Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

あみ子は可哀想?~今村夏子『こちらあみ子』

今村夏子『星の子』のラストは、自分にとって衝撃だった。物語のセオリー通りに進まない話だったからだ。
pocari.hatenablog.com


しかし、その後、映画を観て改めて考え、読者の押し付けた幸福の物語に逆らって生きる、主人公ちひろの選択に納得した。
pocari.hatenablog.com


…という風に、『星の子』に何とかケリを付けた直後に新たな敵が現れた。その名は「あみ子」。


『こちらあみ子』の基本情報をおさらいする。

  • 主人公あみ子の小学生時代~中学3年生までの出来事がメイン
  • 基本的には、あみ子の一人称視点で物語が進む
  • 家族は、両親と、仲の良いお兄さん
  • ところがお兄さんは不良になって家にはあまり帰らなくなった
  • 片思いの相手がいるが、最後に「お前のことがずっと嫌いだった」とキレられる

書き出してみると、大まかな登場人物やプロット的には『星の子』にとても良く似ている小説と言えるが、受ける印象は全く異なる。
それは『星の子』初読時に感じ、そのあと払拭した感情「可哀想」が、あみ子に対しては拭えないからだ。
あみ子には魅力的な部分も確かにあるかもしれないが、ちひろとは対照的に、家族から見放された人だ。見捨てられてしまった人だ。


あみ子の「一人称視点」も、ちひろとは違う。
「神の視点」という言葉があるが、自分以外の人間が自分をどう見ているか、自分以外の人間が何を知っているか、がすべて分かっていれば、つまり「全知全能」であれば、一人称視点は、神の視点との差が小さい。実際にはそんなことはないので「ズレ」を楽しめる。
ところが、あみ子は知らないことだらけだ。そこにはズレどころではなく、全く違う独自の世界が広がっている。

  • 小学生時代からずっと好きな相手の苗字を知らない
  • 同居している母親が、入退院を繰り返していたことを知らない。
  • 生まれてくるはずだった赤ちゃんの性別を知らない
  • 霊の声に数年間悩まされる

これらの「あみ子視点」は、むしろ物語にアクセントを与えていて、赤ちゃんの性別に関するエピソードには、叙述トリック的なよろめきを感じる等、物語の展開としてはプラスの部分もある。


ただ、その分、あみ子には距離を感じてしまう。
「共感」という言葉を使えば、(『星の子』の)ちひろは、変わったところはあるけれど共感できる中学3年生だった。映画で芦田愛菜が演じるのを見てさらにその思いを強くした。物語のセオリー外の選択をするちひろを応援したくなった。
また、これまで読んだ小説を振り返ると、「共感できないけど魅力的なキャラクター」もいて、村田沙耶香の描く人物にそのタイプが多い。『コンビニ人間』は共感できないけど、考え方はわかる。『地球星人』は共感できず、考え方にも同意できないけど、理屈は理解できる。どちらもそれぞれ魅力的だ。

あみ子は、世界観が独自過ぎて、共感できず、理解もできない。そのため、あみ子に対しては、やっぱり少し上から目線で「可哀想」と思ってしまう。
例えば、『星の子』と『こちらあみ子』では、片思いの相手から最終盤で暴力(言葉の暴力)を受けるという展開がある。
そのとき、ちひろには共感しているから、「南先生」には怒りを覚える。しかし、あみ子に対しては呆気にとられてその行動を見ているので、「殺す」と息巻く「のり君」に対して、ストレートな怒りは湧かない。(というか、あみ子のクッキーのいたずらが酷い…)
また、母親がすべてに対してやる気をなくしてしまったのは、周りが見えていないあみ子の言動が一つのきっかけになっている。この時のあみ子の言動の破壊力が強すぎて、母親も気の毒だが、傷つけた母親の失意の様子を目の当たりにするあみ子が辛い。

どちらを読んでも、あみ子は「可哀想」と思ってしまう。


あみ子の持っているトランシーバーは壊れている。相手にあみ子の声は聞こえるけど、相手の声はあみ子には届かない。
そのせいで、母親に好かれたい、のり君から好かれたい、というあみ子の気持ちは、最悪の結果(相手の言葉ではなく行動)になって返って来る。
あみ子が母親のために(死んだ赤ちゃんの)お墓を作ろうとする話は、村田紗耶香の『コンビニ人間』に出てくる焼き鳥のエピソードと似ているが、破壊力が違う。焼き鳥の話は笑えるが、お墓の話は笑えない。
やっぱり可哀想じゃないか。


