Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

内田樹『呪いの時代』で読み解くキリンジ『祈れ呪うな』と大今良時『聲の形』


キリンジ「祈れ呪うな」について以前文章を書いてからだいぶ時間が経ち、その間にアルバムが発売され、さらに3月に新作、4月に泰行の脱退・・・というキリンジにとっては変化の時を迎えている。

SUPER VIEW (初回盤)

SUPER VIEW (初回盤)

Ten(初回盤)

Ten(初回盤)

改めてこの曲の歌詞について考えてみようと、見落としていた、シングル発表当時のインタビューを読むと、前回まとめた内容がそこまでずれていないであろうことが分かった。

ただし、相変わらず「祝祭」が分からない。これらの言葉の使い方について、コメント欄で、影響を与えている書籍として紹介していただいたのが内田樹『呪いの時代』だ。

呪いの時代

呪いの時代


実際、「呪い」「祈る」「鎮める」「あらぶる神」など重なるキーワードが非常に多い。
読み終えた感想としては、基本的には、堀込高樹の主張は、これらのキーワードだけではなく、原発や「世間の声」に対する捉え方についても、内田樹さんの主張するところに共感した上で歌詞が書かれていると感じた。そうでなければ、ここまであからさまな言葉選びをすることはないだろう。
やや論理が積み重なり短い言葉では分かりにくい部分もあるため、本の主張を図解しながら読み解き、改めて「祈れ呪うな」で歌われていることを考えてみたい。
なお、歌詞の解釈というのは、何か正解があってそれを見つけるためにやっているわけではなく、作者の意図に反しない範囲で、自分の内でどのように纏めればその歌が好きになれるか、それを探っていくために行うもの。そういう風に自分では捉えている。(異論・反論は大大大歓迎ですが)

原発供養について(10章)

章タイトルからして類似しているが、10章「荒ぶる神の鎮め方」を読むと、何故歌われているように「祈る」必要があるのかは、これまでよりも深いレベルで理解できる。
ここで神というのは、“人知人力をはるかに超える巨大な力”を指す。20世紀に登場した原子力発電所という「荒ぶる神」を、欧米では一神教的なマナーを総動員して拝跪した。すなわち、神殿を作り、神官をはべらせ、儀礼を行ない、聖典を整える。ヨーロッパの原発は神殿を擬して建てられている。
しかし、日本人は、神仏習合以来、外来の「恐るべき神」を手近にある具体的な「地祇」と結合し、混血させ、アマルガムを作り、現実になじませるという手法を採ってきた。
だから、本来であれば「原子力」は天神地祇を祀る古代的な作法に従って呪鎮されるべきものだった。日本古来の方法は「塚」と「神社」だった。

  • 「祟りがありそうなもの」はとりあえず「塚」を作って、そこに収め、「生態系」に回収させる。
  • 自然力に任せておけないときは、神社仏閣を建てて、積極的に呪鎮する。
  • それでも足りなければ「歌を詠む」「物語に語り継ぐ」という手だてを用いる。

呪鎮の目的は「危険を忘れ去ること」にあるのではない。「恐るべきもの」を「恐るべきもの」としてつねに脳裏にとどめておき、絶えざる緊張を維持するためにそれが必要なのだ。

原子力発電所で誤っているのは「塚」や「神社」ではなく「金」、「原発は金儲けの道具なんだ」という嘘で固めて恐怖と向き合わなかったこと。それによって本来備えるべき絶えざる緊張感は消し去られてしまった。
そして、今回の原発事故に対しても、現場の人々が「供養」しつつ廃炉の作業にかかわる方が、みんなが嫌がる「汚物処理」を押し付けられていると思うよりは、どう考えても作業効率が高く、ミスが少なく、高いモラルが維持できる。勿論、同じ理由で、事故前も同様のマインドセットで管理にあたっていれば、事故を防ぐこともできたはずと作者は書く。
「祈れ呪うな」というのは、そういった「原発供養」の方法論に寄り添う内容だと考えて良いと思う。何より、全体的に強い口調の中で異質な「ああ、怖い」という歌詞は、日常に戻っていく中でどんどん忘れてしまいそうになる「恐るべきもの」としての原発を思い出させる。つまり、この歌そのものが、「物語に語り継ぐ」という役割を担い、呪鎮の目的を果たしていることになる。


