Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

桃鉄に欲しい「保安条例」カード~なだいなだ『TN君の伝記』

前半の感想はこちら↓
pocari.hatenablog.com


『TN君の伝記』の後半の話は、特に今の政治の風景と重ねながら読んだ部分が多かった。
日本の歴史をしっかり辿ったのは中学校時代以来だが、当時は政府側目線で学んできたものが、庶民目線で見返すと違って見え、今の政治とリンクしてくる。
以下では(1)天皇の政治利用(2)言論統制(3)帝国主義の時代の3つのトピックを挙げるが、いずれも政府側が「政府を否定しにくい状況をどう作るか」に腐心しているあからさまな様子がよくわかる。
今の政府にも「あからさま」な人がいるが、この頃の政治状況は頭に浮かんでいるのだろうかと思う。

(1)天皇の政治利用

『TN君の伝記』を読むと、明治時代の薩長藩閥政治の得意技、というか最後の武器は「天皇」だったことがよくわかる。
以下、征韓論の否定、西園寺公望の籠絡、国会開設の詔勅の3つの事例を挙げて、それぞれについて説明する。


岩倉使節団が帰国する前の明治6年1873年)、外交上の問題と士族の不満が重なり征韓論が盛り上がり、西郷隆盛は、朝鮮へ使節団を送る(実際にはそれに伴い難癖をつけて出兵する)ことを決定してしまう。
帰国した岩倉、大久保はこれに反対し、西郷隆盛をはじめ圧倒的多数の征韓派を抑えるために天皇を利用する。

参議の多くは、多数決で、ことがきまったと思っていた。だが、天皇に結果を伝え、天皇の意志を再議たちに伝えるのは、太政大臣代理岩倉の役割である。(略)天皇に参議たちは直接に会えない。だから、天皇の意志を確かめられない。そして、自分の意見を天皇の意見として、決定をひっくり返したのだ。だが、西郷派の参議たちは、天皇の意志というものが、全くの形式であることを知りながら、それを拒むことが出来なかったのである。p134

これによって、西郷隆盛(薩摩)、板垣退助後藤象二郎(土佐)、江藤新平肥前)たちは辞職して政府を去り故郷に戻り、大久保が独裁的な権力を握ることになる。
この流れで、大久保に対抗する手段として、板垣・後藤(土佐)、江藤・副島(肥前)らが「民選議院設立建白」をまとめ、国会開設を求めることにつながる。
本に書かれているように「建白の出発点は、明治政府内部の権力争いから生まれた、政争の道具だった」というのは、あーそうだったのか!という感じだ。
とはいえ、建白によって、一般の人々が広く議論をかわすきっかけとなり、TN君がはじめた私塾も大いに盛り上がることになる。


物語の中で、次に岩倉が「天皇の意志」を使うのは、大久保利通暗殺後、伊藤博文が内閣を仕切るようになっていた頃、東洋自由新聞に対してだ。
東洋自由新聞は、既にルソー「民約論」の翻訳で有名になっていたTN君が社説を書き、TN君がパリから呼び寄せた西園寺公望(「日本のミラボーフランス革命で貴族ながら庶民の立場で運動した)」になろう!と口説かれた)が社長を務める。
社長が名家の公家ということもあり影響力が強く、それによる民権運動の盛り上がりを恐れた政府は、西園寺を新聞から切り離そうと手を尽くす。
色んな脅しの手を使っても屈しない西園寺。しかし、「天皇の意志」には折れてしまうのだった。

結局、西園寺は、天皇の意志という言葉から自由になれなかったのだ。
当時でも、天皇の意志にそむく罰というものは法律になかったのだが。p247

結局、西園寺退社に関する国の圧力の公表をめぐる厳罰等をきっかけに新聞は廃刊になる。


廃刊の3か月後に大きな出来事が起こる。
北海道開拓使の官有物払い下げのスキャンダルだ。政府の中で孤立しかけていた大隈が新聞社に漏らしたこの事実に日本中は怒り心頭。(『青天を衝け』でもその様子が見られた。)
盛り上がった反政府運動に対して、伊藤、岩倉らは、開拓使官有物払い下げの中止と、国会開設の詔勅(10年後の国会開設を約束)、また大隈重信を辞めさせることを決める。(明治14年の政変
この後の動きを見ると、この詔勅が非常に有効な「天皇の政治利用」だったことがわかる。
詔勅のアイデアを出したのは、TN君が以前から警戒していた井上毅(こわし)。
TN君の伊藤博文井上毅評が印象的だ。

