Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

それぞれのリトルホンダを育てるということ~長沢栄治監修『13歳からのイスラーム』

イスラームについての本を読むのは久しぶりだ。
過去のブログを振り返ると、5年前くらいに少し固めて読み、それ以降は、本としてはあまり読んでいなかった。
ということもあり、今回、リハビリがてら易しそうな本に手を出してみた。
この本の目次は以下の通り。

第1部 イスラームの教え(イスラームムハンマドコーランを知ろう ほか)
第2部 イスラームのくらし(イスラームの生活;さまざまな子どもたちのくらし)
第3部 イスラームと世界(イスラームの広がり;イスラームと他者 ほか)
第4部 イスラームのいま(元気を取りもどしたイスラーム;女性が切り開くイスラームの未来 ほか)

「13歳から」と題してあるだけあり、非常に読みやすく、あとでも取り上げる通り、歴史よりも現代のムスリム(人)について取り上げていることで、親しみがわくように出来ている。
それだけでなく、何点か、この本だから気がつくことのできた部分があると感じた。

宗教の授業とリトルホンダ

自分は、これまで、イスラム教(この本ではイスラームと統一して記述)には厳格な戒律があり、それは、信仰というよりも「人生マニュアル」のように機能するため、決断を「神まかせ」に出来る気楽さがあるのかと思っていた。
つまり、すべてを個人の自由に任される(そして個人の責任になる)「生きづらさ」が、むしろ緩和されているのではないかという印象を持っていた。
ところが、この本で、実際のムスリムの人たちの暮らしや考え方について読み、その考えを改めた。

例えば、この本の第二部では、小中学生のムスリムのくらしが取り上げられるが、それぞれがどのように考えているのかについても記述がある。

  • マラワンがいちばん強くイスラームについて考えるのは、サッカーの試合の前や学校の試験の前です。よい結果が残せるよう神様に祈るとき、いつも以上に神様の存在を感じるそうです。(エジプトの中学3年生男子マラワン)
  • 最近では、自分で選んだ覚えのない宗教を信仰し、それに従って自分が生きることに疑問を抱いています。小さいころはがんばっていた断食月の断食も、やらなくなりました。それでも、学校の友だちや先生がイスラームについてまちがったことを言ったり偏見をもった発言をしたりすると腹が立ちます(日本の中学3年生らな)
  • イスラームについては、学校が休みの土曜日にトルコ文化センターで学んでいます。文化センターでは、コーランの暗唱のほか、イスラームが大事にする価値観などについて勉強しています。毎日礼拝を欠かさない、とはいきませんが、ヴェフビは自分では信仰心が篤いほうだと感じています。神様のことをいちばん強く考えるのは、礼拝をしているときと、学力テストなど結果が問われるときです。(アメリカの小学6年生男子ヴェフビ)

これを読むと、厳しい戒律というイメージはなく、いわゆる「神頼み」的なタイミングで神様のことを考える点は、日本の小中学生と変わらないかも、と親しみを覚える。*1

その一方で、彼らに比べて、日本人は「よい生き方」について、考える時間をあまり取れていないかもしれないとも感じた。
このことに関連して、第2部のまとめでは、次のように書かれている。

先祖代々イスラームを信仰してきた人も、改宗した人も、なにがイスラームとして正しいことなのか、ムスリムはどのように生きるべきかを、自分自身で考えていかなければなりません。イスラーム聖典であるコーラン預言者ムハンマドの言行録であるハディースだけでなく、学校の宗教の時間に習得する知識、両親や親戚、身近なおとなや友人などまわりの人たちに教わったこと、テレビやインターネットで得た情報など、さまざまな知識や情報に触れながら、日々考えていく必要があるのです。(略)
自分の信仰の良し悪しは「神様だけが知っている」。これは、ムスリムがしばしば口にする言葉です。ある人間が熱心なムスリムか、いい加減なムスリムなのかは、周囲からの見た目で判断できるものではない、という意味の表現です。そしてまた、信仰とは自分と神様のためにあるもので、他の人間のためにするものではない、という意味でもあります。p86

