Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

イランとトー横と境界線~アリ・アッバシ監督『聖地には蜘蛛が巣を張る』


聖地マシュハドで起きた娼婦連続殺人事件。「街を浄化する」という犯行声明のもと殺人を繰り返す“スパイダー・キラー”に街は震撼していた。だが一部の市民は犯人を英雄視していく。事件を覆い隠そうとする不穏な圧力のもと、女性ジャーナリストのラヒミは危険を顧みずに果敢に事件を追う。ある夜、彼女は、家族と暮らす平凡な一人の男の心の深淵に潜んでいた狂気を目撃し、戦慄する——。

楽しみにしていた毎年恒例のコナン(映画を観に行った前日の4月14日公開)は、家族で観に行くので、少し先延ばしにして、こちらの映画を。
いや、実を言うと、観たい映画がかなり詰まっており、その中でこの映画を選んだのは、アリ・アッバシ監督の前作『ボーダー』が良かったというのと、イランを舞台にした映画というところが大きい。22歳の女性が拘束中*1に死亡したことをきっかけとする女性たちの抗議運動(反スカーフデモ)をニュースで見る機会が多く、まさに作品テーマと一致するからだ。

感想

映画の惹き文句として「クライム・サスペンス」という書き方もあったが、実際に見てみると、それは映画前半部のみを指す言葉だ。
この映画は、最初こそ、殺される娼婦の視点から描かれるが、その後は、殺人犯サイードと、殺人犯を暴く女性ジャーナリスト(主人公ラヒミ)の2人の視点で描かれる。

  • 若い妻と二人の子、両親など家族にも恵まれながら凶行を重ねる殺人犯
  • 女性であることを理由にした障害を乗り越えて事実に迫る女性ジャーナリスト

2人がいつ対面し、殺人犯がいつ捕まるのか、という緊迫感に満ちた展開は、ドキドキしつつも、まさにクライム・サスペンス過ぎるため、先が読めて少し退屈を感じた。


しかし、捕まってからの後半が、全く読めない展開で、ここにこそ、この映画のメッセージが詰まっていると感じた。
特に、ラストでもフィーチャーされる息子のアリ君の「変化」が怖い。

  • 連続殺人の容疑で警察に連行される父親を、泣いて追いかけるアリ君
  • 家では「お父さんはいつ帰って来るの?」と心配を隠さないアリ君
  • 八百屋にお使いに行ったら「お金はいらない。皆お父さんの見方だ。」と言われて満足気なアリ君
  • 父親との面会時に「どうやって殺したのか?」と方法を学ぼうとするアリ君
  • ラヒミからのビデオ取材に、わざわざ幼い妹に娼婦役を任せてまで、殺害に至る具体的方法を説明し、「後を継ぎたい」と言うアリ君

見た人誰もが感じるように、怖いのは、普通なら「嘘って言って!お父さんがやったんじゃないよね!」と泣き叫ぶはずの殺人犯の家族(アリ君だけでなく、若い奥さんも)が、サイードの殺人の事実を知ってなお、むしろ「浄化」を賛美し誇りに思っていること。16人殺したことを知り認めつつ「無実」を求めるという、あり得ない展開に混乱する。


一方、これに対して被害者家族は、自分たちは「浄化されて当然」と認めてしまっているし、娼婦たちは、辛さをやり過ごすために薬に頼っている後ろめたさもあり、怖いことがあっても警察に訴えられない。
監督が「一部の人たち、中でも女性に対する人間性の抹殺は、イランに限ったことではなく、世界中のあらゆる場所で起きていることです」(パンフレット)と述べているよう、似た構図は日本でも見られ、全く他人事に思えない。(後述)


後半のもう一つの見どころは、一部の民衆の熱狂的支持を得たサイードが、その考えをどう変え、どのように罰せられるか、だ。
もともと殺人後に新聞社に自ら電話を掛けたりするほど自己顕示欲の強い性格ではあったが、平凡な男が、大衆から英雄視される中で「教祖」のような喋り方になっていくのがまた怖い。
結局彼は死刑になるのだが、省略しない死刑描写、省略しない絞殺描写(ダメージを抑えるため片目で見た)には戸惑いつつも、監督のこだわりを感じた。
その後、映画について取り上げたWEBの記事を読むと、元々のドキュメンタリー映画自体が、被害者女性の遺体や犯人の絞首刑の映像が含まれるというので、その影響も大きいのかもしれない。以下の記事にリンクがあるように、Youtubeで確認できる(ただし英語字幕のみ)ので見てみたい。