伊藤博文、彼は小賢しいだけの男だ。有能な役人だが、大臣の器じゃない。彼の権謀術数は、下手な魚釣りだ。(略)
まじめで横着でなくて、ずうずうしくない人物は、日本で二人しか見たことがないが、その一人が井上毅だ。p276

井上の書いた意見書の内容とその背景解説が、詔勅の意図を理解するのに分かりやすい。

「この人心動揺の際、詔勅を出しても、挽回はおぼつかない。言い換えれば、人心の多数を政府に籠絡することはおぼつかない。
しかしこの詔勅は、たとえ、急進派をしずめることができなくとも、十分に中立派の気持ちを鎮めることが出来る。全国に中立派は多い。今、詔勅を出さねば、これらの中立派まで急進派にさせてしまうだろう。この詔勅を出せば、中立派、急進派の色分けが、はっきりつくはずである。そこで、孤立した急進派だけを潰せばいい」
詔勅は、こうして井上の意見を聞いて出されたのであった。井上の頭の中では、天皇も、詔勅も、全く政治の道具だった。井上は、自分では天皇の権威を全く信じていなかった。だが、反対派の中に潜んでいる天皇の権威に対する弱さを、完全に読みとっていた。(略)
詔勅が出て10日もすると、板垣派の人たちは、大隈派の人たちを抜きにして、急いで自由党をつくり、役職をほとんど独占してしまった。後から参加してもいいという態度はとったが。(略)
こうして、板垣たちは、井上の思った通り、自分たちで、国会期成同盟に集まっていた者を、急進派と穏健派に色分けしてしまったのだ。
政府は機を逃さず、自由党の弾圧を始めた。集会条例を強めて、全国組織が作れないようにし、新聞条例も厳しくして、新聞が政府の批判を出来ないようにした。p278

ところで、この本を読むと、(板垣死すとも自由は死せず!の)板垣退助が「自分たちが努力して広めてきた自由民権の運動の成果を大隈たちに横取りされたくなかった」政治家であることがよくわかる。
さんざん批判した政府の藩閥政治をなぞるようなことをやっており、それと比べるとTN君は政争からは「自由」な立場で、あくまでも思想を広めることに努力したことが理解できる。

そして、結局、詔勅が出てから国会開設までの10年は、民権派の分裂(板垣率いる自由党と大隈率いる立憲改進党の対立だけでなく、自由党内部でも分裂が生じた)に乗じて、政府が根こそぎ弾圧してしまおうとする動きが続き、井上毅の意図通りの状態になったのだった。


天皇の政治利用ということでは、近年では、改元(昭和から令和)をめぐる流れにそれを感じる。井上毅が言うような「天皇の権威に対する弱さ」は、「令和だから」という何となくのお祭りムード(国への批判を許さないムード)作りに利用されていたのではないかと思う。

(2)言論統制

この時代の言論統制の状況は恐ろしいものがある。
時代はさかのぼるが、明治8年(1875年)に大久保利通は、国会を開く準備のために元老院を設け、地方会議を開くという約束をする。
その一方で新聞への締め付けを厳しくし、新聞紙条例の改定と讒謗律(ざんぼうりつ)というものを法制度上で決めてしまう。

讒謗律というのは、事実のあるなしにかかわりなく、役人の職務について悪口を言う者を罪にするというものだし、新聞紙条例の改定では、投書の文章を載せる場合でも、変名は許さず、住所姓名を書かねばならないとされていた。p158

こういった締め付けは大久保暗殺後、伊藤があとを引き継いでからさらに厳しくなる。
明治11年1878年)に伊藤博文が内務卿(今の首相よりも大きな権力があった)になって最初にやったのは、日刊新聞(「朝野新聞」)の発刊停止で、これは大久保でさえやらなかったことだという。また国会開設を求める人々に対し、逮捕、禁獄など厳しい処置を始めた。さらに、自由に集会も開けないし、政治団体を作ることも出来なくなった。(西園寺公望がパリから戻り東洋自由新聞が発刊になったのはその頃になる。)

