Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

新年の抱負代わりに2冊を読む~三浦知良『カズのまま死にたい』×益田ミリ『永遠のおでかけ』

2つの本の共通点は何か。
両方の本のタイトルからイメージされる「死」という答えはハズレ。
正解は、どちらも著者の48歳の時の話が書いてあるエッセイ。


自分は今48歳(今年49歳になる)。
とてもそんな風には思えないけれど、もう50歳がすぐそこだ。
このくらい年を重ねると、年の取り方は多様過ぎて、他の人とは比較ができないなと思う。
30歳くらいのときは「標準的な30歳」があると何となく思っていたし、そう思う人が今も大勢いるから、あれだけ30歳付近の年齢をタイトルに含んだ本が書店にたくさん並んでいるのだろう。


しかし、50歳付近だと、働き方や考え方だけでなく、見た目も人それぞれ過ぎて比較することにあまり意味がないことがわかってくる。
ちょうど先日聴いたpodcast「コテンラジオ」のテーマ「老い」で、「老いを年齢で区切るのは無意味。(よく言われるようになった)「セクシュアリティがグラデーション」という以上に、年の取り方はグラデーションだから、本当は、福祉サービスですら年齢で区切るのは不合理を生む」という話があって納得したところだった。*1


それでも、年齢のことを出したのには理由がある。
そもそも今回、カズの本を読もうと思ったのは、カズが55歳という年齢でポルトガル2部オリベイレンセへの今夏までの期限付き移籍に基本合意した、というニュースを聞いたから。

mainichi.jp


現役であることを諦めれば、国内でも色々と必要とされる場面はあるはずなのに。
55歳で、海外へ!
そんなカズを見て、何となく変化を嫌いながら生きていた自分を振り返りたくなったという部分が大きい。


他の人は同年齢のときに何をしてどう考えていたか。

比較することには意味がないけれど、自分を鼓舞するためという功利主義的な視点では意味がある。

  • カズこと三浦知良は1967年生まれの55歳(2月で56歳)。
  • 併せて同じタイミングで読んだ益田ミリは1969年生まれの53歳。

今回よんだ2冊の本はそれぞれ2人が48歳のときに考えていたことが覗き見できる本で、時々振り返らないと忘れてしまう、自分の年齢について改めて考えさせられる2冊だった。

益田ミリ『永遠のおでかけ』

益田ミリを読むのはいつも漫画だったのでエッセイは初めてのような気がする。
漫画と雰囲気が一緒だ。
さっぱりしている。
この本は、がんで亡くなった父親との、余命が短いとわかってからの暮らしと、死後、母親と二人でその思い出を振り返る内容がベースとなっている。
益田ミリさんは、行動というよりは観察の人だ。
周囲をつぶさに観察し、自分の心の中も観察する。


あと2、3日の命との電話があり、東京から大阪に急いで帰る道すがら、父の死の知らせがあり新幹線から見た美しい夕焼け。このとき益田さんは47歳で今の自分より1歳若い。
溢れる涙を拭きながら「昨日、早めに原稿を送っておいてよかった!」などと並行して考えていたりするのも、そうだろうな、と思う。
その後の葬儀の打合せでのバタバタした話も含めて、底に流れる悲しさを感じさせつつ、さっぱりとしている。

本の中では、色々なことと絡めて、父親との思い出が語られる。
東京都庭園美術館で開催されていたボルタンスキー展(2016)の話が印象的だ。

ボルタンスキーのインタビュー映像が流れる部屋もあった。彼がこれから制作したいと思っている作品のひとつに、遠いパタゴニアの地に巨大なトランペットを設置し、風が吹くたびにクジラの歌を奏でる、というものがあるらしい。
「誰も観ることはできないでしょう」
と、彼は冷静に語っていた。
制作しても誰にも観られない作品。
その作品になんの意味があるのか。
存在を知っていることに意味があるのである。
疲れ果てた一日の終わりに、
「今夜も極寒のパタゴニアの地でトランペットがクジラの歌を吹いているんだなぁ」
と、想像してみることも、ボルタンスキーの作品*2なのである。行けなくてもいい、見えなくてもいい。知っていることが美しさなのである。
(略)
物語が人を強くする。
わたしはボルタンスキーの作品によって、あるいは、ミャンマー祭りによって、ささやかな物語を編んでいった。
(略)
大切な人がこの世界から失われてしまったとしても、「いた」ことをわたしは知っている。それが白い蝶に代わるわたしの物語だった。物語のヒントは外側にあり、そして、人の数だけあるのだなと思った。

益田さんが父親との関係の中で、自分の年齢についてや、自分に子どもがいたとして、子どもから見た自分について書かれた文章も印象的だった。
僕の父は健在だが、いつか通る道、もしくは去年通ったかもしれない道として、家族との関わりの中の自分を考える一冊だった。益田さんの場合は余命がわかってから取った行動だが、父親の子ども時代の話を取材してみる、細かく聞いてみるというのは、元気なうちにやってもいいなと思った。

三浦知良『カズのまま死にたい』

カズは益田ミリさんとは対照的に、観察よりも「行動」の人だということがよくわかる本だった。
元々、2014から2019年の日経新聞の隔週連載という特性もあるのだろう。サッカー日本代表(2014ブラジルW杯、2018ロシアW杯含む)の話題だけでなく、野球やラグビーの話など、その時期のニュースについてのコメントも多い。
しかし、「俺は解説者じゃなくて、現役サッカー選手だ」という気概があるのだろう。現在のトレーニングについての話も多い。しかし、それほど試合に出ているわけではない自分を不甲斐ないと感じている部分が多くみられる。
例えば、まさに48歳の2015年のシーズンを振り返った部分。

