Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

世界は変わる、変えられる〜ドキュメンタリー映画『燃えあがる女性記者たち』

ドキュメンタリー映画ではあるが、キャラクターが立っており、その特殊な状況から、メイン登場人物たちが、最後まで無事でいられるのか、ハラハラしながら観た。
映画で特にスポットが当たるのは、新聞社「カバル・ラハリヤ」のミーラ、スニータ、シャームカリの3人の女性記者。監督(インドの映画製作者リントゥ・トーマス&スシュミト・ゴーシュ:夫婦2名での共同監督)は、3人について独占的に撮影する契約を交わしてから、4年をかけて撮影をしている。

  • 映画の実質的な主役であるミーラは、紙媒体からデジタルに移行するプロジェクトのリーダー役で、子育て、家事もこなしながら、あちこちを飛び回る。
  • スニータは有能な若手記者。他の2人と違って未婚だったが、終わりの方で結婚に関するエピソードが出てくる。インドでの結婚観、女性の悩みがよくわかる話だった。
  • 3人目で一番地味なシャームカリは応援したくなるタイプ。最初「スマホの触り方がわからない」と言っていたが、その後、そもそもアルファベットが読めない(ヒンディー語しかわからない)ので、全部英語のスマホに対応できないことが明かされる。その後、メキメキと力をつけ、難しい取材もこなせるようになる。

被差別カーストの問題

今回、「インドの女性新聞記者を扱ったドキュメンタリー映画」という認識で観に行ったのだが、映画内の説明で、彼女たち(の大半)が被差別カースト(ダリットもしくはダリト)出身であるという、さらなる追加要素を知る。
ダリットはインドのカースト制度のさらに外側(最下層)に位置する身分。以前読んだ本(『13億人のトイレ 下から見た経済大国インド』)でも言及があり、そこでは、下水道やトイレの清掃の職にしか就けない、というような書き方がされていた。新聞記者のような職業選択が可能というイメージが全くなかったので、まずそこに驚いた。
ところが、パンフレットを読みさらに驚く。ダリットはインド人口の16.6%を占める(2011年国勢調査*1というのだ。インドの2011年人口12.6億(2023年では14.3億人!)で計算すると、ダリットの人がおよそ2億人もいることになる。
前述の本には「インド全体で16万人の女性たちが、(労働環境が一番厳しい)乾式トイレの清掃に従事している」という記載があったが、そういった職に必要な人数よりもずっと多くの人がダリットに属しているようだ。

映画の中では、ダリットについての直接的な言及や説明はないが、主役のミーラが、娘から学校で「名簿に書かれた出自(ジャーティ)の欄を見られた」という悩みを打ち明けられる場面がある。
また、モディ首相のトイレ政策はうわべだけで、実際には外で用を足している人が多いという(本に載っていた)話も出てきた。これも、特にダリットが住む地域のことを指している話のようだ。
ただ、ここで取り上げられる「差別」は、出自が問題での差別なのか、女性差別なのか、映画を見ただけでは判断がつきにくく、登場人物も(ミーラ以外は)女性記者のどの程度がダリットの人たちかは示されない。
差別をめぐる詳しい国内事情は、もう少し別の本などで勉強しなければならないと感じた。
pocari.hatenablog.com

インドの政治

「カバル・ラハリヤ」は、基本的には地元のニュースを追うメディアだが、映画の後半に行くにしたがって、政治を扱う割合が増え、最後には2019年の総選挙の様子を追う。選挙ではモディ氏率いるインド人民党が圧勝したが、インド人民党の活動が非常に宗教色をアピールしたものであることに驚く。
例えば、2017年の州選挙のキャンペーンも、2019年の総選挙のキャンペーンも、ラーマ神の誕生日の祝賀パレードが重要な要素になっていた。それに気づくと、RRRのクライマックスのラーマの活躍も、政治的な要素が含まれていなかったのか、ちょっと考えてしまう。