そして、明治14年1881年)の国会詔勅のあとのいわば政府による自由民権派弾圧キャンペーンの中では、さらにレベルが増し、何でもありの状態になってくる。
以下は福島事件で河野広中(こうのひろなか)が受けた事例。

  • 何の理由もなく逮捕
  • (理由のないまま)半年拘留する中で罪を自白するよう拷問(毒殺すら計画)
  • 具体的な計画や行動の証拠がないまま、密告者の意見から内乱予備罪で起訴
  • 高等法院で検事は「内乱の陰謀が問題。陰謀とは、思想にまで立ち入って罰するものだから、別に行為があったかないかは問題でない」と説明。そして有罪の判決。
  • 7年の禁獄(当時の刑務所の衛生状態は最低で、獄死するものが多かった)(p284-286)

とにかく酷い状態で、各地で反乱も起きたという。(TN君で取り上げられるのは「加波山事件」、まんが日本の歴史で取り上げられているのは「秩父事件」)
行っていない犯罪で裁かれる、また、内乱の「予備」の段階で裁かれる、という点で思い出すのは、少し前に話題になった、いわゆる「共謀罪」の話だ。(共謀罪の創設を含む法律は2017年7月に施行されている)
日弁連のHPから問題点を引用すると

日本の刑法では、法益侵害の結果を発生させた行為(既遂)を処罰するのが原則です。ただ重大な犯罪については、結果発生の現実的危険のある行為を行ったが結果発生に至らなかった場合を「未遂罪」として、未遂にも至らない犯罪の準備行為は「予備罪」として、例外的に処罰しています。予備罪は例外中の例外です。ところが「共謀罪」は、277種類もの犯罪について、予備罪よりも更に前の段階の「計画」(共謀・話し合い)を処罰するもので、処罰の範囲を飛躍的に拡大するものです。
日本弁護士連合会:日弁連は共謀罪法の廃止を求めます

共謀罪は、「計画」(共謀・話し合い)と「準備行為」(銀行でお金を下ろす、下見をするなど)といった法益侵害の危険のない行為を処罰するものです。「計画」の対象となる犯罪には、マンション建設反対の座込みに適用される余地のある組織的威力業務妨害罪なども含まれています。そのため、通常の市民団体や労働組合等が処罰の対象となるおそれが否定できません。また、「組織的犯罪集団」かどうかの調査という名目で、警察などによる日常的な情報収集が広く行われるおそれもあります。表現の自由、とりわけプライバシーの権利をおびやかしかねません。
日本弁護士連合会:日弁連は共謀罪法の廃止を求めます

このあたりの文言は、話題になっていた当時はあまりイメージできていない部分もあったが、1880年代の弾圧の歴史を知ると怖さが倍増する。
最初に書いたようにこの頃に行われていた新聞への圧力という手法は、形は変わったが、安倍・菅政権が得意としてきた部分でもあり、このあたりはどうしても今の政治状況を想像せざるを得なかった。

(3)帝国主義の時代

伊藤博文の内閣は、反対勢力を弾圧しつくして、憲法発布まで、自由気ままに日を送ることができるかに見えた。しかし、思わぬところに、落とし穴があったのである。それは、条約改正の問題だった。p313

不平等条約についての諸外国との交渉はあと少しで調印できるところまで進んでいたが、そのタイミングで法律顧問だったフランス人のボワソナードが、条約改正が日本の損失になるので外交交渉を中止すべきと忠告して、それが漏れたのだ。
それまでの不満もあり、民権派が(1)言論の自由の確立、(2)地租軽減による民心の安定、(3)外交の回復(対等な立場による条約改正実現)を柱とした建白書(三大事件建白)を出すと多いに盛り上がる。
そして勢いをそのままに、反政府派の代表として、片岡健吉と星亨の二人が、1887年12月26日に伊藤博文に面会することとなった。
これは、どうなるのか!
政府、今回は負けを認めて建白書を飲むのか!!
…と読み進めると…