『聖地~』もかなりセンセーショナルな映画ではありますが、監督がそれを観たおかげで製作を決意したという『And Along Came a Spider』(2002、マジアル・バハリ)という同じ題材のドキュメンタリーを観たら、被害者女性の遺体のみならず、犯人の絞首刑の様子までもが映されているのに驚かされました。

フィクションは検閲のせいでかなり制約があるのに、どうしてこんなものが映像として残せるのかというのも不思議でした。監督はイラン系カナダ人ジャーナリストの方ですが。

実際の犯人、妻、息子が『聖地~』と顔や雰囲気がとても似ているのもゾッとさせられました。

www.tokyoartbeat.com

報道特集のトー横キッズ

映画を見た日の夕方にTBS『報道特集』を見たら、「トー横に集まる若者達」の特集をしていて、どうしても映画と結びつけて考えてしまった。
(以下のリンクから内容を確認できる)
www.mbs.jp


取材対象は複数いたが、特に16歳の少女に対する複数回のインタビューが心に残る。
彼女は家族からの虐待もあり家出し、トー横でたむろしていた*2が、一度補導されるも、親が引き取りを拒否し、またトー横に戻ってきた。
11月頃の取材で、彼女は、その日泊まる場所のために仕方なく売春(彼女自身は「案件」と呼ぶ)でお金を稼ぎつつ、将来はネイリストになりたいと、16歳の少女らしく夢を語っていた。
しかし、1月に改めて取材をしてみると、ネイリストになる夢はなくなった、という。10年後、20年後のことはもう考えられず、生きていくために今日のことだけを考えているのだと。普通の生活のことはもう忘れてしまい、売春にも慣れ、心理的な抵抗もなくなったのだという。
表の社会で働こうとしても、家族から縁を切られ保険証も渡してもらえず、身分証明のできない身では、裏の社会で稼ぐしかない。
別の少女は、日常を忘れるために薬物の過剰摂取(オーバードーズ)に逃げるが、危険な状態になっても「救急車は呼ばないでほしい。警察に行きたくない」と言う。


このあたりは、まさに映画で見たイランの娼婦や被害者遺族の声に近い。
実際、映画の冒頭シーンからもわかる通り、生活に困窮する、いわゆるシングルマザーが日々の暮らしのために娼婦をしているというのが、連続殺人犯の犠牲になったイランの女性たちだ。確かに、彼女たちを殺すことを「浄化」と表現するような状況は日本にはない。一方で、売春をしてその日暮らしをする少女たちへの支援は薄く、そのような状況に陥ったのは「自己責任」もしくは「家庭の責任」としてしまっているのではないか。

それこそ新設省庁の名称を「こども庁」でなく「こども家庭庁」とし、何かと言えば家族の絆を優先する日本では、政府は(家族との絆が切れた)「トー横に集まる若者達」の問題に対して消極的に見えるし、国民も、彼女たちを救おうとする民間の活動に対して過剰にバッシングしてしまうなど、少女がネイリストになる夢を捨ててしまうのも仕方が無いように感じてしまう。


このように、イランにおける、誰が「浄化」されても良いのか、という問題と、日本における、誰を救って誰を切り捨てるか*3という線引きの問題は、地続きの問題だと思う。


この「線引き」についての別記事での監督の言葉が、非常に興味深いものだった。

アッバシ:ぼくたちはまさに、そのようなかたちで「モンスター」や「他者」を定義づけているのだと思います。ルールをつくり、そのルールを破った者を「外側の存在」とみなす。たくさんのルールを破れば、より「外側の存在」だとみなされるし、ルールの約束やシステムを壊せば特別なカテゴリに収められる。そういうふうにして「モンスター」は生まれるんです。

だからこそ、ぼくたちはモンスターや連続殺人鬼、精神異常者、犯罪者に惹かれ、同時に嫌悪もするのでしょう。多くの人と同じく、ぼくも彼らに危険な魅力を感じます。ただしどちらかといえば、彼らのなかに「人間らしさ」を見出したいし、人間性の境界を発見したい。「人間とは何か、人間と人間ならざるものの違いはどこにあるのか」。それらは時代や文化が変化するなかで、絶えず再定義されてきたものだと思うのです。


