Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ラスト1ページの衝撃~今村夏子『星の子』

今村夏子の作品には前々から興味があった。
特に、豊崎由美×大森望の「文学賞メッタ斬り」の芥川賞予想の企画(ラジオ)で、候補作に入るたび、豊崎由美の「読む楽しさ」がこぼれ落ちるような評が尋常でなかったことが大きい。
さらに、枡野浩一×古泉智浩podcast「本と雑談ラジオ」でも新作が発表されるたびに俎上にあがり、これまた2人して楽しそうに話しているのを聞いていた。


そこに来て『こちらあみ子』が映画化。映画を観に行くなら原作を読みたいなと思っている間に、公開から少し時間が過ぎてしまった。
そんなとき、こちらも映画が気になっていた『星の子』が宗教2世を扱った作品と知る。このタイミングでこそ響くこともあるだろうと考え、まずは『星の子』を読んでみることにした。

実読

ちひろは中学3年生。病弱だった娘を救いたい一心で、両親は「あやしい宗教」にのめり込み、その信仰が家族の形をゆがめていく。野間文芸新人賞を受賞し本屋大賞にもノミネートされた、芥川賞作家のもうひとつの代表作。

面白い。特に会話文がテンポよく読みやすい。
しかし何より、ラストに衝撃を受けた。


そんなことないよね、そんなことないよね…
と直前まで打ち消した展開に、最終的になってしまう。
想像したようなことが全く何も起きないのだ。


特にこのタイミング*1だから、「衝撃」を受けたのかもしれない。


両親が「あやしい宗教」にのめり込んだ中学3年生の女の子が主人公。
そう聞けば、話の展開は以下の2択だろうと決めつけてしまっていた。

  • 子どもの頃は気にせず両親の言うことを聞いていたが、「周囲から見た自分」を意識するようになり、両親を受け入れられなくなっていく。しかし周囲の助けを得て何とか両親の世界から脱出することが出来た。(ハッピーエンド)
  • 両親を受け入れられなくなっていくが、何度脱出しようとしても両親の手に絡めとられてしまう。将来の展望が全く見えないままだが、何とか生きていくしかない。(バッドエンド)

まあ、普通に考えたらハッピーエンドの方だろうと思ったが、『星の子』はどちらにも当てはまらない。表面的には、以下のような、ハッピーエンド「っぽい」終わり方となる。

  • 両親への違和感を感じることもあるが、家族3人はとても幸せ。これからも明るく生きていく。


結局、自分は、小説に「物語」を求めており、その時点でかなりバイアスの入った見方をしていたのかもしれない。

  • 主人公は、作中の出来事を経て成長・変化するものだ。
  • そして、主人公が宗教2世であれば、そのことについて思い悩み、何かの方向性を見出すのだ。
  • そういう作品を読むことで、自分が宗教について考えるきっかけを作れれば…。

そういうのは結局こちらの都合だった、ということだろう。

ただ、文庫巻末の今村夏子×小川洋子の対談で語られる小川洋子の読みは自分に近い。(というか世間一般の読者のほとんどの読み方だと思う)

「ああ、いよいよこの子は、この世界から飛び出していくときが近づいているんだな」と思ってしまう。(略)
「この子が世の中に出たら大変だろうな。新しい家庭をつくっても、安心して里帰りできるのかな」とか。

そもそも色々な伏線は張られている

  • 両親の宗教的行動(「かっぱ」事件)を学校の先生に見られて、クラスメイトの前で指摘され、ちひろは泣くほど恥ずかしい思いをする
  • 家は引っ越しを繰り返すたびに小さくなっていると、ちひろが感じている
  • ちひろは、彼女を救い出そうと助けてくれるおじさんの家に近い高校への進学を希望している
  • おじさんは、それをきっかけに、ちひろを預かると両親に申し出て交渉を続けている
  • ラストシーンの舞台「星々の郷」では、就寝前の時間まで、ちひろと両親はお互いを探しながらもすれ違って会えない状態が続く
  • やっと出会えた父親は、これまで「水」の力で風邪さえひいたことのなかったのに、鼻をすすり体調が悪そうだ