12月25日に政府は「保安条例」を出す。


保安条例について全く知らなかったが、この本でも説明が少ないので、Wikipediaの説明を引用する。

保安条例(ほあんじょうれい)は、1887年12月25日に制定、発布され、即日施行された勅令である。(略)
自由民権運動を弾圧するための法律で、治安警察法治安維持法と列んで戦前日本における弾圧法の一つ。集会条例同様、秘密の集会・結社を禁じた。また、内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規定に従って皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられ、3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止された。これにより退去を命じられた者は、12月26日夜から28日までに総計570人と称されている。この条例により東京を退去させられた主な人物には、尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民、片岡健吉、北川貞彦、光永星郎、中島湘煙、中島信行、横川省三、山本幸彦、岩崎万次郎、奥村多喜衛らがいる。

『TN君の伝記』によれば、「政府は、この建白運動の中心が高知にあると考え、東京にいる高知の人間は、誰もかれも退去させようとしたのだ。左官や大工を、自由党員から区別する暇が無かったのである」ということで、左官屋も東京を去るように命じられたという。

制定、発布、即日施行という専制的なふるまいも含め「保安条例」は衝撃的過ぎた。これがもしノンフィクションで、クライマックスでこんな展開になったら本を放り投げている。また、東京から離れることを命じる(しかも高知県民は)という特殊性は、桃太郎電鉄の特殊カードのようで、本当に現実世界で起きたこととはとても思えない。

さらにWikipediaにはこのように書かれている。

また、保安条例は拡大解釈によって、民間で憲法の私案(所謂私擬憲法)を検討する事を禁じた。結果、私擬憲法が政府に持ち寄られて議論されず、逆に弾圧の対象となったため、『大日本帝国憲法』には一切盛り込まれなかった。

これも酷い話で、国会開設の前提となるからとこぞって作成した、五日市憲法などの憲法草案がことごとく無駄になってしまうだけでなく、参考にすらしない政府が国民の意見を聞く気が全くないことがよくわかるエピソードだ。

保安条例を受け、TN君が活躍の場を大阪に移して、明治22年(1889年)についに伊藤博文らの手による大日本帝国憲法が発布となる。

TN君は、大体のところ、どのような憲法が出されるか、予測していた。そして、その予測を人に話したり、新聞に書いたりしていた。憲法は、ほとんど、考えていたものと変わりがなかった。確かに、思った通りでなかったところもある。そして、そこは、TN君が予想していたよりも悪かったのである。(略)
しかし、それからTN君の絶望的な活躍が始まったのだ。自由民権派たちは、一年後の国会を頭に置いて動き出した。p334-335

その年(1890年)に第一回の総選挙が行われ、周囲から押し立てられたTN君は代議士になる。しかし、政府が議会の解散をほのめかし、議員を買収することで、2度否決された予算案を通してしまうのを目の当たりにして絶望し、議員を辞職する。
さて、議員を辞めるも自由党の機関紙の主筆として運動を続けるTN君に対して世間の目はどんどん冷たくなっていく。

自由民権なんて、もう古い。日本の外を見ろ。今や帝国主義の時代だ。日本はいつまでも混乱を続けてはいられない。日本は、まとまって力を強めていかなければだめだ。国会を開いたばかりなのに国会をまともに運営できんようでは、世界に恥をさらすことになるぞ。p348

この後、自由民権の同志が政府から買収されていくのを悲しんだTN君は、結局は金が必要だと間違った方向に行ってしまい、さらに辛い状況になる。このあたりは読んでいて『あしたのジョー』のドサまわり時代を思い出した。


そんな中でも、国会は一部機能し、第四議会では藩閥政府が追い込まれる展開になったのだが、そんなときに日清戦争が始まる。そうなってくると、国会では、政府の攻撃をやめ、政府の提出する案件は、ほとんど審議もしないままに通る状態になってしまった。
愛弟子にあたる幸徳秋水がTN君に語った言葉が感慨深い。

藩閥政府は、これまで言論の自由を、法律だの条令だので、圧迫してきました。それでも、反政府派を黙らせることが、できませんでした。しかし、戦争が起こると、政府が何もしないでいても、あの勝った勝ったの熱狂が、ごくあたりまえの真実さえ言えないように、黙らせてしまうことが出来るんです。

このあと、明治33年(1900年)に、これまでずっと政府と敵対関係、というより弾圧を受け続けていた旧自由党憲政党)が、よりによって伊藤博文を総裁として新党・立憲政友会を結成する。政党ができても超然としているべき(超然主義)だと言った伊藤も、これからの政治では、政党を抜きにし、国会を無視しては行えないと考えるようになったことを意味しているが、これも驚きだ。TN君評では、「ただ小賢しいだけ」とされていた伊藤博文だが、勝つためには手段を選ばないしたたかさを感じる。


