「図書館で借りて読んだ」と書くと申し訳ない気がしてあえて書かないが、買って読む本より借りて読む本が多い。
予約貸し出しの場合、ほとんどの場合は、何故この本を予約したのかを思い出せない頃になって本が手元に届く。
そんな風にして、偶然、児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』のあと、問題意識が継続しているタイミングで、この小説を読むことになったのは本当に良かった。
美桜が生まれた時からずっと母は植物状態でベッドに寝たきりだった。小学生の頃も大人になっても母に会いに病室へ行く。動いている母の姿は想像ができなかった。美桜の成長を通して、親子の関係性も変化していき──現役医師でもある著者が唯一無二の母と娘のあり方を描く。
物語は、主人公の美桜(みお)が子どもを抱っこして母親の葬儀の準備をする場面から始まり、母親との最初の記憶からこれまでを振り返っていく。
つまり「植物少女」というのは、一義的には主人公の「みお」のことを指すのだろう。
小学校低学年の頃のみおは、親戚や医者などが廊下でこっそり使っている酷い言葉を真似て、配属されたばかりの看護師に向かってこんなことを言ったりするのだった。
「ママな、植物人間やねんで」(略)
父や祖母の前では使えない言葉を披露する絶好の機会だと、
「人間としては死んでるようなもんやねんで。息してるだけ。何の意味もなく生きてるだけやねんで」
と聞いたことのある言葉を並べていった。
p28
このあたりの、罪悪感なく行ってしまう酷い言動は『こちらあみ子』を思い出すが、病室の隣のベッドの「首呼吸のお爺」(気管切開していて首に穴が開いている)へのいたずらが忘れられない。
チューブでの痰吸引を手伝ってあげたあとで、好奇心から首の穴に指を入れる場面だ。
翌日に高熱を出して、お爺は亡くなってしまうのだが、みおは気にしていないように見える。彼らには見舞いの客も来ず、悲しむ人もいない。病室を毎日の遊び場としているみおには、日常的な「死」だということなのかもしれない。
この頃のみおは、「母をいいように使った」のだという。
乾いて冷たい人形と違って、母の肉体には紛れもなく血が通っていて、普通の人間と同じだった。そのおかげで、時々こういった声が聞こえた気がした。人形遊びだと、時に話しかけることに虚しさを覚えたりしたが、生身の人形ではそんな気持ちにならなかった。
言ってほしかった言葉が聞こえると、母の右腕を担いで、わたしの肩を抱かせる。頭を母の首元に擦りつけているうちに、
「お父さんとおばあちゃんはなんで仲良くできないん?」
と自然とぽろぽろ涙が溢れてくる。すーっとカーテンが閉まる音がして、カーテンの端を握る吉田さんの手だけが見えた。そこからはたいてい、わたしは肩を震わせて泣いた。そして、最後に母のすっと伸びた指で涙を拭わせると、いつも気持ちがすっきりした。
そうやってわたしは母をいいように使った。母が大好きだった。ここまで思い通りにさせてくれる人間は、わたしの周りに大人も子供も含めて誰一人いなかった。どんな話も遮らずに最後まで聞いてくれた。
閉じられたままの目も素敵だった。黒目がちなつぶらな瞳や知的でミステリアスな三白眼。目を瞑っている限り、母はどんな瞳にもなれた。
p20
「何か言葉をかけてきそうな感じ」
「話を聞いてもらっている感じ」
実際に、そこで情報のやり取りが出来ているかどうか、ではなく、受け手の一方的な思い込みだとしても、コミュニケーションとして、機能を果たしている。みおにとって母が必要な存在だったことがよくわかる。
想像しにくい状態だが、実際に会話ができる母を、みおは見たことがない。だから、何度本当のことを聞いても、みおの中では、母親は生まれたときから「植物状態」だったことになってしまう。(母親は出産時に脳出血を発症し、大脳のほとんどが壊死して植物状態になったのだ。)
これは、「祖母や父」が、昔の思い出と重ねて、こちらに話しかけてくる予感を持ち続けているのとは違う。
