Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

原作小説の「アンチ多様性」要素は映画でどう表現されたか~岸善幸監督『正欲』

原作小説を読み返して

今回は、映画公開に備えて原作小説を読み返してみると大きな発見があった。
前回読んだときの感想は、その後、ビブリオバトルで発表することも考慮して、後半部のストーリーを避けるようなまとめ方をしていた。
pocari.hatenablog.com

しかし、自分の書いた感想に引っ張られ、世間一般に溢れる「多様性」へのいら立ち、いわば「アンチ多様性」(冒頭の佐々木佳道による文章など)が物語の根幹だと勘違いしたままになっていた。背表紙にも引用されている諸橋大也の台詞が「アンチ多様性」の典型だ。

自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して秩序整えた気分になってそりゃ気持ちいいよな

確かにその部分は核にあるのだが、後半のクライマックスにある「小説的大逆転」こそが作者の伝えたいメッセージのはずだ。それも含め、今回、全体として、朝井リョウがこう読ませたかった設計図が理解できた気がした。
この小説の「設計図」はこんな感じではないだろうか。

  • 対象読者層はA,B双方を想定している
    • A.多様性への配慮は不要と考えるマジョリティ層(いわばアンチ「マイノリティ」)
    • B.多様性の重要性について理解しつつも、「多様性」「ダイバーシティ」などの言葉をもてはやす世間に対する違和感を持っている層(アンチ多様性)
  • 作中でも、Aの考え方をする代表として検事の寺井啓喜を配置。多数派こそを良しとする彼の考え方は、息子の不登校に柔軟に対処しようとする妻からも否定されるが、日本社会においては一般的な考え方。
  • 次に、Aだけでなく、(マイノリティに比較的理解がある)Bにとっても理解しづらい特殊なマイノリティとして、桐生夏月、佐々木佳道などのメインキャラクターを配置し、日常的に感じている疎外感に繰り返し触れ、彼らに感情移入(もしくは考え方を理解)してもらう。
  • 一方で、Bの層が違和感を覚える「世間」を擬人化した存在として、八重子やダイバーシティフェスの関係者を配置し、過剰に「アップデート」等の言葉を語らせ、代表的存在である八重子に苛々が募るように仕掛ける。(ミスリーディング)
  • このお膳立てが済んでから、考え方の異なる登場人物群の直接対決として諸橋大也VS神戸八重子を描く。女性に興味がない大也をゲイだと決めつけて上から目線で理解し、受け入れようとする八重子。そういった態度で接してくる世間に対して苛立ちが募る大也。
  • …という流れで物語を理解させ、全体的な流れとして、「多様性」をもてはやす世間=八重子に一泡吹かせる展開かと思いきや、大也は八重子の反撃に遭い、その後はノーガードの応酬が続き、「多様性を考える」とはどういうことか、1レベル深い階層に読者の思考を促す。この小説の一番のクライマックス。ここは言うなれば「アンチ多様性VSビヨンド多様性」。
  • 一方、考え方の異なる登場人物群の直接対決のもうひとつは、寺井VS夏月。マイノリティを「異常」と捉える意固地な寺井が少しずつ考え方を変えるように見える場面。ここはシンプルに「マジョリティVS超マイノリティ」の対決だ。


前回読んだときは、佐々木佳道や諸橋大也の台詞に協調する部分が多かったこともあり、過剰に佐々木、夏月、諸橋のマイノリティ・グループに肩入れした感想を持ってしまった。それだけに、読み返してみて、マイノリティではない八重子の反撃のインパクトについて驚いた。
八重子は、「誰も傷つかない多様性」ではなく、ノーガードで撃ち合い、お互いが傷つく、いわば「ビヨンド多様性」(理想の多様性)を志そうとする。
これこそが、原作小説の到達点と考える。

「苦しみには色んな種類があってさ、みんな自分の抱える苦しみに呑み込まれないように生きていきたいだけじゃん。私たちがそうすることで何かが脅かされるって言うんだったらさ、教えてよ。話してよ。何なの、俺らの気持ちわかるかよとか言って閉ざしてさ。わかんないよ。わかるわけないじゃん。わかんないからこうやってもっと話そうとしてるんじゃん!」

「ほっといてくれとか言うけどさ、そんなのそっちの勝手な論理だから。あんたがどんな性癖か知らないし、迷惑かけないようにしてきたつもりかもしないけど、それでも規制されたんだったらどっかで誰かを一方的に消費してたんじゃないの?対等じゃない部分があったんじゃないの?」(p450)

「面倒くさいなーもう!」
その声は、自転車のベルよりも、車のエンジンよりも、開閉するポストの扉よりも何よりも大きく住宅街に響き渡った。
「何から話していいのかわからいなら、何からでも話していこうよ!もっとこうして話せばよかったんだよ、きっと。私も色々勘違いしてたし、今でも誤解してることいっぱいあると思う。でも、もうあなたが抱えてるものを理解したいとか思うのはやめる。ただ、人とは違うものを抱えながら生きていくってことについては、きっともっと話し合えることがあるよ」(p458)


