Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「あしなが」の活動に携わる2つの団体について知るためブックレットを読んでみた

大学生時代に所属していた運動部の行事の一環として、年に一回、街頭で「あしなが」の募金活動を手伝っていた。これが理由で、今も駅前などで募金を見かけると、あしなが学生募金には、絶対に協力する(と言っても少額)というマイルールを自分に課している。
ところが先日、募金箱を持っている人からパンフレットを手渡されたので読むと、「あしなが」の奨学金は、交通事故「以外」の理由で親を亡くした子どもを対象にしていることが分かり驚いた。学生時代に募金活動をしていたときの口上では絶対に「交通遺児」と言っていたはずなのに…。


少し調べてみると、もともと1つの団体だったものが、交通遺児を対象とした「交通遺児育英会」と、交通遺児以外の災害遺児などを対象とした「あしなが育英会」の2つに分かれたということらしい。
Yahoo!知恵袋を見ると、もう少し突っ込んだ話が載っており、「官僚OBによる団体の乗っ取り」で、創設者が追い出されたとある。
両団体のHPを見てみると、確かに、そのストーリーに沿った情報が出てくる。上の情報を踏まえれば、「交通遺児育英会」のHPからは、確かに「今は官僚OBはいない!」というアピールの必死さが読み取れる。

あしなが育英会のHPから抜粋)
あしなが運動の原点は、2つの痛ましい交通事故でした。
1961(昭和36)年、新潟で岡嶋信治(本会名誉顧問)の姉と甥が酔っぱらい運転のトラックにひき殺され、初の殺人罪が適用された交通事故。
1963年には、玉井義臣(本会会長)の母が暴走車にはねられ、1か月あまり昏睡状態の末、亡くなりました。
岡嶋は1967年に「交通事故遺児を励ます会」を結成。まもなく玉井を相談役に迎えて本格的に遺児救済のあしなが運動が始まり、1969年には財団法人交通遺児育英会が発足しました。


「恩返し運動」の始まり。
街頭募金や継続的にご寄付をくださるあしながさんに支えられて進学できた交通遺児たちが、「恩返し運動」として1983年に災害遺児の奨学金制度をつくる運動を始め、1988年に災害遺児奨学金制度が開始。
さらに災害遺児が病気遺児の奨学金制度づくりを呼びかけ、1993年の病気遺児奨学金制度開始に合わせて、あしなが育英会が誕生しました。
あしなが運動の歴史|あしなが育英会

交通遺児育英会のHPから抜粋)
設立当初、玉井専務理事をはじめとする常勤者のトップが財団経営未経験であったから、非常勤役員の理事長には、初代、2代目と官僚OBの石井栄三氏、宮崎清文氏が就き事務局を指導した。

設立から現在まで、この初代および2代目理事長以外役員ポストに官僚OBの就任はない

事務局員についても同様で、設立来主務官庁OB数名が在籍し、その指導を受けたが、プロパー職員の成長により平成10年代初期に内閣府局長と交通遺児育英会穴吹専務理事で官僚OBの受け入れは止めることで合意し、平成15年度末に最後の官僚OBが定年退職して以降官僚OBはゼロである。

発足後順調な経営が続いたが、昭和57年ころから、玉井専務理事の主導で災害遺児育英募金や病気遺児育英運動が展開された。しかしながらこの運動は交通遺児育英会寄付行為に沿わない事業であることから、玉井専務理事は平成5年4月、災害・病気遺児育英のための任意団体あしなが育英会を設立、その副会長に就任し、平成6年3月の交通遺児育英会第50回理事会で専務理事を辞した。その理事会では、当面、当時の常勤理事事務局長を専務理事事務取扱として専務理事業務を代行させることとした。
交通遺児育英会について|公益財団法人 交通遺児育英会

ただ、これだけの情報では、全貌がよくわからないため、事の顛末を確認し、件の人物、玉井義臣さんがどのような人なのかを知るためにも一冊、本を読んでみることにした。

ブックレット『志高くWORK HARDでがんばらなあかん (玉井義臣―あしなが運動のすべてを語る)』を読んで

上に記した流れとは、別の興味も抱えながらこの本を読んだ。
というのは、先日聴いていたpodcast「COTENラジオ」*1オスカー・シンドラー回での主要なテーマが「人の善性はどのようなときに発動するか」で、まさに「あしなが運動」のような社会活動に関連する内容だったからだ。
さらに、少し前に感想を書いた『共感という病』で、内田樹がキーワードとして挙げていた「惻隠の情」もこれに類似した内容で、今まさに読むべき本だったのかもしれない。


