- 作者: 吉田修一
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2016/01/21
- メディア: 文庫
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若い夫婦が自宅で惨殺され、現場には「怒」という血文字が残されていた。犯人は山神一也、二十七歳と判明するが、その行方は杳として知れず捜査は難航して いた。そして事件から一年後の夏―。房総の港町で働く槇洋平・愛子親子、大手企業に勤めるゲイの藤田優馬、沖縄の離島で母と暮らす小宮山泉の前に、身元不 詳の三人の男が現れた。 (Amazonあらすじ)
映画『怒り』の疑似体験
映画館で観た『ズートピア』で、『シン・ゴジラ』で、『君の名は。』で、ずっと気になっていた映画『怒り』の予告編。
映画を観るかどうかは別として、期待が高まってきた今こそ読むべきと、本の方を手に取った。
よく、「観てから読むか、読んでから観るか」みたいなことが話題になるが、今回は、重要キャラクターの配役は頭に叩き込んでから小説を読むという面白い経験をした。自分は映画を観ていないが、予告編の記憶とカット写真から、頭の中で勝手に映画を構成して上下巻を本を読み切った。
ちなみに、読書前に頭に叩き込んだ配役は以下の通り。
千葉編:槙洋平(渡辺謙)、槙愛子(宮崎あおい)
東京編:藤田優馬(妻夫木聡)、大西直人(綾野剛)
沖縄編:小宮山泉(広瀬すず)、田中慎吾(森山未來)
どの役も、読んでいると、小説で描写される人物イメージが膨らんで、俳優のイメージから離れていくが、特に、愛子については、小説内ではもっとふっくらした体形だったため、乖離が大きかった。が、ときどき、「この人は宮崎あおいなんだ」と思い出し、イメージを強制的に戻すと、しばらくは宮崎あおいのままで読み進められた。
また、ほぼ主役である漁村の親父・洋平については、小説内では弱気で、渡辺謙では合ってないように感じていた。しかし、撮影現場を見た吉田修一によれば、「世界のケン・ワタナベ」のオーラを一切消しただけでなく、この漁村で辛抱強く生きていた男のオーラを完璧に纏っていたということで、「読んでから観る」自分にとって、映画の大きな見どころの一つだと思う。
妻夫木聡と綾野剛、松山ケンイチ、森山未来という男性陣は、そのままのイメージで小説を読み進めることができたが、やはり気になるのは、広瀬すず。「あの場面」がどのように演じられているかで、この映画の価値が変わってしまう。最も演技が必要とされる登場人物なので、彼女を見るためにだけ映画に行ってもいいかもしれないと思った。
(以下ネタバレ)
ネタバレ感想
構成的には、『悪人』に比べるとシンプルで、読みどころが分かりやすく、映像化もしやすい。
あらすじを聞いただけで先が知りたくなるようなエンターテインメントになっている。
さらに言えば、興味の引き方は『悪人』に似ている。
『悪人』は、最初に犯人が明かされ、その逃避行が描かれる。その中で、「もしかしたら、この人が犯人ではないのでは?」「別の、もっと悪い人が犯人なのでは?」という、読者の希望的観測が呼び起こされる。疑うのではなく、暗闇の中に希望を見出そうとするのが読者の心の動きとなる。
(これは小説版の印象で、映画ではどのように描かれているのかは分からない)
それに対して『怒り』では、犯人が分からない状態から始まり、疑わしい人物に対する「この人は良い人に見えるけど、本当は…」という疑いの気持ちが、小説の進行と合わせて膨らんでくる。これは、『悪人』とは全く逆の心の動きとなるが、サスペンス作品としては一般的だ。
そこで、似た境遇にいる身元不詳男性3人を並行して描くというスパイスが入っている。これによって、「この人は良い人に見えるけど、本当は…?いやいや、そんな風に人を疑ってはいけない」と、登場人物と同様の葛藤が読み手に引き起こされる。
ということで、サスペンス的なテクニックという点で。『怒り』は『悪人』と似ている部分があると感じる。
しかし、『怒り』には『悪人』と決定的に異なる部分がある。
それは、作品のテーマと、タイトルとの一貫性の部分だ。
『悪人』は、最後まで読むと、タイトルを補助線としながら、作品のテーマ(彼は本当に「悪人」だったのか、他にもっと許されない奴がいるのではないか)が伝わりやすい。
それに対して『怒り』は、物語を通じて読者が感じる「怒り」と、作品内の「怒り」がすれ違う。
小説の中で、読者が感じる一番大きな「怒り」は、泉が暴行される事件に対する怒りである。
一方で、タイトルの「怒り」は、冒頭の殺人現場で、殺人犯・山神の「心の闇」を表すような血文字「怒」として、つまりは、殺人の動機がこの小説の最大の謎として提示される。さらに「怒」という文字は、終盤で改めて大々的に登場し、ここでも山神の「心の闇」を窺わせる。しかし、これほどまでに予告された「心の闇」問題は、山神が死んでしまうことで唐突に終わる。作品タイトルとして提示されている謎の答えは、この小説の中にはない。
この部分が『悪人』と異なる、『怒り』の大きな特徴であると思う。
冒頭で提示される、いかにも意味のありそうな「怒」は実は空っぽだった。何の意味もなかったともいえる。
