Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「フラグ」に逆らって生きる~大森立嗣監督『星の子』


今村夏子『星の子』は、自分にとって衝撃をもって受け止めた作品だけに、映画では、どのように改変されているのか?そして芦田愛菜はどう演じているのか?
色々と興味を持ってみた映画だった。
そして、同時期に読んだ今村夏子『こちらあみ子』が、『星の子』以上に弩級の破壊力があり併せて感想を書こうと思ったが、長くなり過ぎたので、二つに分けて、まずは映画『星の子』の感想から。

キャスト

映画『星の子』は、本当にキャストが良かった。
実質的に芦田愛菜の映画とも言えるが、両親を演じた原田知世永瀬正敏は、新興宗教にハマりながら、それでも「我が子のため」がまさって見えるギリギリのラインを演じている。
岡田将生の、憧れの南先生は、冷たく意地悪な性格を原作通りに演じた。『大豆田とわ子と三人の元夫』を見て「あの感じ」いいじゃん!と思ったので、それとのギャップが良かった。
ちひろを両親から引き離そうとする雄三おじさん(大友康平)も良かったし、宗教団体幹部の海路さん(高良健吾)、昇子さん(黒木華)の裏のありそうな善人ぶりも素晴らしい。
そして何より、小学生時代のちひろ役を演じた粟野咲莉(あわのさり)と、そして姉のまーちゃん役・蒔田彩珠(まきたあじゅ)が良かった。蒔田彩珠は、朝ドラ『おかえりモネ』で清原伽耶の妹役を演じた人だが、本作では短い出番ながら印象に残る演技で巧い。


芦田愛菜ちひろは、小説に比べると、両親に対する「配慮」を強く感じさせる。中学3年生にしてはとても大人だ。自分が親からどれほど愛情を受けて育てられているのか認識しており、周囲が両親をどう見ているかも理解しつつ、両親を「非難する側」にはならず「守る側」に立とうとする。
両親を守ろうとするちひろの姿勢が小説より増して感じるのは、台詞が追加されているというよりは、芦田愛菜の演技ゆえだと思う。

突然のアニメシーンを除けば、映画は、非常に原作に忠実な作品だ。

小説を読んだ直後は、これを映画でやるなら、ラストを変えるか、イベントを増やすなどの改変を入れないと、ポカーンとしてしまう、と思っていたが、芦田愛菜の演技がそれをカバーしていると思う。それほどに彼女の演技は大きな位置を占めていた。

信じる

この映画で有名なのは、完成報告イベントで「信じる」ことについて訊かれたときの芦田愛菜の受け答えだろう。映画を観ていなくても、このやり取りを知っている人は多いはずだ。

『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて


だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど


でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました

そうか、「信じる」というのがキーワードなのか、あまり気がつかなかった…。
と思って公式サイト(https://hoshi-no-ko.jp/)を見ると、皆が「信じること」について語っている。
大森監督は次のように語っている。

『星の子』という小説を読んで思ったのは、
自分のことを置いといてでも人を思う気持ちです。
敏感で多感な14歳の少女は風に揺れながら
飛んでいってしまいそうな小さな体で立っています。
それでも自分のことのように人を思うのです。
これなんだろう? と思ったら、優しさでした。
この映画が清涼な一陣の風のように、
皆さまを優しさで包み込むようになればと思っています。

つまり、映画を見て感じた通り、映画は小説の中の、ちひろの「優しさ」に寄せて物語を組んでいるようだ。ほかの出演者(芦田愛菜以外)のコメントも監督に近い内容を語っている。
その意味では、公式サイトにおける原作者・今村夏子のコメントは、少し浮いている。

この小説を書いた後、私の信仰の有無について訊かれる機会が何度かありました。信仰に限ったことではありませんが、私は「信じる者」でも「信じない者」でもありません。「信じたいのに、信じることができない者」であり、「信じていたことが、だんだん信じられなくなってくる者」です。信じる、信じない、の狭間にあるこの物語を、映画という形で味わえること、とても楽しみにしています。

自らを「信じたいのに、信じることができない者」「信じていたことが、だんだんと信じられなくなってくる者」と説明し、この作品を「信じる、信じないの狭間にあるこの物語」とまとめていることを見ると、今村夏子の視点は、大森監督とは違って「信じられなくなる」方に寄っていることがわかる。
また、文庫巻末の対談で、今村夏子が別の結末として話をしていた「海路さんと昇子さんに絡めとられていくラスト」を考えると、中学3年生までのちひろは、両親を信じようとする立場にいるが、その後、どんどん「信じられなくなる」側にいく。そのギリギリのラインを描きたかったのが、この作品なのだと思う。
昇子さんとの別れ際の会話のやり取り(映画独自と思う)を見ると、映画の方でもわずかながら、この「別のラスト」を示唆している部分があり、その意味でもやはり原作に忠実と言えるかもしれない。


芦田愛菜の言うことはつまり、「信じる」には2種類あり、強い自己を確立できていれば「(裏切られても)思いが揺るがないこと」を示すが、確立できていなければ「希望」でもあり「強がり」でもある。
それほど強くないほとんどの人にとって「信じる」とは後者を指すことになるだろう。そしてそれは、今村夏子の表現したかった「信じ切れない」  を上手く汲み取って回答しているとも言え、考えれば考えるほど芦田愛菜の頭の良さが目立つやり取りだった。

フラグに逆らって生きる

まだ見ぬゴールに向けての決断は、その時点では是非が判断できない。
小説には終わりがあって物語が進行することがほとんどだから「伏線」や「フラグ」みたいなものを意識しがちだが、現実にはそんなものはない。
『星の子』という小説には、読者目線では「フラグ」的なものがたくさん立っているが、ちひろには全てがわかるわけではない。ラストシーンの時点でちひろが「信じる」ことを選ぶのは、ちひろの目線では当然で、映画では芦田愛菜が「フラグ」にさからって生きる様子が強調され、むしろそこに強い意志を感じた。だから、このエンディングはこれでいいのだ。

映画や小説などの作品を見るときに、自分は、ハッピーエンドかバッドエンドか、という要素を気にし過ぎているのかもしれないと気づかされた作品だった。

見たい映画

芦田愛菜は、ついこの前やっていた『メタモルフォーゼの縁側』。原作は1巻のみ読んだけど、合っているように思う。


蒔田彩珠の演技が見たい!と考えると…

志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は、南沙良蒔田彩珠のダブル主演のようだ。志乃ちゃん役の南沙良は『鎌倉殿の13人』の大姫役ということで、まずこれが見やすいか。(原作は読みました)

『朝が来る』も、映画公開時からテーマ込みで気になっていた作品。辻村美月の原作は未読なので、原作を読んでからチャレンジかな。監督が河瀨直美であることは知らなかった。東京オリンピックの前の作品ということになるのか。