生まれつきの聴覚障害で両耳とも聞こえないケイコは、再開発が進む下町の小さなボクシングジムで鍛錬を重ね、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。嘘がつけず愛想笑いも苦手な彼女には悩みが尽きず、言葉にできない思いが心の中に溜まっていく。ジムの会長宛てに休会を願う手紙を綴るも、出すことができない。そんなある日、ケイコはジムが閉鎖されることを知る。
今年最後の映画は、映画『LOVELIFE』→ドラマ『silent』からの流れで必然的にこの映画に。
見た感想として、確実に言えることは「ストーリーが面白い作品ではない」ということ。戦後すぐにできた古いボクシングジムと周辺の町を舞台にとにかく淡々と時間が流れる。
岸井ゆきの
岸井ゆきのは、そもそも『愛がなんだ』を未見で、映画でもテレビでも見たのは『前田建設ファンタジー営業部』くらい。それでも、新作に常に出ているくらいの頻出度合いに驚いていたら、このような難しい役に挑戦するということで、観る前からどのような演技をするのか気になってはいた。
そして実際に見て驚く。化粧で大きく違うのだとは思うが、殴られ顔はもちろん、ガサガサっぽい肌、何より姿勢や体型が、見え方にこうも影響するのかと驚いた。数々の主演をこなす映画俳優としての「見た目のオーラ」を感じない。
ケイコはあまり喋らない。同居している弟と手話で会話するシーンもあるが、言葉は少ないし、ろうの友人と3人で行ったランチでも聞き役だ。ただひたすらにボクシングに打ち込む。そう、この映画での岸井ゆきのの顔は「ボクサーの顔」としてとても説得力がある。
細かい部分での表情変化もすべて、スクリーンに映し出されることを志向しない、ザ・自然体に感じられて、見たことのないレベル。これだけのために観に行っても良い映画だと思う。
ただ、ボクシング技術についてはもう少し。『百円の恋』の安藤サクラのフォームが異常に上手く感動した*1ので、同じレベルを期待してしまったが、そこには達していなかったように思う。
作中で、ノートに綴られたメモとして読まれる「フックのときに脇が空く」*2なんかはまさにその通りの指摘で、「べた脚のファイター」というファイトスタイルのキャラクターとすれば、その役を上手く演じているという見方も出来る。
もちろん冒頭に入るミット打ちでのコンビネーションは見ていて爽快だし、そこだけでも背後にある猛練習を感じる。3か月厳しいトレーニングを積んだというが役者魂がすごい。
ガラーンとした空気
この映画の独特の空気感は何といったらいいのだろうか。
ひとことで言うと、ガラーンとしている。
川のシーンでもボクシングジムでも、また自宅の場面でも、そこにいる人間よりも人間と人間の間の「空間」を強く感じる。
このガラーン感は、舞台となっている下町、というか荒川付近への一方的な印象*3とも相まって、同じ日本でも自分の知らない場所として画面を見た。
パンフレットから技術面での裏付けを拾うと、16mmのフィルム撮影であるということ、また、劇伴がなく、その分、環境音を重視した音の設計を行っていることが影響しているようだ。
環境音についての言及が興味深かったので引用する。
環境音については、聴者の観客が、普段は当たり前に感じている”音が聞こえる”ということを改めて意識し、またケイコにはこの音が聞こえていないということを意識するような音の設計を考えました。
前提として、聴者の僕には、音のない世界を「想像し直し続ける」ことはできるかもしれないけれど「わかる」なんてことは決してあり得ないと思っています。なので、たとえば、主観ショットで音を消すなどの、いわば観客が追体験するような表現もあり得たかもしれませんが、それではなんだか「わかった気になる」だけのような気がし、選択しませんでした。聴者の僕にできることは、自分や周囲の多くが聴者であることを何度も自覚すること、そうではない人がいることを意識し続けること、そんな点から一つずつ進める必要があるだろうと考え続けていました。
主観ショットで音を消す、というのはまずは考える手法なのだろう。『コーダあいのうた』のコンサートシーンがそれに近い。