48歳、プロ30年目の節目のシーズンのはずが、残念な結果に終わってしまった。1年で4分しか出られなかった昨年に比べれば、春先は順調で16試合に出て3得点。でもチームが8連敗した夏に自分も状態を上げられず、2度も筋肉系のケガ。思い描いた出場数も得点数も満たしていない。

そもそも前年の2014年が「1年で4分」の出場という厳しい状況だったにもかかわらず、この年は春先に3点も上げているのだから誇るべき結果のように思う。しかし、後半の不調に満足がいかないことが文章に現れている。
ただ、そこで終わらないし、決意だけでなく、「この30日間ほど、毎朝6時から走っています」と、今の自分の行動をアピールする。このあたりが何というか「自己啓発」心もくすぐるし、心の底から尊敬できる。
このときの文章は、毎朝6時に走る話をひととおり書いたあとで以下のように締める。

不運なケガ。悲運の敗北。勝負の世界は運が働く。でも僕は運に頼らない。止まって待つところへそれは転がってこず、目標に向かっている人の足元へしか運というものは回ってこない。現状維持は停滞。自分を進めることだけを考えていたい。新しい自分になって、2月にまたこのコラムへ帰ってきます。*3

「現状維持は停滞」と書けてしまうところがカズなんだなと思う。
その後、2016年、2017年は1得点ずつ取り、2018年、2019年はノーゴール。
しかし、この連載の最後にあたる2019年シーズンの最終節11月24日に横浜FCはJ1昇格を決める。この最終戦にカズは出場機会を得るが、それについてもこう書く。

自分自身は先発が2試合、途中出場が1試合しかなく、悔しさしかない。出場機会を大きく減らしたこの2年をみて「もう無理かも」と思う人もいるのだろう。でも僕は「試合に出る」と本気で思っている。(略)
終戦、残り3分で出場機会を得た。「2~3分なら、何歳だってできるよ」と冷やかされるかな。「温情をかけられた」とかね。でも、毎日努力してそこを目指さないなら、温情ですらも得られない。毎日寝ているだけでは最終戦の一員になる権利はなく、カズという名前であの出番が降ってきたわけじゃない。積み上げられたからこそ、あの場に立つ資格も得られたのだから。

自分がどう見られているかわかった上で、それを(Twitterなんかではなく)日経新聞紙面で否定できるだけの芯の強さとプライド。強すぎる…

この本の後の話になるが、J1昇格後の横浜FCでは、2020年4試合、2021年1試合(1分)の出場にとどまり、2022年にはJFL鈴鹿ポイントゲッターズに移籍。鈴鹿では出場機会を増やし、負傷で休んでいた期間もあったが11月(つい3か月前!)に55歳でのゴールも決めている。
ここまでの流れとカズの発言の数々を見ると、ポルトガル2部オリベイレンセへの移籍も納得だ。誰も止められない。
なお、本のタイトルは『やめないよ』『とまらない』ときて『カズのまま死にたい』だそうだ。次に出す本のタイトル付けには悩みそうだが、現在の日経新聞連載記事のタイトルは「サッカー人として」だというので、それでいいかもしれない笑


現役へのこだわりが強過ぎて、周囲から「扱いの難しい人」と思われている可能性もあるが、突き抜けていることがカズの長所なんだろうと思う。「プライド」という言葉が全く似合わない自負がある自分としては、全く参考にならない生き方とも言える。
けれど、これほどのこだわりを持って生きている人がいることは、自分も頑張っていかないといけない!と年初から改めて気を引き締めるきっかけになる一冊だった。

コクピットと実年齢調整

ということで、2冊を読んだが、自分が50歳近くという実感は本当にない。
『永遠のおでかけ』の中で、養老孟司南伸坊の対談集『老人の壁』に益田ミリさんが頷くシーンがある。

冒頭で南さんが、「いま67なんで前期高齢者なんですけど、どうも実感ないんです」と言い、「先生は、ご自身を老人だ、と思われますか?」と養老さんに質問する。養老さんは「じきに80ですが、一人でいたら絶対に思いませんね」と答えられていた。それを受けて、「1人じゃわからない。自分はずーっとつながっているから、『おれはおれ』なんですね」と言われた南さんの言葉に、そうそう、とわたしはうなずいたのだった。

そうなんですよ。
僕はよく、高校生くらいの自分がマジンガーZコクピットみたいなものに乗ってオトナの自分を操縦しているイメージを持ってしまうのですが、外側のマジンガーZは、傷ついてどんどん古くなっていくけれど、コクピットに乗っているのは、南伸坊のいう『おれはおれ』のままの自分。
だからこそ、周りの目を意識し、本を読み「他人」の人生を覗き見しながら、実年齢に調整していくことが必要だと思う。こんな風にエッセイや、他の人の人生、生き方について意識するような読書ももっと増やしたい。


あと、J2など、国内のサッカーも気になるようになった。
今年はスラムダンクの影響で、Bリーグを見ようと思っているが、スポーツ観戦はやっぱり楽しいのでは?


参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com

益田ミリさんは、しばらく読んでいなかったけど、すーちゃんや他の漫画もまた読みたいです。

*1:最近話題の、というか明らかにダメな発言の成田祐輔の「高齢者は集団自決すればよい」発言も、発言自体もダメだけど、基準となる年齢をどう決めるかを考えると、倫理的にではなく、ルール的にも無理があることがわかる

*2:この作品は2019年のボルタンスキー展のときには映像インスタレーション《ミステリオス》として展示されている。また日本で展覧会があるときは是非行ってみたい。>ボルタンスキー、「アート」と「アーティスト」のあるべき姿について語る|美術手帖

*3:毎年12月後半と1月は連載はお休みのようです