深読みするまでもなく、山神の殺人には「正義」はない。その「怒り」は確かにあった。勤めていた派遣会社の人間の電話対応は酷いものだった。しかし、それを理由に、全く無関係の人が犠牲になるのは理不尽だ。
それに対して、山神の命を奪った辰哉の殺人衝動(怒り)は非常に納得できるものである。
つまり、小説の中で2種類の「怒り」…理にかなった「怒り」(殺人)と、理不尽な「怒り」(殺人)が登場する。そのときに、後者をのさばらしてはいけない。後者は切り捨てていい。ということを、この作品は言いたいのだろうか。
思えば、吉田修一の初期作品『パレード』も理不尽な殺人を描いたものだった。
空っぽの「怒り」でも人を殺すことが出来る。つまり、現代社会は怖いということを言いたいのだろうか。
その部分が分からない。
殺人よりも「静かな」怒り
序盤、捜査会議の中で、血文字「怒」と、部屋に残されたチラシのメモから、若い刑事が山神のことをこうプロファイルしようとする。
山神という男は何かに怒ったところで、結局その状況は良くならないと思っているんじゃないでしょうか。だから怒っている人たちが愚かに見えるというか、こうはなりたくないというか…、すべてを諦めてしまった人間のような…」p194
これを読み直して、少しわかってきた。
身元不詳の3人は勿論、その他の登場人物も、自分の自由にできない現状(押し付けられた現状)に対する「やり場のない怒り」もしくは「諦め」が共通している。
- 田中(山神)は、雇用に関する上下関係に怒り、諦めている
- 田代は、借金取りに追われる現状に対して、怒り、諦めている
- 直人は、自らの健康問題(心臓の疾患)を諦めて(受け入れて)いる
- 洋平は、東京で愛子に起きたことに、怒り、諦めている
- 泉は、自分が受けた暴行に対して、戦わず諦めていた
- 辰哉は、父の基地反対運動、そして愛子を襲った米兵に怒るも、戦うことができずにいる
辰哉は、田中(山神)を刺すときに「…何も変えられない。…もういいよ。もういいよ」と繰り返した。
登場人物たちは「何も変えられない」「怒っても状況を良くできない」ことに対して、苛立ちを、行き場のない、静かな怒りを覚える。
結局、この本で描きたかったのは、殺人衝動のような「怒り」ではなく、もっと「静かな怒り」そして「諦め」なのではないか。
さらに穿った見方をすれば、そのような「静かな怒り」や「諦め」が現在の日本を覆っていると、吉田修一は見ているのではないか。*1
この小説の中で一番違和感を持ったのは、(メインではなく)サブ的な話題として、沖縄問題を絡めていることで、これを入れてしまうと主題がぶれてしまうのではないかと思っていた。泉を襲うのは、米兵ではなく、どうしようもないチンピラの方が、読者の「怒り」を刺激するのではないか、と思っていた。(このような暴行事件は、泉親子がそうしたように、世間体を気にして泣き寝入りするケースが多いことを考えると、話の筋は変わらない)
しかし、「静かな怒り」が日本を覆っている、ということを小説の主題と想定すると、それを代表する問題として、沖縄の話が来るのは、それほど不自然ではない。
しかし、最後に泉は、世間体を捨ててでも辰哉を救おうと動いた。
そして、田代も、(一緒に戦おうという)周囲を信じて戻り、洋平も愛子と田代を信じる気になった。
前に進もうとして「静かな怒り」もしくは「諦め」の状態を脱するには、自分を、そして他の誰かを「信じること」が必要だ。そのメッセージがこの物語は満ちていると感じる。*2
小説の最後に辰哉の手紙が出てくる。辰哉は、信じていた田中(山神)に裏切られて人を殺めてしまったが、それも含めて信念が揺るがず、最後の最後まで、泉を守ろうとする気持ちが手紙から伝わってくる。
この場面では、泉が対照的な二人の男性について考えているところが面白い。嘘をついてでも(自分ではなく)相手の女性の人生を尊重しようとした辰哉と、嘘をついてでも(相手の女性ではなく)自分の主張を通そうとした北見刑事の二人だ。ともに優しい人物で、「静かな怒り」もしくは「諦め」の状態を脱しようと、自分を信じて行動を起こしたが、この時点で二人とも幸せな状態にはない。
つまり、誰かを信じたから上手く行くわけではない。日々の苛立ち=静かな怒りを抜け出そうと行動を起こしても、その行動自体が誤っていたり、失敗することもある、というとても当たり前のことを示しているように思う。
吉田修一は、希望と、残酷な現実の両方を見せて、この小説を終えたかったのではないかと思う。
ということで、非常に面白いエンターテインメント小説でしたが、作品テーマの解釈が少し難しいと感じました。この部分が映画でどのように料理されているのか、とても気になります。
これはやっぱり映画で確認するしかないかなあ。
参考(過去日記)
- 他人の人生を「盗み聞き」する〜吉田修一『初恋温泉』(2015年11月)
- 吉田修一・佐内正史『うりずん』感想(2010年5月)
- 「郊外」的生活の中の悪夢〜 吉田修一『悪人』(2009年2月)
- なんでも知ってるつもりでも〜吉田修一『静かな爆弾』(2008年12月)
- 吉田修一『日曜日たち』〜始まりとしての日曜日(2008年9月)
- 物語と、文章の肉体としての「文体」※『春、バーニーズで』の感想を少し(2008年8月)
- 吉田修一『パレード』感想(2005年1月)
- 吉田修一『パーク・ライフ』感想(2005年1月)