だから、小川洋子の見方で押し切ると、3人で星を眺めて終わる一見3人が仲良さそうなラストだが、やはり高校にあがるタイミングで、ちひろは両親のもとを離れる。わざとそれを書かないことで余韻を残しているのだ、とも考えた。


しかし、対談での今村夏子の言葉を追うと、彼女自身は、ちひろを「救おう」とは思っていなかったようだ。

私が最初に考えたラストは、(教団エリートの)海路さんと昇子さんが草むらの陰にいて、もしかしたら、ちひろは取り込まれるのかもしれない、という予感を漂わせた終わり方でした。(略)
この小説では「この家族は壊れてなんかないんだ」ということを書きたかったので、ラストシーンに登場させるのも家族だけにしました。

つまり、「あやしい宗教」が問題を抱えていることは意識しながらも「宗教にハマった人」(=敵)として両親を扱わず、あくまで「ちひろを大切に思っている人」(=味方)としての両親を描きたかったということのようだ。
読者としては、ちひろを両親から解放してあげたかったが。

ユーモア・会話文

さて、ラストを除けば、この作品の一番の特徴はユーモアと会話文だと思う。

南隼人先生は、わたしが中学3年生になった年の春に赴任してきた。始業式で初めて先生の姿を見たときは、おおげさではなくエドワード・ファーロングみたいだと思った。南先生は、エドワード・ファーロングの東洋版みたいだ。エドワード・ファーロングは、南先生の西洋版みたいだ。p81

エドワード・ファーロングの出現比率は異常に高い(笑)

わたしは、しゃくり上げながら、「南先生に送ってもらったときに公園で見た怪しい人、あれうちの親なんだ」といった。
「知ってるよ」となべちゃんはいった。「だって有名じゃん」
「…おれは知らなかった」と新村くんがいった。「おれは本当に知らなかった。そうか、あれ林の父ちゃんだったのか」
「ごめんね」
「あやまるなよ…。そうだったのか、おれてっきりかっぱかなにかだと思った」
「バカじゃないの」
となべちゃんがいった。
「まじなんだ。そんなわけないとは思ったんだけど、なんか全身緑色に見えたし、頭の上に皿のせてるし。それに隣のやつが水かけてただろ、皿の上に」

何事にも動じないちひろが傷つくシーンが2つあり、ひとつは落合さんちの引きこもりの息子・ひろゆき君に無理やりキスされそうになるシーン。そして、「エドワード・ファーロングの東洋版」である憧れの南先生に、クラスの皆の前で両親の宗教にも絡めて意地悪な発言をされるシーン。
この新村くんの「かっぱ」発言は、南先生に泣かされた直後なので特に印象的だ。
でも、南先生に馬鹿にされ、新村くんに「ひどい」ことを言われても、両親への「恨み」のような感情は浮かばず、会話にユーモアを感じさせるのは、ちひろが両親のことを好きだから。そう考えるとラストシーンは流れ通りとも言えるのかもしれない。

そのほかの作品

対談では、小川洋子が今村作品を読み解くキーワードとして「暴力」を挙げているが、『星の子』ではその要素は少ない。
挙がっている作品を見ると『こちらあみ子』や『あひる』にその色が強いらしい。
どうも『こちらあみ子』は、『星の子』と同様に、女の子が主人公ながら、もう少し「辛い」話のようなので、まずはこれを読んでみたい。
勿論、芥川賞作品ということで『むらさきのスカートの女』も。


そして何より、映画『星の子』。
映画は、小説よりも「物語」を求める圧が強いはずだ。この小説をなぞるような脚本であれば、観客からは非難囂々だろう。
何かのアレンジがされているはずなので、主演・芦田愛菜の演技と合わせて、そのアレンジ部を確認したい。
よく見ると、ジャケ写がラストシーンのようなので、星々の郷で、家族3人で星を眺めるシーンはあるが、それ以外に映画向けのラストを設けているのかもしれない。

追記

映画『星の子』観ました!

pocari.hatenablog.com

*1:時間が経ってから読むときのために補足すると、一か月前の7/8に安倍元首相が銃撃を受け死亡した。容疑者は、宗教団体「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」に母親(69)が多額の献金をしたとして、「団体のせいで家庭がめちゃくちゃになった」と供述。「団体の活動を国内に広めたのは安倍氏だと思って狙った」と動機について話している