『福田村事件』は、公開初日に観に行こうかとも思っていた映画。
しかし、少しずつ行く機会を逃し、また、アトロクの映画評も聴いてしまったおかげで何となく観た気にもなったことに逆に不安を感じ、無理矢理予約を入れた。
結果として、今年ベスト1級の作品で、本当に観に行って良かった。
直後にTwitterにも書いた一言感想は
もっと「日本人は観るべき映画」然とした映画を想像していたけど、そんなことは無かった。何が起きるかわかっていても、最初から最後まで画面に釘付けになるような映画だった。役者が魅力的な映画は良い映画、ということだと思う。キャスティングもことごとくハマってた。
本当に大満足。
そもそも、絶対に許されないタイプの「犯罪」を映画でどう描くか、ということに興味があった。官房長官が記録に残っていない*1と嘯いた関東大震災の時の朝鮮人虐殺は、勿論「あってはならない」ことで、「絶対に繰り返してはならない歴史的事実」だが、その圧倒的正論が、言葉で繰り返されるような内容だったら、そもそも映画にする必要はない。
ただし、監督が森達也ということもあり、差別反対のメッセージが間違いなくメインに来るはずで、そのメッセージがどこに置かれるのか。一方、フィクションの中で、正義を求める心から差別反対を熱弁するキャラクター(しかもそれは名の知れた俳優だったり)がいても、「道徳の授業」の教材のようで、観客としては冷めてしまうのではないか。
であれば、誰が言うのか。そんな部分が気になっていた。
以下、印象に残ったキャラクターの言動を思い出しながら感想を書いていく。
恩田楓(新聞記者):木竜麻生
結果的に、正義心から差別反対を叫ぶのは彼女だけだったと言える。新聞記者である彼女の正義を求める気持ちは新聞紙面に反映され、人を動かす。人間として、というより、「新聞がどうあるべきか」を体現するようなキャラクターだった。
その意味では、「正義」ではなく「職業的倫理」として、「人としてどうあるべきか」ではなく「新聞記者としてどうあるべきか」で動いているように見えて、ノイズにはならなかった。
この映画を観て改めて感じたが、(ネット全盛の現在はその勢いはそがれたとはいえ)新聞は世論を形成する。つまり扇動する。太平洋戦争でも同様だが、関東大震災の朝鮮人虐殺も、新聞の悪い面が強く現れた事例だ。勿論、反対に「取り上げない」ことも、マスコミ権力の重大な問題で、世間を騒がすジャニーズの性加害問題にも、マスコミが加担したと言える。
なお、同じ新聞記者という括りでは、編集長ピエール瀧の、やや逡巡が見られるような演技も良かった。
澤田智一:井浦新
この作品の主人公は彼だと言えるだろう。
彼が朝鮮人差別を嫌うのは、正義心ではなく後悔が理由だ。
4年前に彼が経験したこと、つまり、学んだ朝鮮語を彼らの命を奪う目的で使ってしまったことへの後悔がある。
その一方で、彼は不満があっても、それを口に出さずに飲み込んでしまう。「差別」の問題に対しても、愛する人の「不倫」に対しても。
この作品の構造として、全体主義、同調圧力の象徴として、「戦争」「天皇」「朝鮮人差別」がまず中心にある。それと抗おうとするキャラクター達の考え方として、「反差別」「自由重視(欲望)」の2種類が配置されていて、このバランスが絶妙だと感じた。
「反差別」は、自身が差別される側の立場だった場合、当然の反応と言えるが、「差別する側」の立場であっても、差別の理由が合理的でなければ、そこに加担したくない意志が働く。最初に書いたように、この部分のメッセージが強過ぎれば、作品が「道徳」っぽく見えて来て鼻白んでしまう。
「自由重視」と書いたが、つまり自分の思うままに行動することを指す。自分のことは自分で決めさせてほしい、ということだ。そして、映画の中では、それがほとんど、性愛の行動として現われる。(ここが批判される理由は理解できる*2が、パターン化されているだけ映画として分かりやすい)
澤田(井浦新)のことに話を戻すが、彼は不満を口にしない。
不満を感じても、「おかみ」にしたがってしまう。妻の不倫を許してしまう。
つまり「反差別」的にも行動しないし、「自由重視(欲望)」的にも行動しない。
