昨年、興味はあったのに見逃した映画のひとつに『PLAN75』がある。
少子高齢化が一層進んだ近い将来の日本で、満75歳から生死の選択権を与える制度<プラン75>が国会で可決・施行されたら?という内容だ。
この『安楽死が合法の国で起こっていること』の序文では、この映画(2023)に加えて、相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月)の植松聖の発言、直後の橋田壽賀子『安楽死で死なせてください』(2017)、NHKスペシャルでのスイスでの医師幇助自殺の密着取材(2019年6月)、京都ALS嘱託殺人事件(2019年11月)が取り上げられている。
こういった、さまざまな事件や話題の中で、いわゆる安楽死と言われるものをどう考えるかについて問われる機会の多い中、自分なりの考えを持たないままでいた。ひろゆきや成田悠輔などネット著名人から定期的に出てくる「高齢者の死」についての発言についても、直感的に「酷い」と断じるだけで、何に対して酷いと感じているのかを十分に言語化できていなかった。
そんな自分にとってこの本は、まさに「今読むべき本」だっただけでなく、議論の抜けが無いように思えるほど、本当に読み応えのあった新書で、今回、感想のあと、内容の要点メモを残したが、結果的にそちらがメインの文章となった。
雑感
本書の前半(第一部、第二部)では、タイトル通り海外事例を参考に、安楽死を合法化すれば、線引きをどのように決めても、引かれた線は動いていく(対象範囲が拡大していく)という「すべり坂」の問題が語られる。
この中で、患者、家族、医療職という複数の観点からの問題の見え方が説明されるが、全く予想外だったのが、移植医療の立場から見た「死」という観点。この中で安楽死のような「予定された死」は、「有益な臓器ドナー・プール」として強く望まれていることを知り衝撃を受けた。
また、後半(第三部)では、日本で安楽死の議論を進めることのリスクが語られるが、ここで言われる日本型「自己決定」は、退職や退学など死と関係のないところでも見られるもので、欧米方式を日本に輸入する際に常に考えておくべきポイントに気づかされた。
全体を通して、誰かが「死にたい」と言ったときに、それに対してどう向き合うか、ということについても考えさせられる本だった。
なお、後半になるにつれて、重い障害のある娘の親でありケアラーとしての立場での言葉が語られるようになるが、それもあって終盤は、読者としてもより熱を入れて読むことができた。
ただし、この本は医療の側に非常に多くのものを求めている。コロナ禍では、激務を苦に自殺に追い込まれた医師もいたことを考えると、患者をどうサポートするのか、という視点と同様に、医師をどうサポートするのか、という視点が必要になってくるのだと思う。
以降では、本書の要約(個人的メモ)を示すが、その前に、少し長い文章を引用しておきたい。
まず、医療において重要になってくる「意思」表示の「意思」についての文章。
「思い」「考え」「意思」は個人の中で練られたものが確定的に発せられるものではなく、他者(自分を含む)との「関係性」と「相互性」の中で形を変えていく、という指摘は、男女関係はもちろん一般的な人間関係の中でも同じことが言えるだろう。ここで「関係性」と切り分けて「相互性」ということが指摘されているのが興味深い。
私たちの気持ちや思いや意思が生起したり形を変える場所は、きっと「自分」という閉じられた内部というよりも、たぶん「誰か」と「私」との間なのではないか。人は常に自分自身とも対話を続けているものだから、その「他者」の中には「自分自身」も含まれているだろう。私が自分自身を含めた他者と出会い関係を切り結んでいるところ。自分を含めた他者とのやりとりを鏡にして私が私自身と新たに出会うところ。そこで、感情も思いも意思も形作られては、常にまた形を変えていく―。私たちが関係性とその相互性の中で生きる社会的関係的な存在だというのは、きっとそういうことなのだと思う。
それならば医療もまた、目の前で病み苦しむ人との関係性と相互性を引き受けることによってしか、患者を真に救うことはできないのではないだろうか。 p246
もう一つは、以下。
あらゆる社会問題で、苦しい立場の人たちが「言える言葉」が、それを言うように誘導されているとしたら本当にグロテスクだが、当事者としてはその一面があるということだ。その中で「議論を始める」として優先すべきことは何か。一番大切なことを改めて教えてくれる本だった。
でも、だからこそ….....と思う。私たち障害のある子をもつ親たちのように、この社会で 声を上げにくくされてきた様々な立場の人たちがいるからこそ、そういう人たちの声が封じられることに、ひとりひとりが力を尽くして抗わなければいけないのではないか、と思う。今この時に死にたいほど苦しんでいる人たちは声を上げる余裕すらない人たちだからこそ、少しでも声を上げられるところにいる人が自分にできる限りの勇気と力を振り絞って、声を張るしかないのではないか。そうでなければ、声を上げる余裕がないほど苦しいところに身を置く人たちが言える言葉、聞いてもらえる言葉が「もう死にたい」だけにされていってしまう。家族も何も言えずに「殺させられる」しかなくなってしまう。p270
序章 「安楽死」について
第一部 安楽死が合法化された国で起こっていること(1~2章)
第一章 安楽死「先進国」の実状
第二章 気がかりな「すべり坂」
- すべり坂:一歩足を滑らせたら最後、どこまでも歯止めなく転がり落ちていくイメージ。安楽死をめぐる議論では主に、いったん合法化されれば対象者が歯止めなく広がっていくことを指す。
- 1 緩和ケアとの混同
- 2 対象者の拡大と指標の変化
- 対象者が、終末期の人から認知症患者、難病患者、重度障害者、精神/知的/発達障害者、高齢者、病気の子どもへ拡がっている
- 「オランダの安楽死は、ひどい苦痛を回避するための最後の手段から、ひどい人生を回避するための方法となってしまった」(オランダの生命倫理学者テオ・ボウア)
- 安楽死の対象者が終末期の人から障害のある人へと拡大していくにつれ、安楽死が容認されるための指標が「救命できるかどうか」から「QOLの低さ」へと変質してきた
- 安楽死をめぐる議論がそれに影響を受けると「一定の障害があって、QOLが低い生には尊厳がない」「他者のケアに依存して生きることには尊厳がない」という価値観、さらには「そういう状態は生きるに値しない」といった価値観が広がり、「すべり坂」を引き起こす
- 3 「死ぬ権利」という考え方に潜む「すべり坂」
- 「オレゴンでは医師幇助自殺が可能なのに、カリフォルニアではできないのは権利の侵害」「自国で合法化されていないためにスイスまで行かなければならないのは権利の侵害」という物言いにより、「すべり坂」が加速していく
- 4 日常化に潜む「すべり坂」
- 5 崩れていく「自己決定」原則
第二部 「無益な治療」論により起こっていること(3~4章)
第三章 「無益な治療」論
- 1 テキサスの通称「無益な治療」法
- 患者本人や家族が治療の続行を望んでいたとしても、「医師の判断」で治療を差し控えたり中止したりすることができる、という立場に立つ議論を本書では「無益な治療(futile treatment)」論と呼ぶ
- 米国テキサス州のテキサス事前指示法(TADA)など米国・カナダで類似の法律が広がりを見せているが、患者家族サイドからの抵抗で訴訟が多発している。
- 2 「無益な治療」論の「すべり坂」
- 対象者が拡大し、また、医療現場の「無益な治療」論が患者を治療放棄へと誘導し、患者の「自己決定」がなし崩しにされていくリスクがある
- 医療経済学によるQOLの数値化:従来、医療行為の費用対効果で用いられた「寿命」そのものではなく、障害のある期間を割り引く形(例えば目の見えない人はそうでない人の60%など)で数値化しようとする試み
- 近年広まっている「健康寿命」という言葉には、「障害があって介護を必要とする状態は健康とは言えない」という価値観が潜んでいる:QOLの数値化の考え方と同じ
- 「質的無益」論の人間観:治療は「効果」だけではなく「利益」をあたえなければならない→「利益」を感じることのできない患者には治療は無益だと主張する
- 「人間である」ことに必要な特性を医師側が決め、医師の価値観次第で「その人が生きるか死ぬかが決定される」
- 医師による一方的なDNR(Do Not Resuscititate:蘇生不要)指示は、終末期患者以外にも日本でも行われており、その適用範囲が拡大していく可能性がある。
- 3「無益な治療」論と臓器移植の繋がり
- 移植医療の世界は、あたかも臓器が必要な患者に行き渡るべきものであるかのように、常に「臓器不足」解消を喫緊の課題として訴え続けてきた
- 重い障害のために自分の意思を表明できない人たちは今や「有益な臓器ドナー・プール」と目されている。
- 1960年代以前は「心臓死」後の臓器提供 DCD:Donation after Cardiac Death
- 1970年代以降は「脳死」*1者からの臓器提供 DBD:Donation after Brain Death
- つまり、DCDよりも新鮮な状態で臓器を採取できるようにしたのがDBD
- 1990年代に復活したDCDは、脳死に至っていない患者から人工呼吸器を取り外すなどして人為的に心停止に至らしめて、拍動が戻らないことを確認してから臓器を摘出する(人為的DCD)
- この話が「無益な治療」論と結びつくと、医師が臓器摘出のために死を早めることに繋がる
第四章 コロナ禍で拡散した「無益な患者」論
- 2 コロナ禍が炙り出した医療現場の差別
- コロナ禍以前から存在する「迷惑な患者」問題:障害のある人たちが医療から疎外されている問題
- コロナ禍で「合理的配慮」が特に軽視された。コミュニケーションがとりにくい人たちにとっての厳格な面会禁止、付き添い禁止は命に直結。
第三部 苦しみ揺らぐ人と家族に医療が寄り添うということ(5~6章)
第五章 重い障害のある人の親の体験から医療職との「溝」を考える
- 1 医師-患者関係を考える
- 医療の世界に特有のものの見方、考え方、価値観や慣例、そこに含まれる偏向が医師-患者の間に「溝」を作る
- 2 医療職と患者・家族の意識のギャップ
- 患者と家族にとっては「生活」>「医療」。それが医療職では逆転し、医療が圧倒的に優先される。
- 専門性とは狭い範囲に詳しいことなのに、その狭さを自覚できていない医療職が多い。医療や福祉が本当に家族のために機能するためには、いくつもの種類の専門性を持った人が必要。
- 目の前の患者の医療をどうするかという問題は、医師にとっては「今という時点」において「医学的な正解は何か」という問題。患者や家族にとっては、これまでとこれからの生き方を含む「人生」の問題なので「正解」を示されても、そこに素直にしたがえない。
- 親たちが立ちすくみを乗り越えて意思決定に向き合うことができるために必要なのは「正しい」情報の提供や、「正解」へと誘導する「説得」でもなく、「正しいのはどっちか」という問いを「なぜ?」へと転じること。
- 家族が自分で気持ちを整理していくプロセスには、専門職から見たら明らかに間違っている発想があったとしても、それをすぐに指摘したり訂正するのでなく、共感的に聞いてくれる人が必要。
- 「なぜ?」という問い、「共感」のまなざしが、医療職を「判定者」ではなく「伴走者」に変える。
- 3 日本の医療に潜むリスク
- 日本で安楽死が合法化されることは、欧米以上にリスクが大きい
- 欧米では、医師の決定権と患者の自己決定権とは対立を含んだ緊張関係にあるが、日本では医師の権威が大き過ぎて、「患者の権利」そのものへの意識が希薄。
- 「インフォームド・コンセント」は元々、患者の権利擁護と自己決定権の保障という理念を背負って生まれた概念だったが、日本の医療現場に持ち込まれると、単なるアリバイ作りの「手続き」と化してしまった。