なお、この章では、他にも原発のリスクの考え方や官僚的な対応について非常に分かりやすいまとめがあり、考え方の一つとして非常に参考になった。ここで展開される「疎開論」は、3/16という事故直後に書かれたものであることも頭に入れれば、少なくともこの本の中で読む限りでは、納得ができる内容だった。リアルタイムでこれを読んでいたらどう思うかは分からないが。*2

呪いの時代(1章)

さて「原発供養」の話はどちらかといえば「祈れ」の部分に対応しており、「呪うな」という要素は希薄だ。しかし、この歌は、全体的に社会に対して憤っている歌であり、「呪うな」というメッセージの方が強いと感じる。実際、歌詞には直接的に「土下座させようぜ」のあたりに「呪い」が表れていて、そういう流れに対して高樹が疑問を感じていたのもインタビューから分かる。

あと、あの事故が起こった後に、誰が悪いのか、誰が責任取るのかって話が出たでしょ? 第二次世界大戦もそうだったけど、日本は誰も責任を取らない体質があってよくないって。それもそうなんだけど、でも東電の人を土下座させたらそれで話が済むのかって言ったらそうではなくて、その後ろにもっといろんな問題があるわけでしょ?

その「呪い」は、『呪いの時代』の主題でもあり、1章「呪いの時代」に詳しく、内容についてはダイジェストがネット記事にあった。
呪いとは何か。

現代日本社会は「呪い」の言葉が巷間に溢れ返っています。さまざまなメディアで、攻撃的な言葉が節度なく吐き散らされている。
現実に、ネット掲示板に「死ね」と書かれ、それにショックを受けて自殺する人たちがいる。これを「呪殺」と呼ばずにどう呼べばいいのでしょう。
(中略)
寸鉄人を刺すような一言で効果的に相手を傷つけ、生きる意欲まで奪うような能力を、人々は競って身につけようとしています。そして、現にそれは功を奏している。呪いをかける人々は、他人が大切にしたり、尊敬したりしているものを誹謗中傷し、叩き壊し、唾を吐きかけ、その代償に強烈な全能感を獲得します。社会的に無力な人々がこの破壊のもたらす全能感に陶酔するのは、ある意味で当然なのです。

この記事で書かれているように、呪いの言葉は破壊的で、抑制が効かず、「一人一人の人間の一人一人違う顔を見ない」にもかかわらず、実際に人を傷つける力を持つ。
そこまでして何故「全能感」を得て「自尊感情」を満たす必要があるのかといえば、かつてなされていた「身の程を知れ」「分際をわきまえろ」という教育が消え、今や大人も子どももひたすらに「あなたには無限の可能性がある」と持ち上げられるからだ。これは就活でも婚活でも状況は同じで、いつでも「ほんとうの自分」や「ほんとうに自分に合った職業」や「運命の相手」を探すように仕向けられている。誰もが、「ほんとうの自分」と「正味の自分」のギャップから、少し油断すれば「呪いの言葉」の魅力に落ちてしまう、現代日本はそんな場所なのかもしれない。
しかし、全能感を得るために発した攻撃的な言葉は相手の生きる気力を奪うだけでなく、それ以上に、自分の生命力も傷つける。破壊ではなく創造に向けた具体的なアクションを取ることができなくなるのだ。


呪いの時代の生き延び方(2章)

ここから「祈れ呪うな」から少し離れる。ただ、最後に戻ってくる予定だ。


原発を鎮めるには「呪う」よりも「祈り」が必要だというのは分かったが、個人としては「呪い」の陥穽に嵌まらないようにすることの方が大切だ。どうすればいいのだろうか。

呪いを制御するには、生身の、具体的な生活者としての「正味の自分」のうちに踏みとどまることが必要です。妄想的に亢進した自己評価に身を預けることを自制して、あくまで「あまりぱっとしない正味の自分」を主体の根拠として維持し続ける。それこそが、呪いの時代の生き延び方なのです。
(中略)
先に述べたように、呪いは「記号化の過剰」です。それを解除するための祝福は、記号化の逆で、いわば「具体的なものの写生」です。世界を単純な記号に還元するのではなく、複雑なそのありようをただ延々と写生し、記述してゆく。「山が高く、谷が深く、森は緑で、せせらぎが流れ、鳥が鳴き・・・・・・」というふうにエンドレスで記述すること、それが祝福です。
人間についても同じです。今自分の目の前にいる人について、言葉を尽くして写し取り、記述する。祝福とはそういうことです。

