Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ほんとうのさいわい~是枝裕和監督・坂元裕二脚本『怪物』


是枝監督作品はそれほど見ていない。
それでも今作のタイトルにはとにかく惹きつけられたし、少年2人が楽しそうな予告編との「怪物だーれだ」という言葉の組合せはインパクトがあった。
残念だったのは、実際に見る前に「文脈」を意識せざるを得ないキーワードを耳にしてしまったことだ。最初は、Twitter上の誰かの言葉として。その後、カンヌ映画祭のニュースで大々的に…。
そんな風にして、物語の持つ強い「文脈」に触れてしまうと、そこから逃れるのが難しくなる。今回の感想も、購入したパンフレットを読まずに感想を書き、そのあとで改めてパンフレットを読むことにした。

羅生門」形式の3部構成による「真実」へのアプローチ

映画は、時系列で見ると、時間を遡って同じ出来事を繰り返す3部構成になっていた。
最初のパートは、主人公である麦野湊の母親役である安藤サクラ視点で進む。湊が学校で受けたケガについて、小学校の教師陣の対応があまりに酷く、悪い意味での国会答弁的な言葉の使い方から、まさか日本政府批判の映画なのか?と思ってしまった。穿った見方をせず素直に見ても学校側の対応の酷さは明らかで「怪物だーれだ」と問われれば、瑛太(担任の保利先生)と田中裕子(校長)だろうと考えた。


ちなみに瑛太は、あまりに社会常識がない、若い教師然とし過ぎていて本人と気がつかず。1982年生まれだから、現在40歳だけど、新任教師にしか見えなかった。
なお、物語のもう一人の主人公である星川依里は、このパートの後半で出てくるが、初登場時から不思議な雰囲気を醸し出し、素直そうに見える表情の裏に何が隠されているのか気になる。
そして、最初のパートは土砂災害警報の出る大雨の夜に、湊が部屋からいなくなり、部屋の外から湊の名を叫ぶ瑛太の声が聞こえる場面で終わる。


物語が巻き戻り、同じ出来事を別視点から見る「羅生門」形式の次のパートが始まってみると、第二部は、まさかの瑛太視点。
高畑充希瑛太の彼女)と登場するシーンは軽薄そうに見えたが、次第に、教師陣の中で一番「人間」*1的であることがわかってくる。
火事のあったビルのガールズバーに行っていたという話も嘘のようで、噂話のイメージの積み重ねで、人を見ることの怖さを知る。(とはいえ、(誤解を一番嫌うはずの)瑛太でさえ、校長のことを噂話を通した見方でしか見ることが出来なくなっているのは皮肉だが。)
このパートを見ると、湊のケガについての校長室での謝罪、その後状況が進み、会見から報道までの流れは、すべて瑛太の意に沿わない方法でセットされていたことがわかる。それと同時に、教師側から見ると、安藤サクラモンスターペアレンツとして認識されており、観客の視点で観ても、安藤サクラは、(弁護士を通じた5年生全生徒へのアンケートなど)瑛太の個人攻撃に走り過ぎているようにも映る。
2つのパートでの瑛太安藤サクラの見え方の違いを意識して振り返ると、最初のパートの瑛太の酷過ぎる描かれ方は、視点の違いだけでなく、安藤サクラの主観が入っていたのであろうことがわかってくる。
つまり、それぞれの視点で「事実」は異なり怪物は変わってくるわけで、つまり自分の内側にこそ怪物が潜むということだろうか。


瑛太は学校を追われ、高畑充希にも逃げられ、部屋を出ようと片づける際に、依里の作文を見つけ、「真実」に気がつき、大雨の中、湊に謝罪に行く。
ここで最初のパートに戻り、敵対関係にある瑛太安藤サクラのまさかの協力で、土砂で埋まってしまった湊の「秘密基地」に辿り着く。ここまでが第2部。


第3部は、基本的には湊の視点だが、最初は校長が登場する。自分は結局、校長がどのような人なのか読み切れなかったが、彼女も「人間」であることは確かなようだ。
このパートは、ある意味で答え合わせパートで、そして本編だ。
湊と依里の2人が素晴らし過ぎる。
2人の表情と声に会いに来るために、2度目の鑑賞に来たい。


この映画は、登場人物たちの色々な嘘や勘違いが積み重なって出来ている。
湊で印象的なのは、秘密基地の中で、依里を拒絶して逃げ帰ったあとで、自分の気持ちに気がつく流れ。
依里で一番印象が強いのは、「僕、治ったんだ」のシーン。玄関の前で湊が残され、しばらくした後、玄関のドアが再び開き「嘘だよ」と言い直す依里を叱りつける父親(中村獅童)。扉をまたいだ2人の思いに胸が痛くなる。
そして、湊が吹くトロンボーンの、怪物の声のような響き。


この第3部は、湊と依里が、大雨の中、秘密基地に入り、「ビッグクランチ」に備えるところは描かれるが、第2部で2人を救出に来た安藤サクラ瑛太とは会わない。会えないままに、そのあと雨が上がって秘密基地から抜け出した二人は笑いながら草原を駆けるのだ。
各パートが、それぞれの主観で描かれていたことを踏まえれば、草原の風景は夢の世界で、2人は救出できなかった(死んでしまった)と考えるのが一番自然だ、と最初は考えた。
2人の関係は、宮沢賢治銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラのように見えるが、あの話も夢の世界と現実が入り混じるような話で、しかも現実世界では死が描かれるからだ。


ただ、救出される前の意識を失っているときに夢を見ている、と考えたり、あそこから物語自体が分岐していると考えることも出来、そこら辺は曖昧にされている。ストーリーの整合性などよりも、彼ら2人にとっての「ほんとうのさいわい」に辿り着いたところに、この映画の感動はあるのだと思う。

