Yondaful Days!

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理性の錨(いかり)で共感にあらがえ~永井陽右『共感という病』

こんな本だ!>「永井陽右が、共感についての持論をまとめあげて、最終章で、ラスボス内田樹と対決したら、合気道の技に絡めとられて、何だかよくわからないうちに負けてしまった話。


ニュース23」に、ハンサムな若手コメンテーターが出ている、と思って名前を調べると、気になっていた『共感という病』の著者ということでさっそく読んでみた。


この本はとにかく最終章の内田樹との対談が読みどころだと思う。
途中に挟まる石川優実(#KuTooの活動で有名なフェミニスト)との対談も読みごたえがあるが、ここは想定の範囲内の内容。
内田樹との対談は、対談の枠をハミ出て一種の格闘技になっている。永井陽右の繰り出す攻めが、すべてかわされた上で、「惻隠の情」という見えない技(スタンド技?)によって、いつの間にか場外に出されて負けてしまった感じだ。

共感の功罪(1~2章)

永井陽右の問題意識は一貫しており、その核には「共感できる相手かどうかで、困難に陥っている人たちを救うかどうかを決めて良いのか?」という疑問がある。

例えば、10歳の女の子の難民は、世界中の共感を受けるにもかかわらず、道端に倒れているキモくて金のないおっさんには誰も共感しないし、手を差し伸べることもないだろう。
これは犬猫も同じで、アメリカでは「ビッグ・ブラッグ・ドッグ」として知られる問題。保護犬の中で黒い大型犬は嫌われて引き取り手が見つかりにくいので、人気のない犬猫のために「黒猫感謝の日」が制定されているという。


「共感」は、一方では、世界各地で巻き起こる社会変革のムーブメント(BLMやMeTooなど)を拡げる力を持ちながら、一方で、憎悪を掻き立て、分断と対立の原因にもなっている。
避けられない「共感という病」と我々はどう付き合うべきか、というのが、この本のメインテーマと言える。*1

共感だけでなく理性を(3~6章)

ところで、永井さんのメインフィールドである紛争地域の話は、第三章「紛争地域から見る共感との付き合い方」、第四章「戦略的対話 わかりあえない相手とのコミュニケーション」に書かれているが、本書では、これらはサブ的な扱いで、メインはあくまで「共感問題」に徹した内容になっている。


そんな中、5章「基本的に人はわかりあえない」、6章「共感にあらがえ」は、永井さんの考えがコンパクトにまとまっている。
5章は「基本的に人はわかりあえない」というタイトル通り、「理解し合える」というのは幻想だと指摘する。留学先のロンドンで感じた、リアルな「多様性」「異文化共生」に対する印象も納得度が高い。

つまり、「私たちはみんな同じ人間だよ! 同じだから理解だってし合えるんだ!共感し合って対立や差別のない社会にしていこう!」といった言説や社会的な規範だけでは絶対にどうしようもない現実があり、さらに言えばそうした美しく語られるスローガンがあるからこそ、さらに差別や偏見が生まれ強固になっていくというのが一つの歴然たる事実なのです。
p151

(ロンドンが)人種のるつぼであることは間違いないけれど、どうも多文化共生社会という単語が持つ美しい響きやイメージとは違っているのです。どちらかと言うともっと、泥臭く、緩やかな緊張というか壁一枚挟んだ感覚というか、心からの共生というよりは便宜的な共生のような体感なのです。 同じく多様な国家であるアメリカを見ても、輝く21世紀の社会だとは到底思えません。皆差別や分断といった課題を抱えながら生活しているのがリアルなのではないでしょうか。
p159


6章では、これを受けて、「キモくて金のないおっさん」を救うのに何が必要かを考え、「権利(人権)」や「理性」が必要である、という一応の解答が用意される。

だからこそ、共感できない・共感されにくい人をなおざりにしないために、共感に代わるものが必要となります。もう少し言うと、共感がベースになくてもそういう人々にたどり着けるものが必要なのです。 私は、それこそが権利であり理性だと考えています。共感できる・できないに一切関係なく、「全ての人には人権があり、無条件に尊重されなければならない」という理解に立ち、そこから他者を見つめるという姿勢です。その射程は、共感の及ぶ範囲をはるかに超え、全ての人が含まれるべきなのです。
 p167

「守ろう人権! みんなの人権!」などといったきれいなスローガンではなく、「基本的に話したくもないし、なんなら関わりたくもないけど、権利はあるよね、まあ……」くらいのほうが人間の心性に添っていて無理がありません。共感ではなく、地に足のついたリアルな、実体の伴った、権利に対する理性的な眼差しこそが、憎悪が渦巻く現代の世界を良くする鍵だと私は考えます。本能や直感を変えることは難しいです。だからこそ、そのことを認めたうえで、流されないための理性的な錨が必要なのです。
p169

結論から言うと、感情に任せるのではなく、共感の良いところをうまく使いながらも、同時に理性も働かせてその手綱をしっかりと持ち、取り残されている人がいないか、対立や分断をどう乗り越えることができるか、などを常々考えることが社会と世界を良くしていくことに繋がると考えます。 共感だけではダメで、理性と共にあることで真の意味で初めて可能性が出てきます。 本章の前半でも触れましたが、私たちが社会を少しでも良くしていきたいという温かな想いは、共感の及ぶ範囲ではなく、あくまでも権利の及ぶ範囲であるはずです。
p180

