『エンドロールのつづき』
インドのチャイ売りの少年が映画監督の夢へ向かって走り出す姿を、同国出身のパン・ナリン監督自身の実話をもとに描いたヒューマンドラマ。
平日に映画を観に行く場合は、作品以上に上映開始・終了時間が重要で、3つくらいの候補の中で最も行きやすいものを選んでこれを観に行くことになった。メモしておかないと忘れてしまうので、今回、迷った相手は『SHE SAID シー・セッド その名を暴け』と『ヒトラーのための虐殺会議』。
全く異なる映画とはいえ、インドという括りでは同じ『RRR』の印象と、その高い前評判から、(アクションはないだろうから)ストーリーが緻密で面白い話だと思い込んで観に行った。
映画を夢見る少年が、様々なトラブルに巻き込まれながらも、映画作りの夢に近づき大団円、というイメージの物語。
確かに間違ってはいないが、想像していたよりもずっとゆっくりした映画だった。しかもストーリーはメインじゃない。
映画館が取り壊されてからのシーン(映写機やフィルムがスクラップされて別の製品に生まれ変わる過程)は、サマイが見ているものというよりは、監督が観客に見せている映像だし、町を出ていくことが急に決まる唐突なラストも、関係者全員が揃って見送る概念的な映像だ。後半になればなるほど、実際に起きたことというよりは監督自身の思いが先走る感じだ。ストーリーとしては緻密ではない。
では良かった部分はどこかと言えば、『エンドロールのつづき』は、自分にとっては、主演のサマイが1億点ということと、場面場面の風景の映画だ。
まず、サマイは全部いい。ポスターにある表情もいいけど、怒ったりふてくされた顔をしているのも、全部絵になる。
キャラクターとしても、最初は「クラスで一人だけ浮いてしまって友達は映画だけ」というタイプの子どもなのかと思っていたら、いつものメンバーとの友情は最後まで変わらず、しかも彼がリーダーシップを取るところも良い。彼の提案で映写機を自作し、フィルムを盗み出し、自分から名乗り出て少年院に入り、音をつけての上映会もやってしまう。
映画館に入り浸って、映写技師ファザルの手伝いをこなしているのも頼もしかった。俳優名としてはバヴィン・ラバリ君。とても初挑戦とは思えないし、撮影前まで映画館で映画を観たことが無かったというのもすごい。
この映画がゆっくりしていると感じるのは、行動範囲が広がらず、同じ場所が何度も繰り返し登場するからだと思う。
- 父が考え事をする街はずれの高台と、そこから見える景色と馬?
- 駅で、停車した列車の客向けにチャイを売るサマイと父
- 電車に乗って、降車駅から自転車で向かう学校までの通学路
- その線路沿いに広がる畑や川などの自然風景(とライオン!)
- 線路を少し下った場所にある廃墟(おばけハウス)
この中でもやっぱり圧倒的に自分の胸の中で生き続けるのは、メインの舞台となるチャララ村の「駅」だ。サマイ達がフィルムを盗み出したのもここだし、「ホーム」がなく、手旗で止める列車は日本には無いだろうし、そこから見える圧倒的に「自然」な風景。
いわゆる無人駅ではなく、チャイやポテトチップを売る子などで賑わいがある。でも、次の列車が来るまではまたしばらく暇になる束の間の賑わいで、時間の感覚も独特だ。
というように、自分にとっては、その風景・雰囲気の多くがサマイの表情と合わせて心に残った映画だった。39セカンズのタイもそうだが、行ったことがなくても映画を観たことで自分の中に貯まっていく風景がたくさんある。サマイと一緒に過ごしたグジャラート州のチャララ村の風景は、かけがえのないものとなった。
もう一つ挙げるなら、サマイの母親の料理。
映写室のファザルがその味を絶賛するが、料理シーンは、その手順を説明するように細かく映し出されている。最初にスパイスを油でいためて弾けさせる、いわゆるテンパリングの場面を見ていて、すでに美味しそうだが、オクラの詰め物が(そういう食べ方をしたことが無かったので)印象に残った。
パンフレットにも3ページに渡って5つの料理のレシピが載っているので、チャレンジしてみたい。
なお、パンフレットの監督インタビューでは、観客に向けたメッセージとして以下のように書かれている。自分の持ち帰ったものは、監督の意図通りのものだったように思う。
光を持ち帰ってほしいです。世界はこれまでにない恐ろしい時代を体験しています。私は語り手として、希望とワクワクするような新鮮な気持ちを皆さんと分かち合いたいのです。映画の誕生、成長、死、そしてその再生を祝う物語なのです。また自然を讃え、雨、雷、湖、あるいはライオンたちと調和して生きることができる、ということを伝えています。私は観客が感動し、勇気づけられ、最後には色鮮やかな物語の世界に浸ってくれるような、本質的な体験をしてくれることを望んでいます。
井戸川射子『ここはとても速い川』
児童養護施設に住む、小学五年生の集。
一緒に暮らす年下の親友ひじりと、近所を流れる淀川へ亀を見に行くのが楽しみだ。
繊細な言葉で子どもたちの目に映る景色をそのままに描く表題作と、
詩人である著者の小説第一作「膨張」を収録。選考委員の絶賛を呼び、史上初の満場一致で選ばれた、第43回野間文芸新人賞受賞作。
映画を観る当日朝の通勤電車内で『ここはとても速い川』を読み終えて呆気にとられた。
え!ここで終わるのか!