若くして政治の世界(日本でいう自民党青年支部みたいなイメージ)に飛び込んだサティヤムもまた、4年間の撮影期間の中で何度か取り上げられる。彼は何かというと牛のことを語り出し、牛舎を建てることに精を出すなど、ヒンドゥー教への熱意を感じさせる一方、排他主義的な志向も隠さない。

宗教の話になりますが、人はラーマ神やシヴァ神など神々に尽くす立場にあります。 母なる雌牛1頭には、3億3千万の神が宿る。考えてみてください。1頭の雌牛を守れば、3億3千万もの神々から祝福を得られるんです。よきヒンドゥー教徒であれば、国も自然とよくなる。村のイスラム教徒はこの考え方を嫌い、アッラーに僕の死を願っています。だから僕は24時間これ(大刀)が手放せません。

このあたりの政治の動きを考える視点については、ミーラとカヴィタが、動画チャンネル内で取り上げている。

ミーラ:教育・医療・雇用が足りていない状況がある。若者が語るべきは、そういう問題です。しかし現実はどうでしょう。政府が純粋な意味で牛を保護するわけがない。牛のことは建て前であり、恣意や腐敗の「隠れみの」に過ぎません。
カヴィタ:現行政府の狙いは、人々を対立させることです。政府の責任が問われないように、矛先を転じているのです。  

女性差別、反フェミニズム

上の動画チャンネルに付いたコメントについてもカメラが追いかける。

フェイクニュースだ"
"お前が宗教を語るなクソ女"
"こういうフェミ連中は毎晩べつの男と寝る"

これは一例で、映画の中では、女性記者が警察や政治家の男性たちから素っ気ない扱いをされる様子が何度も映し出される。
特に、「ラーマ神の祝賀は名目で、実際には総選挙のためですよね」と、人民党の関係者に詰め寄るシーンでは、周囲を囲う野次馬男性たちがニヤニヤしたり拍手をしたりと、正面から向き合わず、ひたすら攻撃的で、見ていて恥ずかしい。しかしこれは、日本のTwitterでも日々見る景色で、ちょうど数日前に、塩村あやか議員の「プロレス」発言に、新日本プロレスなどのプロレス団体が抗議文書を送ったことと重なる。


ただ、映画で最も強調される女性差別は、冒頭から繰り返し扱われる強姦と殺人だ。
夫が留守にしている自宅で複数回に渡って強姦されているのに、警察が取り調べてもくれない、むしろ夫も含めて暴力を振るわれる、というのは悪夢のよう。
一方で、このような事件を取材しているのが女性記者(しかもダリットの)であることは本当にすごいことだ。確かに「救いの手を差し伸べることが出来るのは私たちだけ」という自負があるからできることなのだろうが、映画の中で、誰かが犠牲になってしまうのでは?とずっとハラハラし通しだった。
さらにテロップでは「2014年以降、40人の記者が殺されているインドでは、ジャーナリズムは命懸けの闘いである」と示されるが、そういう状況にありながら、彼女たちは政治への取材もやめない。
冒頭でミーラが語る言葉には青臭さも感じていたが、映画を見終えると、単なる言葉ではなく、行動に裏付けられた信念であることを知る。色々なものが相対化され過ぎて、ジャーナリズムでさえ「それってあなたの感想でしょ」と言われかねない日本においては、読み手も信念をもって情報を追う必要を感じた。

 ジャーナリズムは、民主主義の源だと思う。権利を求める人々の声を、メディアは行政まで届けることができるの。人権を守る力があるからには、それを人々の役に立てるべきだと思う。責任を持って、正しく力を使うの。でなきゃ、メディアも他の企業と同じ、単なるお金もうけになってしまう。  

パンフレットからの補足情報

パンフレットの内容が非常に充実していた。

  • 『福田村事件』でも脚本が収録されていたが、今回、写真入りでの「採録シナリオ」があり、映画を思い出すのに非常に役に立った。
  • 監督インタビューは4ページ。終わりの言葉が素晴らしい

私たちが生きるこの世界は、途方もなく複雑になり、分極化しています。そんな中、「行動によって物事をよくすることができるんだ」「現実は変えられるんだ」という熱い確信に満ちた物語が今、本当に必要だと感じています。何より、世界に類を見ないほど厳しい現実を生きてきた有色人種の女性たちこそ、最高の導き手ではないでしょうか。