ここで監督が「聴者の僕にできること」は「わかる」こと、「理解する」ことではなく、「何度も」自覚すること、意識し「続ける」こと、としていることに強く共感した。
ろう表現
パンフレットで手話監修の越智大輔さん*4は「ここまで聴覚障害者のことや手話のことに真摯に取り組み、考えてくれた監督・スタッフはいなかった」と書く。
ケイコは耳が聞こえないが、そういったタイプの映画として特殊であることは、越智さんの解説の中にも次のように書かれている。
作品中でのケイコはちょっと反骨心が強くてエネルギッシュだけどどこにでもいる女性である。反骨心ゆえハンデに屈せずチャレンジする彼女の姿が描かれているが、たまたまハンデが聞こえないということだった、そういうふうに感じられる三宅監督の自然な描写は素晴らしい。
実際には、ゴングやセコンドの声が聞こえないことは大きなハンデなはずで、実際3戦目(負けた試合)では、試合中にその問題が現れている。それでも監督の書きたいことはそこにないので、映画を観た観客もそこに足を止めない。
一方、越智大輔さんのパンフレット解説を読み、様々な資格取得にかつて存在した「欠格条項」が今はほとんどなくなったことを知った。(ボクシングを含むプロスポーツにおいては、まだ「聴力の保有」の条件が必要とされるものがある)
こう考えると、社会問題について映画が出来ることは限られていて、観客側も映画やドラマに(知りたいこと)すべてを求めるのは求め過ぎだろう。
『silent』や『LOVE LIFE』などを見るにつけ、映画やドラマが得意なのは、障害でも性格でも、多様な特性を持った人たちが同じ世界に生きているという事実を伝えること。
彼ら(時に僕ら)が何に困って助けを求めているか、については、映画側がすべてを描く必要はなく、そこは観客側が「何度も」自覚し、意識し「続ける」ために、人に話を聞いたり本を読んだりして勉強することが必要なのだと思う。
自分はあまり意識しなかったが、若い人たちで流行っているという「タイパ」(タイムパフォーマンス:時間対効果)という言葉は、効率的に「わかる」ことを目的としていると思うが、障害のありなしに限らず「他者」を「わかる」ことはあり得ない。ゴールがない中で、「タイパ」の悪い学びを続けなくてはならないと感じる。
なお、映画の原案になった小笠原恵子『負けないで』は読んでみたい。映画は本の第8章に着想を得たというが、本では半生が描かれているという。原案の本を読むことで、さらに監督の描きたかったことへの理解が進むように思う。もちろん三宅唱監督作は代表作『きみの鳥はうたえる』を見てみたい。
参考
『ケイコ 目を澄ませて』と手話監修の越智大輔さんについては、以下でも取り上げています。
pocari.hatenablog.com
『100円の恋』については、こちらで取り上げています。感想を読み直すと、中学生のときにボクシング経験があるということで、それが効いているのでしょう。それにしても肉体改造エピソードがすごい映画。
pocari.hatenablog.com
*1:『百円の恋』のボクシング指導は、本作でもコーチの「松本」役で出演する松浦慎一郎。なお、パンフレットでは「エディタウン賞」とあるのは当然「エディ・タウンゼント賞」の誤り。検索しても「エディ賞」という略し方はするが、「エディタウン賞」とは略さない。
*2:特に右のアッパー、フックがアレ?という感じだったので、もしかして左利きかと思ったら右利きだった。利き腕があまりうまくないことを考えると、球技も含めてスポーツの経験があまりない人かもしれない。
*3:大学時代の友人が綾瀬に住んでいて何度か行ったときの印象。友人の家は周りに家はたくさんあるけど、ガラーンとした場所にあった。東京の西側に住んでいると、観光地以外で東側に行くことはほぼないのでその時の印象に引きずられてしまう。
*4:前回も引用したが、越智大輔さんの『silent』『ケイコ』との関わりについてはこちらの東洋経済の記事に詳しい→「silent」で話題の"手話"ドラマや映画での描き方 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース