Yondaful Days!

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役所広司演じる「平山さん」の禅と欺瞞~ヴィム・ヴェンダース監督『PERFECT DAYS』


年末の帰省の際、名古屋駅周辺で時間を使う必要があり、上映時間スケジュールが、予定とぴったり合う、この映画を観に行った。自分の中ではディズニーのアニメ映画『ウィッシュ』が最有力候補だったが、一緒に観に行く息子に断られてこちらに。

ヴィム・ヴェンダーズが監督を務め、役所広司が、カンヌで最優秀主演男優賞をもらった映画という程度の予備知識だったが、結果的に2023年の見納めにぴったりの作品*1だった。


今回はパンフレットの満足度がとても高く、その内容に沿って感想を書く。


パンフレットは、監督や役所広司へのインタビューなどの全体を通じて、製作陣の熱が強く伝わってくる内容となっている。
もともと、プロデューサーに、ユニクロ柳井正の息子(→ファーストリテイリング取締役の柳井康治氏)と電通マン(→高崎卓馬氏)が名を連ねていると事前に耳にしたときは、何となく嫌な気持ち(偏見!)になってしまっていたが、パンフレットを読んで、2人の情熱も十分に感じ、その偏見も吹き飛んだ。
そもそもこの映画の前提として、渋谷の「変なトイレ」群がTHE TOKYO TOILET(略称TTT、公式HPはこちら→THE TOKYO TOILET)という渋谷区の事業に基づくものであり、これが柳井康治の個人プロジェクトであるということを初めて知った。このプロジェクトがアートの力で行動変容までも視野に入れた取り組みであるということも理解し、むしろ応援したい気持ちになった。


映画を見た印象とパンフレットを読んで感じる熱の核心は一致しており、この映画は、役所広司演じる「平山さん」の映画だということ。インタビューから役所広司の発言の一部を抜粋する。

平山さんにはいろいろなルールがある。彼はテレビも観ない、ネットで情報を得ることもない。彼に入ってくるものは、日常生活で彼の目に映るものが全てです。朝、木漏れ日が作る柔らかな影、懐かしい音楽と古本。それが彼の中に入ってくる情報です。嫌なことがあっても彼は穏やかな気持ちでやり過ごす。
ヴェンダース監督がよく言っていました。平山のようになりたい、と。平山さんのような生活に憧れる。金で得たものは何一つなく、ただ静かな生活を望み、本を読み音楽を聴くことで何か懐かしいものに出会ったり、過去に思いを馳せたりしているのでしょうか、夜はゆったりと眠りにつく。ある意味、豊かな時間を過ごしている。そんな平山さんの時間に監督は憧れるのだろうと思います。
人はたくさん働いて、お金を得て、欲しい物を手に入れる。それでも満足することなくさらに求める。平山さんは何かを手に入れることもないけれど、自分の生活に満足しているように窺える。その姿がどこか修行僧にも重なって見える。 

このインタビューの面白いところは、このように深く作品を理解している役所広司でも、「この平山さんの行動は意外」「わからない」と、主人公を理解しきれないと言い切ってしまうシーンも存在する、ということ。また、上の引用にも出ているが、表現を探りながらの演技はあくまで「監督の理想としての平山さん」に沿ったもので、それとは別に、役所広司の平山さんに対する考えもあるということがわかる。
また、このインタビューもだが、頻繁に小津安二郎の名前が登場する。パンフレットの見開き2ページを取って、共同脚本の高崎卓馬が熱っぽく語る文章(「小津安二郎」というタイトル)の導入部を引用する。

作家が自身の感性に従って細部すべてを徹底的にコントロールし尽くしたとき、そこには本当に存在するとしか思えない世界が生まれ、すべてが自然にしか見えなくなることがある。映画はそこまで到達することがある。
ヴェンダースはかつて小津を語るときそんなことを 言っている。ときにシナリオすら持たずに映画をつくる自分とは対照的な存在のはずが、強くその作品たちに惹かれるのは、自分も「自然にしか見えない」という状態を目指しているからだとその理由をつづける。

これらの、「平山さん」に対する神格化や、「小津安二郎」成分は、ストーリーが希薄で、セリフの極端に少ない映画そのものだけを見ても十分伝わってくる。エンドクレジットのあとで、わざわざ「木漏れ日(Komorebi)」という日本語について取り上げ、今この瞬間にしか出会えない、複製不可能なもの、としての日常=PERFECT DAYSを説明するつくりも丁寧で、作品全体を包む「禅」的要素は映画を見て把握でき、パンフレットでその背景について理解を深めることができた。
しかし、以下に述べる「対談」以外では、話題にするのを避けているとすら感じさせる、この描かれ方でいいの?という「問題」がある。