ただ、看護師さんにとっての「母」も、みおにとっての母と同じで、やはり元気だった昔の姿を知らない。
すると、みおに限らず、医師、看護師は、家族の頭の中にある「本来の(元気でいた頃の)患者」像と常に向き合う必要があるのだろう。(少なくとも、家族はそうしてくれることを望んでいる)
なお、「植物状態」というのは、点滴で栄養を取るのかと思っていたが、驚いたことに、みおの母親も、隣のベッドの「あっ君」も、食事は、スプーンを口に運び、食べさせている。唇に食べ物をあてれば舌や歯が動き、痛いことをしたら痛がる。時々目を開けることもある。みおの母親の場合は、開いた手に手を置けば握り返してくる。
登場する医者の説明では「単なる生理的な反射」なのだというが、そうだとしても、想像していたよりも、コミュニケーションの機会は多く、「植物状態」について少し具体的にイメージすることが出来た。
さて、みおは、そのような母親の状態をどう捉えていくのか。
小説の中で特に印象に残るのは、中学生になって陸上部に入ったみおが、堤防で走っていて、ランニングハイのような状態になり「気がつく」場面。少し長めに引用する。
頭が真っ白になって何も考えられなくなって、胸も空っぽになって何も思わなくなって、ただ呼吸だけが続く。
呼吸の底に力が集まってくる。
存在しているという確かな感覚。流れる景色の中でただそれだけを感じていると、不意に母の顔がサッと目の前をよぎった。
「あっ」
自分の体につまずいて、動きの全てがちぐはぐになる。
すぐに歩きだし、やがて立ち止まってしまった。反動のように呼吸があがって、ぜぇぜぇと苦しくなる。わたしは膝に手を当てて、ただただ呼吸を続ける。
時おり体験するこの現象を、わたしはいつも摑みそこねていた。日常の軋轢や植物状態の母を持ったこと、そういったことのもっと奥にある、これは一体何なのか。
白んでいた頭に像を結べるようになって、ようやく自分が何につまずいたか、むずむずとわかりはじめる。
もしかして、母は・・・・・・
何も考えられない、何も思うことができない母は、もしかしたら、こんな生の連続に生きているのではないか。息だけをして生きる、この確かな実感の連続に居続けているなら。
すると、頭が思考を取り戻しはじめ、胸が熱くなってくる。
わたしは頭を振って夜気を胸に大きく吸いこんでから、息をぐっと抑えて姿勢をまっすぐ起こして無理やり走りだした。
振りだされる脚、揺れる肩甲骨、波打ちはじめる背骨。そんな感覚も、走るため、ただ一心に呼吸をするうちに、すぐに呼吸に溶けていく。頭も真っ白に、胸も空っぽになって、ただ呼吸そのものになる。呼吸がわたしの底に触れると、他はなんでもなくなる。ただ存在しているだけになる。とうとう息が上がって、わたしはのたうつように堤防に座りこんだ。砂利がお尻に食いこんでも、息を継ぐので精いっぱいで痛みも気にならない。
あぁ、間違いない・・・・・・間違いなかった・・・・・・
呼吸がゆったりしてくると、やがてわたしの底の存在感が全身にじんわりと広がっていく温泉に入ったみたいに、呼吸のリズムで喜びが染みていく。
もし、母が、呼吸以外、何もできない母が、こんな充実した今を生きているなら。
母はかわいそうじゃない
みじめじゃない
空っぽなんかじゃない
涙が自然と垂れてくる。
わたしもまた母のことを勘違いしていたのかもしれなかった。
p106-108
ここは一番好きな部分。
何度も何度も読み返したくなるような表現。
勿論、それが本当のことかどうかでなく、そういった見方が生まれたこと自体に意味がある。こういった「悟り」は、みお1人ではなく、母親がいたから、母親とのコミュニケーションがあったから辿り着けた場所だ。
児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』の感想を書いた時に引用した部分を思い出す。
「相互性」という言葉は、自分にとっては耳慣れないものだったが、言葉通り、相互に影響を与え合っているということだろう。『植物少女』を読めば、みおは、間違いなく、植物状態の母親と相互に影響し合い「対話」を続けていたことがわかる。
