Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

差別・偏見とトットちゃん~佐々涼子『ボーダー 移民と難民』×映画『窓ぎわのトットちゃん』

佐々涼子『ボーダー 移民と難民』

佐々涼子さんの本は、昨年5月に『エンドオブライフ』を読んで非常に考えさせられたが、最新刊『夜明けを待つ』のあとがきで、佐々さんの現在の状況を知り本当に驚いた。(これについては特にここでは書きません)
そんな佐々さんが、昨年、移民と難民をテーマにした本を出していたことを知り、追い立てられるようにして読んだ。


思えば今年は、このテーマの本に多く触れた。勿論、入管法改正関係でメディアで取り上げられることが多かったというのもあるが、昨年見た映画『マイスモールランド』の影響も大きいように思う。


入管施設の状況が少しでもよくならないか。
何かできることはないだろうか。
少なくとも継続的に知識を得て考えることが必要だ。
そんな気持ちから、同テーマの本に、自然に手が伸びているのかもしれない。


本書での、佐々さんの主な取材対象は以下の通り。

  • Ⅰ.泣き虫弁護士、入管と闘う
    • 20年以上、入管施設での人権問題に取り組んできた弁護士児玉晃一さん(実は佐々さんの大学同期)
  • Ⅱ.彼らは日本を目指した
  • Ⅲ.難民たちのサンクチュアリ
    • 鎌倉のアルペなんみんセンター(2021)

取材開始当初、2014年3月に牛久の入管施設で亡くなったカメルーン人Wさん(当時43歳)の入管施設内の映像を見て、前作『エンドオブライフ』との取材対象の扱いの差に衝撃を受ける佐々さんの感想が印象的だ。

私は、終末医療を取材した本を出したばかりだ。 そこで、現代医療では救えない命を見てきた。それでも残された一分一秒を医師や看護師がどれほど大切にしてきたか。
だが、ここでは命がぼろきれのように放置されている。声を嗄らして助けを呼んでも、誰も来ない苦しみはどれほどだろう。しかも監視カメラの向こうでは誰かが助けもせず、覗いているかもしれないのだ。
天井を見つめながら、彼は家族を想っただろうか。
Wは誰にも看取られずに、心肺停止で発見された。
彼は出国するとき、どうやって母親と別れただろうか。いつか再会する日を夢見ただろうか。まさか、日本の収容所で誰にも看取られず、たったひとりで放置されて死ぬとは思いもしなかっただろう。
p58


この本が出版されたのは2022年11月。
入管法改正案については、国会前での攻防を経て、2022年5月に採決が見送られるまで*1の様子が収められている。採決見送りは、ウィシュマさんの事件などの問題がメディアで大きく取り上げられたことが効いているが、本書の中でも入管施設内での酷い状況については繰り返し取り上げられる。


時系列で見た場合、移民、難民への対処は、国の経済・社会状況に大きく左右され、今現在は特に厳しい状況にあるということがよく理解できた。

主に難民という観点ではp119-120に記述がある。

  • バブル崩壊後の1992年頃、入管は非正規滞在者の露骨な排斥に転じる
  • 1993年「技能実習制度」創設
  • 1997年(当時は生まれたばかりの赤ん坊も入管施設に収容されるなどひどい時代) 
  • 2000年代に入管問題に携わる弁護士が入管に調査に入るようになるなど状況が良くなる。難民の仮滞在が認められるようになる。
  • それがあだになって虚偽の難民申請および仮滞在申請の濫用が相次ぎ、かえって取り締まりが厳しくなる。
  • 2019年 人手不足を解消するために特定技能制度が新設(しかし人が集まらない…)

移民という観点ではp129-130に記述がある。 

  • バブル崩壊後、非正規滞在者を追い出して空いた穴を埋めるようにして南米の日系人が増加。1990年の入管法改正では、日系人の家族も呼び寄せることが出来るようになる。
  • その後も増加を続け、2007年末には30万人を超える日系南米人が日本にいる状態に。
  • 2008年9月のリーマンショックの余波で日本も経済不況に。製造業の工場で働く日系人は雇用調整の対象となり、失業した日本人に対して日本政府は「帰国支援事業」として、帰国費用(いわば手切れ金)を給付し、2万1675人が日本を離れた。
  • 2013年に再び政策の転換があり、外国人労働者の受け入れ拡大のために、帰国支援事業により帰国した日系人の再入国を認める
  • その後は移民労働者としての主流は技能実習生に。

この本のタイトルには、副題に「移民と難民」とついているが、入管問題調査会を立ち上げた高橋徹さんによれば、片方だけでなく、移民制度*2と難民制度の両方を健全化する必要があるのだという。