この状況を受けた幸徳秋水とTN君の対話が最終盤にある。

「どこがいけなかったのだ」
「先生は、理想ばかり見過ぎたのです。そして、相手を、つまり敵を見るのを忘れたのです」
「いや、わしは見ていたつもりだ」
「いいえ。確かに、先生は敵を見ていたでしょう。だが、それは昔の敵です。そして、敵が昔のままだと思い続けていたから、敗けたのです。先生は、伊藤をとりまく藩閥が敵だと思っていたでしょう」
「そうだ」
「しかし、その裏にもう一つの敵がいるのです。帝国主義という敵が。しかも、これは、先生の仲間たちの心の中でも育っていたのです。その敵を、はっきりと見届けないで戦っても、負けるばかりでしょう」
「それは、何だね。その帝国主義とは」
「それは、愛国心というやつを縦糸とし、軍国主義を横糸として織り上げた政策です。先生の敵としていた専制政府も、味方だった民党も、いつのまにか、その帝国主義におどらされている、操り人形にしか、過ぎなくなっていたのです」p378

これを読むと、国会開設後にTN君が言われた「自由民権なんて、もう古い。日本の外を見ろ。今や帝国主義の時代だ。日本はいつまでも混乱を続けてはいられない。日本は、まとまって力を強めていかなければだめだ。」という言葉の中にある「もう一つの敵=帝国主義」の強さがよくわかる。
そして、この空気は、与党の失政や汚職咎められずに温存されたまま、野党が「批判ばかり」と叩かれる現在の政治状況と似ているところがある。最初に挙げた「天皇の政治利用」もそうだが、日本における「お上意識」の強さは100年前も今も変わらない。

こういった「お上意識」のような精神的な縛りから外れることが、TN君の説く「自由」の本質にあったようだ。以下、同時代を生きた福沢諭吉と比較した部分、また、東洋自由新聞の第一号の社説から抜粋する。

TN君は、日本に自由な人間をひとりでもふやすことが必要だと考えた。しかし、その頃の啓蒙学者と呼ばれた、自由を説き、自由を教えようとした人々、福沢諭吉をはじめとした明六社の学者たちとは違っていた。TN君は、自由は人に説いて教えられるものではない、自由は抵抗の中で自覚されるものでしかない、と考えるようになっていた。
日本人が、英国風なマナーを身につけ、演説の技術を身につけ、討論採決し、それにしたがう訓練が十分にできたときが、日本に国会を開くに適当な時期だというのが、明六社の人たちに共通した考えだった。(略)
だが、TN君は、紳士のマナーなんて問題にしなかった。自由に生きることが第一だった。p164

TN君は、まず、囚われない精神、囚われのない思想を持つことを強調した。これがなくては、人間はたとえ自由を与えられても、自由になれない。精神の自由のないところに、自由を求める気持ちも起こらない、というのだった。
このことは、当時の自由民権家たちの忘れていたことだ。それは、国会が作られれば自由になる。さまざまな政治的な束縛がなくなれば、それでいいと、ただひたすらに政府を攻撃している人たちに、諭すような口調で書かれていた。縄をほどいてやったとしても、犬がすぐ自由になれるか。自我の確立のない人間は、根を切られた草や木も同然だ。この主張は、当時の若者たちの心を揺さぶった。p244

この本は、以上に、精神の自由、自我の確立を基礎として世の中を眺めるTN君の主張に共感して書かれた本だと感じた。
そして、それは、TN君という、権力の外側から明治維新、そして自由民権運動を生きた人の視点で歴史を見直したからこそ可能になったことだ。あとがきで、なだいなださんは、「見えないから歴史がないというわけではない」と言い、陰に隠れてしまったような人の伝記を「君たち」にもいつか書いてもらいたい、としている。
大河ドラマもそうだが、確かに、一人の視点で歴史を見る、ということは、教科書で勉強するのとは全く違う発見があることを身をもって感じる読書体験だった。これまで以上に歴史を題材にした小説や伝記を読む楽しみが増えたように思う。
また、今回、登場した人物たちの本も、新約版で読みやすくなっているので、そちらにも手を出してみたい。