私たちの気持ちや思いや意思が生起したり形を変える場所は、きっと「自分」という閉じられた内部というよりも、たぶん「誰か」と「私」との間なのではないか。人は常に自分自身とも対話を続けているものだから、その「他者」の中には「自分自身」も含まれているだろう。私が自分自身を含めた他者と出会い関係を切り結んでいるところ。自分を含めた他者とのやりとりを鏡にして私が私自身と新たに出会うところ。そこで、感情も思いも意思も形作られては、常にまた形を変えていく―。私たちが関係性とその相互性の中で生きる社会的関係的な存在だというのは、きっとそういうことなのだと思う。
それならば医療もまた、目の前で病み苦しむ人との関係性と相互性を引き受けることによってしか、患者を真に救うことはできないのではないだろうか。
児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』p246
そんな母親との時間も、母の死によって終わりを迎える。
いや、厳密には、死後少し経ってから「終わり」が生じる。
お通夜が終わり、明日の葬儀に向けて父と話をしているタイミングで、「終わり」が突然現れる、この場面は、心霊的な要素も含むが、人の「死」の受け止めについてのリアルを感じた。
「こんな話しかけられたん、久しぶりやろ」
平日のお通夜で訪れた人は少なかったが、それでも母を知る人間がこんなにも訪れたことはなかった。
「みんな、驚いてたなぁ」
棺の母をのぞいたその瞬間だった。
母の背中からすっと影が消えていったように見えた。目を瞬かせると、影はやはりあった。しかし、ずっと感じていた、そして、亡くなった後もあった存在感が母の体からなくなっていた。
足腰の力がふっと抜けて、たまらず棺にもたれかかった。それでも上体がぐらついてどうしようもなく、わたしは上体を預けて棺に覆いかぶさった。
「大丈夫か」
父に腰を支えられて、ようやく体に力が戻ってくる。
「どうしたんや」
父は訝し気に眉をひそめる。
「うぅん」
わたしは首を横に向けて母の顔を眺めた。そして、確信と共に首を左右に振った。
「お母さん、おらんくなった」
すると、
「うん?」
父は身を乗りだして、真正面から母を凝視する。しばらくしてから、父は身を引いて、後ずさりしていすに座りこんだ。
「あぁ、おらん。どっかいってもうた」
口を半開きにして呟く。
「せっかく、元に戻ったのに」
父は呆然となって、無表情の顔に涙を流しだした。
上に使った言葉に繋げるのならば、ここまでは存在した「相互性」が消えたということなのだろう。
医学的な「死」とは、そのタイミングがずれるというのは、感覚的には分かるし、きっとそうだろうと思えてきた。
小説は、最後に、25歳のみおが、小学生のときに毎日顔を見て、まだ病室にいるお爺やお婆のことを思い返して終える。このフィードバックを見るにつけ、亡くなった母親だけでなく、彼らも、「相互性」の輪の中に入っているといえるのかもしれない。
彼らは今もあそこで座って呼吸を続けている。そのことを思いだすと、わたしは目を閉じて一息一息呼吸する。すると、自分もまた呼吸をして生きていることが実感されるのだった。
人の「生」と「死」は難しい。
難しいが、考える価値があるテーマだと改めて思った。
朝比奈秋の名前を検索すると、『植物少女』で三島由紀夫賞を受賞したときの記事が見つかった。(筆名から女性を想像していたが、男性だった)
www.m3.com
病棟実習で植物状態の方を介助する中で、むしゃむしゃと食事する様子に衝撃を受けたくだりなど、小説で伝わってくる内容は、作者の実感がベースになっていることがよくわかる。
医師で作家の方は他にも何人もいるが、テーマ設定が自分の感性に合うように感じたので、最新作で、第45回野間文芸新人賞を受賞した『あなたの燃える左手で』など、他の作品も読んでみたい。(この受賞の仕方を見ると、次作あたりで芥川賞の候補になる流れだろうか*1)