無い中国でしか使えない。
これがインターポールで採用されて、しかも複数国間で監視カメラの情報を共有するという、さらにあり得ない状態になっているのが理解しがたい。(黒の組織側が開発したのなら理解しやすい)
このような国家間相互監視(+情報共有)を可能にする危険なシステムについて、パシフィック・ブイ職員が得意気に説明し、警察が「素晴らしい」と絶賛する流れは非現実的過ぎる。さすがにコナン*3は「いや、そんなシステムは…」と監視社会の息苦しさについて意見を挟もうとしていたが、結局、映画の中でその問題点が明示的に扱われないのはおかし過ぎる。


また、開発者の直美・アルジェントが、差別のない社会を目指していながら、どうしてこのディストピアシステムを開発してしまうのか、その理屈も理解できなかった。さらに、このあとも彼女が「老若認証」システムの研究を続ければ、黒ずくめの組織を含む世界中の犯罪組織によって同じ事件が繰り返されるだろう。
ディープフェイクによる誤認逮捕などの問題には触れられていたが、そもそもの倫理面の問題が払拭できないシステムと言える。そのことを伝えて、彼女が研究を断念するラストになった方が良い気がした。

使われない伏線

パシフィック・ブイの中で、クジラの声が聴こえてくるシーンがある。
この場面から、クライマックスではクジラが関係してくるものだと勝手に思っていた。
昨年は、平家物語を題材とした、アニメ『平家物語』や『犬王』のクライマックスでクジラの大群が押し寄せる場面(原作古典準拠)があり、どちらも名場面となっていた。
「もう、これは勝てない…」という状況から、クジラの大群によって命が救われる、という、まさに平家物語と同様のシーンが入っていれば、「そうはならんやろ」欲を満たすことが出来たし、殺伐とし過ぎない映画になっていたように思う。(観光船船長も何かしてくれそうな雰囲気があった…)


それ以外も、通常はエントランスが水中に隠れているというパシフィック・ブイの特殊構造や、特徴的な円環構造の施設での潮力発電など、後半に使われると勝手に思い込んでいた設定が多数あった。それだけに、最小限で済ませたクライマックスは残念に感じられた。

最後に

今回、注釈が必要なキャラクターが多過ぎるためか、タイトル後の「いつもの部分」(俺は高校生探偵・工藤新一…から始まる説明部分)では、赤井、安室は当然、水無怜奈の正体まですべて説明してくれる親切仕様になっていたが、実際には、それ以外にも説明されず、映画の中でもスルーされる「謎」があり、次回以降に持ち越しになっている。


例えば、黒の組織No2のラムは、今回「顔出し」をしている。
あれ?少し前まで、これも今回登場する黒田兵衛警視(隻眼)を含む3人で、誰がラムなのか?という話が進んでいたんじゃ?と思ってしまったが、原作、アニメでは既にラムの正体は判明しているという。*4


そしてベルモット。彼女は、黒の組織の内部にいながら、灰原とコナンの正体を知っており、「老若認証」システムが無くても彼女の気持ち一つで、コナン達は絶対絶命のピンチに陥る。そろそろ彼女の話に踏み込まないと、黒ずくめの組織が絡む話は、また「絶対安全コナン」になってしまう。


映画のみを観ている(自分のような)ファンがこれらの謎全てを理解して臨むのは難しいので、黒の組織を扱った劇場版は今後難しい気がした。(もしくは、俺は高校生探偵・工藤新一…のあとに10分くらい事情説明を挟むようにする…)


総評に戻るが、直後の印象は「面白い灰原映画」だったが、文章にまとめながら「好みのポイント」を辿っていくと、『黒鉄の魚影』は個人的好みから外れた作品だった。なお、その視点による近年作品のベストは『緋色の弾丸』な気がしてきて、ネタバレサイトであらすじを確認したところ、司法取引の証人保護プログラム等かなり難しい内容が肝になっており驚いた。今回の映画は、難しさを感じさせないように難易度レベルの調整が入ったのかもしれない。


来年は、平次とキッド。
鈴木財団が、いつも以上に本気を出して、派手に暴れて派手に壊れる、夢のような新施設を作って、犯罪者を引き寄せてくれることを祈っています。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