そんな彼が、関東大震災の混乱の中で起きた差別の現場を見て、声を上げられるのかどうか。そこに注目しながら物語を見ていくことになる。この導線は映画を非常に見やすくしていると思った。
澤田静子(田中麗奈)
それと対照的なのが、妻の静子だ。
先ほどの括りを使えば、この映画は「反差別」よりも、全体主義に抗う「自由重視(欲望)」の登場人物たちが多く登場する。
島村咲江(コムアイ)も田中倉蔵(東出昌大)もだが、田中麗奈*3もその典型だ。
一番象徴的だったのは、あれだけ辛い体験を、4年間秘めてきた思いを、夫(井浦新)が泣きながら告白したあとで、彼女が、そんなことは知らないとばかりに「あなたは私にも酷いことした」と言った場面。
このときは、「何を言い出すんだこの人?」と思ってしまったが、外国の知らない人に起きた悲劇よりも、身の回りのことを優先するのは誰にでもあること。
でも、何故、主人公級のキャラクターが(作品テーマを否定するような)こんなことを言うのか?と思いつつ、話はクライマックスに…。
クライマックスは、「現場」に彼ら夫婦が遅れて到着した場面。
澤田(井浦新)が、今まで通り「見て見ぬふり」で通すのか、それとも止めに入るのか...観客は息を止めるようにして、そのシーンを見つめる。
そこで先に止めに入るのが静子(田中麗奈)。夫の告白シーンからわかるよう、彼女は「自由重視(欲望)」100%の人。彼女が、(自身が責められる)リスクを取って、他人である行商の肩を持つという「反差別」的な行動に出る感動的な場面だった。(とはいえ、彼女が助けに入った直接のきっかけは、「一度家で会っているから」で、「赤の他人」に対する行動ではないのだが)
その後、澤田(井浦新)も今までとは変わり、村の人たちを止めに入り説得する。
「結局これまでと同じく声を上げることができなかった」という展開も十分あり得る流れだったので、彼が「行動」を起こしたことは、とても嬉しかった。
しかし結局「事件」は起きてしまう。
当然こうなるとわかってはいたけれど、心揺さぶる夫婦二人の行動の直後なので、なおさら辛い。
ラストシーン(映画ポスターのシーン)で2人は「これからどうしようか」と途方に暮れるが、それは、観客への問いかけでもあると思った。
彼らの選択した「行動」に意味があったのか?
たとえ結果が伴わないとしても、これからの世の中で、あなたは「行動」することができるのか?と。
沼部新助:永山瑛太
そして瑛太。
個人的上半期ベスト映画の『怪物』の、あの新人教師が、現時点下半期ベスト映画で、ここまで正反対の役で活躍する、というのもすごい。
結局、彼が一番、「反差別」の人だった。
自らが「差別される」立場だからこそ、「差別する」側に立たない、という強い意志。それがピークに達するのは、やはりクライマックス。
いきりたつ村の人たちを止めに入った澤田(井浦新)は「あなたたちは日本人を殺してしまうことになるんだぞ、いいのか」と説得する。
それに対する瑛太の台詞こそが、この映画のテーマ。
「鮮人なら殺していいんか」
このセリフを聞いて、何故この映画が、朝鮮人虐殺を直接扱わずに、朝鮮人に間違って日本人が殺された福田村事件を取り上げたのかが理解できた。この道筋なら誰の心にも届く。
もし、直接、朝鮮人の被害をメインで取り上げる映画だったら、「当時の日本にいた彼らは可哀想だった」「当時の日本人は混乱状態にあり、暴力的な状態だった」という風に、事件を他人事として「可哀想」ベースの理解で観終える観客も多かったかもしれない。
しかし、瑛太の問いかけは、
- そもそも「人を殺して良いということはあり得ない」
- したがって「朝鮮出身だから殺して良いということはあり得ない」
- 同様に「出身地がどこであっても差別して良いということもあり得ない」
というように展開し、さらに観客に「差別とは何か」「同じことが現在起きていないか?」と考えさせる。
彼ら讃岐の行商団の何人かが関東大震災の1年前(1922)に出された「水平社宣言」をお守り代わりに身につけて、実際にそれを唱えるシーンが本当に辛かった。