したがって、このパンフレットのクライマックスは、何といっても終盤に収録されている川上未映子×柳井康治の特別対談だ。多くの人がこの映画に感じるであろう違和感について、川上未映子が明確に言語化してくれている。

平山さんの生き方というより、平山さんの 「描かれ方」にたいしてですけど、上映中、それはもういろんな気持ちになりました。海外の評ではミニマリズムや禅の観点から、彼の生き方や暮らしぶりに肯定的な感想が多いと読んだのですが、現実では、平山さんの妹さんのような価値基準*2のほうが一般的であり、社会と人々の欲望をあらわしているわけです。平山さんは「選択的没落貴族」だとは思うんだけれども、あの暮らしの描かれ方をどう捉えるか、というのはとても難しい問題だと思います。いっぽうで、彼が責任を負うのは自分の生活だけでもあります。
(略)
これは、若い人たちのこれからに通じる問題でもありますよね。今はもう、他人の人生にかかわることじたいが贅沢というか気が知れないというか、自分ひとりが生存するだけで精一杯で、他人の責任を負うことなんてできるわけがないと感じている若い人たちが本当に多い。持てる人たちが「平山さんの生活は、静かで満たされていて美しくて素晴らしい」というのは、そりゃ彼らは豊かな観察者だからそれはそう思うでしょうけれど、肉体労働をしていたり、相談できる人が誰もいないというような若い人たちがこの映画を観てどんな感想を持つのか、非常に興味があります。

文字で読むと、どんな話し方をしたかは分からないけれど、的を得過ぎた、壮大な「嫌味」という感じがする。
川上未映子は1976年生まれ、柳井康治は1977年生まれということで同世代(ちなみに自分も1974年生まれで同世代)、就職氷河期世代にもあたるため、「若い人たち」どころか、同年代の人たちでも「持てる人たちが平山さんの生活を神格化するのはどうなのか」と思う人も多いはず。川上未映子は、同世代の柳井康治に、その辺をどう考えるのか問い詰めているように見える。


さらには、「汚物」問題についてもチクリと言及する。

たとえば汚物の扱いにしても、現実はどうなのかを考えた時に、きれいごとにみえる可能性もある。でも、汚物が出てこないことが、この映画ではとてもよく効いていますよね。(略)
平山さんは、女子トイレも清掃します。生理用品とかをどうするんだろうなって見ながら思っていたんですよ。吐瀉物もです。でもクリーンなままです。この演出は、この日本で向き合わなきゃいけない責任とも向き合わずに、見たくないものを見ないまま自分のルーティンの中で生きている、まるで少年のような彼の在り方を示しています。

結局、このような違和感の表明から始まる対談は、映画ラストの役所広司の「三分間」の演技に対する絶賛で丸く収まるが、読む人によっては、映画の印象を大きくひっくり返すほどのインパクトがある内容だと思う。なお、話は逸れるが、川上未映子の著作は実は未読で、近作『黄色い家』(2023)、『夏物語』(2019)は絶賛評が多いこともあり、早く読みたい。


また、『PERFECT DAYS』は、平山さんが就寝前に読む本がどうしても気になってしまう作品でもある。パンフレットの中で、翻訳家の柴田元幸さんが、3冊の本に補足的に解説を加えた上で、「トイレ」に関連する本として谷崎潤一郎『陰翳礼賛』を薦めているのも面白い。敷居の低いハイスミスは読んでみようか。

そして、当然といえば当然だが、パンフレットの中にも、「TTT」のプロジェクトで生まれた16のトイレについて、デザイナーの名前と、その意図について説明を付して、見開きで紹介がある。これについても一冊の本にまとまったものがあるので、こちらも気になる。


ということで、全体を振り返ると、ドキュメンタリーを見ているような感覚で、実在するとしか思えない「平山さん」に入り込めるという意味で他では得難い体験ができる映画だった。ただし、川上未映子の指摘するような違和感がどうしても拭えない、という、複雑な気持ちになる作品だ。
一方で、この映画を傑作たらしめている役所広司自身は、以下のようにも*3書いており、川上未映子が指摘するような「拭えない違和感」≒「つながってない世界から見た人生観の違い」に対して相当意識的であるように思う。ヴィム・ヴェンダースや高崎卓馬もだが、何よりも役所広司について今まで以上に興味が湧き、その作品に触れたくなる一作だった。

この世界には、たくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある…」この台詞が今でも時々、僕の頭の中で鳴っています。


*1:なぜ「2023年の見納めにぴったり」だったのかについては、こちらに→2023年下半期の振り返り(映画、本、音楽、そのほか) - Yondaful Days!

*2:「何でトイレ掃除なんか仕事にしてるの?」「そちらの世界はさみしくないの?」という、いわば俗物的な、しかし一般的な見方

*3:日本国内でも広がる「社会階級による世界の分断」について指摘した台詞と解釈している