ここでも書かれているように、2章「祝福の言葉について」で語られる「祝福」というのは、「呪い」と対立するものとして挙げられている。
つまり、「ほんとうの自分」ではなく、「正味の自分」に立ち返って、今ここにある生活を語っていくことが重要なのだ。例えば、作詞は泰行だが、「涙にあきたら」で歌われているのはまさにそういう内容、つまり内田理論でいう「写生」にあたるのだと思う。
ただ、上の引用でもそうだが、「呪い」と比べると、普段使っている言葉の意味から離れ、やや明確さに欠ける部分があり、ややスッキリはできないのだが。


他者との共生(5章、6章)

キリンジ『祈れ呪うな』の歌詞で一番分からなかった、最後の「1000年に一度だけの祝祭」の部分。
しかし、この本の中には、「祝祭」という言葉はキーワード的には使われない。もしかしたら全く登場しないかもしれない。
一方で「祝福」という言葉の使われ方についても、いまいちスッキリしない部分があるので、5章「“婚活”と他者との共生」、6章「“草食系男子”とは何だったのか」で書かれる「他者との共生」が、それに繋がるものと考え、図化した。




この図では、本の中では特にリンクされていなかった「祝福」と「他者との共生」を重ねて示した。つまり、祝福=「今自分の目の前にいる人・ものを写生し、記述すること」とは、「他者と共生すること」とイコールではなくても、ベクトルは同じ向きだろうと考えたのだ。
大人になるというのは「だんだん人間が複雑になる」、つまり同一人物中の人格特性が増えるということ。他者と共生していくためには、まず自分の中のさまざまな人格特性を許容し、他者の中にあるそれと同じものを見出し、共有していく必要があるというのが内田さんの主張だ。反対に、自分の欠点に不寛容な人は他者の欠点に寛容でありうるはずがなく、他者と共生していくことは困難になる。



やや話が飛ぶが、今週号の週刊少年マガジンに掲載された特別読切の『聲の形』が話題を読んでいる*3
「全日本ろうあ連盟監修」のクレジットが入るこの話は、耳の聞こえない女の子(西宮さん)といじめについてのストーリーで、初読時は、よく分からなかった。
しかし、「他者との共生」を軸に置いて物語を眺めると、話は少しスッキリする。
耳が聞こえない西宮さんとは、通常の方法ではコミュニケーションが取りづらい。彼女に対して、クラスメイトや担任教師(!)は「お荷物」というレッテルを貼り、目の前にいるのにその人を見ることをしない。内田理論で言えば、彼女を単なる「記号」として扱う(主人公を含む)クラスメイトのいじめは延々と続く。(勿論、ネット上とは異なり、生身の身体vs生身の身体だから一定の抑制は効くにしても)
彼らに欠けていたのは、西宮さんに向き合おうとする姿勢以前に、自らの中にある、よく分からない部分、嫌な部分と向き合う姿勢だったのだろう。
だからこそ、自分がいじめられる側になった主人公・石田は、それを受け止めた上で西宮さんを見たときに、二人の間で共有できるパーツを発見する。



実際には、石田は、この後も暴力を振るってしまうのだが、そこには、「他者との共生」の萌芽があった。
ラストで描かれる5年後の再会では、石田が西宮さんを知ろうとするための具体的な行動(声の形=手話の習得)が明らかにされる。

  • 不気味な他者 ⇒ コミュニケーションの断絶 ⇒ 排除 ⇒ 排除される側の気持ちの共有 ⇒ 具体的な行動 ⇒ 他者との共生

この漫画のポイントは、いじめシーンなどにはなく、この過程が丁寧に書かれていることにあると感じた。


祝祭とは?