ブックレットを読んでみて、1935年生まれで今も現役で活動する玉井義臣さんのエネルギーに驚かされるばかりだ。(この本自体は2012年発行だが、玉井氏の最近の活動はHPで追って確認した)
駅前での募金活動からはよくわからなかったが、玉井氏は、活動の「継続」以上に「拡大」に力を入れ、そこに夢を持ち続けている人であることがよくわかる。交通遺児から、災害、病気遺児に範囲を広げ、もっかの取り組みは、「アフリカ遺児教育支援」で、活動の場は世界になっている。


このあたりの夢の大きさとそれを実現するための執念を見て、以前本で読んだ徳田虎雄徳洲会グループ)を思い出した。デカい「善」を成す人は、希望というより野望を持ったタイプの人のようだ。ブックレットの中でニアミス的に登場する笹川良一はまた違ったタイプの人だと思うが。
ただし、玉井義臣には、徳田虎雄笹川良一に感じるような「ヤクザ」感は少ない。ブックレットに寄稿している堀田力氏の「純粋な人で、利他的であることが大きな力となっている」という評価もだが、副田義也*2の以下の言葉も非常に印象的だ。

玉井さんは、あしなが運動を通じて日本人の人間性や思いやり、愛情、正義を引き出したのだと思います。言葉を変えれば、あしなが運動は、教育・福祉運動であり、思想・道徳運動でもあると言っていいでしょう。p112

1人の天才によって多くの人の「人間性や思いやり、愛情、正義」が引き出される、という表現が面白い。ちょうどこれが、『共感の病』で書かれていたようなSNS時代の共感の功罪ということになるが、他人の影響を受けて「善性が発動する」ということは確かに多くあることかもしれない。

交通遺児育英会」の官僚OBによる乗っ取りについて

少し話を戻すが、玉井氏は、活動の範囲をどんどん広げていくタイプの人だから、事業内容が定款で定められている「財団法人」と折が合わないのは当然のことと言える。形としては官僚OBによる乗っ取り・追い出しではあるのだが、追い出される少し前のタイミングで「あしなが育英会」を設立しているし、本人も潮時と感じていたのだろう。

以下に、玉井義臣氏が、交通遺児育英会を出て「あしなが育英会」に移り、団体が分裂した流れについて、ポイントを抽出した。

  • 災害・病気遺児の支援運動
    • 交通事故による死者数は1970年代をピークに減少し、保険制度の充実(自賠責保険の限度額引き上げ)もあり、奨学生自体も減少し、1969年5月に発足した財団法人・交通遺児育英会は財政的にも安定。
    • 玉井氏は、奨学金を貸与する範囲を交通遺児に限定するのではなく、災害遺児や病気遺児にも広げ、運動を発展させていきたいと考え、1980年代前半から災害遺児の支援運動の取り組みを始める。
    • 一方で、財団法人の所管官庁だった総理府は、国からの補助金問題や天下り先の確保を考えて「災害遺児にまで対象を広げるのはまかりならん」と考えていた。(p108)
  • 災害遺児育英制度の設立について
    • 玉井氏が「国庫からの財政支援を含む災害遺児育英制度」の設立を与野党に働きかける
    • 1986年衆院予算委員会での中曽根首相答弁「設立を検討」
    • 1987年 竹下首相(消費税導入法案成立を控えていたこともあり)同制度の野党の予算要求に対して「何とかする」
    • 1988年 予算案には同制度の設立費は計上されず。(大蔵省に蹴られた)
    • 1988年 竹下首相は制度発足について橋本龍太郎幹事長に相談
    • 1988年9月 橋本龍太郎は「日本船舶振興会笹川良一)が同制度を創設する。交通遺児育英会とは切り離して実施する」という案を提示。(当時、笹川良一ノーベル平和賞を欲しがっていた)
    • 玉井氏はこれを拒否。さらに災害遺児から「ギャンブルのあがりからの奨学金ではなく、あしながおじさんに応援してほしい」というようなビラも出て船舶振興会案は取り下げ。橋本龍太郎は「玉井をつぶせ」と激怒。
  • 辞任の経緯(いわゆる「官僚OBたちによる育英会の乗っ取り」)
    • 1993年後半あたりから育英会の理事会で災害および病気遺児育英制度の創設問題について、理事会から批判の声が出るようになる。
    • いわく「交通遺児育英会の資金を使って全国交通遺児育英学生募金を行ったのに、玉井は、87年から募金の半分を『災害遺児の高校進学をすすめる会』に贈るなどした。これは育英会の定款に違反しており、背任にあたる」
    • 実際には、理事会で募金の配分先については同意を得ていたものだったが、複数理事の裏切りもあり、育英会は官僚主導の経営に移行することになる。
    • 1994年3月の理事会で、理事長選出の話でも揉め、玉井氏は専務理事を辞任。
    • 本件では総理府の官僚が作った団体(バックに橋本龍太郎)の告発を受け、東京地検に告発され、特捜部の捜索を受ける。これについては、堀田力の協力もあり、玉井氏に対する処分は不起訴に。