  • インド映画紹介の稲垣紀子さんのコラム、アジア映画研究者でインド映画字幕も多数担当する松岡環さん、東大大学院情報学環教授の林香里さん、ライターのISOさんの寄稿も非常に読み応えがある。

この中では、林香里さんが『インド残酷物語』(2021年)と合わせて参考図書に挙げるマリア・レッサ『偽情報と独裁者』(2023年)に興味を持った。2021年にノーベル平和賞を受賞したマリア・レッサは、フィリピンのニュースサイト「ラップラー」を立ち上げ、ドゥテルテ政権に執拗に攻撃されたという。
同様のことは、カバル・ラハリヤが今後インドで発展をした場合に生じうる事態で、これを避けるためには、国際社会の支持や監視が必要としている。林さん自身にも『ジェンダーで学ぶメディア論』や『メディア不信』などの著書があり、合わせて確認したい。

最後に

いつも書いていることと同じことを書くが、今後、インドの政治状況に関するニュースを見れば、彼女たち女性記者のことを思い出すことになりそうだ。

『マイスモールランド』のときにも書いたが、良い映画の登場人物は、その後も観た人の心の中で生き続けると思う。瑛太の台詞が直接意味をなす場面は、当然今後の人生には現れないだろうが、それでも何かのときには、自分の心の奥底では、彼の言葉が「反差別」の核として生き続けるだろう。また行商団の中で生き残った「松本穂香似の少年」の、悲しみに満ちた目もずっと心に残るだろう。
そんな映画でした。
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ただ、『マイスモールランド』や『福田村事件』、また、4月に見たアリ・アッバシ『聖地には蜘蛛が巣を張る』と異なるのは、今回がドキュメンタリー作品であること。
福田村事件のパンフレットで忘れられないのは、佐伯俊道さん(脚本)と市川正博さん(福田村事件追悼慰霊碑保存会代表)の対談で、市川さんが、映画についてひたすら批判する部分。
いわく、事実とフィクションを明確に分けないと、正しく伝わらない。加害者遺族、被害者遺族が今もいる事件なので正確に伝えるべき、と。
確かに、『福田村事件』は、商業作品として十分過ぎるほどわかりやすく面白いが、エンタメに偏った面は否めない。また、『聖地には蜘蛛が巣を張る』も、「わかりやすさ」を重視し、テーマを伝えるための脚色が多かったと言えるだろう。
したがって、これらの映画の登場人物たちが、観た人の心に残るのは、テーマが強調されたフィクションならではという部分はある。


しかし、今回の場合、3人の女性記者たちは、心の中にではなく、今この時間にも同じ地球上で活動をしている。
Youtubeで「Khabar Lahariya(カバル・ラハリヤ)」と検索すると、すぐにシャームカリによる取材報告の映像が出てきた。
www.youtube.com

2016年のカバル・ラハリヤのネット移行期には、スマホをいじることも出来なかった彼女が…と思うと、本当に感慨深い。と同時に、自分もできる、変われる、変えることが出来る、と勇気づけられた。


ちょうど、日曜日に公開されたTBSの『旧ジャニーズ事務所問題に関する特別調査報告』*2の中では、わかっていながらこの問題をTBSが放置し続けた件について「主体的に社会問題や不正を探し出す「調査報道」ではなく、記者クラブで捜査機関などの動向を追いかける日本のジャーナリズムのあり方」にも原因を求めている。
まさに、「調査報道」に振り切った存在である「カバル・ラハリヤ」に、日本のジャーナリズムが学ぶべきところは沢山あると感じた。


ということで、ドキュメンタリー映画って面白い!と改めて思えたし、勉強したいことが増えることは良いことだ。
アトロクで何度も紹介されているアジアン・ドキュメンタリーズは、観たい作品も多いし、仕事が忙しくなくなった年度明けに登録した方が良いかな。
asiandocs.co.jp