「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄にわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫さけびました。
宮沢賢治銀河鉄道の夜』)

そのほか

ロケ地が素晴らし過ぎです。
最初に「上諏訪」と出てくるから諏訪湖なのでしょうか。湊と依里の2人がビッグクランチの話をする遊具のある高台の公園には、すぐにでも行きたいくらい。
秘密基地周辺や、ラストで2人が駆け回る草原、そして諏訪湖の遠景も良かった。
桐島、部活やめるってよ』もそうだったと思うが、高低差のある場所にある学校も魅力的。
でも、聖地巡礼に行きたい、というよりは、湊と依里の2人とセットで観たい風景なので、やっぱり映画をまた観たいのかな。


ややスッキリしない状態で映画が終わり、そこからエンドロールで流れる坂本龍一の曲も良かった。映画を観終えて、ストーリー性のない、環境音楽のような楽曲を聴くことはあまりないので、とても新鮮に感じた。

まとめて振り返ると、スッキリしない部分「込み」の映画として自分は満足しているが、「校長の論理」がよくわからなかった。このあたり、パンフにしっかり書かれていないだろうか?

パンフレットを読んで

インタビューは、脚本の坂元裕二が一番良かった。

もうひとつはアイデンティティに葛藤する、葛藤させられる少年たちを、映画の物語として利用してはいけないということです。
自分自身を好きになれない、好きにさせてもらえていない人たちのことを書きたいという考えがあったので、そこが間違っていないかどうかが大きな課題としてありました。お話を"作らない”ということが最終的に最も大事だったかと思います。 通常の作劇とは逆に、終盤に進むにつれ、物語性が希薄になってると思います。
最後に向かって、ただただこの子たちと共に生きる時間であってほしいと思っていました。

昨年、ろう者の登場するドラマ、映画を複数見て、それぞれでの描き方の違いも心に残っているので、「少年たちを、映画の物語として利用しない」という言葉に強く興味を惹かれた。
カンヌ国際映画祭で、(性的マイノリティなどを扱った映画に与えられる)クィア・パルム賞を受賞したことから、この作品と切り離せなくなってしまった「文脈」に警戒しながら観ることになってしまった映画だったが、ラストまで観て、その「文脈」にいやらしさを感じなかったのは、坂元裕二脚本ゆえなのだろう。
「最後に向かって、ただただこの子たちと共に生きる時間であってほしい」という願いは、十分に果たされたと思う。


そして、何といっても、自分の中で最高レベルの「文庫解説の名手」である角田光代の解説が素晴らしい。ここまでコンパクトに要点をまとめられるのは本当に羨ましい。今回も全文素晴らしかったが一部だけ抜粋する。

映画の前半に起きる、 一連の不可解なできごとは、とつぜん出現した自分自身と依里を守るための、あるいは救うための、湊の孤独で不器用な闘いだったと気づくとき、作中に響く金管楽器の音が、姿を見せない怪物のやさしくかなしい咆哮のように聞こえて、心が揺さぶられる。この音の正体は映画の後半でわかるが、このときの校長先生のせりふは、深く深く胸に刺さる。 怪物さがしの映画ではなかった。 私たちの内にいるかもしれない、ちいさくてもろい、すべての怪物に寄り添う映画だった。

そして、ここで書かれている「校長先生のせりふ」は、早稲田大学文化構想学部教授の岡室美奈子さんが、パンフレット内の別の解説で引用してみせる。岡室さんは、『怪物』の、映画『小さな恋のメロディ』との類似点を挙げつつ、以下のようにまとめる。

『怪物』では、同じく廃線となった線路上に打ち捨てられた列車の車両が重要な舞台のひとつとなる。親や教師ら大人たちを巻き込んで吹き荒れる終盤の嵐はこどもたちにとっての戦争だ。その闇の向こうには『小さな恋のメロディ』をはるかに超える美しいシーンが待っている。それは是枝と坂元が到達した、紛れもなくこどもたちだけの光にあふれた世界だ。そこには彼らに自分たちを怪物だと思わせた理不尽な社会も硬直した価値観も届かない。 あかるい光の中、ふたりが線路に向かって駆け抜けるエンディングが、私には彼らの結婚式に見えた。「怪物だーれだ」という問いへの答えは一様ではなく、誰もが怪物になりうる。けれども誰もが幸せにもなれるのだ。 田中裕子が演技を超えたまなざしを湊に向けて言うように、「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない」のだから。

このように見ると、自分の『銀河鉄道の夜』への連想は、校長の「しあわせ」に関する発言から来ていたことがわかる。
一方で、校長先生の言う「誰にでも手に入るものが幸せ」について、映画を観ていた自分にはすぐにピンと来なかった。しかし、例えば「結婚」という幸せは、「誰にでも手に入るもの」になっているのだろうか、と改めて考えてみると、ここでいわんとしていることは理解しやすくなる。
幸せを奪うもの(幸せになる権利を与えないもの)を「怪物」と呼ぶとすれば…とまで考えてしまうと、この作品のテーマが説教臭くなってしまうが、自分の内側にある差別心は「怪物」と呼べるものだろう。
この映画は「怪物だーれだ」のフレーズとともに、観客それぞれの中にある「怪物」そして「幸せ」について考えさせる作品になっているのだと思う。



是枝裕和監督の作品、坂元裕二脚本の作品は、ともにほんの少ししか観ていないので、もっと多くの作品に触れてみよう。

*1:安藤サクラが校長(田中裕子)に「あなたは人間ですか」と詰め寄るシーンが印象的