Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「なかったこと」にはできない思い~石井裕也監督『愛にイナズマ』


終わってみれば王道の枠内だったが、内容を知らずに「高評価のコメディドラマ」だと思って観に行ったので、どう転がるのか分からないうちに一気にエンディングへ。


皆が嘘を抱えて生きている。
嫌なことは忘れ、世間の常識に自分を合わせて暮らしている。
それでも、イナズマのように、突然起こる予期せぬできごとの中で、本性が出たり、過去に向き合ったり、生き方が変わることもある。そんな映画。

テーマなど

「皆が嘘を抱えて」と書いたが、主人公の折村花子(松岡茉優)と舘正夫(窪田正孝)、そして落合(仲野太賀)は、嘘をつけない、今の世の中で生きづらいタイプの人たち。
嘘をつく、というのは、自分を殺して周りに合わせる、という意味と、嫌な出来事も「なかったことにする」という大きく二つの処世術を指す。この映画では、特に「なかったことにする」ということについて、最初から最後まで取り上げられる。
一番最後に、花子は、映画のタイトルを『消えた女』から『消えない男』に変えようという話を言い出すよう、辛い経験も楽しい経験も「なかったこと」にはできない。ましてや家族の生死に関することならなおさらだ。


レストランでのできごとは象徴的だ。トラブルに巻き込まれたくなければ、隣の席での会話(ひどい犯罪自慢話)を「聞かなかったこと」にして通り過ぎれば良い。しかし、あの場にいた全員が一致して、それを拒否する流れになった。
このシーンも典型だが、人は「変われる」ということが、劇的に、ではなくソフトに描かれていると感じる。いや、「変わる」のではなく、元々人間は一貫性がなく、一瞬一瞬で性格も言うことも違うものなのだ。だから、別に昨日までの自分と、今この一瞬の自分が全然違っていても良い、という開き直りみたいなものを感じた。


別方向から言えば、『愛にイナズマ』が変わっているのは、登場人物それぞれに与えられた役割(日常的に使う言葉でいうと「キャラ」)が曖昧なこと。例えば「Aは優しいので、この場面では救いの手を差し伸べる」という風に、わかりやすい役割ー行動パターンがあれば、物語は先の展開も読みやすく、理解しやすい。これが荒川(三浦貴大)が言っていた、「観客がわかりやすい映画」ということだろう。

正夫(窪田)は、花子(松岡)との出会いのシーンもそう。正夫は、トラブル(コロナ禍で「マスク警察」的な正義をふりかざす学生に乱暴を奮おうとする「自由人」風の二人組)を発見し、止めに入る。
普通なら以下のように続くはずの場面だ。

  • 止めに入った窪田の行為により状況が変化し
  • 「自由人」2人(悪)がその場を去り、もしくは窪田を殴り倒し、窪田が学生(善)から礼を言われる

しかし、ここでは窪田の存在を無視してトラブルはエスカレートし、むしろ学生の言い分の方が酷過ぎることが判明し、しかし、窪田は自由人に無駄に殴られ、学生は逃げてしまう。


これを経たレストランのシーンでは、隣のテーブルの犯罪自慢話を許せない正夫(窪田)が、我慢できずにクレームを言いに行くだろう、と観客を煽りつつ、カットが切られると、家族が車で帰路に就く場面に…。
あれ?と思ったところで、やっと正夫が「やっぱり…」と言い出す流れでは、正夫だけでなく俺も俺もと家族が次々に名乗りを上げる。
この時、さんざんカルトだ童貞だと揶揄されていた、争いを望まないタイプの雄二(若葉竜也)までが好戦的に。


一年後のシーンで、元々は周囲に合わせて生きるタイプだったはずの誠一(池松)が、(レストランのシーンに引き続き)空気を読まない発言をして、社長に注意されていたのも同様だ。


このような、登場人物が、役割から予想される展開を裏切っていく細かい描写の数々は、松岡の「誰もが演じている」「誰もが役者だ」という発言と相まって、観客にも「キャラを演じるように生きる必要はない」というメッセージを与えてくれる。


序盤では、人の死は、半ば概念的に扱われる。
飛び降り自殺志願者に対して、ビルの下から、「早くしろ!」と声をかける人を、花子が目撃する。
荒川(三浦貴大)は「そんな人はあり得ない」と言い切り、映画についても「台本が若すぎる。死を軽く扱い過ぎている」と苦言を呈す。
とにかく、映画内では途轍もなく嫌な奴という印象だけ残した彼だが「母親が突然消えるなんてありえない」という指摘だけは結局正しく、嫌な奴の言うことがいつも間違っているということはない。(なお、この映画の中で、彼ら(荒川と原)を「見返す」シーンが出てこないのも印象的だ。)