これを読むと、僕らが小中学校時代に「道徳」などの科目名で学んだ内容は、いわば「どうすれば周囲から良く見られるか」の方に偏っているように思う。
「自分の信仰の良し悪し」、すなわち「自分の信念」や「生き方」について、真の意味で考える時間は、自分を振り返ると、実際にはほとんどなかったように思う。
また、自分自身もそれが苦手でずっと避けてきた、という思いもある。
日本で「宗教」や「信仰」が受け入れられにくいのは、物差しが常に「自分と周囲」にあり、「自分と自分の中の絶対的な何か(神様)」という視点が少ないことに理由があるのかもしれない。
以前、本田圭佑ACミランへの移籍会見のときに「心の中のリトルホンダがACミラン入りを希望していると答えた」という発言し、その後、リトルホンダはある意味「ネタ化」した。*2
しかし、国が違えばリトルホンダがいるのが「普通」なのであって、それがぼんやりしている方がおかしいのだろう。
その意味では、本で取り上げられていたムスリムの小中学生のほとんどが学んでいた「宗教の授業」は、それそれのリトルホンダを育てる授業なのかもしれない。

そのほか

そのほか、歴史についてもまとまっていて読みやすいが、パレスチナの歴史を読むと、やっぱりイスラエルがダメじゃんと思ってしまう。この辺は理解が浅いのでもっと勉強したい。
また、第4部で取り上げられているイスラーム金融(利子なし銀行)やムスリム・ファッション(新タイプのヴェールの流行)、男女平等の方向へのシフトの話は面白い。産業や生活の中でも、ムスリムの人は、コーランの教えをどう守るか、日々向き合う場面があるのだろう。
最終章のまとめでは、寛容と共生の大切さについて、イスラームの指導者も声を上げているという話がある。

現代という時代に他者を排除し、他者との共存を否定して生きていくことはできません。イスラームを現代や人類の未来にふさわしいものとするために、私たちはイスラームの思想を改革していかなくてはなりません。『宗教には強制があってはならない』という教えは、コーランの精神の最も基本的なものですp165

最近の日本の宗教二世の問題にも通じる、至極もっともな意見だ。
「寛容と共生」という言葉は、「他人に迷惑をかけない」を信条とする日本人からすると、ある種、波風立てない無難な処世術のようにも取られかねない。
しかし、常に心の中にコーランや神があり、それとの対話の中で生き方を吟味していく人の立場からすると、「寛容と共生」は全く別の意味を持ってくるし、非常に高い理想と言える。
自分の中のリトルホンダ(しつこいが)と同じように、変わらない、譲れないものを、相手も心の内側に持っていることを前提で、それを尊重して共生するのは、「迷惑をかけない」のとは全く異なる。
ここで掲げる「寛容と共生」は、ムスリムの人にとって困難な理想だが、それ以上に、日本人にとってさらに高いハードルと言える。自分の中に確固としたもの(リトルホンダ)がなければ、そもそも相手のそれを尊重することが出来ないからだ。
自分はそれに気がつくのが遅れてしまったが、宗教について知り、自分との対話を進めることは、多くの人と関わって生きていく上で、ずっと続けていかなければならない大切なことだと感じた。
つまり、ネタ的に扱わずに、それぞれのリトルホンダを育てなければならない。
それはとてもとても重要なことだ。

これから読む本

イスラームについてより深く知るために、巻末にたくさん参考文献が挙がっているが、まずはコラムでも取り上げられていたこちら。


また、参考文献に挙がっていなかったが、大川玲子さんの本が自分の関心に合い、読みやすそうだ。


そして何より、東京ジャーミーに行ってみたい。場所は代々木上原ということで行きやすいし、日本最大のモスクが撮影も可能というそれだけで興味津々。土日は日本語ガイド付きツアーもあるということで、是非参加してみたい。
tokyocamii.org

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

*1:ただし、イスラームは非常に幅が広く、1事例だけを見て全てがそうだと思わないように、ということは、本の中で繰り返し書かれている。

*2:本人も「面白おかしく扱うのは違う」と苦言を呈している→本田圭佑が“リトルホンダ”の定義に注文「おもしろおかしく言ってくる人がいる」 | ゲキサカ