アッバシ:例として挙げられるのはペドフィリア小児性愛)でしょう。歴史上、ペドフィリアは長らく犯罪ではなかった――少なくともイラン・アラビア文化ではそうで、古典的な詩にも男の子への愛を綴った作品がありました。尖った表現でさえない、ひとつの愛の表現だったんです。

しかし時が流れ、いまではタブーになりました。何を言おうが、何をしようが、その一線を絶対に越えてはいけない。子どもに猥褻行為をしたり、児童ポルノをつくったりしていたら、その人はもはや人間ではないのです。
(略)
アッバシ:ぼくは何かをジャッジし、善悪を語っているのではありません。ペドフィリアは本当にひどいものだから、子どもたちが守られるのは素晴らしいこと。これはあくまでもメカニズムの話で、ぼくたちは社会として他者を必要としているのです。

「ここまでは自分たちと同じ、ここからは違う」という境界線を求めている。そうでなければ、ぼくたちは「我々」を定義づけることができません。だからこそ境界というものは存在するのだし、ぼくは人間と非人間の境界に関心があるのです。

www.cinra.net

この「人間と非人間の境界」をメインのテーマにしたのが、前作『ボーダー』だったが、言われてみれば、本作におけるサイードやその家族の立ち位置も、境界線上にある、ということだろう。監督は、境界線が時代や文化によって変化する相対的なものであり、だからこそ、モンスターのなかに「人間らしさ」を見出したいし、人間性の境界を発見したい、と言っているが、その姿勢に共感する。


アリ・アッバシ監督の考え方は、岸田首相襲撃事件(ちょうど映画を観たのと同じ日(4月15日)に起きた)について、物議を醸した、自民党議員による以下のようなツイートとは正反対のものだろう。


国が進めた政策の中で増加した貧困や格差などの問題、今までは見えにくかったが、色々な人が声を上げることによって見えてきた問題(宗教2世の問題だけでなく、LGBTQや、#metooに端を発する女性の人権運動なども含む)、日々変わっていく諸問題の中で「境界線」をどう引くのか、それは、個人個人の人間性の話から広く国の福祉政策まで、共通して常に考え続けなくてはいけない問題である、と改めて感じた。

ということで、関心のある社会問題と結びつけて思考を深めることが出来たという意味で、自分にとって傑作映画だった。
ただ、タイトルは全く覚えられないため、短い原題『Holy Spider』をわざわざ長くする効果があるのか疑問。
また、ポスターの女性は娼婦の1人であるソマイェで、ビジュアルイメージとしてのインパクトはあるのだが、映画の印象とは異なるので、宣伝としてはモヤっとする。その2つだけは残念だ。

今後読む本・見る映画

アリ・アッバシ監督については改めて興味が湧いたので、未見の『マザーズ』を見てみたい。また、『ボーダー 二つの世界』は改めて観てみたい作品となった。
さらに、イランの文化について興味・関心を持つきっかけとなる良い映画体験だった。本作は、イランを舞台といいつつ、イランでは撮影が許可されず、ヨルダンでの撮影となっているので、通常のイラン映画の撮影された話題作についても観てみたいし、イランについて書かれた本も読んでみたい。

マザーズ(字幕版)

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  • エレン・ドリト・ピーターセン
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友だちのうちはどこ?(字幕版)

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  • ババク・アハマッドプール
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参考(過去日記)

↓やっぱりこの映画は衝撃的でした。
pocari.hatenablog.com

↓2017年に書いた内容なので若干古いですが、イランに関する新書(2016年出版)を読んで感想をまとめていました!
pocari.hatenablog.com

↓ナディがイランの人だということは全く覚えていませんでした…。
pocari.hatenablog.com

↓冒頭に、『アルスラーン戦記』のテレビアニメがイランの若者に大人気であるというニュースに触れています。確かにこれを知って以来、イラン(ペルシャ)のイメージは、まずアルスラーン戦記でした。
pocari.hatenablog.com



*1:映画中でも「道徳警察」という名称が出ていたが、まさに道徳警察(風紀警察)の取り調べ中の出来事だったという

*2:本当は、家族から逃げ出してきた人たちの最初の受け皿であるはずの「保護施設」が上手くフィットすればいいのだが、どうもそこから零れ落ちる人たちがトー横に向かうということのようだ。

*3:少し脱線するが、「差別解消」どころか、ほとんど実効性がない「理解増進」法の「議論」すら先延ばしにする岸田首相の姿勢からは、性的マイノリティの人権は切り捨ててOKというのが、日本政府の考え方なのだろう