Yondaful Days!

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中絶のスティグマを減らす方向に舵を取らない日本~塚原久美『日本の中絶』

小説『僕の狂ったフェミ彼女』で取り上げられていて気になった「中絶」の問題。
もう少ししっかり勉強したいと思って読んでみたのが、今年8月に出た本書。

目次は以下の通り。

  • 第1章 なぜ中絶はタブー視されるのか
  • 補論1 刑法堕胎罪と母体保護法
  • 第2章 日本の中絶医療
  • 補論2 日本の中絶方法の特殊さ
  • 第3章 中絶とはどういう経験か
  • 第4章 安全な中絶
  • 補論3 中期中絶とはなにか
  • 第5章 性と生殖の権利
  • 補論4 経口中絶薬をめぐる情報
  • 第6章 これからの中絶
  • 補論5 不妊治療の保険適用


著者の塚原久美さんについては、Amazonに説明のある内容が詳しい。

著者は20代初めに人工妊娠中絶と自然流産を経験し、長いあいだ心理的に苦しめられた経験から、中絶をめぐる諸問題に取り組むようになった。フリーランスで翻訳とライターの業務に従事してきたが、30代の終わりに出産することを願うようになり、軽い不妊治療を受けて妊娠し、出産に至る。助産院での出産とその後に巻き込まれた男性助産師反対運動を経て、リプロダクティブ・ヘルス&ケアの問題を痛感するようになる。
パートナーの転職で石川県に移り住み、金沢大学大学院に入学。子育てをしながら、中絶問題に関してジェンダーの視点で医療史、歴史学、法学、倫理学等にまたがる学際研究を行い、2009年に博士号(学術)を取得した。博士論文を加筆修正した『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ』を刊行し、山川菊栄賞とジェンダー法学会西尾学術賞を受賞。その後、金沢大学や放送大学等の非常勤講師としてジェンダー関連講座を担当するほか、数々の講演会や記事執筆、RHRリテラシー研究所の設立などを通じて、リプロダクティブ・ヘルス&ライツや中絶問題の改善に努めている。


塚原さんが自身が苦しんだ経験から中絶問題について研究し、問題についてリプロダクティブ・ヘルス&ライツの観点からアプローチしているのがこの本ということになる。

今回は、感想というよりは学んだ事実について整理していく。
まずは、中絶の「方法」の歴史について。

  • 海外では1970年代に掻爬法から吸引法に一気に置き換えられたが、日本では現在でも過半数の中絶手術で掻爬法が用いられている。そもそも掻爬法は、海外では、1970年代の中絶合法化以前には違法の堕胎師が行っていた安全性の低い方法である。
  • 経口中絶薬は1980年代に開発され、当初懐疑的に見られていたが、長年の研究の結果、2003年にWHOガイドラインの「安全な方法」に(吸引法による外科的処置と並んで)指定。2012年のガイドライン2版でも安全性が再確認。掻爬法は「安全性の低い廃れた方法」とされ、使われている場合は切り替えが勧告される。
  • FIGO(国際産婦人科連合)では、2020年にはパンデミック下では経口中絶薬のオンライン診療による処方を導入し、遠隔医療による自己管理中絶を恒久化すべきだと宣言。

ところが、日本においては、経口中絶薬をすぐに導入できない。
本を読むと、「保守的」な議員や、中絶手術を食い扶持にしている一部の医師などが世界的な流れに乗らないように歯止めをかけているような状況にある。

  • 日本では、1948年の優生保護法(96年改定で母体保護法)制定と改正を経て、他国に先駆けて事実上中絶を自由に行える国となっていた。反対に1970年代になるまで中絶が原則禁止となっていた欧米からは「中絶天国」と呼ばれていた。
  • 1970年代に入り、欧米で中絶を女性の権利として認めるのと反対に、日本では「実質的な中絶の自由」に対する逆風が強まり、一方、オカルトブームの中で「水子」という言葉がもてはやされる。商業主義的な水子供養キャンぺーン*1や保守的な議員らが中絶を「女性の罪」「母の罪」として女性を糾弾し、中絶のスティグマが強まる。
  • 1994年のカイロ会議で「リプロダクティブ・ヘルス&ライツ」が定義され、日本にも「ジェンダー」などの概念が紹介されたタイミングで、2000年代前半の「性教育バッシング」「ジェンダーバッシング」によって状況は一転。性教育の代わりとなった「いのちの教育」では中絶への罪悪感を増幅するような内容が教えられるようになった。

日本はことごとく世界の流れと逆行していることに驚くが、この問題について触れる度に、何故まだ?と思ってしまうのは「堕胎罪」についてで、本書では、女性の権利の観点から、堕胎罪の撤廃について何度も書かれている。