(本書p95より)

あしながの活動について

あしなが育英会のHPにも書かれているよう、当初は、ともに親を交通事故で亡くした2名(玉井義臣、岡嶋信治)の活動だったが、それが大きく広がったのは、大学の運動部、文化部の協力の影響が大きかったという。ちょうど全共闘運動の時代で「やることがなかったから」という書き方もされているが、後述するよう、のちに政治家となる山本孝史立命館大学)、藤村修秋田大学自動車部)など全国の大学生が中心的な役割を果たした。
自分の所属していた運動部が、あしなが募金の活動をしていたのも、こうした大学運動部の繋がりゆえであることが分かった。なお、自分が活動に関わっていた時期は、1992~1994年で、ちょうど玉井氏が「交通遺児育英会」を辞した1994年3月の直前だったようだ。

政治との関係

本を読んで、社会運動を続けていくと、必然的に政治との関わりが多くなるということを改めて知った。望ましい社会像があって運動するので、法案成立を働きかける相手として常に政治家を相手にし、つき合う時間も長いのだろう。
実際、このブックレットにも文章を載せているが藤村修もその一人で、元々はあしなが運動の中枢にいたが、1993年7月に細川護熙から玉井氏が打診を受けて送り出した2人*3のうちの1人だ。
藤村氏は、元々、政治家になりたかった人ではない、ということもあるが、寄稿文の以下が印象的。このブックレットは2012年9月発行だが、藤村氏は、2012年12月に、現役の官房長官民主党政権官房長官)でありながら落選し、2013年10月に政界引退を発表、あしなが育英会に戻っているという。

(初当選のときのことを振り返ったあとの文章で)
その後、日本新党から今の民主党へと所属政党は変わっていったわけですが、政治家になって良かったのかどうかと聞かれれば、「さまざまな経験をさせていただいたけれども、こういう仕事は長くやるものではないな」というのが現時点での感想です。

一方で、小学3年生のときに父親を交通事故で亡くし、交通遺児育英会奨学金で進学した下村博文は、小学生のころからずっと政治家を目指していた、ということでギラギラしている。
早稲田大学でも数多くの政治家を輩出した雄弁会の幹事長を務め、4年生のときに始めた学習塾を足掛かりに、玉井氏のアドバイスも受けながら政治家に。
個人的には、自民党政治家の中でも「嫌い度」の高い政治家で、早く辞めてほしいと常に思っているが、政治家としてあっさり身を引いた藤村修の言葉から考えると、政治家を長く続けると、しがらみが増えて、最初に描いていた理想からは離れてしまう、ということなのかもしれない。下村博文は小学生時代に思い描いていた政治家像に辿り着けているのだろうか。


社会運動の広がりにはいくつものパターンがあるだろうが、あしなが運動のように、コアの部分に一人の天才的な活動家がいるグループは強い。一方で、そういう天才タイプには、純粋な気持ちを持っているが故に、頓珍漢なことを信じている人もいる。
自ら社会をよくする気概のない自分は、そういった活動家の言葉に多く触れることで、どの人なら応援できそうか、という「推し」を作っていくべきなのかもしれない。本来は、政治家に「推し」が増えれば政治にも期待できるが、日本では政治に頼っていても社会が良くならない気がする。*4
色々な本を読むたびに「これからこういう本を読んでいこう」と考えるが、一つの流れとして、社会活動家の著作には、これまでよりも頻繁に触れるようにしていきたい。

*1:各種podcastからアクセスできるが、HPはコチラ→COTEN RADIO | 歴史を面白く学ぶコテンラジオ | 株式会社COTEN

*2:筑波大学名誉教授、社会学;2012年からあしなが育英会副会長を務める。2021年没

*3:もう一人は山本孝史。2007年に胸腺がんで58歳で亡くなった。病床中も最後まで政治活動を続け、がん対策基本法成立に邁進

*4:思い浮かぶのは共産党の山添拓さんくらいか