このあたりは、近年、人権の重要性を意識するようになった自分の思考と一致していて、その主張に頷くばかりだった。共感の問題と合わせて示してもらったおかげで、かなり頭が整理されたように思う。

重要なのは「理性」ではなく…(内田樹*2との対談)

そして内田樹の登場。
対談の冒頭で、永井さんは、前述の「理性こそが重要」という持論を、カント倫理学御子柴善之先生に否定された話を出す。いわく「理性と、個々人の持つ倫理・道徳は別ですね」とのこと。
内田樹も結局のところは同じことを言っており、世の中は理屈だけでは回らない、と諭す。ここまでは納得できる。全体として、内田樹の意見は頷けるところが多く、以下の合意形成とは何ぞやの話もとてもわかりやすい。(永井さんから問われていることとズレてはいるが)

勘違いしている人が多いんですけど、合意形成って「誰かが正しい意見を言って、 周りの人間を説得してその意見に従わせる」というものではないんです。そうではなく、「みんなが同じくらいに不満足な解を出す」ってことなんです。全員が同程度に不満というのが「落としどころ」なんです。それを勘違いして、合意形成というのを「全員の意見が一致すること」だと思っている。「Win-Win」なんて無理なんですよ。そんな奇跡的な解はふつうはまずありません。合意形成でとりあえず目指すのは「みんなの不満の度合いを揃える」ということなんです。 誰かが正解を述べているので、説得するなり、多数決で抑え込むなりして、その正解に従わせるということではない。そうじゃなくて、全員が「俺の言ってることも変だけど、みんなも変」というところから出発して、誰かが際立って損をするようなことがない解を探り当てる。それが合意形成なんですね。
p227

しかし、永井さんの「共感できない・されにくい人を取り残さないために理性が必要」という主張に対する反論部分は本当にわかりにくい。
内田樹は、倫理の一番基本にあるのは「惻隠の情」だ、と主張する。

たしかに「テロリストには共感できない」というのは人情としては自然だと思うんです。それでも、ひとりぼっちで寂しい思いをしている人を見たら、つい手を差し伸べてしまうということもまた人情としては同じように自然だと思うんです。そして、僕はこの「つい手を差し伸べてしまう」ということが倫理の一番基本にあると思う。「側隠の情」だと思うんです。
p190

ここで突如として現われる「惻隠の情」は、そもそも本書のスタート地点であり、これまで散々否定してきた「共感」と概念が似通っており、話が戻っているように感じられる。読者としてもよくわからないし、永井さん的にも、全然ピンと来ていないように見える。

このあとのやり取りは、永井さんの怪訝な顔が目に浮かぶようだ(それでも、何とか納得できるところを探そうとする姿勢は素晴らしい)が、内田樹の「惻隠の情」についての追加説明は以下の通り。

  • 「惻隠の情」は、内発的なもので、個々人の「感情の器」でそれが発動する範囲が決まる。
  • もっと「困っている人を見たら、すぐに助けられる」ようになりたい(「感情の器」を大きくしたい)、というのであれば、宗教や政治的イデオロギーなど出来合いのもので「外付け」することもできる。
  • しかし、外付けされた倫理は、歯止めが利かなくなることが多く、キリスト教マルクス主義の名のもとに多くの人が死んでいる。

これに対して、永井さんは(宗教などではなく)「人権教育的なもの」を外付けすることはできないか?と問う。この問いも(まさに御子柴先生に否定された意見そのものではあるのだが)自分の考えに非常に近い。
しかし、この問いに対して、内田樹の口からは「家風」という言葉が出て来て、さらなる混乱を生む。

  • 「教育」は「学校」を想定していると思うが、人の生き方は学校では教えられない。
  • 「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」だ。
  • 倫理を身につけるには、実際に、その規範にしたがって生きている人を見て学ぶ(親の背中を見て学ぶ)しかない。

ここで内田樹は、奥田愛基(元SEALDs)が父親の奥田知志(牧師)から大きく影響を受けているという話を例に出すが、永井さんには「自分は、子どもの頃は、よく母親に殴られた」と即座に否定される。
「こども家庭庁」の命名しかり、必要不可欠なものとして「家」を持ち出すのは、むしろ(内田樹とは対極にある)右寄りの考え方という認識なので、ここで「家風」という言葉が出るのは意外だったし、かなり飲み込みづらかった。(倫理や道徳は「教育」できないという主張は納得できるのだが…)
対談の終盤で、永井さんがうまく導き「惻隠の情」については、なんとなく理解が進みはしたが、「家風」と合わせて、内田樹の主張のキーワードだったのに、モヤモヤが残ったままとなった。
そもそも、対談全体として「内田樹ワールド」が強過ぎて、対談相手である永井さんも読者も置いてけぼりにされている感がある。このあたりは、対談ではなく内田樹の単著をしっかり読まなくては、という気になった。
なお、「内田樹ワールド」の核にあるのは合気道の考え方なのだろう。以下の部分も、突然、武道の構えの話が出て来るのが突飛過ぎて、先日見たキングオブコント決勝のサルゴリラのネタ*3を思い出してしまった。