東畑開人による文庫解説は、こういった構造も含めて神がかり的にわかりやすい内容で素晴らしい。ここでは、『正欲』の「小説的逆転」を2段階(東畑開人いわく「小説的逆転」「小説的大逆転」)のものとして説明される。

  1. 夏月と佳道が共同生活を始めることで、死にたかった2人に、今まで小さな「正しさ」が発生し、「明日死なないこと」を思う気持ちが芽生えてくる。
  2. 同様に、(世間に背を向け)同じグループでの「正しさ」を築こうと決めた大也に、つまりは「小さな世界に閉じこもろうとする」大也に、八重子がストップをかけ、「もっと話し合えることがある」と、「その先」(ビヨンド多様性)を促す。

言われてみるとその通りで、佳道・夏月の見つけた「正解」があるからこそ、それを良しとしない、大也VS八重子の話が光る。さらに言えば、この2つの「逆転」のあとに、佳道と大也の逮捕、という「大大逆転」というか絶望(=「正解」を打ち砕く現実の理不尽)が待っているところが、朝井リョウの意地悪なところだ。


映画を観て

映画化の話を聞いたとき、相当映像化に向かない作品だがどうするのか?と感じた。
この映画のチャレンジは大きく2つある。

  1. 主要キャラクターたちの「特殊な性癖」をどのように表現するのか?
  2. 映画オリジナルのアレンジをどう加えるのか?
  3. 限られた時間で、原作小説のメインテーマである「アンチ多様性」を表現するのに、どのエピソードを切り捨てるのか?

映画を観てみると、1つ目については、ほとんど違和感がないほど、「そういう人たちがいるもの」と感じさせる映画になっていた。


2つ目がかなり驚いたのだが、ほとんど映画オリジナルとして目立つ部分はなかったのではないか?原作との違いは、ほとんどが引き算(省略)で、足し算の部分は非常に少なかった。


そして3つ目。ここについて長く書く。
結論を言うと、映画は、「アンチ多様性」にそこまで重きを置かない。
つまり、原作で描かれた2つの対決のうち、寺井VS夏月をクライマックスに持っていき、それが映えるような映画となっている。
結果として、原作小説であれだけ読者を苛々させた八重子が映画に出演している意味がかなり薄くなってしまった点が残念だ。
大也VS八重子の対決は描かれていたが、原作の迫力はなく、どれだけの人に伝わっただろうか。


パンフレットを読むと岸監督のインタビューには以下のように書かれている。

啓喜役を演じてくれた稲垣吾郎さんに最初にお会いしたとき、こう伝えたんです。「啓喜はいわゆる大多数の側の人です。もしかしたら、マジョリティーとして観客にいちばん近い感性かもしれません」と。「観客は、初めは啓喜の感覚で観はじめるかもしれないけど、そのうち啓喜のほうがおかしいんじゃないかと見えてくる作品にしたいです」と。

また、稲垣吾郎のインタビューにもこう書かれている。

岸監督と最初にお会いしたときに、観客の大多数が啓喜に感情移入して、最後に価値観を揺り動かされるような役柄だと説明してくださったので、その過程を繊細に演じられたらいいなと思っていました。

これらを読むと、やはり、映画は、「マジョリティの観客」に対して、「夏月VS寺井」(マジョリティVS超マイノリティ)の対決を通して、多様な人の存在を理解し、想像してほしいという意図で作られているようだ。

少し話がずれるが、映画を観た感想としては、映画内での寺井(稲垣吾郎)は序盤から「家族への理解がない頭の固い父親」として描かれており共感しづらく、「観客の大多数が啓喜に感情移入して」見る状態になったのだろうか?とも思う。
原作小説では、最初はもっと寺井に感情移入しながら読んでいた。
というのも、(非常に細かいことで、どの程度理解が得られるかわからない個人的な感覚だが)最初に登場する小学生Youtuberについては、おそらく原作小説で意図され、読んだ人の大半が重ねるのは、実在する有名な小学生Youtuberだからだ。自分の子どもが、小生意気な「あの小学生」の影響を受けるなんて許せない(笑)と感じた自分は、寺井に共感していた。

映画では、小学生Youtuberが、優しそうな小学生女子なので、やや息子の泰希の肩を持ってしまう。そして、泰希役の子の演技が非常に巧かったこともあり、寺井には初登場時から共感できなかった。