「祝祭」という言葉について改めて調べてみると、別の著書で、個の身体性を共同体の中に拡大していく手段として、祝祭や儀礼が重要だという書き方がされているようだ。

7章 エンタテインメントという「大いなる希望」

ここでいう祝祭の例として、岸和田のだんじり祭りよさこい祭りが挙げられているようだ。
改めて歌詞カードを眺めてみると、これらの祭りを意識させる「さあさ」という言葉もあり、「祝祭」という言葉も内田樹からの引用と考えて、あながち間違いではないだろう。
つまり、パッとしない自分と向き合い、日々の生活の中で他者と共生することだけでなく、何かのイベントの中で個と共同体が結びつきを強くするということの繰り返しで、集団社会というのはこれまで進んできた。最初に説明した『呪いの時代』の10章では、一見ふざけているように見える「原発祭り」の話が出てくるが、これも、「恐るべきもの」を排除せず、忘れ去ることなく社会の中で受け入れていく方法として提案されているものだ。
『14歳の子を持つ親たちへ』を未読で書いてしまうのも何だが、祝祭という言葉の意味はそういうことなんじゃないかと思う。


キリンジ『祈れ呪うな』で使われる「祝祭」には二つの解釈の方法があると思う。
一つ目は、一番で歌われる「とこしえに背負っていくパレード」と同じ意味だ。半ば自嘲気味に、この祭りのような混乱を運命として受け入れるという意味だ。歌詞の流れから考えると、こう受け取るのが自然である気がする。
しかし、内田樹の使う「祝祭」の意味を考えた場合のもう一つの考え方は、やさぐれているように見せかけて、この混乱を千年に一度だけのチャンス、呪いの時代から逃れて共生関係の中で生きるためのチャンス、ひいては日本がより成熟した社会に成長していくチャンスと捉えるという前向きな捉え方だ。そして、繰り返すが、原発問題を機会に噴出した日本社会の嫌な部分、直していきたい部分というのは、個人と共同体の向き合い方にも原因があり、誰もが自らを振り返り、前に進む機会となり得る。だからこそ、高樹がこの曲を説明するにあたってよく言葉に出す「自戒を込めて」なのじゃないかと思う。
最初に述べたように、別に「正解」探しをやっているわけではない自分としては、この前向きな考え方に何とか着地させて、今はそれなりに納得している。
あとは、どう行動するかが問われているのだろう。

参考(その他、キリンジに関する過去日記)

⇒ブログ書きたての頃の文章は、本当に読むのがドキドキしますが、インタビューの感想なので案外まとも。このアルバムは本当に好きなアルバムですが、やはり聴いた当初はよく分からなかったようだ。

⇒仙台JUNK BOX懐かしいですね。ここでコーネリアスも見ました。やはり高樹、泰行でいうと、自分は高樹なんだなあ、そこは変わらないなあ、と思いました。

⇒このアルバム、あまり聴きなおしてないぞ。キリンジにしては最初から好きになれたアルバムなので、今こそ聴きたい!

⇒この頃の自分もまだ、音楽で文章を書こうと思っていたのか。ブログはじめて1年以上経つのに…。それにしても『Nagara Music』は、どこに行ったか…。聴きなおしてみたいです。

⇒この頃の自分は、点数つけたりとかクロスレビュー的なことがやりたかったんだと思う。そこら辺は今と考え方が全く違う。

⇒下にも書いている「小さなおとなたち」が収録されているアルバムということもあって『BUOYANCY』は思い入れのあるアルバムです。最近子どもとスーパーマリオをよくやるので、「都市鉱山」のディスクシステムアレンジの動画はさらに感動(笑)

⇒さすがにこの頃になると、ブログスタイルが確立してきていて、しかもこの文章はかなり渾身の出来。本当にこの小説とこの曲は自分の中で一体化していて、こういう音楽体験をまたしたいなあ、と思っています。日付を見ると震災直前だったのですね…。

*1:「 反原発脱原発ってことが世の中的に正しいと思われてる意見で、その正しいとされてるところに寄りかかって何かものを言うっていうのが、フェアじゃないというか、その感じが自分としては居心地が悪くて。だから、この曲ではいろんな立場の人がいて、それぞれの思惑があって、にっちもさっちもいかなくなってる状態っていうのを描いたつもりなんです。」という高樹のスタンスが自分は好きだ。

*2:内田樹さんの文章は論理的で、しかも合気道という身体的な専門性も兼ね備えているから、説得的だ。ただ、これに反発する自分もいる。

*3:例えば…今週のマガジンの読み切り『聲の形』がとにかくすごい作品だった - ゴールデンタイムズ