「移民制度が健全であることと、難民制度が健全であること。 その二つが揃ってそれぞれの制度が生きる。どちらかの蛇口が閉まれば、もう片方に流れるに決まっている。制度の青写真が まずい。移民制度と難民制度それぞれをまっとうに位置づけられるシステムにしないとダメと いうことです。」
p123

しかし、入管法改正をはじめとする国の対処は、行き当たりばったりで、制度設計の思想自体が見られない。
さらに、これまで読んだ本でも再三取り上げられ、この本でも書かれているように、日本は見限られ始めている。
2019年に創設した特定技能制度が上手く行っていないように、日本以外に魅力的な「出稼ぎ国」がある今の時代、わざわざ「辛い日本」を選ぶ必要がない。
制度上の改善を待つよりも、日本が「先進国」に出稼ぎに行くようになる方が早いのかもしれない。


国の、入管問題についての人権感覚のなさ、外国人労働者問題についての長期的視野のなさを見ていると、将来が不安になるばかりだが、この本では少しだけ希望も描かれる。 
それが、3章で扱われる鎌倉の施設「アルペなんみんセンター」の活動と周囲の支援(施設を貸している日本殉教者修道院鎌倉市の応援など)についての部分で、これを知って、悪い人ばかりではないのだと安心した。


国には制度改善を求め、地域や各種団体にも支援の輪が広がることを期待する。それでは個々人に出来ることは何か。
これについては、エピローグでの佐々さんの決意に勇気づけられ、また、襟を正す気持ちになった。

ここまで取材を重ねてきたが、私には偉そうなことは何も言えない。
国のはざまで苦境に陥る人たちのことを何も知らなかったし、知ろうともしなかった。だから、まず知らなければ。世界史の教科書や地図帳を自分の横に置いて、当事者の話に耳を傾けている。
私はこれからも、いともたやすく偏見を持ってしまうだろう。人は他人を上に見たり、下に見たり、仲間だと思ったり、敵だと感じたりする。 これはもう避けようがない。自分を正義の人だと思った時は、特に危ない。だからいつも自分の心を点検して、夏の庭の雑草を抜くようにして、こまめに偏見を取り除いていくしかない。

p255

少子高齢多死のこれからの日本では、特に介護分野などで、外国人労働者に頼らざるを得ない。
いや、むしろ、来てもらうために、他国よりも良い国であることをアピールしていく必要があり、差別・偏見で目を曇らせていていては前に進まない。
将来の日本をうまく回していくためには、制度上の問題だけでなく、個々人の意識の改革も必要になる。もっと勉強を続けなくてはいけない。

映画『窓ぎわのトットちゃん』


「差別」という観点で結び付けて、映画の感想を書く。

Twitterで突如として湧いた絶賛メールの数々に引き寄せられるようにして、今観る映画としては、自分の中でもかなり意外性の高いこの作品を選んだ。*3

予告編自体は何度も見ていたが、これまで劇場に足を運ぼうと思わなかった一番の理由は、国民的ベストセラー(ただし自分は未読*4)であること以外では、キャラクターの絵柄。くちびると頬は良いとしても、まぶたの赤色は化粧のように見えてどうしても違和感があり、結局、これについては見終えても「ない方が良かった」ように思った。


最初に全体の感想を書けば、映画後半で、トットちゃんの楽しい生活を侵食するように、じわじわと広がる戦争の空気の描写は辛かったし、予告編から想像していなかった要素なので驚いた。
映画の中では、トットちゃん自身は戦争についてほとんど言及しない。
しかし、キャラメルの自販機が停止になり、改札の駅員が男性から女性に変わり、下校時の歌を注意され、最後には学校が休みになり、自宅は「建物疎開」で取り壊される。トットちゃんが、いかに戦争を気にせずに楽しく振る舞おうとしても、それが出来なくなってくる。
圧巻はクライマックス。


同級生を亡くしたトットちゃんの悲しい気持ち、辛い気持ちを横目に、「戦争」はどんどん生活風景を侵していく。普通の物語なら一番泣かせたいシーンだが、戦争は、待ってくれたりはしない。
終戦を待たず、トットちゃんが疎開先の青森に向かう場面で終わりを迎えるエンディングの描き方も非常に効果的だった。実際に、現実の世界でも、ウクライナの戦争や、ガザ地区での虐殺など、「戦争」は終わっていない。