落合の死から始まり、さらに両親の死が描かれる後半では、結局、父親(+兄)が、可能性が高かった「母の死」から目を背けていたことが明らかになる。
母への電話から母の死を知り、「母が消えた」真相がわかり、レストランでの会話から、そのきっかけとなった暴力事件、そして父の余命について次々に明らかになる流れは「あり得ない」が、ドラマティックだ。

ラストで、自宅に戻ってから雷雨で停電するシーンから1年後まで引っ張って「ハグ」に焦点が当たるのは興味深い。言動はいくらでも嘘もつけるけど、存在は消えない。死んで灰にならなければ。ここはどうしても泣いてしまう。


ひと言でいえば「家族愛」をテーマにした作品と片づけることもできるが、同時に、イナズマに打たれるようにして、人はいつでも変わることができる(過去の自分やできごとに引っ張られる必要はない)ということを示したかった映画だと感じた。

俳優陣

松岡茉優は、夏ドラマ『最高の教師』が、何か異常な感じの学園もの*1で、これまでと異なるタイプの役であることは理解したが、モヤモヤの残った配役*2だったので、そのモヤモヤを吹き飛ばす魅力200%発揮のはまり役で大満足。
自宅でかけているデカい眼鏡がいいですね。


窪田正孝は、実はあまり見たことがなく、以前何かで観たときも、今回のように朴訥な喋り方をする内向的な性格の人を演じていた。自分にとっての窪田正孝は、「モテ」要素が極端に少なく、挙動不審で、社交性の薄い人になってしまっている。


そのほか。

  • 佐藤浩市は、最近は大河ドラマのカッコいい役(『鎌倉殿の13人』の上総広常、『どうする家康!』の真田昌幸)で見慣れていたが、こういう少しダメな役も巧い。しかし、それにしては着古したジーンズがカッコ良過ぎた。
  • 池松壮亮をみるたびにいつも思うが、何なんだ、あの喋り方は!(笑)最初は生真面目な弟に上から目線で説教する嫌な兄と思ったが、あとになればなるほど良さを発揮。説教シーンで恐竜を出してしまうところで、改めてサルゴリラキングオブコント決勝のネタを思い出した。*3
  • 若葉竜也は良い存在感。『葛城事件』でも次男役でしたか。
  • 一番カッコ良かった仲野太賀が突然退場して本当に驚いた。しかも去って直後に中野英雄が登場。改めて見ると似てますね。
  • 趣里が、どうでもいい役で登場。どうでもいい役過ぎて、本当に現在の朝ドラ主演の人なのか何度も確かめた。
  • 高良健吾は、予想外にも、「嫌な」社長役。MEGUMIは、感じの悪いプロデューサー。三浦貴大は本当に嫌な助監督。本当に嫌。

パンフを読んで

パンフを読んだ追加感想。

  • コロナがテーマだったということに改めて気づかされた。石井監督の言葉でも、(アベノマスク問題を含め)コロナを「なかったこと」にしたくない、と映画への思いが語られていたが、感想を書こうと映画を振り返ったときに、「コロナ」のキーワードは抜けてしまった。自分の中でも徐々に「コロナ」のインパクトは薄められている。中野英雄が劇中でつぶやいた「コロナって何だったんでしょうね」はとても心に染みたにもかかわらず。
  • バーの休業協力金が1500万円!花子に支払われるはずだった映画の契約金、誠一が社長に借りたBMWの価格、治(父親)が払った賠償金、そして、レストランの不良集団が巻き上げた金額、色々なところで出てきた1500万円がここにも!
  • この映画自体が映画制作のメタな視点が反映されており、作中で花子が理由もなく配置してしまうと言っていた「赤」が、実際にそこかしこに配置されている。家族集合のシーンは皆が赤い服を着ていて正夫(窪田)に突っ込まれる場面は爆笑だった。笑い、という意味では、確かに松岡茉優佐藤浩市の演技をメタくそに言うシーンが最高でした。
  • 現在、この映画と合わせて上映されている宮沢りえ主演の『月』も石井裕也監督作品なのか。こちらはオリジナル脚本ではなく辺見庸『月』が原作。気になっていた作品だが、こちらはまず原作小説を読んでみよう。

これから読む本、観る映画

石井裕也監督作品は『舟を編む』しか観たことがなかったが、いくつかAmazonPrime見放題作品があるじゃないか。特に、観たかった『茜色に焼かれる』が入っていることに驚き。早く観よう。そして辺見庸『月』。

*1:子ども店長こと加藤清史郎のカッコよさが光るドラマ。松岡茉優演じる高校教師が卒業式の日に殺されてから1年前にさかのぼってやり直すループものでありながら、生徒の死を止めることが出来ない嫌な展開。犯人探しではなく「向き合う」という言葉に執着するドラマのメッセージに違和感。最終話近くにジャニーズ性加害問題でも、会見の中で「向き合う」が使われていて色々と微妙な気持ちになった。

*2:元々柴咲コウが予定されていて変更になったのだという

*3:甲子園に行けなかった野球部員が監督から慰めの「いい話」を聞かされるコント