集団でも個人でも、弱者を支援する仕組みをビルトインしていないと存続できないんです。弱者を支援する仕組みをきちんと整備してある集団の方が、そうでない集団よりも強いんです。武道をやるとわかるけど、「赤ちゃんを抱いてるかたち」というのが最強なんです。
p220

永井さんのイライラ

「惻隠の情」や「家風」という、内田樹の分かりにくいキーワード以外に、2人の意見が噛み合わないのは、時間に対する感覚。
全体として、若い永井さんが「答え」を急ぎ、年功者の内田樹が「急ぎ過ぎるのはよくない」と、それを諫めている構図が見て取れる。しかし、これに対する永井さんの苛々も感じられる。

たしかに、私も「葛藤しているほうが真摯なんじゃないか」ということは、 なんとなくわかりますし、思ってもいます。でも、自分がいくら葛藤したところで問題はずっとそこにあり続ける。その問題を、私はどう捉えればいいんだろうと考えざるを得ません。物事が良くなるには百年、千年かかる。「一歩ずつよくなってればいいじゃないですか」ということを言われたりもします。それはとてもよくわかる反面、社会が良くなるためにも千年かかりますってときに、その問題に対して「仕方ないよね」で片付けるのも納得がいかないというか、それでいいんでしたっけ? と素直に思います。  
p205

内田樹の意見は納得できるが、半ば結論を先送りにしているようにも感じられる、ということだろう。このあたりは、自分の悪いところを指摘されているようで、耳が痛い。その場その場で結論を出さなければ前に進めない、というのは、紛争地域の問題などと比べて些末な、日常的な場面にも多くある。理想論は言い訳に過ぎないとも言える。

共感にあらがい、他者の権利を認めるには自己理解が重要

この本の中で印象に残った言葉に、「もしあなたが私のことを知っていて、あなた自身もあなたのことを知っていたら、 あなたは私を殺したりしないでしょう」というルワンダのジェノサイドメモリアルセンターの言葉がある。
これは、「自己の理解から始め、自己理解を通して、他者の権利を認めることが重要」というメッセージであり、6章の中で、その意味がかみ砕いて説明されている。(以下に一部を引用する)
一連の文章を読み、改めてSNSに押し寄せる「共感」の荒波の中で、自ら舵を切っていくには、やはり「考えること」(自分の場合は、文章を書くこと)が重要だと思いを新たにした。
ただし、永井さんの様々な言葉を胸に刻めば、重要なのは行動であり、判断であり、時間は待ってはくれない。考えること、考え続けることが言い訳にならないように気をつけていきたい。

私が日々思うことは、たとえ共感されなくても、誰とも繋がっていなくても、基本的には全く問題ないということです。自分は自分であり、それ以上でも以下でもありません。自分と他者しかいないのです。つぶさに見れば、究極的には自分しかいないとも言えさえできます。そんな自分の存在は、誰かに肯定されなければ存在しないといったものではないのです。
p177

そもそも、社会的に存在価値や存在意義がないとしても(それでもなんだかんだ誰もが何かしらあると私は思いますが)、そんな人にも同じく人権は普遍的に認められていますし、あります
だからこそ、胸を張って勝手に一人で堂々と自己肯定すればいいのです。 自己肯定というか、自己否定する必要がないのです。自分は自分だと。自分は自分で今存在していると。そのことに根拠や理由などは必要ないのです。そしてそう思う、そう理解するからこそ、自分でない他者の存在を自覚し、認めることができるのではないでしょうか。
少し抽象的ではありますが、社会に落とし込んだとき、それはまさに他者の権利を認めるということにも繋がります。
また、何より、他者に依存することから脱却することでもありますし、ひどく辛い共感中毒にならないための一つの処方箋でもあったりするのです。
p179

これから読む本

今回、永井陽右さんのメインの仕事については、深く知ることが出来なかったので著作を読んでみたい。
そして、内田樹さんは、できるだけ近著と、対談(もしかして本人の特質に合っていないのでは?)のブックレットを。
また、本書の中で永井さんが複数回に渡って引用していた『社会はなぜ左と右にわかれるのか』も。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com
ブログ内を遡ると、ブログを始めた頃の2005年から内田樹さんの文章の引用がある。
それほどまでに昔からこの人の文章を読んでいたのか、と驚いた。(最近は読んでいなかったのですが)


*1:なお、表紙に副題的に「いきすぎた同調圧力とどう向き合うべきか」とあるが、本書の中で「同調圧力」について言及しているところはほとんどない。売れるキーワードとして編集者がねじ込んだのだろうか?と邪推してしまう。

*2:以下、内田樹を「内田さん」としても良かったが、しっくりこないので「内田樹(氏名全部・敬称なし)」で進める。特に他意はない。「内田氏」とも迷ったが、文字数としては変わらないので、「内田樹」を採用した。

*3:甲子園で負けた選手が監督に「いい話」をされるネタです。