*1:ベタ過ぎる…。80年代の少女漫画?と思いましたが、それ以上に、人工呼吸時には鼻をつまむ必要があるよね、というのが気になってしまいました

*2:ここら辺の感覚は、原作やこれまでの映画をしっかり見ているコナンファンと違うのかもしれない。「灰原とコナンのキスシーンだけで100点」という感想も見かける

*3:このような国家機密に近い捜査システムに関して、ただの小学生に丁寧に説明するなよ…と、ここに関しては「そうはならんやろ」と突っ込んでしまった。

*4:候補者3人の顔を見返して、「顔」から誰がラムなのかはわかりました。

陸自ヘリ墜落と陰謀論~青山透子『日航123便 墜落の新事実』

宮古島沖での陸自ヘリの墜落事故が起きたのは4月6日で、まだ一か月も経っていないが、新しい事実が出ないからか報道はすでに下火のように感じる。
事故の原因については、中国の関与の話なども出ているが、「そういう陰謀論を信じたがる人いるよね」と一笑に付していた。
ところが、この話題についてTwitterを見ていたら、陰謀論も捨て置けないというニュアンスで、「日航機の事故も色々あるみたいだし」と、青山透子さんの名前を出している人がいて、この本のことを知った。

読んでみて

これまで、日航機墜落事故について、自分は何の疑問も持ったことが無かった。
事故を題材にした小説『クライマーズ・ハイ』でも、墜落現場は群馬なのか長野なのか?という場所の話と合わせて、原因について触れられていた。
小説内で、主人公が逃したスクープとしての事故原因は「圧力隔壁の破壊」という、実際の事故調査委員会の報告書と同じものとなっている。
このこともあり、事故調査委員会が結論付けていることで、この事故原因については解決したものだと思っていた。だって、専門家が調べたんだから、そこに文句のつけようのあるはずがない。


そう思っていた。
この本を読むまでは。


本を読んで、この中で提示される事故原因の真偽はどうあれ、日航機墜落事故は「未解決事件」に他ならないことがよくわかった。
そもそも事故が起きてからの関係者の動きに不審な点が多く、遺族や関係者にも事故原因について納得していない人が多いという。

この本で取り扱っている主な不審点を列記すると以下の通りだ。

  1. 1990年7月に行われた山口悠介検事正による説明会で、前橋地検の捜査の結果、事故調査報告書が不備が多く曖昧であることを指摘し、「原因は不明」と結論付けている。
  2. 墜落現場である群馬県上野村の住民は日航機が墜落した場所をすぐにわかり、多くの関係者に連絡したにも関わらず、墜落場所は、当初、長野県と報道され、墜落位置の判明までに(墜落した19時15分頃から)10時間を費やし、救助は翌朝から始まった。(これは助かる命を恣意的に救わなかったことを意味する)
  3. 寄せられた目撃証言や、上野村の小学生、中学生たちによる事故当時に目撃証言をまとめた文集を見ると、墜落前のジェット機が低空飛行をしていた、大きな飛行機(事故機=日航123便)と小さい飛行機が追いかけっこをしていた、赤色の物体(真っ赤な飛行機)を見たとの証言がそれぞれ複数あるが、場所や高度、状態が公式発表と異なる。
  4. また、墜落後の事故現場には、直後から多数のヘリコプターや飛行機が行き来していることも目撃されている。(つまり、事故現場の特定、公式発表前に、救助以外の何かをしていた)
  5. 「完全炭化(歯や骨の中心まで炭化した状態)」という犠牲者の遺体の損壊状態が(墜落事故が原因と考えられないほど)激しいものだった。
  6. 遺体の検案に関わった押田茂實氏が撮影していたビデオは警察に提供後、返還してもらえていない。また、海の底に眠っている垂直尾翼の大半(事故原因の重要な証拠物)などに対する海底捜索調査について早々と操作を打ち切るなど、原因を隠蔽する姿勢が見られる。通常公開されるボイスレコーダーもプライバシー保護を理由に一部が非公開になっている。


この本の特徴は、作者が、当時、客室乗務員(昔の言い方でいうスチュワーデス)であり、事故犠牲者である123便に搭乗していた客室乗務員のことを同僚としてよく知っていたことだ。
そんな彼女が、先輩の客室乗務員のことをまとめる中で、当時の資料をまとめる中で湧き出た事故原因への疑問をまとめたのが一作目の『天空の星たちへ』で、この2作目では、その後に集めた(申し出があった)目撃者や専門家の意見から、原因推定に踏み込んでいる。


だから冒頭では、彼女自身が、当時は公式発表を疑わなかったとして、このように書いている。

事故原因については一部の過激な陰謀説、根拠の薄い憶測も多々あり、それがかえって再調査への道を妨げていることもある。私自身も自衛隊の誤射やミサイルという言葉すら不愉快で違和感を覚えていた。