日本も批准している国連の女子差別撤廃条約では、女性にのみ刑罰を科す法律を禁じており、堕胎罪の撤廃は世界の本流です。カトリック教徒が人口の大半を占めるアイルランドでさえ、2018年に国民投票で中絶が合法化されました。そして、第二次世界大戦後、日本の制度を真似て堕胎罪を制定していた韓国でも2021年の1月1日から堕胎罪が無効となっています。
日本も批准している国連人権規約にも、「女性と少女の中絶の権利」(社会権規約、2016)、「女性と少女の中絶に関する自己決定を妨げられない権利」(自由権規約、2019)が明記されました。世界では「女性の中絶の権利」はすでに確立しているのです。
刑法堕胎罪とスティグマのために「中絶は罪」という意識が根強くあり、法外な料金設定でアクセスが妨げられているいまの日本では、中絶の権利が守られているとは言い難い状況が続いています。しかも日本では、法外な値段をつける「中絶ビジネス」とでも言うべき事象が起きており、女性や少女の中絶へのアクセスが阻まれているのです。p200

刑法堕胎罪を100年以上にもわたって維持し、中絶に関する配偶者同意要件を70年間にもわたって保持してきたことにも表れているように、日本政府は女性の権利侵害を無視してきました。さらに女性のRHRを改善する国としての義務も放棄し、「自由診療」の名のもとに医師が暴利をむさぼることができる制度を等閑視してきたのです。p230


強く感じたのは、これも文章中で何度も繰り返される「中絶のスティグマ」。
この中で、近年カトリック国でも次々と中絶が合法化されているのは、経口中絶薬の導入で中絶観が様変わりしているから、という指摘が興味深かった。
日本では「掻爬」の「掻き出す」イメージが中絶のスティグマ化を助長しているが、それに対して経口中絶薬であればイメージ的にも随分受け入れやすい。
技術の進化によって、倫理観も変わって来ているということがよく理解できる。と同時に、経口中絶薬へのアクセスに制限をかけ続ける日本政府と、掻爬法にこだわる日本の医療業界は、まだまだ中絶の罪悪感を温存したいのだな、と思ってしまう。
さらに、そもそも根本的には「堕胎罪」をなくさなければ、(たとえば中絶薬へのアクセスの方法によっては)中絶は「罪悪感」ではなく「罪」そのものということになってしまうのはおかし過ぎる。憲法改正にこだわるよりも、100年以上に作られた時代遅れの法律改正に力を入れて欲しい。


そんな視点で政府の女性政策のニュースを見ると、白々しく映ってしまう。

ジェンダー平等への課題や女性活躍の取り組みを議論する政府のシンポジウム「国際女性会議WAW!」が都内で3日開かれ、「新しい資本主義に向けたジェンダー主流化」をテーマに議論が交わされた。開会式で岸田文雄首相は「女性の経済的自立は(政権が掲げる)『新しい資本主義』の中核だ」と述べ、すべての分野で女性の視点をとり入れた政策づくりを進める考えを強調した。
岸田首相「女性の自立は『新しい資本主義』の中核だ」 国際女性会議 [岸田政権]:朝日新聞デジタル

いいこと言っている風の「女性の視点をとり入れた政策づくり」などというアピールは、女性の人権侵害を無視している状況では、素直に受け取れない。
もちろん、国会で、人権の概念を理解していると感じられない国会議員*2に総務政務官を任せ「適材適所」と言い切るのが岸田首相なので、「やる気がない」ことは分かっているが。


なお、本書では、主に5章で、女性の権利、性と生殖の権利について、歴史を辿って説明があり、リプロダクティブ・ヘルス&ライツについても理解が進む。
中絶については、今年6月にアメリカの最高裁で過去の判決が覆され、中絶の権利が狭められる方向に向かったことが話題になったように、「考え方はそれぞれ」という部分もあるのだろうと何となく理解していたが、世界の趨勢はそうではなく、女性の人権を尊重できるよう法と医療を整備する方向に向かっていることがわかった。
これに限らず日本政府の政策を評価しようと思えば、国内外の状況について広く目を向けて勉強する必要がある。
…と書いていて、それは面倒くさいな、と思うのと同時に、知ることが出来て良かった部分も当然大きい。
選挙など政治参加できる場で正しい選択をするためには、後者の気持ちに目を向けて勉強を続けるしかない。

参考(過去日記)

pocari.hatenablog.com

*1:つまり水子供養は昔からあるものではなくこの時期に作られた風習

*2:「日本に女性差別というものは存在しない」というかつての自身の発言に対して「命に関わるひどい女性差別は存在しないという趣旨だ」という答弁をする杉田水脈議員。問題発言を指摘されてそれを撤回せずさらに新たな問題発言を繰り出し、増え続けるばかり。「適材適所」がゲシュタルト崩壊してきています。