- 日本の医療においては「患者の自己決定」という言葉と概念は「患者の意思の尊重」という表現に置き換えられており、「患者が決める」ことは「医療職の我々が患者の意思を尊重してあげる」ことへと主体がすり替わっている。
- 日本病院会倫理委員会の「尊厳死」への考察も、医師が患者を選別して「死を与える」、つまり「無益な治療」論の文脈で行われている。
- 日本の医師は患者に権利の放棄を説き、日本の高齢者の多くは、それに忖度して最初から治療放棄を口にする。
- 『PLAN75』の早川千絵監督「誰がやっているのか顔が見えない中でひとりひとりの尊厳が奪われていく」「『選んで』いるわけではないけど、そっちに流されていく」→日本型「自己決定」の本質
- 「人生会議」と称されて行政の肝煎りで強力に推進されているACP(アドバンス・ケア・プラニング)も、患者に治療を諦めさせる誘導とアリバイの手続きに化す可能性が大きい
- 日本で「死ぬ権利」が喧伝された場合、「患者の自己決定」や「意思決定支援」を偽装した日本型「無益な治療」論がステルスで進行していく。いや、公立福生病院事件を見ると、すでに進行している。
第六章 安楽死の議論における家族を考える
- 1 家族による「自殺幇助」への寛容という「すべり坂」
- 多くの国で家族ケアラーが介護している相手を死なせる行為に対して司法がどんどん寛容になっていくように思える
- 家族や友人にも目を向けることは、安楽死の議論で「自己決定する個人」から「関係性を生きる者としての人間」へとまなざしを深めること
- 2 家族に依存する日本の福祉
- 日本で安楽死を合法化することのリスクが欧米以上に大きいと考える理由のひとつは「家族規範が強く、家族を優先して個としての自分の生き方を貫きにくい文化特性」
- ほとんどの高齢者が「家族に迷惑をかけたくない」と考える日本において、終末期を意識すると、本人、家族、専門職までが「家族のために」を織り込んだ上での「本人の医師」により様々な選択がなされる
- 「地域移行」「共生社会」「ノーマライゼーション」といった美名のもとに、国の方針で施設は増えない一方、地域生活を支える支援制度はむしろ空洞化し始めている。
- 「地域移行」の受け皿として期待されていたはずのグループホーム(GH)でも、付き添いが家族に義務付けられるなど、家族依存のGH生活となっている。一方、重度者を受け入れるGHはほとんどなく、親たちが年齢相応に不調を抱えたまま自分が介護を担い続けざるを得ない(老障介護)
- 制度が変わるたびに高齢者と障害者は医療も福祉もじわじわと奪われてきている日本では、「死ぬ/死なせる」へと人を導いて「家族に殺させる社会」は、とっくに現実となっている。
- 3 苦しみ揺らぐ人に寄り添う
- 4 苦しみ揺らぐ人の痛みを引き受ける
- ケアする家族が、そして医療職が、自分の無力という痛みに耐えてかたわらに留まり続けるとは、そこに愛があり、祈りがあるということ
終章 「大きな絵」を見据えつつ「小さな物語」を分かち合う
- この問題は「あまりに苦しいから死にたいという人は死なせてあげてよいかどうか」「自分は一定の状態になったら死なせてほしいかどうか」といった、個々の人のレベルの議論で終わらせず、「世界では実際に何が起きているのか」「世の中はどこへ向かって行こうとしているか」といった「大きな絵」を掴む必要がある。
- 大きな議論だけで終わったのでは、現に苦しんでいる個々が置き去りにされてしまう懸念があり、個々の人が生きている「小さな物語」にも耳を傾けなければならない
- 近年広がる「議論はあってもいい」「日本でも議論を始めるべきだ」と力を籠める人たちが言っている「始めるべき議論」とは「日本でも安楽死を合法化することを前提とした議論」でしかないので、やめた方が良い。
- 「終末期の人には安楽死を認めるべきか」ではなく、問題を「終末期の人の痛み苦しみに対して何ができるか」へと設定し直すべきだ。患者は痛みに耐えているのではなく、痛みを訴えても聞く耳を持ってくれない医師に耐えているのだ。