井戸川射子さんは、今回『この世の喜びよ』で芥川賞を取ったが、前作『ここはとても速い川』は、野間新人文芸賞受賞作で、保坂和志さんの激賞で気になっていた。本の惹き文句でもこれを持ってきている。
読んでいる間、ずっと幸福でした。――川上弘美
保坂委員が説明の途中で嗚咽した場面は
野間新人賞の選考の歴史に刻まれよう。――長嶋 有
作品の説明をしている選考委員が嗚咽してしまう…そのエピソードから、ストーリー的に「泣かせる」場面があるのかと思っていたが、色々な材料が「発火」しないままに物語が幕を閉じてしまう。
この小説は、(『こちらあみ子』のような)児童養護施設から小学校に通う主人公の「集」の一人称(関西弁)文体なので、まどろっこしいというのはあるが、それだけに、場面場面への思いが整理されないままフワフワと浮かんでは消えるような小説になっている。
物語は、集と同じ児童養護施設の一歳下のひじりの2人がメインの登場人物だが、集は小学校でも、仲良しの同級生がいる。主人公の年齢と友人たちとの関係性は、『エンドロールのつづき』のサマイと似ている。(集は5年生くらい、サマイは3年生くらいで少し集の方が上だと思うが)
さらに言えば、『ここはとても速い川』も『エンドロールのつづき』も主人公の一人称で作品が展開するのは共通している。
しかし、ゆっくり流れるサマイの時間と異なり、集の周りの時間の流れは速く、人の出入りも激しい。まさに「ここはとても速い川」なのかと思うが、施設に来る実習生は1か月起きに変わり、良くも悪くも近い関係にあった施設の先生は産休に入る。ひじりは病状の良くなった父親が引き取り、施設を出ることになった。
施設を出たひじりも、残った集も、何かあれば一気に精神的にきついところまで行ってしまうかもしれない危うさを抱えている。彼らが植え替えたアガパンサスは、その後も無事に育つのだろうか。
集は両親、入院している祖母に見舞いに行くときにも母がどんな人だったかを聞くように、特にいなくなった母親を常に気にしている。
児童養護施設では、テレビを見るのも「でも見てると急に親子コンサートとか挟んでくるから気が抜けへん」。映画を観ても「俺は映画が好き」としながらも「新しい人物が出てくるたびに、いい人悪い人を見分ける練習するようにしている」と、集は常にどこか人に対して警戒感がある。
サマイがファザルから名前の由来を聞かれて「サマイは時間の意味。自分が生まれたとき両親が金も仕事もないけど時間だけがあったから」と答えるが、集は名前の由来を知らない。
うちは大きい園やからそら小学校、教室内でも一緒のとこから登校してる子がたくさんいてるし、それぞれが事情あって家族と暮らせてないんや、ってことはクラスの子らも親から聞いて知ってるやろう。自分の名前の由来を聞いてきなさいとかそういう宿題も出たことない。そんなん推理でええもんな、俺かてきっと周りに人が集まってくるようにで、集って名前なんやろうな。
そんな風に優しいながらも、どこか不安を抱えた集が、施設の園長先生に思いのたけをぶちまけるシーンがある。物語が終わる最後に近い場面だ。
一読目は、言っていることが支離滅裂だったこともあり、ピンと来なかったが、読み返すと、集が訴えた内容は、これまで先生に言われたことや身の回りで起きたこと、そして自分の家族に対して抱えていたモヤモヤが詰め込まれた内容であることがわかる。
再読時にこのシーンの重要性に気がついて、「頭の中で整理されなくても、子ども達の中に、(咀嚼されない形でも)大人たちの「言葉」が貯まっていくんだ」、そして、「(集だけでなく)色々な言葉が貯まって自分が出来ているんだ」と驚く。
同じことはサマイにも言えて、色々な場面で見た「光」が、彼の映画作りに収斂していく。それは、ガラス瓶ごしに見た世界など、実体験だけでなく、映写室で見た数々の映画も、全部サマイの中に貯まっている。
そう考えると、もっと色々なものを見て勉強し、子ども達に、そして周囲に、より良い世界を志向するような言葉を伝えていかなくてはいけないんだろうなと思った。家族でも、もっと旅行にも行って色々な景色を見たいし見せたい。