そんな彼女が、事件について調べ続けて大きく意見を変え、政府が隠している事実の中で確実度の高いものとして結論付けているのは以下の内容だ。

  • 18時台の日航123便は、2機の自衛隊ファントム機(F-4EJ)に追尾されながら低空飛行を続けていた。
  • 墜落直後に現場は特定されていたが、「不明」ということにして、何らかの隠蔽工作のために時間をかけた。
  • その隠蔽工作のためにゲル状燃料(完全炭化の説明が可能)の武器を使用して現場を破壊した。


この本を読む限り、ここまでは事実であるように感じた。


青山さんは、さらに踏み込んで、目撃された「赤色の物体」を自衛隊の訓練用の誘導ミサイルで、それが墜落の原因と考えた。ミサイルらしきものが機体につきまとっていることを確認した機長が、それを避けるために低空飛行や旋回ルートを取り、自衛隊のファントム機に確認を依頼した、という内容だ。


ここは、何とも言えないが、状況証拠からすると、「そんなの陰謀論だろう」と否定できない。
あまりにも公式発表が「見せかけ」過ぎて、何かを隠していることは確実と見えるからだ。

国の隠蔽体質と陰謀論

青山さんは、仙台出身ということもあり、終わりの部分で東北大震災の原発事故と結びつけて政府への不満を述べているが、全く別の事故である以上、これを結び付ける必要はなく、Amazonレビューなどを見ると、ここに反発を感じてる人もいるようだ。(自分もそうだ)
しかし、政府が情報を公開しない姿勢が、数々の陰謀論を助長しているということははっきりしている。また、国の言うことを正しいと捉えて従い、それを疑う人たちを馬鹿にするような国民の姿勢は、国の情報隠蔽体質を助長してしまうだろう。
ここには、科学的か非科学的かという視点も入って来るが、東北大震災のときの放射能問題、そしてコロナ禍でのマスク問題を考えると、日本には、その土台がないように感じられる。(ここでは、青山さんの轍を踏み、完全に日航機墜落事故から離れた話題に移ってしまっているが)



そもそも今の政府は、国民が「科学的であること」よりも、「(国が)できるだけ説明しないで済むこと」を重要視しているように見える。(「説明責任を果たす」と言い続けつつ何も説明しようとしない政治家が多い。)
しかし、科学的であるということの基礎には、情報が公開され共有されていることが重要だ。すべてが公開され、共有されていれば、陰謀論が生じる隙はない。
もちろん国家間の情報や軍事面など機密事項すべてを公開することは出来ないが、ちょっとした議事録も公開できない国だと、それを信じずに安易に陰謀論に走る人がいるのは仕方ない。この本を読んで、そう思うようになった。


国の姿勢を糺す報道やジャーナリズムがあればよいが、この本を読むと、報道はある程度、こういった問題に気付いていたのに政府に異を唱えなかったとしか思えない。
このあと、また感染者数が増えて問題になるはずのコロナ第9波、そして生きている間に確実に起きる巨大地震とそれに伴う混乱、そんな災害の中で国民の分断を止められない政府と、分断と混乱を煽るマスコミを考えると、暗澹たる思いがした。
宮古島陸自ヘリ墜落についても、国の発表を疑いつつ可能性の高い事実を見極めたい。
(国の発表や判断を安心して信じられる国の方がいいなあと思いますが、世間一般的にも…↓)
www.asahi.com


これから読む本

青山透子さんの本は、このあと何冊も出ているので、原因究明がどのように変わっていくのかも含めてもう少し追いかけてみたい。また、本の中で登場した押田茂實さんの本も併せて読んでみたい。


⇒この本の感想のつづき↓
pocari.hatenablog.com

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

終わらせ方への違和感と「犯人の動機を報じるな」問題~ダニエルズ脚本・監督『EVERYTHING EVRYWHERE ALL AT ONCE』

経営するコインランドリーは破産寸前で、ボケているのに頑固な父親と、いつまでも反抗期が終わらない娘、優しいだけで頼りにならない夫に囲まれ、頭の痛い問題だらけのエヴリン。
いっぱいっぱいの日々を送る彼女の前に、突如として「別の宇宙(ユニバース)から来た」という夫のウェイモンドが現れる。
混乱するエヴリンに、「全宇宙にカオスをもたらす強大な悪を倒せるのは君だけだ」と驚きの使命を背負わせるウェイモンド。そんな“別の宇宙の夫”に言われるがまま、ワケも分からずマルチバース(並行世界)に飛び込んだ彼女は、カンフーマスターばりの身体能力を手に入れ、全人類の命運をかけた戦いに身を投じることになる。


この映画を見たのは封切り直後の3月4日。その後に起きた事件などを経て、作品に感じた違和感を今なら書けそうだ、と思って文章にまとめてみた。

最高に面白かったが、しっくり来ない

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス=あらゆることがあらゆる場所でいっぺんに、というマルチバースの可能性を最大限に利用した映画が『エブエブ』ということになる。

とにかく予告が派手で設定が意味不明だったので、初めて見たときから惹きつけられ楽しみにしていた。こんな変な映画がアカデミー賞の最有力候補!?と言う驚きもあった。
そんな気持ちで観に行き、まさに初めての映像体験を堪能し、カンフーを楽しみ、ギャグに大笑いし、満足して劇場をあとにした。ところが、どうしても違和感が残ってしまった。


とにかく、しっくりこない。(同様に、アカデミー賞で話題になった)『パラサイト』のときは、鑑賞後すぐに繰り返し見たくなるくらいの衝撃があったが、これは何だろうか。
勿論、大々的に引用されている『レミーのおいしいレストラン』や、ミシェル・ヨーの過去作を観ていないという部分もあるかもしれないが、作品テーマの部分で腑に落ちないものがあったのだ。


これについてパンフレットを読むと、「世界を救いたい」というよりは、監督の個人的体験から、「自身を勇気づけたい」ということがきっかけになって映画が作られていることを知る。そうか、(後述するように)この作品のテーマを、広く一般的な問題に捉え過ぎていたのかもしれない。

町山智浩:エヴリンの娘は「Nothing matters(何もかもどうでもいい)」と言って宇宙を滅ぼそうとしますが、そういうニヒリズム虚無主義)は、あなた方の個人的経験を反映しているのですか?それとも現在の世界状況ですか?
シャイナート:僕らが若い時、「闇落ち」してた頃の世界観だね。社会のシステムから自分が逃げられないと知って絶望して、こう思った。「何をしたって無駄なんだ」って。そんなニヒリズムを「敵」とする映画を作ろうとしたんだ。

また、このインタビューでは、カート・ヴォネガットが、作品のベースとなる哲学となっていることを知る。(作品としては「猫のゆりかご」が挙げられている)
実はヴォネガットは一作も履修しておらず、このあたりの教養の不足が作品理解に影響しているのかもしれない。


パンフレットの傭兵ペンギンさんのレビュー記事も、同様の(ヴォネガット的な)視点でまとめられている。

そして最高なのはこの映画の出す答えだ。キャラクターが岩になり始めたあたりで、どうやって着地するつもりなのか、そもそも話を終わらせるつもりがあるのかさえわからなかったが、見事に締めくくった。この映画が示した”人生は理解できないし、意味もないかもしれないけど親切であろう、大事にしよう”という生き方は冷笑的な態度が賢いと思っている人が沢山いる世の中に対して強烈なメッセージになっていると思う。そして夢を持つ人に、まだ可能性があるかもしれないという希望を与えるような優しい作品だったところも心に染みる

こういう風に書かれてしまうと、「しっくり来ない」自分が間違っていて「しっくり来るべき」だったのではないか、とすら思えてきてしまう。
いやいや、そんな否定的に捉えなくても、確かに面白い映画だったと素直に感じる部分もあった。NGシーンなんてこんなに面白く幸せを感じるじゃないか…。

www.youtube.com


エブリシング・エブリウェアでアットワンスに生じる事件

4月15日に起きた岸田首相襲撃事件のあと、「犯人の動機を報じるな、事件の背景を追及するな」というような声が、自民党議員を中心に上がった。*1
この意見に反対であることは、以前にも書いた通りだ。

pocari.hatenablog.com


ただ、事件の動機追及はするべき、というのはそうなのだが、(僕と同じ立場に立つ人の)「殺害計画を立て、実行に移す…そこまで思いつめるには、それ相応の動機があるに違いない」というような意見を見て、いや、それも違うだろう、と思った。


殺人、自殺の方法から爆弾の作り方まで、インターネットであらゆる知識が得られ、限りなく匿名に近い方法で物品購入など準備を進めることが出来る。今回の事件の犯人がそうであるように、日本を揺るがす事件でも、家族と同居しながらだってそれが可能だ。

  • 40年前なら、爆弾の作り方など犯罪性の高い知識はそもそも知り得なかっただろう。
  • 20年前なら、知識を、知り得ても、限られた都市域でしか材料購入もままならなかっただろう。また、テロ行為はテロ組織(オウム真理教信者が起こした地下鉄サリン事件は1995年なので28年前)が、Xデーに向けて入念な準備のもとで協力して引き起こすものというイメージが強かった。

このように、20年前の頃までなら、首相襲撃を起こそうなどと「そこまで思いつめる」までに、長い時間が必要だったと言える。
しかし、2023年の今時点はどうだろうか。首相襲撃と言うテロ事件ですら、エブリシング・エブリウェア、いつでもどこでも、「個人」が引き起こすことが出来る状態になっているのではないだろうか。


さらにここ数か月でまた大きく状況が変化している。
自分が長時間かけてブログにまとめているような文章ですら、生成AIを利用すれば、エブリシング・エブリウェアで一瞬で(at once)作成できてしまう。
そうすると、「強い思い」や、学習の積み重ね、文章力が無くても、色々な政治的立場を騙って、長文の抗議文や脅迫文を書くことが可能で、当然、それを送るのはワンボタンだ。


現代社会では、技術が進むほど、ほぼ瞬間的な思い付き(いたずら心)で犯罪に手を染めることが可能になってきている。そこに「そこまで思いつめる」ほどの動機はいらない。
ちょっとした自己顕示欲が重大な事件を引き起こしてしまうし、いわゆる特殊詐欺事件では「そんなつもりはなかった」人たちの協力によって強盗(ときに殺人)事件が、海外からの指示を受けて日本各地で起きている。
どんどん犯罪のハードルが低くなってきており、それだけに個別の動機の追求の意味は薄れてきている。放送合戦のようにしつこくメディアで取り上げる必要性は少ないだろう。しかし、犯罪に至った大元の環境的要因として、孤独感や貧困、政治不信(宗教の問題含む)があるのであれば、それを減らすべく国や自治体が何らかの動きをするべきと思うのだ。(孤独感について言えば、日本にも孤独・孤立対策大臣というポストがある)



さて、映画の中で怖かったのは、序盤でエヴリンが、国税局の監査官(ジェイミーリーカーティス)に暴力を振るうシーン。
観客には、その暴力が必要なものであったという理屈(真実かどうかは判別不能)が知らされているが、暴力を振るわれた本人および周囲の人間にはわからない。
現実でこのようなことがあれば、「何かの声が聞こえるヤバい人」が起こしてしまった事件として処理され、実際そのような事件も時々見聞きするから、映画を観ていて不安になってしまった。
エヴリンと監査官の関係は、別の並行世界では恋人同士ということもあり、マルチバース構造を把握している観客に対しては(実世界の敵対関係と)バランスが取れているが、映画内世界のほとんどの人はそのことを知らないから、彼らにとってエヴリンは「ヤバい人」だろう。


そこから連想して、「思いつめ」たり、強い自己顕示欲がなくても、瞬間の精神不安定だけで事件を起こすこともあり得ると考えてしまった。


一方、長い時間思いつめて、ニヒリズムに陥り、闇落ちしてしまったのが娘のジョイということになる。
確かに、映画全体について「ジョイ個人を救う話」と捉えれば、ジョイが闇落ちした原因の根本にある家族愛にアプローチすることで、物語が終わりを迎えることはよくわかる。
実際、この映画では、ジョイの怒り、悲しみ、戸惑いなどの演技は素晴らしかった。ジェイミー・リー・カーティスとダブルで助演女優賞候補になっていた彼女(ステファニー・スー)にもアカデミー賞をあげたかった。


しかし、この映画前半を見て自分が想像したのは、ジョイよりももっとたくさんいる、特に思い詰めることなく、ただ孤独だったり貧困だったりする中で、何かをきっかけに「無敵の人」になってしまうような現実世界の人たちだ。
頼れる仲間がおらず、孤独感を抱える人たちが、家族愛をラストに持って来る映画を観て救われるだろうか。いや、孤独でなくても、家族からの愛を感じない人は、みんな「けっ」となってしまうのではないだろうか。
そんなことを考えてしまった。


映画『すずめの戸締まり』のラストは、家族を失った震災遺族、仲間に恵まれず孤独に悩む人などにも届くメッセージ(個人差あります)となっていて素晴らしかったので、沸き上がった否定的気持ちは、それとの対比もあったのかもしれない。


改めて総括する。
この作品で提示されるハッピーエンドは、非常に限定的な場合にしか有効ではない。
エブリシング・エブリウェアでアットワンスに引き起こされる事件、そして世界中で増殖し続けるジョブ・トゥパキに想像が及んでしまう映画なのに、それに対して、ジョイしか救えない終わり方ではハッピーエンドにはなり得ないだろう。
映画内世界ではなく、現実世界の今後を憂えて不安感・悲壮感がずっしりのしかかるような映画と感じた、というのが僕の感じた違和感だ。
現実世界と切り離して考えれば、映画はとても面白かったと割り切れる。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com