山崎ナオコーラさんの本は比較的多く読んでいて、前作『ミライの源氏物語』にも共感し、出演したラジオ番組も楽しく聴いたので、親しみのある作家と言える。
文学の力を信じていて、文学を通じて世界にモノ申したい、少しでも社会を良くしたい、そういった意気込みを感じて、とても応援したい作家だが、いわば野心作と言えるこの本で、その「野心」は世界に伝わるのだろうか、と考えてしまった。
自分の考える問題点は、ひとことで言うと、山崎ナオコーラさんの姿が透けて見えすぎるということ。
「今、私はこのような社会問題について、こういった問題意識を持っています」というのは、エッセイだったら(もしくは前作のような古典解説なら)良いが、小説の場合、そこが直接的に伝わってきてしまうと、物語に集中できない。
この文章では、具体的に、何が、自分(読者)を物語に入り込ませる上での阻害要因となったのか、小説を引用しながら探ります。
差別のない社会という設定
この本では、繰り返し「昔は差別があったよね」という表現が繰り返し登場する。
「なあ、俺らが小学生のときは、教育は性別で区切られがちで、俺らの性別に属する子どもはほとんどが黒いランドセルを背負っていたよねえ?でも、岩井は赤で、個性を出していたよなあ」
雄大は岩井の背中に話しかけた。
p31
つい10年前くらいまで(オバマが大統領に就任した頃)は、こんな風に過去を振り返るような時代が、すぐそこに近付いているのかと思っていた。
しかし、2024年現在、実感としては、それとは異なる方向に現実は進んでいる(むしろ後退している)。こういった「差別のない、誰もが自分らしく生きることのできる社会の実現」は、選択的夫婦別姓制度の議論(していないが…)だけで何十年も費やしている日本は勿論、バックラッシュの激しい欧米も含めたこの世界の延長上では成立し得ない。
何かしらの特殊要因(大災害による人口減少や、独裁政権による大幅な法改正、技術的なブレイクスルーなど)を想定しなければ到底リアリティはないだろう。
ところが、上の引用部分からも分かる通り、この小説の舞台は、あくまで今から20~30年後くらいの近未来を想定するように描かれていて、2024年の日本と地続きだ。
たとえば村田沙耶香の「トリプル」(3人での交際が普通の世界)や「殺人出産」(10人産めば、1人殺してもいい世界)などのような、かなり特殊な設定(あり得ない世界)を前提にしなければ、受け入れがたいと感じてしまった。
一方、この本のメインの設定である「火星移住」も、それを可能にした技術や法制度はぼんやりしている。設定がフワフワしているせいで、何となく物語も地に足のつかない状態になってしまっている。
ただ、この本のクライマックスが、火星のオリンポス火山の登山であるのは好きだし、タイトルの通り、結局、頂上を目指さず途中で「あきらめる」のも良い。もちろん、そこまで含めて、結局「寓話」的な物語なのだろうが、それなら、もっと無国籍で時代不明な設定にしてほしかった。(ランドセルの登場がベタな現代日本社会を思い起こさせて良くないのかもしれない)
作者の分身のようなキャラクター
そしてキャラクター。
これも登場人物が揃って、論理的、そして何というか「常に正しく」考えてしまうので、感情の起伏が小さいように感じ、小説としても盛り上がりに欠ける場面が連続する。
特に、主人公・雄大と奥さん(弓香)との会話は強烈だった。突然いなくなってしまった妻と、火星のコンビニでの再会という、通常は、感動の再会もしくは、反対に修羅場が想定されるような場面。それなのに、お互いが考えていることを言葉にし終えると、あまり波風立たずに別れる。
「一緒に暮らさなくて良いから茶飲み友達になってほしい」という雄大を断固として拒否する弓香の台詞を引用するので、その一方通行ぶりを感じてほしい。
「いや、嫌いではないよ。私の人生においては、雄大じゃなくて、私が主人公なんだよ。だから、雄大が駄目人間だろうが、嫌な奴だろうが、素敵人間だろうが、好ましい奴だろうが、それはどうでもいいのよ。正直、私はもう、雄大のことを好きとか嫌いとか、そんなことは考えたくない。それよりも、私から見た私自身の姿の方が気になる。結婚当初の若い頃の私は、仕事もうまくいっていたし、結婚式とか親戚付き合いとかも楽しめたし、育児もやりがいあったし、自分で自分を肯定できた。それが、だんだんとそうではなくなってきた。雄大と一緒にいるとき、雄大が私を馬鹿にしているのがヒシヒシと伝わってくるようになった。馬鹿にされるような関係を作ってきたのは私でもあるから、私にも責任がある。とにかく、この関係の中で暮らしていると、私自身も自分を馬鹿にしたり、軽く扱ったりして過ごしてしまう。それがつらいの。もう年齢も年齢だし、自分を大事にしたい。自分を低く見たり、自分を軽い存在だと感じたりしないで、残りの限られた日々を、『私は、私が大好き」と思って、自分を愛して過ごしたい。私のことを、大事な人間だ、って思いたいの。そう思えるようになってから、死にたいの」