ただし、それでも、何度も読み返してしまうような力強い表現に出遭う。

「好きじゃ」
「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。
「好きじゃ」
「殺す」のり君がもう一度言った。
「好きじゃ」
「殺す」
「のり君好きじゃ」
「殺す」は全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真っ赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。p103

「どこが気持ち悪かったかね」
「おまえの気持ち悪いとこ?百億個くらいあるで!」
「うん。どこ」
「百億個? いちから教えてほしいか? それとも紙に書いて表作るか?」
「いちから教えてほしい。気持ち悪いんじゃろ。どこが」
「どこがって、そりゃあ」
「うん」
笑っていた坊主頭の顔面が、ふいに固く引き締まった。それであみ子は自分の真剣が、向かい合う相手にちゃんと伝わったことを知った。あらためて、目を見て言った。
「教えてほしい」
坊主頭はあみ子から目をそらさなかった。少しの沈黙のあと、ようやく「そりゃ」と口を開いた。そして固く引き締まったままの顔で、こう続けた。「そりゃ、おれだけのひみつじゃ」
引き締まっているのに目だけ泳いだ。だからあみ子は言葉をさがした。その目に向かってなんでもよかった。やさしくしたいと強く思った。強く思うと悲しくなった。そして言葉は見つからなかった。あみ子はなにも言えなかった。p120

歌詞かと思うほどに洗練された文章表現。これぞ声に出して読みたい日本語だと思う。


なお、一緒に収録された『ピクニック』も、あみ子とは違った意味で「可哀想」を感じさせる話だった。
これら自分が「可哀想」という言葉で表現した作品主人公の特徴について、解説で町田康は「一途に愛する者は、この世に居場所がない人間でなければならない」と「一途な愛」という言葉を使って説明している。
確かにそうかもしれない。自分は、「世間に居場所がない」面のみを見て「可哀想」と思っていたが、町田康の言う通り、ピュアで一途なものが表現されている作品には、人の心を動かす何かが含まれているのかもしれない。


特に、上に引用した、あみ子とのり君の「好きじゃ」「殺す」の応酬は、ここ最近読んだ中でも最も印象に残る文章で、町田康のいう「一途の愛」は、ここにまさに現れている。
文庫巻末には、さらに穂村弘の書評が追加されている。最後の部分を引用する。

でも、こわい。あみ子はこわくないのだろうか。だって世界から一人だけ島流しなのに。
物語がさらに進んで、あみ子がぼろぼろになればなるほど、何かが生き生きとしてくるのを感じる。「こちらあみ子」という呼び掛けに応えて、年齢や性別を超越した異形の友人たちの姿が見え隠れする。前歯のないあみ子を中心に、新しい世界が生まれようとしている。

穂村弘も、ぼろぼろのあみ子に魅力を感じているようだ。
それもわかる、と思いかけて、やはりわからない、と思い直す。
一人だけ島流しなのは辛い。
やっぱり「可哀想」じゃないか。と思う。


冒頭と話の最後のあみ子は、20歳くらいだろうか。彼女なりに幸せに暮らしているようだ。それならば、上から目線で「可哀想」というのは、筋違いで無礼なのではないか?


そもそも、主人公のことを「可哀想」と思ってしまったら、物語を面白く読むこと自体ができないのか?


さまざまな謎を抱えたままだが、今回は終わり。続きは『むらさきのスカートの女』を読んでから考える。少し触れかけたが同時収録の中編『ピクニック』もかなり変わった話だったので、併せて再読して考えたい。

映画

忘れていたが、『星の子』を読んだのは『こちらあみ子』の映画がきっかけだった。
「あみ子」は『星の子』以上に映画化が難しい内容だと考える。
「霊の声」もだが、あみ子の目でのみとらえることができる「田中先輩」(ライオンの姿)等の処理も難しいが、それ以上に「可哀想」をどうするのか。
映画を観た感想が「あみ子、可哀想だったね」とか、そんな映画あるのだろうか。
探せばまだ映画館でも見られるはず。
行ってみたい。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com