- 作者: 倉橋由美子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1981/09/25
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倉橋由美子の作品は一冊だけ知っていた。
- 作者: 倉橋由美子
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そこに来て、スゴ本dainさんのエントリの冒頭で、ちょっとした「仕掛け」のある本だと書かれており、現代的な感じの装丁にも惹かれて、久しぶりにビビビが来たのだった。そう、本との出会いはビビビが大事なのだ。ビビビなときには、極力情報収集をせずに現物に当たる。それが自分のやり方。ところが、これが裏目に出てしまったのだった・・・
読み始めてみると、未紀の日記と、僕の日記が入り混じる構成で、「仕掛け」に満ちていて自分向きかもと納得。
ところが、読み進めていくと、文体が固いし、安保だ左翼だと何かと古臭い。これも何かのギミックなのかと思っていたが、それはそれで延々と続く。さらに、あまり得意ではない、村上春樹的ゴテゴテ文体が、これでもかこれでもかというように倍々ゲームで増えていく。
想定通りの「仕掛け」も、爽快感のない展開につながり、自分の求めていたものとのずれが、終盤になるほど大きくなった。
一番の問題は、「愛」という哲学的な問題が、自分にとっては、あまり切実なテーマではないこと。
そして、その取り上げ方が、現代社会と地続きでないこと。特に「近親相姦」と真面目に向き合って愛を掘り下げるなどという展開は、完全に別世界の話で、Kにも未紀にも全く共感できない。たとえば、吉田修一『悪人』なんか*1における「愛」の取り上げ方が、しっくりくるのとは対照的だ。
自分が、吉田修一作品を好きなのは、作中の登場人物が、自分と同じように悩み、考え、生きていること。つまり、自分と作品世界が地続きであることが、通常、自分が小説に求める基本的な部分になる。哲学的な部分が走り過ぎた小説は、考えていない自分が馬鹿なのでは?と不安になるので、ちょっと嫌なのだ。
勿論、そういった小説も読まないわけではないが、良くも悪くも身構えて読む。そう、漢方をコーラを飲むようには口に入れないように。
さて、漢方をコーラと思って飛びついてしまった元凶は分かっている。実は、自分は、この小説が今から45年前、東京オリンピック直後の1965年の作品だとは知らなかったのだ。そんな基本的なことを、読了後に、桜庭一樹による解説を読む段になって初めて知ったのだった。
何となく1990年頃の作品だと思っていたのは、『大人のための残酷童話』が比較的新しかったことや、装丁があまり古臭くなかったこともあるが、よーく、自分の頭を調べてみると、誤解の原因は、倉橋由美子という名前のような気がする。
ほら、一気に同世代になってきた。
20世紀最後の正統派アイドルと一文字違いの小説家が、よもや、自分の生まれる10年近く前の作品を書くとは思えなかったのだ。
というわけで、いまいち不完全燃焼。
ちなみに、エロの部分も、少し期待していたのですが、哲学的すぎて駄目でした。スゴ本dainさんの引用されている部分もそうですが、動物ではなく植物にたとえる部分が多用されています。恥ずかしいので引用しませんが、「作家」との一夜の部分なんかは植物「縛り」みたいに描かれています。(p187-)確かに、動物だと何だか色気が出ないし、そんなもんなのかなあ。
*1:『悪人』は、結局のところ、現代社会における純愛の困難(不可能性)について描かれている物語だと思う →参照:http://d.hatena.ne.jp/rararapocari/20090208