行商団に朝鮮飴を売った女の子、彼女の最後も辛かった。
そして、メインストーリーとは無関係に淡々と進む共産主義者・平沢計七(カトウシンスケ)の逮捕から処刑までの流れもひどい。
それらすべてのシーンが「鮮人なら殺していいんか」に集約されて心に響いた。
長谷川秀吉(水道橋博士)と田向龍一(豊原功補)
ここまで挙げたのとは全く違うタイプのキャラクターも映画に出てくる。
典型的なのが、この2人で、広く「多くの日本人」の考え方を示しているのかと思った。。
長谷川(水道橋博士)は、自分の頭で考えず、「おかみ」の指示を絶対と考えるタイプ。
彼ら(村人の中にも同じような考え方を示す人が多くいた)は、1910年以降の韓国併合以降、日本人が朝鮮の人から恨みを買っていることを感じており、いつ仕返しされるか不安を感じている。
「いつか彼らは仕返しをするに違いない」という自分勝手すぎる憶測がデマを生む、という朝鮮人虐殺が起きる下地の部分は理解できた。理解できたが、一方で、映画を観ながら、それだけでは、「虐殺」まではいかないだろう、とも思っていた。
しかし、瑛太たちの一団が次々と殺されるシーンでは、最初に手をかける人、子ども達に手をかける人などの人の配置が絶妙で、もしかしたらあり得たのかもしれない(実際あったのだが)、と納得してしまった。
このあたり、本当に「普通の人びと」が、このような大量殺人を起こすことがあるのか?という部分は、まさにその通りのタイトルで、NetFlixのドキュメンタリー映画があるという。気になるが、NetFlixには入っていないので、原作の方を読んでみたい。
そして田向(豊原功補)。彼こそが、最初に述べたような「正義感から反差別を唱える人が喋っても薄っぺらい」と感じさせる典型的なキャラクターだった。当時、自分が生きていたら、そして村長の立場だったら、彼のように振る舞っていたかもしれない。そう思いながら観た。しかし彼は多数派に流されてしまう。やるせない。
このように、全体を通して見ると、この映画は「差別は反対」ということを言っているのではなく、「ちゃんと自分で考えろ(多数派に流されるな)」「行動すべきときは見過ごしてはダメ」ということを言っている、と受け取った。
だが、そういったメッセージが前面に出ている映画ではなく、あくまで、登場人物の魅力で最後まで目が離せないタイプの映画だった。
『マイスモールランド』のときにも書いたが、良い映画の登場人物は、その後も観た人の心の中で生き続けると思う。瑛太の台詞が直接意味をなす場面は、当然今後の人生には現れないだろうが、それでも何かのときには、自分の心の奥底では、彼の言葉が「反差別」の核として生き続けるだろう。また行商団の中で生き残った「松本穂香似の少年」の、悲しみに満ちた目もずっと心に残るだろう。
そんな映画でした。
これまで教科書の中でしか知らなかった水平社宣言が、ぐっと心に迫るものとして登場したのも印象深かった。福田村事件に関する本と合わせて、水平社宣言についてももう少し勉強したい。
というか、感想を書き終えたので、やっと一週間遅れで、あの分厚いパンフレットを読むことが出来る!
劇映画の監督は初めて、というのが信じられない森達也の言葉もしっかり読んでみたい。
参考(過去日記)
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
pocari.hatenablog.com
⇒森達也の解説が良かった本、ということで。
*1:関東大震災の朝鮮人虐殺 松野官房長官「政府内の記録見当たらず」 | 毎日新聞、関東大震災の朝鮮人虐殺、松野官房長官「事実関係把握する記録見当たらない」 : 読売新聞、(社説)虐殺の記録 史実の抹消は許されぬ:朝日新聞デジタル
*2:柄本明が亡くなった後のシーンだけ、かなり気になったが、それ以外はそこまでノイズにならなかった
*3:今回の映画を観ながら、『葛城事件』を思い出していた。あの映画の田中麗奈も、感情移入できるキャラクターというより、目が離せないキャラクターだった。この映画のキャスティングの中でも、ベストな選択であるように感じた。