確かに、弓香の意見は、言葉としては理解できるが、これを直接言われた雄大は、もっと反論するんじゃないのか。
これに限らず、全体として、登場人物の台詞に、読者の共感(や反感)を生むような重みはあるが、キャラクター同士の対話がないため、山崎ナオコーラさん自身から読者に向けたメッセージのように感じられてしまう。
いわば、ナオコーラさんの意見を登場人物に割り振って、それらを順に聞かされているような気がしてしまう。
今回、タイトルとなっている「あきらめる」ことに、主役の雄大も、準主役の輝(あきら)も活路を見出すが、その場面にも対話は無く、独り言だ。
メッセージ自体には納得できるが、やはりナオコーラさん自身の「気づき」であるように見えてしまう。
「あきらめる」の語源は、明らかにするということだ、と以前に輝が言っていた。
そうだ、明らかにしよう。自分を、明らかに・・・・・・。雄大は足元を見た。
「この川は私です」雄大はひとりごちた。
自分を明らかにするとは、自分がちっぽけな存在だと残念がることではない。大きすぎると自覚することだ。自分の存在は、とても大きい。大きすぎてコントロールできないと、あきらめるのだ。火星も、宇宙も、自分だ。性別や職業で人を差別するのも自分だ。あきらめるのだ。自分は、思っていたより大きかった。でも、少しずつ明らかにしていけば、一歩ずつでも進める。死までは、まだ何年かあるのかもしれない。
輝の方は、特に顕著だ。児童心理司の時田さんへの相談(トラノジョウに暴力を振るってしまったことについての相談)に関連し、専門家(ソーシャルワーカーの石田さん)を目の前にして、思い付きの解決策を語ってしまうのは、読者としても居心地が悪い。(しかも石田さんはスルー)
「・・・・・・あきらめる」
石田さんは、ちょっと考えるような目をした。
「私は、加害をする人間だとあきらめる」
輝は繰り返した。そこで、ユキの姿を思い出した。あの日、あのアパートで初めて対面したユキは、ちゃんとあきらめていた。自分にはトラノジョウに対する十分な育児ができないとあきらめていた。輝もあきらめよう。みんなであきらめて、みんなで育児をしよう。心をあきらめよう。心を制御するのではなく、行動をコントロールしよう。
「あきらめるからこそ、二度と暴力を振るわないことが可能になると思うんです。自分が感情をコントロールできる人間だと驕らずに、考えて考えて、『暴力を振るわない』をします。遠くにいるたくさんの人たちには優しくできない自分を自覚できるようになりたいです。あきらめて、たまたま側にいる人たちに優しくする。今、地球や火星に、救急車に乗っている人や病院に入院している人がたくさんいますよね?大変な病気や怪我で苦しんでいるすべての人たちに私は寄り添えません。今、地球や火星でネグレクトなどの虐待を受けて苦しんでいる子どもたちがたくさんいますよね?私は、そのすべての子どもには寄り添えません。その程度の、悪い人間なんです。人が好きだけれど、コミュニケーションを周囲と円滑に取ることができません。子どもが好きだけれど、大きな愛に満ちているわけではありません。それが、私という人間なんだと思うんです。だんだんと明らかになってきました。自分をあきらめて、たまたま自分の側にいる子どもにまずは向き合う。それから、出会った子どもにも向き合う。さらに、新しい出会いがあったら、ひとりずつ、少しずつ、向き合う。自分だけでできそうになかったら、ちゃんと自覚して、周りに助けを求める。...そうしてみようと思います」
輝は胸を両手で押さえた。
「ええ」石田さんも輝の真似をするように自身の胸を押さえた。
「反省しました」
輝は頭を下げた。
なお、準主役である、輝(あきら)は、最初の登場場面から性別が伏せられたまま話が進む。英語圏だと、最近では、代名詞をhe、sheではなくtheyを使うことがあるというし、意図としては分かる。わかるが、中盤以降まで輝を男性と思い込んで読んでいたので混乱した。このあたりは、読者が試されているのかもしれない。
まとめ
繰り返すが、小説家・山崎ナオコーラさんは好きだし、『あきらめる』のメインのメッセージも嫌いではない。*1
分身ロボットが火星で登山をするというアイデアも大好きだ。
しかし、作者の顔が見えすぎてしまうのは、小説として失敗しているように感じる。ナオコーラさんの小説は、以前読んだときはもっと熱中して入りこめたように思うので、今回が特殊なのか、もしくは、近作が同じ傾向にあるのかもしれない。
その意味では、最近の作品を読んで確かめてみたい。
参考(過去日記)
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
*1:ただし、社会を変えることにこだわらず=あきらめて、自分の心の方に目を向けよう、というメッセージのように受け取ってしまうと、「生まれた場所で咲きなさい」的な、ある種の自己責任論になってしまう。