なお、原作小説では、夏月の事情聴取中に、寺井が前日の妻子とのやり取りを思い出す描写が挟まれる。
これに対して、映画では、寺井と夏月は、聴取前に街なかで偶然出会っていて、その際に、妻が子どもを連れて実家に戻ってしまったことを話すくだりが追加になっていた。ここは、独白や回想シーンを入れるよりもよほど良いアレンジだった。
一方、ラストで夏月が寺井に「いなくならないから、って、伝えてください」と伝言を託すのを聞いて驚いた表情をするのは、(原作通りだが)事前に佳道から同じ言葉を聞いている状況が描かれないと意味がわからないように感じた。


原作小説では、寺井の心の揺らぎは、窃盗壁を治療する精神医療センターの見学の場面や、自身の変わった性欲の振り返りなど、多くの場面を経て、それでもなお「自分が正しい」と、弱い自分を打ち消すような様子が段階的に描かれている。

映画では、そのような場面は最小限に抑えられている。それでも、稲垣吾郎の演技に「逡巡」が表現されており、この映画でのベストアクトの新垣結衣演じる夏月との対決場面は、非常に多くのことを考えさせるシーンになっていった。


と、ここまで、監督が「マジョリティーとして観客にいちばん近い感性」があると考えた寺井について書いてきたが、やはり、問題にしたいのは、大也と八重子の方だ。
原作小説における、読者の八重子に対する感情は、寺井に対するそれと同様に両面がある。
素直で真面目で好感を持てる要素も多い反面、考え方に「お花畑」的なところがあり、その真面目さに苛立ちを感じさせる。それは、まさに大也が八重子に抱く苛立ちで、原作小説の核にあった「アンチ多様性」(=世間に溢れる「多様性」への苛立ち)と同根のものだ。
映画でも、本来それが表現されて然るべきだった。
最も問題なのは、八重子の外見や所作。映画の中での八重子は、かなり挙動不審で、表情も魅力的には描かれない。
小説ではダイバーシティフェスに関わることで彼女自身が成長し自信を持っていく様子が描かれていたが、それも省かれているため、初見の観客にとっては、正体不明の謎の女性で全く共感できない。共感した上での苛立ちも感じない。


したがって、大也VS八重子の対決にはあまりスリルを感じない。原作では、大也からの「インスタへの匿名リクエストはあんただよな」という指摘は、八重子の反撃のあとの「ノーガードの応酬」部分に置かれているが、映画版では、大也のバイト先(対決の前のシーン)と改変されているのも謎だ。
この改変で、八重子が、より共感できない「キモい」だけの人になってしまった。

さらに、大也がゲイなのでは?という噂が仲間うちで広がるエピソード*1が省かれ、「水フェチ」であることが比較的早い段階で明かされるため、2段階で「逆転」が生じる原作の良さが表し切れていない。


繰り返しになるが、やはり映画として、桐生夏月、佐々木佳道、諸橋大也3人の特殊性癖を映像として見せることを第一優先とし、最大の見せ場を「桐生夏月VS寺井啓喜」とすれば、大也、八重子のエピソードは省略せざるを得ない。
結果的に、映画は、小説のダイジェストにはなっているが、小説を読んでいない人には、作品に八重子がいる意味が理解できないだろう。
小説での八重子への応援と苛立ちの両面の感情が爆発するクライマックス。あれが映画で体験できなかったのは本当に残念だが、新垣結衣の鬼気迫る演技を観られただけでも満足するべきなのだろう。

役者陣

やはりこの映画は新垣結衣の映画だと思う。
冒頭の食事シーンから無表情。いわゆる「目が死んでる」表情。
デパートで布団を売っているときの声も低いし、Nintendo Switchの宣伝に出ている彼女とは全くの別人。「座敷女」のような背の高い怖い女性。
それが、佐々木佳道と出会い、「明日死なないこと」を考えるようになってから表情が和らぎ、一気に「いつものガッキー」に近付いていく。
だからこそ、最後の寺井との対決シーンの無表情の復活が「強い」。
「有り得ない、ですか」と、怒りというより失望を込めた寺井への言葉が、とても重く響く。
なお、そんなガッキーの高校生時代を演じた方も、ガッキーに似ているわけではないが、「夏月」として説得力があり、とても良かった。


そしてやっぱり神戸八重子役の東野絢香
原作小説を読んでいれば、そのバックグラウンドを彼女に重ねることもでき、大也との対決シーンもある程度までは気持ちを盛り上げることができた。
しかし、やはり映画では、彼女の暗い部分に焦点が当たり過ぎて、原作小説にあった、彼女の前向きな(だからこそ苛々させる)部分が削ぎ落されてしまっていた。(彼女もまた「座敷女」だった。)
ここは、役者というより演出の部分だと思うが、本当に残念。

そのほか

パンフレットが必要最小限過ぎて、やや残念でした。
また、劇場で、よくわからないところで笑っている人がいて、何というか、色んな人がいるな、と思いました。


*1:ここで、大也が「例のプール」を知らないことからそんな噂が広まる、というエピソードは、すごいところ突いてくるな!と驚いた。