さて、さまざまなタイプの子どもが共に学ぶ「トキワ学園」を舞台にした『トットちゃん』も、差別と多様性をテーマに含んだ作品だった。
基本的に、トットちゃんは、差別を全く意識せず、あくまで無垢に振る舞う。
トキワ学園校長の小林先生も、基本的には生徒の好きなように行動させ、口を挟まない。日本の小学校は、ざっくり言えば「人に迷惑をかけない」ことを教える場として機能しているように思うが、それは教えない学校のようだ。
そんなトキワ学園でのトットちゃんも、「差別」について考えざるを得ない場面が2か所あった。まず、生徒に見えないところで、小林先生が(生徒を言葉で傷つけてしまった)大石先生を叱りつけた場面。トットちゃんは盗み聞きして神妙な顔をしている。
そしてもう一つは、小児麻痺を持った泰明ちゃんとの場面。3年生になり、相撲で誰にも負けないトットちゃんが、泰明ちゃんから勝負を挑まれるが、小林先生の配慮で「腕」相撲に変更になり、真剣勝負をする。ここで、トットちゃんは思いやりの気持ちからわざと負け、泰明ちゃんに激怒される。


この一件についてトキワ学園の教育方針を想像しながら考えたい。
小林先生は「みんな一緒で」が口癖で、泰明ちゃんのようにハンデを抱えた子どもに対しても、先生の側から手を貸したりせず、平等に扱う。しかし、「平等」でいいのだろうか?
一番違和感を覚えるのは、みんなが裸で入るプールの場面で、このような「平等」の強制は、考え方によっては「虐待」になってしまうのではないか、とも考えた。
よく出てくる「平等」(EQUALITY)と「公平」(EQUITY)の差を説明したイラストで言えば、小林先生は一貫して「公平」を排除するようにも感じる。

しかし、よく考えてみると、このイラストは、皆が野球を見たいと思っていることを前提としていることに気がつく。小林先生の教育は、まず、野球を見たい、もしくは個々人が何かをやってみたいと思う気持ちを引き出すことに特化しているのだと思う。
「やる気」こそが、公平/平等よりも優先され、スタートとしては、「公平」よりも「平等」の方がやる気を引き出す、というのがトモエ学園の考え方なのだろう。

確かに、泰明ちゃんのハンデを考慮して最初から「皆で腕相撲を」とするやり方もあった。
そうせずに、まず、泰明ちゃんの「相撲で勝ちたい」という気持ちを引き出しておいて、「公平」の観点で次善の案を出す校長は、なかなかの策士と言える。
しかし、トットちゃんの「思いやり」がそれをぶち壊しにしてしまった。


トットちゃんのような「勝ちを譲る」やり方は、決して「公平」な方法ではないが、勝ち負けを付けない徒競走のような、どこかズレた「公平」の陥りやすい罠なのかもしれない。
そして、それは「困っている人を見たら助ける」よりも「目立つ行動をしない」「人に迷惑をかけない」「余計なお節介をしない」を優先する日本人こそ、日常的にしてしまっている「消極的な思いやり」と似ている。*5
決して他人事ではない。

2作品から考える大切なこと

泰明ちゃんとの木登りのエピソードしかり、トットちゃんの良いところは、人をやる気にさせる、生きたいと思わせるところだ。


「差別をなくす」というお題目は、常に自分を点検し、勉強し続けなければ成し得ない、という点では、なかなかにハードルが高いし窮屈だ。
しかし、トットちゃんがそう思わせてくれたように「この人達と仲良くなりたい」「一緒に何かをやってみたい」がスタート地点になれば、ハードルは一気に下がる。
佐々さんが『ボーダー』の3章で取り上げていた「アルペなんみんセンター」での地域との交流やイベント。
知識を増やすよりも、そういうことの方が重要なのかもしれない。
11月に第四回が実施された「難民・移民フェス」*6もこれまで気になっていたが、次回開催されれば行ってみたい。
映画や本についても、これまで以上に、さまざまな国の地域や文化、歴史に興味を持ち、旅行先として考えてみることも楽しそうだ。
もっと楽しみながら、この世界に暮らす人々への興味・関心を拡げ、考えを深めていきたい。


と、色々と書いたが、原作自体を未読なので、これを機会に黒柳徹子さんの著作も読んでみたい。


*1:結局今年2023年6月に、改正案は可決されてしまったのは本当に残念だ。

*2:「移民制度」と書いたが、現在は、単純労働で働くのは技能実習制度しかないのだという

*3:直前まで◎『市子』、〇『ゲゲゲの謎』、▲『ナポレオン』の優先度が高かった

*4:未読なのですが、ボットン便所に財布を落とすエピソードだけは知っていました。小学校低学年の頃、誰かから聞いて印象に残っていたのだと思う。

*5:12.16朝日新聞の「多事奏論」の記事が、まさにそのことについて触れる内容で、アクティブ・バイスタンダーの必要性を説く→行動する傍観者 見過ごしたくない時、「おせっかい」していいですか:朝日新聞デジタル

*6:Twitter公式アカウントはこちら→https://twitter.com/refugeemigrant